事件直後、虐待の証言が飛び交い、『親のせいでこうなった』という風潮が印象づけられました。でも、親のせいなら、僕も事件を起こすはず。だけど僕はそんなことはしない。たしかに両親への恨みや憎しみはありましたが、親のせいではないということを証明したかった。
(週刊現代での告白は)反響はありました。だが、僕の思惑とはまったく違う方向へ事態は推移してしまいました。僕は両親を助けるどころか、逆に追い込んでしまったんです。
優次の死と、彼の遺した手記を報じるにあたって、私は4月上旬、改めて青森を訪れた。加藤兄弟を育んだ町は、季節はずれの雪で冷え込み、人の往来も少なかった。かつて家族4人が暮らした実家もまた、静まり返り、人の気配はまったく感じられない。
近隣住民が言う。
「ご主人が一人でひっそり暮らしています。朝早くに出て夜遅くに帰ってくる毎日で、事件以来、カーテンはずっと閉め切られたままで、夜も電気が点くことはありません。
……そう、あれからずっと、加藤さんはロウソクの灯りで生活しているみたいなんです」
信用金庫の職を失い、地域とも縁を切った父親は、信じがたいことに、暗闇にロウソクを灯してこの家で暮らしているという。
一方で、母親はもう、ここにはいない。事件と前後して離婚した母は、家を出て青森市内の質素なアパートで暮らしている。そちらも訪ねたが、やはり昼夜問わずカーテンを閉め切り、真っ暗な部屋にひきこもる生活をしていた。
夜10時。仕事から車で帰宅した父親に、訪問の趣旨を告げた。優次と取材を通して付き合ってきたこと、死の直前、優次に手記を託されたこと……。
長い沈黙のあと、父親は静かにこう言った。
「優次がみずから逝ったことは、どうにもできなかったことですから……。私が言えるのは、そっとしておいてほしい。それだけです。(週刊現代の取材に協力した)優次の思いはわかっています。ただ、私とは考え方が違います」
優次は事件後、一度だけ実家に帰り、父親と短いながらも面会している。そして、本誌に掲載するために家の中の写真を撮った。その時のことを、優次は手記にこう書いている。