高倉健さんに続いて菅原文太さんが亡くなった。思い起こすのは、記者生活2年目で初めて担当した東映フライヤーズの身売り話の取材だ。
1973年1月。早朝の東京・銀座の東映本社玄関内。「アレッ? 今日はどうしたんだろう。社長の車が到着したのに、入ってこない」。寒さに震えるストーブリーグ取材なので、少しでも暖かい所で待機、朝駆けの毎日だった。
当時の岡田茂東映本社社長が入ってくると、エレベーターに同乗して社長室前までぶら下がり取材ができる。だが、この日に限って玄関に入ってこない。外では岡田社長が大きな看板をしみじみと見上げている。何があるのかと尋ねると「オレはこの映画に社運をかけているんだよ」という答えが返ってきた。
岡田社長が社運をかけた正月映画こそ、文太さん主演の『仁義なき戦い』だった。見事に大ヒットしてシリーズ化。金看板の高倉健さんの任侠映画以降、低迷していた東映が一気に復活した。そして、陣頭指揮での球団売却先も日拓ホームに決まり、1973年2月7日、承認されたのだ。
「正式に身売りが決まった日に江尻さんが玄関先にいたので、社長から『様子を見てこい』と言われたんですよ」とは、社長秘書から明かされた後日談。間抜けな話だが、そもそも日拓ホームの西村昭孝社長の顔は知らなかったので、スクープのしようもなかった。
「監督の交代? もっと大きなことを考えているんだよ」。大川毅オーナーからこう聞かされ、仰天。「身売りですか?」とあわてて確認すると「身売りという言葉は嫌いだ。資産売却を検討しているんだよ」の返答。それから身売り先取材がスタート。途中で大川オーナーが病に倒れ、岡田本社社長が陣頭指揮するようになったのだ。
それから早朝が東映本社前、深夜は自宅前での夜討ち朝駆け取材が続いたのに、スクープしたのは社長取材で一度も顔を合わせたことのない一般紙。いつも鉢合わせする数歳年上のスポーツ紙記者と2人で文句を言うと、岡田社長からもっともな回答が。
「球団を売る立場の人間が買う企業の名前を言えるわけがないだろう。球団身売りが漏れるのは政財界筋からだよ」と言った上で「2人が一番熱心に取材していたのは認める」と銀座で慰労会を開いてくれた。
懐の深い大企業の経営者・岡田社長は11年5月に亡くなった。今ごろ天国で健さん、文太さんと久びさにご対面、談笑しているのでは…。 (江尻良文)