【前編】マーティ・フリードマンに聞く - なぜ世界的に有名なギタリストは、一人でJ-POPに乗り込んだのか
文:高山裕美子 写真:依田純子
とことん追求し自分のオリジナリティを編み出す
― ギターを始めたのは、何がきっかけだったのでしょうか?
14歳の時です。学校の友だちがKISSのファンで、一緒にコンサートに行って衝撃を受けました。もう、自分は音楽をするしかない!と思ったんですよね。実はスポーツが大好きで、何かアメフトや野球をやりたかったんですけど、クラス一身体が小さかったので、アメフトをやったら細すぎて殺されちゃうなって(笑)。走るのは速かったんですけどね。KISSのコンサートでメンバーがステージで跳ねたり走り回ったりしているのを見て、「これだったら自分もできるじゃん!」って思ったんです。それで、母に1万円ほどの安いギターを買ってもらって、15歳でハードロックバンドを始めました。
― 今まで優等生だったのに、バンドを始めて不良に転身したそうですね。
はい、今の方が真面目ですね。14歳から17歳頃までは超不良でした。どれだけ不良だったかは言えません。テレビの仕事が減っちゃうからね(笑)。音楽を始めたばかりの頃は、うまいとかヘタとか関係なく地元の人たちが見にきてくれて、ちやほやされて。15歳ですでにロックスター気分だったんです。楽しくて仕方がなかった。でもミュージシャンは、保証もなければ、競争も激しい。音楽で勝負するんだったら真面目に取り組まないとまずいと気づいて、それからは音楽に真剣に向き合うようになりましたね。
― 出身はアメリカのワシントンD.C.だとお聞きしましたが、お父様の仕事の関係でドイツとハワイでも生活された経験があるとか?
9歳から11歳までドイツに住んでいました。ドイツといっても米軍基地内で生活していたので(マーティさんの父親は国家安全保障局勤務)、アメリカ人の学校に通っていました。でもドイツ語も勉強しましたし、地元のドイツ人とも接していました。その経験があるから、日本に住むのも違和感はありませんでした。18歳からハワイに住んだのも父親の仕事の関係です。
― 同じアメリカでも、ワシントンD.C.とハワイではまったく印象が違ったのでは?
全然違います! ハワイはアメリカであってアメリカじゃないですね(笑)。僕はその頃、めちゃくちゃハードな音楽に情熱を注いでいましたから、ハワイに来て、南国のリゾートの雰囲気と真逆の気分だったわけです。時間通り物ごとは進まないし、誰も頑張らないし、すごい観光地だし、みんなバカンス気分だし、最初は辛かったですね。ロッカーはここでどうしたらいいのかって。
― ハワイに新しい音楽のムーブメントを巻き起こしたのでは?
いいえ、地元の人にはかなり嫌われていたと思います。ハワイのカルチャーに合う音楽ではなかったですしね(笑)。でも、インディーズの世界で、ヨーロッパや日本でファンがついたんですよ。とはいえ、アンダーグラウンドでちょっと知られても、生活はできませんでしたが。
― 日本の演歌に出会ったのもこの時期ですね?
そうです。日系人用の日本語のラジオ局から流れてきたのが演歌だったんです。ボーカルの歌い方がすごく興味深かった。何を歌っているかわからないけど、音だけで情熱的な感情が伝わってきたんです。演歌は「こぶし」が重要ですよね。これと同じことがギターでできたら、他のミュージシャンと異なる個性になると思いました。ハワイにいた時は時間がたくさんありましたから、演歌を分析してギターをかなり弾きこんでいましたね。
日本語が上達したくて、大学の弁論大会に出場
― 日本語はいつから勉強し始めたんですか?
ハワイでの生活を終えて、サンフランシスコで新しいバンドを結成したんですが、そのインディーズバンドが日本でライブをすることになったんです。日本に降り立ったら、無名のミュージシャンなのにスターのように扱ってくれた。日本のスタッフは非常に優しかったですし、予定表も用意されていましたし、何もかもが時間通りで、ちゃんとしていた。そんなの見たことがなかったから感激しました。そんな扱いはアメリカではされたことがありませんでした。僕たちのような無名のバンドにも、敬意を払ってくれて、大切に扱ってくれて、音楽もちゃんと聴いてくれた。「この曲のBメロは素晴らしいです!」って、そこまで聴いてくれたの?と感動しました。とにかく、その感謝の気持ちを伝えたくて、日本語で挨拶ぐらいはできるようになりたいと思ったんです。それと、周りの人たちは日本語で話しているから、僕たちはさっぱりわからなかった。それは僕にとって興味がある重要な内容かもしれないって思ったら、少しはわかるようになりたいと思ったんです。
― 大学の通信教育で日本語を勉強して、アリゾナ州立大学の日本語の弁論大会で準優勝されたそうですね。テーマはなんだったのでしょうか?
テーマは国際結婚についてなんですけど、日本語の弁論大会って、みんなつまらないテーマを掲げるじゃないですか。日本のアニメや漫画、クールジャパン文化などなど。僕はまったく興味がなかった。でもせっかく日本語を勉強できる機会だし、大学で学生の前で話すんだったら深い話をしようと思ったんですね。アイルランド人と中国人、アメリカ人と日本人が結婚したりするじゃないですか。違うバックグラウンドで育ってきているのにすごいことだよね。でもこれが繰り返されたら、1万年後には肌の色も宗教も文化も政治的思想も混ざって、人種の違いなどの偏見がなくなるかもしれない。それが神のそもそものプランだったらって考えると面白いじゃないですか。人種としてのアイデンティティは失われるかもしれないけど、差別がなくなることで争いがなくなるかもしれない。どちらがいいか、観客に問題提起したかったんです。
― 日本人でもそのテーマで話すのは難しいです。そもそも弁論大会に出ようと思ったことがすごいですね。
日本語が上達するいい機会だと思ったんですね。そのための下準備は本当に大変だったけど、そのことが力になりました。何事も何もしないよりもやったほうがいいという考え方なんです。日本に来てから、時々、テレビに出演させていただくんですが、テレビに出ること自体はそんなに興味はないんだけど、出ることによって日本語をちゃんと話そうというプレッシャーがかかる。それが日本語を上達させる。なので、テレビは出させていただいていますね。
― 日本語の上達のためには、どんなこともチャレンジしてみようと。
ほら、音楽の流行って気まぐれじゃん。だからミュージシャンとしての僕は将来の不安を無意識に感じているんですよ。音楽活動はもちろんメインなんですけど、僕が音楽でできることは限られていますから。同時に日本語を使った(タレント)活動も感覚を鋭くさせていかないといけないですから、日本語は必須です。もっと上達できるチャンスがあればそれは挑戦しますね。音楽の世界もそうですが、上達するためにラクな方法をとろうとは思わないです。
「外人カード」を使わずに、日本の生活に慣れる努力
― メジャーバンドでの成功を経て、2004年に日本に移住しようと思ったのは?
日本の音楽が好きすぎて、もう日本の音楽シーンに入るしかないと思ったんです。アメリカにいてもずっと日本の音楽しか聴いていなかったんですよ。僕はミュージシャンですから、好きな音楽がたっぷりある国にいなきゃバカだと思いました。迷っている場合じゃないと。
― 日本の音楽のどういうところがお好きだったんですか?
J-POPと言われている分野です。アメリカにいた時に聴いていたのは、小室哲哉さんやつんく♂さんのプロデュースしていた曲はもちろん、B'zなども含めていろいろですね。90年代のJ-POPは曲がよくて、プロデュースが現代的で、ギターの存在もあって、ポップソングのハッピーさもあり、テクノっぽい要素があるものもあって、めちゃくちゃ幅広い。日本ならではのオリジナルだし、すごく新しかった。僕の好きな音楽のストライクゾーンだったんです。オリコンチャートの1位から10位まで、常に9曲は好きな曲という状態でしたね。アメリカのミュージックチャートで好きな曲が1曲あるだけでもビックリするのに、洋楽よりずっと面白かった。
― その邦楽シーンで自分のやってきたことを生かしたいと思ったのですか?
そうです。僕自身、かなり変な経歴ですから、何かしら僕にしかできないことがあるかなと。とはいえ、今までお付き合いがあったのは、レコード会社の洋楽部門の担当者だけでしたし、日本にコネクションはまったくありませんでした。今回は邦楽に関わりたくて日本に来たわけですから。
― 日本の生活習慣などに慣れるのは大変だったのでは?
ツアーで来日した時は周りのスタッフが、食べる場所も、移動も、宿泊も何から何まで手配してくれて、何も心配する必要がなかった。でも日本に住むんだったら、自分一人ですべて対処できないとダメだと。そうじゃなかったらダサいじゃん。実際に住んでみると、日常のちょっとしたことのルールが、アメリカとは全然違っていましたね。家を借りるのに敷金礼金があるというのもびっくりしましたし、分別ゴミを知らないでゴミを出したら、ビルの管理人のおばさんに道の真ん中でガミガミ怒られて恥ずかしかった経験もあります。その後は分別ゴミをちゃんと調べて徹底しました。そういう時に、外国人だからわからなくても当然という、「外人カード」は使いたくないんですよ。分別ゴミのことを知らないでそのままいくより、一回、恥をかく方がずっといいです。
後編では、日本の邦楽シーンでの活躍について語って頂きます。
【後編】マーティ・フリードマンに聞く - なぜ世界的に有名なギタリストは、一人でJ-POPに乗り込んだのか
プロフィール/敬称略
マーティ・フリードマン
シリーズ「世界の中の日本」
「グローバル人材」の必要性が日本国内で叫ばれているが、グローバルに働くというのは具体的にどのような働き方、姿勢を指すのだろう。個別例を見ていくと、その在り方は実にさまざまで、パーソナルなものだ。現代社会の中で、市場や職場において日本に縛られることなくグローバルな視点をもって仕事をしている人々を紹介していく。