(今崎海岸)
三宅島の歴史は、噴火の歴史である。二十世紀以降でも、昭和十五年(1937)、昭和三十七年(1962)、昭和五十八年(1983)、平成十二年(2000)と、ほぼ二十年間隔で噴火が発生している。ということは、そろそろ次の大噴火が近づいているのかもしれない。
昭和五十八年(1983)の噴火では、溶岩流が阿古地区に流入し、人的被害はなかったもの多くの住宅が埋没・焼失した。今も島の中央部は有毒ガスが発生しており、立ち入り禁止となっている。
今崎海岸
阿古地区の海岸線に形成された溶岩帯は、寛永二十年(1643)の噴火で流出した大量の溶岩によるものである。
めがね岩は、溶岩を長年にわたって波が浸食した結果、大きな洞穴が二つ並ぶように作られたものである。昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風の際、片方の天井が崩れ落ちてしまったため、今ではめがね岩とは呼べなくなってしまっている。
めがね岩
(三宅島郷土資料館)
三宅島郷土資料館
浅沼稲次郎像
三宅島郷土資料館(三宅村阿古497)は、村立図書館を併設した施設で、ここで情報を仕入れて島内の史跡探訪するのも良い。入口には浅沼稲次郎(日本社会党委員長)の胸像が置かれている。二階の流人コーナーで、万延元年(1860)の「伴作騒動」のことを知り、早速坪田の海蔵寺清水ヶ原霊園を訪ねることにした。資料館の女性に尋ねると行き方を丁寧に教えてくれた。
(七島展望台)
七島展望台
御蔵島
七島展望台は雄山の中腹に位置し、文字通り北は伊豆大島から南は八丈島まで、伊豆諸島の七つの島を一望できるという場所である。私がこの場所に立ったとき、猛烈な風が吹き付け、からだごと吹き飛ばされそうであった。残念ながらこの日の見晴らしは良くなくて、辛うじて南の海に御蔵島の姿が確認できただけであった。かつてここには村営牧場があったというが、平成十二年(2000)の噴火で、一帯は荒野と化し、置き去りとなった家畜はそのほとんどが死んでしまったという。今も樹木は生えておらず、見渡す限り荒涼とした風景が広がっている。
(富賀神社)
富賀(とが)神社は伊豆七島の総鎮守であり、静岡県の三島神社の発祥の地としても知られる。境内からは、古墳時代の土器や勾玉、耳飾りなどが発掘され、平安時代のものと推定される和鏡も保存されている。
弔忠魂之碑の前に立つ石像は、特に説明はないが、乃木将軍であろう。
富賀神社
乃木希典石像
(大路池)
大路池(おおろいけ)は、噴火口にできた火口湖で、深い森に囲まれている。近くにアカコッコ館(三宅村坪田4188)という自然観察施設があり、池の周囲ではアカコッコを始めとしたたくさんの野鳥が競うように囀っていて、絶好のバードウォッチング・スポットとなっている。
長さが八十センチはあろうかという巨大な望遠レンズを持った欧米人が盛んに野鳥の写真を撮っていた。
大路池
(長太郎池)
長太郎池
岩に囲まれてできた潮だまりが天然のプールとなっていて、長太郎池と呼ばれている(三宅村坪田)。チャンスがあればここでシュノーケリングもと考え、マスクやシューズさらには水中でも使用可能なデジカメも持参していたのだが、この日は波は高く、魚影を確認することはできなかった。シュノーケリングには少し時期が早かったようである。さすがにまだ肌寒く、とても海に入れるような気温ではなかった。
(清水ヶ原霊園)
遇光生善信士(藤五郎の墓)
万延元年(1860)、伴作とよばれる流人が伊ヶ谷村で破獄を企画し、島内各村の金品を掠奪し、船を艤して内地へと逃亡しようとした(伴作騒動)。藤太郎は十五歳のときに三宅島に流された流人の一人であったが、坪田村にこの騒動を注進しに走り、井澤家に身を隠したが、捕らわれて処刑された。これを憐れんだ井澤家の人は、明治四十四年(1911)、藤五郎の墓を改葬して井澤家の墓地に移した。
幕末時点での三宅島の人口は約二千人。そこに約百名の流人が同居していた。数字だけみると流人の比率が高い印象を受けるが、流人といっても、凶悪犯は内地で処刑されるので、喧嘩や博奕など比較的軽い犯罪で流されることが多かった。従って流人が島で犯罪や騒動を起すことはさほど頻繁にあったわけではない。そういう三宅島の歴史にあって万延元年(1860)の伴作騒動は島民を震撼させる事件であった。
(汰華供養塔)
供養塔
傍らの説明によれば、大機和尚は寛政十二年(1800)、犬公方といわれる五代将軍に諫言をしたことから、江戸の高円寺から三宅島に流されたという。しかし、寛政十二年(1800)といえば、第十一代家斉の時代であり、百年くらいズレている。何かの間違いであろう。この供養塔は、島民を疫病から救うために大機和尚が建立したもので、塔の下には三万八千個に及ぶ経文が埋蔵されているのだという。大機和尚は、三宅島で四十年を過ごし、この島で生を終えた。先ほど訪問した清水ヶ原霊園の藤五郎の墓の横に、大機和尚の事績を記した石板が建てられている。
(釜の尻海水浴場)
釜の尻海水浴場は波に洗われて丸くなった溶岩が敷き詰められた黒い海岸である。その北側に海に突き出た小さな岬があり、そこに人工的な構造物がある。海水浴場の説明によれば、砲台の跡ということだが、何時頃築造されたものかは分からない。
釜の尻砲台跡
これで島を一周して、七時間余りの史跡の旅を終えた。さて、橘丸に乗船しようとしたその時、一陣の風が私の乗船券を奪い、あっという間に海へと持ち去ってしまった。慌てて切符売り場まで駆け戻り、事情を話して再発行してもらった。係の女性によれば再発行といっても、「新規に購入して頂かないといけない」とのことであった。船の出発時間が迫っており、ここで交渉しているヒマもなく、いわれるがまま乗船券を購入することになった。走って戻り、何とか乗船客の最後尾で乗り込むことができた。一応、紛失証明書を発行して頂いたので、後日一部払い戻しされるそうであるが、意地悪な強風に泣かされた。
三宅島の歴史は、噴火の歴史である。二十世紀以降でも、昭和十五年(1937)、昭和三十七年(1962)、昭和五十八年(1983)、平成十二年(2000)と、ほぼ二十年間隔で噴火が発生している。ということは、そろそろ次の大噴火が近づいているのかもしれない。
昭和五十八年(1983)の噴火では、溶岩流が阿古地区に流入し、人的被害はなかったもの多くの住宅が埋没・焼失した。今も島の中央部は有毒ガスが発生しており、立ち入り禁止となっている。
今崎海岸
阿古地区の海岸線に形成された溶岩帯は、寛永二十年(1643)の噴火で流出した大量の溶岩によるものである。
めがね岩は、溶岩を長年にわたって波が浸食した結果、大きな洞穴が二つ並ぶように作られたものである。昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風の際、片方の天井が崩れ落ちてしまったため、今ではめがね岩とは呼べなくなってしまっている。
めがね岩
(三宅島郷土資料館)
三宅島郷土資料館
浅沼稲次郎像
三宅島郷土資料館(三宅村阿古497)は、村立図書館を併設した施設で、ここで情報を仕入れて島内の史跡探訪するのも良い。入口には浅沼稲次郎(日本社会党委員長)の胸像が置かれている。二階の流人コーナーで、万延元年(1860)の「伴作騒動」のことを知り、早速坪田の海蔵寺清水ヶ原霊園を訪ねることにした。資料館の女性に尋ねると行き方を丁寧に教えてくれた。
(七島展望台)
七島展望台
御蔵島
七島展望台は雄山の中腹に位置し、文字通り北は伊豆大島から南は八丈島まで、伊豆諸島の七つの島を一望できるという場所である。私がこの場所に立ったとき、猛烈な風が吹き付け、からだごと吹き飛ばされそうであった。残念ながらこの日の見晴らしは良くなくて、辛うじて南の海に御蔵島の姿が確認できただけであった。かつてここには村営牧場があったというが、平成十二年(2000)の噴火で、一帯は荒野と化し、置き去りとなった家畜はそのほとんどが死んでしまったという。今も樹木は生えておらず、見渡す限り荒涼とした風景が広がっている。
(富賀神社)
富賀(とが)神社は伊豆七島の総鎮守であり、静岡県の三島神社の発祥の地としても知られる。境内からは、古墳時代の土器や勾玉、耳飾りなどが発掘され、平安時代のものと推定される和鏡も保存されている。
弔忠魂之碑の前に立つ石像は、特に説明はないが、乃木将軍であろう。
富賀神社
乃木希典石像
(大路池)
大路池(おおろいけ)は、噴火口にできた火口湖で、深い森に囲まれている。近くにアカコッコ館(三宅村坪田4188)という自然観察施設があり、池の周囲ではアカコッコを始めとしたたくさんの野鳥が競うように囀っていて、絶好のバードウォッチング・スポットとなっている。
長さが八十センチはあろうかという巨大な望遠レンズを持った欧米人が盛んに野鳥の写真を撮っていた。
大路池
(長太郎池)
長太郎池
岩に囲まれてできた潮だまりが天然のプールとなっていて、長太郎池と呼ばれている(三宅村坪田)。チャンスがあればここでシュノーケリングもと考え、マスクやシューズさらには水中でも使用可能なデジカメも持参していたのだが、この日は波は高く、魚影を確認することはできなかった。シュノーケリングには少し時期が早かったようである。さすがにまだ肌寒く、とても海に入れるような気温ではなかった。
(清水ヶ原霊園)
遇光生善信士(藤五郎の墓)
万延元年(1860)、伴作とよばれる流人が伊ヶ谷村で破獄を企画し、島内各村の金品を掠奪し、船を艤して内地へと逃亡しようとした(伴作騒動)。藤太郎は十五歳のときに三宅島に流された流人の一人であったが、坪田村にこの騒動を注進しに走り、井澤家に身を隠したが、捕らわれて処刑された。これを憐れんだ井澤家の人は、明治四十四年(1911)、藤五郎の墓を改葬して井澤家の墓地に移した。
幕末時点での三宅島の人口は約二千人。そこに約百名の流人が同居していた。数字だけみると流人の比率が高い印象を受けるが、流人といっても、凶悪犯は内地で処刑されるので、喧嘩や博奕など比較的軽い犯罪で流されることが多かった。従って流人が島で犯罪や騒動を起すことはさほど頻繁にあったわけではない。そういう三宅島の歴史にあって万延元年(1860)の伴作騒動は島民を震撼させる事件であった。
(汰華供養塔)
供養塔
傍らの説明によれば、大機和尚は寛政十二年(1800)、犬公方といわれる五代将軍に諫言をしたことから、江戸の高円寺から三宅島に流されたという。しかし、寛政十二年(1800)といえば、第十一代家斉の時代であり、百年くらいズレている。何かの間違いであろう。この供養塔は、島民を疫病から救うために大機和尚が建立したもので、塔の下には三万八千個に及ぶ経文が埋蔵されているのだという。大機和尚は、三宅島で四十年を過ごし、この島で生を終えた。先ほど訪問した清水ヶ原霊園の藤五郎の墓の横に、大機和尚の事績を記した石板が建てられている。
(釜の尻海水浴場)
釜の尻海水浴場は波に洗われて丸くなった溶岩が敷き詰められた黒い海岸である。その北側に海に突き出た小さな岬があり、そこに人工的な構造物がある。海水浴場の説明によれば、砲台の跡ということだが、何時頃築造されたものかは分からない。
釜の尻砲台跡
これで島を一周して、七時間余りの史跡の旅を終えた。さて、橘丸に乗船しようとしたその時、一陣の風が私の乗船券を奪い、あっという間に海へと持ち去ってしまった。慌てて切符売り場まで駆け戻り、事情を話して再発行してもらった。係の女性によれば再発行といっても、「新規に購入して頂かないといけない」とのことであった。船の出発時間が迫っており、ここで交渉しているヒマもなく、いわれるがまま乗船券を購入することになった。走って戻り、何とか乗船客の最後尾で乗り込むことができた。一応、紛失証明書を発行して頂いたので、後日一部払い戻しされるそうであるが、意地悪な強風に泣かされた。