エウレカ! 今日の私はとてもすばらしい発見をしました。
この感覚が次に来るのは一年後か、はたまた数年後なんじゃないかというぐらいの感動なので、興奮のままに書いていきます。
(なおこれは教養のないゴリラの書く話なので、「なーんだこんなことで感動したのか!」と思った人はそのまま優秀な人でいつづけてください かしこ)
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先日の三連休最終日のことです。
私は「大学の同期から、『電磁波工学の講義は唐沢先生のを取る?それとも西先生のを取る?ちなみに唐沢先生の方がちょっと易しいらしい。』という質問をされて、どっちの先生の教室に移動するか悩む」夢を見ました。
ちなみに目覚めたときの自分の第一声は「なんでやねん」です。なぜなら私はすでに電磁波工学の単位を、唐沢先生でも西先生でもない先生の講義で履修済みだからです。(しかも残念なことに可です。)
そしてこの「唐沢先生」という名前が私の夢に出てくるのは、すごく不思議な感覚でした。なにせ「唐沢先生」から私は一度も教わったこともなければ、学内での直接的な接点はまったくない先生だったからです。そういえば部活の先輩の研究室がそこだったかなあ、ぐらいの関わりです。
ただしすごく特徴的な名前の先生なので、「唐沢先生、たしか唐沢好男先生だったかなあ」と思い出すのには時間がかかりませんでした。
私は変な人間なので「唐沢先生って、電磁波工学担当されたことあるのかなあ。AWCCの先生だった気がするし、多分あるよなあ」と夢のことなのになぜか気になってきます。
「電通大 唐沢好男」でググります。研究室のページが出てきました。
(ちなみに唐沢先生の研究室のサイトはこちらです: http://www.radio3.ee.uec.ac.jp/ ドメインにradioって入っているのがいいですね)
経歴を覗くと、当時のKDDI研究所の研究員になり社会人時代に博士を取り、電通大で教鞭を取り、IEEEのフェローになられている。これは唐沢先生が無線通信の分野で世界中に認められていることがわかる、超優秀なご経歴です。
そしてすでにご退官されていることも知りました。
人によっては退屈かもしれませんが、ちょっと上の唐沢先生の退官に寄せての記事を読んで欲しい。
最低でもこれだけは読んで欲しい。(以下引用)
電通大にお世話になって以来17年間、唐沢研究室の学生はもとより、授業など多くの機会を通じて、 「社会で活躍するためには、”セレンディピティ=感じ取る力・結びつける力”を磨きなさい」と折々に説いてきました。精神論ばかりではダメで、具体例が必要です。 それには、化学同人社から出ている「セレンディピティ(R.M.ロバーツ著:安藤訳)」の本に事例が満載で、感覚を身に着けるヒントがいっぱい出ています。 無線の分野では、米国ベル研究所のペンジアスとウィルソンのケースが有名です。1964年のこと、科学者であった両氏は、宇宙通信用に開発した大型アンテナの性能を評価するため、 アンテナを天空に向けて雑音測定している中、どの方向に向けてもほんのわずかに原因不明の雑音(絶対温度3Kのごくごくわずかな雑音)が残り、気になっていました。 あるとき二人は、以前に聞いた講演のことを思い出しました。1960年代当時、宇宙はビッグバンという途方もない大爆発から始まったという荒唐無稽な理論が出てきて、 でも、もしそれが本当なら宇宙の果てにその雑音の名残があるはず、という話でした。そのとき、彼らは「もしかしたらこれかも」、と思い、検証を重ねて、 ついにまさにそれだと確証を得たのです。二人は、ビッグバンの証拠をつかんだことでノーベル物理学賞をもらいました。幸運の女神がそこに来ていて、それを捕まえたのです 。わずかなできごとに徹底的に拘り、幅広い知識や経験を活かして、自分たちの実験結果をそこに結び付けて、思わぬところの不思議を解明したのです。この力がセレンディピティです。
これを読んで皆さんはどう思われましたか?
私は冒頭にも書いた通り教養のない人間なので、「ペンジアスさんとウィルソンさんという2人が、ビックバンの可能性を見つけ、それでノーベル物理学賞を受賞したんだな。」という浅い理解しか走りませんでした。宇宙の始まりを見つけた科学者なら、ノーベル物理学賞レベルの賞を受賞しても不思議ではないだろう。そんな感じの理解です。
そして繰り返されるセレンディピティという単語。「偶然に訪れる幸運を掴み取る能力」、なんだか抽象的であり、例示も正直ピンと来ない。
とにかくこのとき、私は「唐沢先生という人は、セレンディピティという言葉(概念)が非常に好きな先生なのだな」という認識で終わりました。
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そして話はガラッと変わります。おとといのことです。唐沢先生の名前が出てきた夢のことをすっかり忘れている私は、本屋に行きました。特に目当ての本があったわけでもなく、「今は店頭に何が並んでいるんだろうなあ」とリサーチ目当てに行きました。
そこでこの本・読書する人だけがたどり着ける場所 (SB新書)に出会います。私ですら知っている、日本では著名な齋藤孝先生の本です。
その帯には「毎日情報に触れているのに知識が深まらないのは、なぜか?」と少し惹かれるキャッチコピーがありました。というのも、最近の私は「自分が賢くないということには気づいているんだけど、どうしたらいいんだろうなあ」という焦りをずっと抱えていたのです。勉強をしても読書をしても手を動かしても、自分の知識になったという感覚はおろか上っ面感が拭えず、途方に暮れていたところでした。タイトルが抽象的のように感じられましたが、何かしら今の自分にヒントがあるだろうと思い、買うことにしました。
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そして今朝から読み始めることにしました。
これですね。白状すると、このツイートで書いている内容は意図的に本文の表現とは変えています。私は発売されたばかりの本を引用元も明示せずに丸々引用するのは嫌だったのと、もっと白状すると、人間と金魚の集中力を比較するくだりは科学的に眉唾ものだと思ってしまったので、乱暴なことをしてしまいました。斎藤先生にはここでお詫び申し上げます。
本の内容ですが、正直「もうすでに知っているようなことばかりだが、時折刺さるようなことを書いてくるなあ」というものでした。斎藤先生の本は読みやすく、そして表現が秀逸であることが多いのです。
たとえば
インターネットの海と言いますが、ほとんどの人は浅瀬で貝殻をとっているようなもの。
(本文 17P)
これなんて、本当にお見事です。わたしはとてもドキリとしました。現代人の浅い・雑な理解で終わらせる情報収集の態度における批判を、ここまで詩的に書けるのは斎藤先生のすごいところの一つです。
でもたまに私は斎藤先生に対して、「この人は何を言っているんだね」と勝手に失望する節もあります。
以下引用。
大学の先生も教養のための幅広い読書をしなくなっている印象があります。私は大学の採用面接でこんな質問をしています。
「あなた自身の教養になった3冊を専門以外で教えていただけますか?」
専門以外というのがポイントで、幅広い教養のある人なのかを確認する質問です。
学生に対して教養を身につけさせるには、先生自身に教養がなければなりません。
ところが、急に言葉に詰まってしまう人が多くなっています。「数え切れなくて言えません」というのならわかります。「3冊に絞るのは難しいので、10冊言わせてください」くらい言ってほしい。でも、残念ながら「専門ならすぐ言えるのですけど……」という人が増えているのです。
(本文 18P)
私はこれを読んで、最初の印象は「斎藤先生はどうやら大学を教育の場のみだと勘違いしているのかな」とさえ思いました。
私の中で大学とは専門高等教育を学び、そしてさらなる研究の発展をさせていく場所だと捉えています。(語彙力が貧弱なので、この程度の言葉しか思いつきませんが)ことさら理系分野においては、研究者が誰であるかということよりも、事実情報の方が大事だと思っています。
そのため指導者側に教養を求めるのは(例えるならそれは物理学専攻の教授に、わざわざ源氏物語の感想を求めるような感覚でした)、さすがに基準がおかしいのではないか、と思いました。
さて、ここからが私のエウレカ話です。わたしはとある文を読んだ後、それだけでこの本に感銘を受けることになります。
少し前までは、人間の集中力を計測する実験結果と、金魚の集中力を計測する実験結果から、秒数のみを単純比較した説を信用した挙句、大学教員採用には「教養」の強要を行なっている斎藤先生には失望を感じていたのに。けれど私はこの本への感謝を少なくともこの今は忘れないでしょう。
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それは「第2章 深くなる読書 浅くなる読書 何をどう読むか」の「情報としての読書 人格としての読書」節でした。
斎藤先生いわく、まず読書には大きく分けて二つあり、それは情報としての読書と人格としての読書であること。
たとえば物理学を学びたいと思って重力波の本を読むのは「情報としての読書」であり、「銀の匙」を読んで世界観を味わうのは「人格としての読書」。
情報としての読書の場合、著者が誰であるかはさほど重要視されないことが多いというものでした。
これはわかりがありました。物語を味わうか、情報を味わうかという理解をしました。
そして以下の文言に続きます。
ただ、情報と人格は、最終的にはあまり切り分けられません。
この一文を読んで「あー斎藤先生がなんかまた言っている」とすら思いながら、続きを読みます。そして引用します。ちょっと長いですが、ここが私の「エウレカ!」に繋がる大事な文章になりました。
たとえばケプラーは、惑星が楕円の軌道で動いていることを発見しました。これは科学の歴史において、革命的とも言える重要な転換点です。それまでは2000年にもわたって、「惑星の運動は完全な円を描いている」と信じられていました。円運動は神聖で完全なものであり、天上界の運動は完全な円であるはずだというアリストテレスの「自然観」が根強く残っていたのです。
しかしその考え方ではどうしても計算が合わない。そこで、完全な円ではなくちょっとつぶれた円なのかも、と気づいたのです。そして「惑星は太陽を一つの焦点として楕円軌道を描く」というケプラーの法則にたどり着きました。
そこに至るには観測データと理論を突き合わせていくという科学的なことをしているわけですが、同時に、ケプラー自身は神秘的主義で古い感覚を持ち合わせていました。占星術で生計を立てており、太陽を神聖視し、「宇宙の調和」という価値観を強く持っていたのです。
「惑星の公転周期の2乗は、軌道長半径の3乗に比例する」というケプラーの第3法則も、実は神秘思想から出てきたものでした。惑星の軌道と運動の間には、神秘的な調和があると必ず信じ、それを発見しようとしたわけです。そんな背景を知ると、ケプラーの法則という科学的な情報にも深みが感じられるのではないでしょうか。
(本文 51~52P)
私はケプラーの法則を知っています。そういった公式が存在して、テストでも出題されていたことを覚えています。けれどこのような事情を知りませんでした。
「まさか占星術の発想を以ってして、物理学の問題を解決しているとは」と驚きました。
私は正直、占いは生活を豊かにするちょっとした気休めだとか潤いだとか、そういうものでしかないとすら認識していました。けれど、そういった気休めが、ケプラーの法則に繋がっていたとは、青天の霹靂だったのです。
そして、「もしかして」と、唐沢先生の”せれんでぃぴてぃ”という文章に帰ってきました。似たようなものをもしかしてつい最近読んでいないか、と思い当たったのです。もう一度引用します。
電通大にお世話になって以来17年間、唐沢研究室の学生はもとより、授業など多くの機会を通じて、 「社会で活躍するためには、”セレンディピティ=感じ取る力・結びつける力”を磨きなさい」と折々に説いてきました。精神論ばかりではダメで、具体例が必要です。 それには、化学同人社から出ている「セレンディピティ(R.M.ロバーツ著:安藤訳)」の本に事例が満載で、感覚を身に着けるヒントがいっぱい出ています。 無線の分野では、米国ベル研究所のペンジアスとウィルソンのケースが有名です。1964年のこと、科学者であった両氏は、宇宙通信用に開発した大型アンテナの性能を評価するため、 アンテナを天空に向けて雑音測定している中、どの方向に向けてもほんのわずかに原因不明の雑音(絶対温度3Kのごくごくわずかな雑音)が残り、気になっていました。 あるとき二人は、以前に聞いた講演のことを思い出しました。1960年代当時、宇宙はビッグバンという途方もない大爆発から始まったという荒唐無稽な理論が出てきて、 でも、もしそれが本当なら宇宙の果てにその雑音の名残があるはず、という話でした。そのとき、彼らは「もしかしたらこれかも」、と思い、検証を重ねて、 ついにまさにそれだと確証を得たのです。二人は、ビッグバンの証拠をつかんだことでノーベル物理学賞をもらいました。幸運の女神がそこに来ていて、それを捕まえたのです 。わずかなできごとに徹底的に拘り、幅広い知識や経験を活かして、自分たちの実験結果をそこに結び付けて、思わぬところの不思議を解明したのです。この力がセレンディピティです。
そして焦ります。 「ペンジアスさんとウィルソンさんとは、いったい何者なのだ。ビッグバンとは、いったいどのようにして解明されたのだ?」、私はまず、ペンジアスの名前でwikipediaを調べました。
私はこの感動を当分忘れないと思います。以下、wikipediaからの参照です。
ペンジアスはニュージャージー州ホルムデルのベル研究所に就職し、そこでロバート・W・ウィルソンとともに、電波天文学の観測のための超高感度低温マイクロ波アンテナの研究を行なった。1964年、この高感度アンテナの設置中に二人は説明のつかない電波ノイズに出会った。そのノイズの強度は天の川銀河からの放射よりも強いものだったため、二人はアンテナ設備が地上の雑音源からの干渉を受けていると考えた。しかし調査の結果、電波ノイズがニューヨーク市からのものであるという仮説は否定された。マイクロ波ホーンアンテナを調べたところ、アンテナに鳩の糞(ペンジアスは論文の中で「白い誘電性の物質」と記している)がたくさん付いていた。糞を掃除すればノイズはなくなると考えた二人はホーンアンテナに溜まった糞を掃除したが、ノイズは消えなかった(二人は互いに、糞掃除を言い出したのは自分ではないと言っている)。考えられる干渉源は全て取り除いたがノイズは消えなかったため、二人はこの発見を論文に発表した。後に、この放射こそがビッグバンの名残の電波である宇宙マイクロ波背景放射であることが明らかとなった。この発見によって天文学者はビッグバン仮説の正しさを確信するようになり、初期宇宙についてのそれまでの多くの仮説が修正された。
エウレカ!!!!!!の瞬間でした。
(wikipediaはやっぱり面白いです。この短いエピソードすら壮大な物語を想像させてもらいながら読むことができました。)そしてもし私のような凡人が彼らの立場だった場合、おそらく鳩のフンを掃除してもなお、「アンテナの仕様か、バグか」といった可能性の検討から脱却できていなかったのではないか。そんな不安すらよぎります。
物理学者が、天文学の講演に行っていたから、ビッグバンの可能性に気づけたのだ、と。(講演のソースは出てこないので、これは私の思い込みの可能性が大いにあります。けれどそう考えるとしっくりしたのでした)
これはものすごい衝撃でした。頭の中では天文学も物理学も密接に関わっているだろうということは承知していたのに、具体例を持ち出された時の感動というと、言葉には言い表せません。物理学者が、現代の天文学の基盤に大いなる躍進を与えたのです。
これぞ教養、リベラルアーツの考え方だと猛省しました。
そうしてこうして、唐沢先生の言葉終盤に戻ります。
ピンチはチャンス。幸運はそれを待ち受ける心構えのある人のところに訪れる(パスツール)。電通大の発展と、皆さんの幸運を心より願っています。ありがとうございました。
そしてようやくこの言葉、「セレンディピティ」の意味を理解します。
「幸運はそれを待ち受ける心構えのある人のところに訪れる」、これはつまり「幅広い教養と経験を身に付けることによって、思いもよらない発見に繋げることができる」、専門にとがることも大事ですが、さらなる向上を目指す人間は幅広い知識と経験が必要になるということを唐沢先生も斎藤先生も伝えたかったのだとようやく、ようやく気づけた瞬間でありました。
「偶然に訪れる幸運を掴み取る能力」、その言葉の意味を遅まきながらもかみしめることができたのです。
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といったところで、今日は知識の点と点が線として繋がる瞬間を久々に自覚できた、最高に素晴らしい1日でした。
私のエウレカもといセレンディピティ体験は、世界にとって非常に小さいものではありますが、個人にとっては素晴らしい一歩の1日でした。
みなさんにもよいエウレカ、ないしはセレンディピティがおとずれますように。
というところで。読書はやっぱりいいですね。いまいちどおすすめしておきます。