そんな言葉を私に漏らすようになった。なぜ、兄の犯罪を見てなお、そんなふうに考えてしまうのか。それを知るためには、優次が「原本」と呼ぶ、母親の特殊な教育を含めた家庭環境を知る必要がある。
事件直後、加藤は「両親は他人だ」などと供述。テレビでは母親の虐待に関する近隣住民の証言が取り上げられた。そして事件から1週間後、優次は本誌で告白をした。それは次のような内容だった。
〈小学校時代から友人を家に呼ぶことは禁じられていた〉
〈テレビで見られるのは『ドラえもん』と『まんが日本昔ばなし』だけ〉
〈作文や読書感想文は母親が検閲して教師受けする内容を無理やり書かされた〉
〈兄は廊下の新聞紙にばらまいた食事を食べさせられていた〉
この告白は当時、大きな反響を呼んだ。母親からの影響を、加藤自身も著書『解』の中でこう分析している。
〈(母親は)自分が絶対的に正しいと考えている人でした。母親の価値観が全ての基準です。その基準を外れると母親から怒られるわけですが、それに対して説明することは許されませんでした。(中略)
私のやり方も同様です。誰かが私に対して、私の価値観で間違ったことをしてくると、私は怒りました〉
その考え方が、「自分の(ネット上の)掲示板を荒らした人々に、間違っていることを認識させて痛みを与える」という、通り魔事件の動機につながったのだという。
事件後、「犯罪者を育てた両親」として批判にさらされ続けた父と母が直面した現実は、ある意味、優次以上に厳しいものだった。
地元の信用金庫の要職にあった父親は、事件から数ヵ月後に、退職を余儀なくされる。自宅には脅迫や嫌がらせの電話が相次ぎ、電話回線を解約した。記者の訪問も後を絶たず、マスコミの姿に怯えながら身を潜めて暮らした。
一方、罪の意識にさいなまれた母親は、心のバランスを崩して精神科に入院。一時は誰も面会できないほどの状態だった。退院後は青森県内にある実家に身を寄せたが、孫の事件を知って体調を崩した自分の母が急死するという不幸にも見舞われた。
優次は母親の極端な教育方針を告白した時、心中には両親に対する複雑な感情があったことを、手記で明かしている。