この対談は妙壽寺本堂落慶30周年記念インタビューとして同寺の広報誌「寺楽寿(てらす)」16号、17号に掲載されたものです。

転載許可を頂きました。話の展開により一部見出しと構成を変更しておりますが全文掲載させていただきました。

なお対談相手は三吉廣明氏(妙壽寺住職)です。


泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代

【パート6】世界に誇る日本のアニメ

 

三吉 東映アニメーションギャラリーの見学は本当に面白かったです。

 

泊 ありがとうございます。

 

三吉 実は今をときめく宮崎駿さんも東映アニメ(当時は東映動画)でアニメーターとして修業されていたそうですね。だから片方は任侠路線で、もう片方は子供向けのアニメーションを製作していたということですか。

 

泊 ほんとそうですね。

 

三吉 創立何年になるんですか。

 

泊 1956年(昭和31年)に創立ですからね。

 

三吉 私は1957年生まれなので私より1つ年上ということですね。今アニメブームじゃないですか界中で、何しろクールジャパンだから。ともかく今は海外もハリウッドも、日本のアニメの原作を欲しいぐらいな時代になってきているので、これkらとてもそういう点では、日本の片や職人芸のようなところと、創造力のようなところを一番タッチしている部分じゃないかと思いますが。

泊 宮崎さんは別として、日本のアニメはマンガの力に負うところが大きいですね。「ドラゴンボール」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」まで多種多様なキャラクターを漫画家たちが生みだす、鳥獣戯画以来の伝統でしょうか。自由な表現、自由な発想ができる日本という国がいい国なんだと思います。一党独裁の国からは生まれてこないですよ。それと観客、視聴者が優れているんだと思います。コンテンツは観客が育てるんですね。

 

三吉 こうしてみると東映さんは時代に合わせてバラエティに富んだ作品を次々と製作して楽しませてくれてますね。

 

泊 その通りです。東映には映画とアニメ、二つの文化があるんです。東宝には宝塚、松竹には歌舞伎がありますね。映画会社で生き残った会社はもう一つの文化事業を持っていたからではないかと思いますね。大川社長時代によくぞアニメ会社を作ってくれたと感服しています。

 

三吉 今日は泊さんといろいろなお話を伺うということで大変楽しみにしていました。特に時代劇のお話ができるのは母堂を思いだします。私は住職としてお寺を預かって33年で、妙壽寺の歴史は300年、その中の33年ということです。江戸の初期、寛永8年(1631年)の草創ですから、まさに時代劇の人たちが活躍していた時代に私どもの歴代の住職も当時のお檀家がまた支えて頂いて、妙壽寺があって、それで現在のこの寺につながっているということを思うわけです。

ですから今、ご法話をするときに、若い方たちがいるとすれば「あなたたちは、今ここに突然いるんじゃなくて、あなたたちのお父さんお母さんで2人ですね、そのまた祖父母で4人です。それにまた8人のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんがいます。2と4を足すと6で、6と8を足すと14ですよねと。これをずーっと足してゆくと10代さかのぼっている血のつながっているお父さん、お母さんは何人いるとおもいますか、1、024人いんですよ」と。

 

泊 そうねるですか。さかのぼって行くと不思議な気持ちになりますね。

 

三吉 10代ということは、仮に25年としますと250年ですね。25年というのはまさに江戸時代なんです。その江戸時代に我々とおなじような人生を送っている人たちがいて、その人たちが精いっぱい生きて、その姿を我々がみる。ということは何かというと、時代劇なんです。時代劇を我々がみてそれは先ほどの時代考証ではないですが、いろいろ違うこともあるかもしれないけれども、あのように皆生きていたんだな、ということを我々が知る手だてとしては時代劇なんです。

そういう中でいまの我々があるということを、もっと私は若い人たちに分かってもらいたいと最近とみに思います。ところが残念なことに時代劇が減ってきているという現実があります。

 

泊 確かにそうなんです。私の父は明治の生まれ、祖父は慶応ですから三代前は江戸時代。」時代劇の世界にいたわけで、もっと勉強しろ!と先祖から叱られそうですね。

同じようにこれからの未来のことも大事ですね。アニメも先人たちの苦労に感謝しながらさらに世界に羽ばたかなければいけませんね。東映アニメーションの企業理念は世界の子供たちに夢を贈ることにあります。

子供たちは人生のゴールデンタイムを生きている。戦乱の中にいる子供も、貧困の中にいうる子供たちも、その人生の中で一番良い時期を生きている。その子供たちに良い面白いアニメを見せてあげたい。そう思いながらなかなかそうはいかないんですが、そう念じながらやってきました。改めて思い出させていただきました。

 

三吉 本日は長時間にわたりまして素晴らしいお話をお聞かせ頂きました。ありがとうございました。これからも益々お元気で、ご意見番として後進の成長にお力添えを頂ければと思います。

 

泊 こんなに東映の映画にお詳しいとは考えもしませんでした。今日はこの能楽堂という空間で私の方こそいいお話を聞かせて頂きました。ありがとうございます。実を言えば私どもの御先祖は長崎の五島で代々代官を務めていたのですよ。その末裔の私は時代劇のなかに何かといえば悪代官を登場させて「そちもワルよのう」などと言わせて、小判の入った菓子折を受け取らせたりしていましたから。(笑)罰を受けるんじゃないかと思うのですね。そろそろラストシーンを迎えますので、(笑)その時はどうかうまく引導を渡してください。(了)

平成26131日 代々木能舞台 

この対談は妙壽寺本堂落慶30周年記念インタビューとして同寺の広報誌「寺楽寿(てらす)」16号、17号に掲載されたものです。

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【パート5 】「 勧善懲悪」とは

 

三吉 ところで私は「暴れん坊将軍」もそうですし、泊さんの関わられた時代劇が、一つの流れというのは、勧善懲悪というか、最後は悪い人は悪い、ということになるわけじゃないですか。

 

泊 「泣き 笑い 握る」は東映映画の骨法ですが、勧善懲悪、ハッピーエンドは娯楽映画のハートの部分です。悪が勝ったり主人公がやられたりして終わったらなんとも後味が悪いものになる、悪を倒して爽快な気分で映画館を出て行ってもらわなければいけない。

そこで悪の設定も大事になるんですね。全盛期の東映時代劇には憎たらしい悪役が山ほどいました。

阿部九州男を斬っても山形勲が出てくる。斬るとまた向こうには進藤英太郎が出てくる、これで終わりと思うとまだ月形龍之介がいるといった塩梅で、強い悪を設定するほどスカッとする。

 

三吉 勧善懲悪。それが当時の時代にも合っていたし、時代を作ってきた。それは日本人の精神文化の中ですごく大切なことじゃないかと、昔はよく我々の先輩方が、いや昔はそれこそ50年、100年前というのは地獄絵というのがありました。その地獄絵は子供の時から家にあって悪い事をすると地獄へ落ちますよ、目には見えないものに対しても何か悪い事をしたらいけないんだ、というのが背景にある訳じゃないですか。そういうのを私は大衆文化のなかで、時代劇というのは体現している。もう結果は分かっているんだけれども、そのプロセスとか、その中でそういう勧善懲悪ということがきちんとメッセージされているというのは、私は日本人の心のバックボーンとしてすごく大切じゃないかと。

今、外国人の観光客が年間1000万人が来日しているようですが、日本人は何がすばらしいといったら、「みんな正直でいい人だ」というわけですね。だって物を盗らないし、お金を落としても戻ってくる区になってないですよ、世界の中で。それはやはり江戸時代からのそういう相互扶助の精神であったり、昔はやっぱり身分社会というか、身分社会であっても、そういう中でみんな一生懸命頑張ってきたということじゃないかと思います。製作にあたって時代劇のポリシーのようなものは如何でしょうか。

 

泊 ポリシーというほどではないけど、時代劇で受けるのは、強い人が出てきて助けてくれた、それが実は身分の高い偉い人だった、というパターンでして、日本人は依頼心が強い国民性と思って作っていました。それと時代劇はお年寄りが観ているからといって、老人を助ける話は受けない。やはり若い娘を助けないとダメでした。

 

三吉 ああ、お上依存のような。(笑)映画の「最後の忠臣蔵」(平成25年)はとてもよかったですね。最後の方で涙が出そうになりました。でもあれもやっぱり脇も良かったのは、最初にちょっとしか出なかったけれども、仁左衛門(片岡)さんが大石内蔵助で、内蔵助に頼まれて落とし子さんを命をかけて育てるという最後の義士、とってもよかったなと思いました。

 

泊 驚きました。新しい時代劇も観ているんですね。原作者は池宮彰一郎で、69歳で「四十七人の刺客」を書いて一躍流行作家になりました。小泉元総理が大のファンでしたね。小説にするにあたって私も随分お手伝いしました。

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パート3: 時代は映画からテレビへ

 

三吉 実は母堂は時代劇が大変好きでございまして、私が物心がついた時から母堂が観るテレビ番組は、一番好きな市川右太衛門さん。右太衛門さんはもちろん東映の大御所、もう一人の大御所の千恵蔵(片岡)さんもいて、このころからカラーのテレビになった時代で、「旗本退屈男」を母堂がすごく喜んで観ていました。ただ子供心に不思議だなと思ったのは、出るたびごとに着ている着物が違うんですね。(笑)

 

泊 その通りです。よく観ていらっしゃいますね。

 

三吉 あれは今考えるとちょっと非日常というのかすごく良かったなと。

 

泊 退屈男の衣装はその都度新調していました。着物の模様は専属の高名な日本画家が描いていました。右太衛門さんは一度着たものは二度と着なかったのですが、衣装は全部行李に入れて大事に保管していましたね。誰かに使おうと思ってもアレを着れる人はいなかったそうです。

刀も毎回新調していましたから、まさに大スターです。ご子息の北大路欣也さんから聞いた話ですが、右太衛門御大から「スターは仕事がない時こそスターでいなければいけない」と聞かされていたそうです。私たちは欣也さんで二代目退屈男をやりたかったけど、御大は許可してくれませんでしたね。

 

三吉 あと長くお寺のお手伝い頂いたおばあ様(本多やす刀自)がいて、「素浪人月影兵庫」が大好きでした。劇中で兵庫が「おから」が好物なので「おから」をお届けしたいといつも言っておりました。近藤十四郎さんは松方弘樹さんのお父様ですか。

 

泊 松方弘樹さんと目黒祐樹さんの父上ですね。立ち回りは天下一品でした。松方さんも立ち回りはすごいですよ。

 

三吉 そうですか。あの後「素浪人花山大吉」になりましたね。

 

泊 「月影兵庫」は高視聴率でしたからずっと続けたかったけど、長く続くと原作から脱線していくものですから、原作者の南條範夫先生からストップがかかりましてね、泣く泣く花山大吉に変えたわけです。

 

三吉 泊さんは35歳から60代のはじめまで東映のテレビ部門にお移りになられて、まあ本当に視聴者がどれだけ楽しませてもらったかというぐらい多くの作品を生みだされ、製作されました。「清水次郎長」「新撰組」「仮面ライダー」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」「特捜最前線」「影の軍団」「はぐれ刑事」「三匹を斬る」「ホテル」等々。もう観ない作品はないですね。(笑)初期のころの「清水次郎長」はどなたが主役ですか。

 

泊 竹脇無我でした。フジテレビ土曜8時でした。向田邦子さんがシナリオを書いてくれて、大政が大木実、森の石松あおい輝彦、三五郎が近藤正臣、お蝶に梓英子で大成功の番組でした。

 

三吉 私10年ぐらい前に家内の親友のPTAお仲間が中村橋之助・三田寛子ご夫妻で、紹介を受けて家内と東映太秦に見学に行ったんです。その時に2階の待合部屋に行きました。

 

泊 俳優会館ですか

 

三吉 ええ、右太衛門さん、千恵蔵さんの専用の部屋があり、順番が決まっているんですね。

 

泊 よくご存じですね。撮影所の一画に三階建ての俳優会館がありまして、一階は演技課の事務所や衣装部屋とかズラをつけたりする結髪メイクの部屋があり、二階の右手に千恵蔵御大、一番左に右太衛門御大の部屋がありました。錦之助さんや橋蔵さんはどんなに人気が出てきても間の部屋でした。若山富三郎さんはまだ三階だったですね。右太衛門三が京都を離れた後には鶴田浩二三が入っていました。高倉健さんの部屋は真ん中にあって健さんが東映を離れた後もずっと空室のままにしていました。撮影所はこうした人情が連綿と続いているんです。

 

三吉 製作サイドには何とか組みたいなのがあって、個性的ですよね、斬られ役の方たちのポリシーがあるんですか。

 

泊 剣会ですね。最盛期には5本も6本も同時に撮影してましたから立ち回りの掛け持ちで、あの人たちが一番忙しかった。

 

三吉 かと思うと、川谷拓三さんのように、そういう部屋から上がってくるかたもいますしね。

 

泊 川谷さんはあの中から見出されて一枚タイトルの役者になりました。

 

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この対談は妙壽寺本堂落慶30周年記念インタビューとして同寺の広報誌「寺楽寿(てらす)」16号、17号に掲載されたものです。

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泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代
パート2:任侠路線から実録路線へ

三吉 東映さんには「網走番外地」の任侠路線から実録に行ってしまいますよね、深作欣二監督の「仁義なき戦い」とか。同じ任侠でも最初の頃の任侠と終わりの方ではちょっと違うと思いますが。

 

泊 その通りですね。お話のあった学生運動盛んなころ、学生たちはじめ、あれほど任侠映画を支持していた人たちが次第に離れて行ってしまうんです。東映もおっしゃるように実録路線に転換していきます。

岡田茂さんはよく10年周期説を唱えていましたね。時代劇全盛期は10年で終わった。任侠路線も10年で終わりを迎えました。「仁義なき戦い」の大成功で始まった実録路線は10年とはもちませんでした。

 

三吉 やはり時代背景でしょうか。

 

泊 おっしゃるように時代背景ですね。テレビの普及とともに時代劇はテレビにとって代わられました。東映のテレビ部でも「銭形平次」「遠山の金さん」「桃太郎侍」など毎週何本も時代劇を作っていたし、視聴率20%なんてのはザラで「銭形平次」なんかは40%もとっていましたから。

映画のドル箱だった「忠臣蔵」「水戸黄門」「次郎長三国志」も全部テレビのものになる。任侠路線の場合も次第にマンネリ化していき、さらに藤純子が「関東緋桜一家」を最後に結婚引退ということもあって、実録路線に舵を切るんですね。

路線転換と一口に言ってもこれまで支えて来た人を切ることですから大変なことで、任侠に切り変わると千恵蔵はテレビに向かい、右太衛門は東京に去りました。実録に切り変わると志が合わないと鶴田浩二や若山富三郎も去って行くんです。実録路線は実在の人物をモデルにしたりするもんだから社会問題も生じてそう長くは続きませんでした。映画は路線という線ではなかなか考えられなくなって、点で勝負の時代になりました。

 

三吉 なるほど。僕なんかの記憶ですと実録路線、任侠の終わり頃から出て来た菅原文太さんの「トラック野郎」が当たりましたね。

 

泊 すごいですね、東映映画に精通していらっしゃいますね。(笑)「トラック野郎」も大ヒットしたシリーズでした。たしか6年間で10作まで続きました。あれは愛川欣也さんがみつけて文太さんが押し通した企画と聞いています。岡田茂さんは「映画は不良性感度だ」といっていました。私は善良性感度のテレビを作りながらそれを見ていました。

 

三吉 資料を拝見すると、映画の企画にあたって「泣く、笑う、握る」がキーワードだというお話がとっても興味深かったです。

 

泊 東映映画の要諦は「泣く、笑う、握る」だと入社した時から徹底的に叩き込まれるんです。「泣く、笑う」は松竹や東宝でも同じだけど、東映は手に汗を握るの「握る」がはいる。東映の娯楽映画三原則、会社の個性ですね。ここで稼ぐんだぞ!というメッセージです。

 

三吉 東映さんは「握る」というところが非常に肝だということですね。

 

泊 はらはらどきどき、アクション、サスペンス。

 

三吉 その辺がとっても・・・

 

泊 ついでにお金も握ってこい、ということで。(笑)

 

三吉 そうですか。先ほどのお話に戻りますが、実は大原麗子さんのご実家には私も幾度かお盆とかに行っていましたが、もう古くからのお檀家です。そして亡くなられて大原家のお墓にお入りになる四十九日やその後の一周忌の時には石井ふく子さん、それから印象的なのは浅丘ルリ子さん、若村麻由美さん等もお見えになっておられて、随分いろいろな方がお参りにみえました。その中に高倉健さんがお墓参りお見えになられたようですね。

あの当時の10代から20代の浅丘ルリ子さん、大原麗子さんは本当に可憐ですね。今の女優さんとはちょっと違うんですね。これは泊さん、いかがですか。

 

泊 どうして違うのか私も分かりません。今の女優さんは皆同じようにみえますね。

 

三吉 ええ(笑)

 

泊 大原麗子さんは素敵でしたね。東映では不良少女のような役でスタートしましたが、テレビの時代になると「お嬢さんにしたいナンバーワン」といわれる女優になり、大河ドラマの主役も演じて大女優になりましたよね。パーティー会場で浅丘ルリ子さんと並んで「こんにちは」なんて声をかけられた時にはもう本当にウットリでしたね。

 

  パート3に続く...→

 

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泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代

【パート4】 時代劇の魅力

 

三吉 時代劇で一つお伺いしたいのは、時代考証問うのがございますね。

 

泊 時代考証は私は稲垣史生さん(日本の時代考証家)によく相談しました。吉宗はどうすれば城を抜け出せるか。それは不浄門からならできるでしょう、とか。家光で道中記を作りたいけど大丈夫か。あ、それならこの時期に京都に行ったことがあるから大丈夫です、とかですね。面白くするためにどこまで嘘をついていいか(笑)相談しました。それに京都は素晴らしい職人さんが居ましたから、衣裳、小道具、セットすべて安心していました。

 

三吉 やはり何を目指すかということが大切で、最後には良いところに辿り着く野だと思います。そこの中での時代考証とは、と思いますが。

 

泊 そうですね。それは市川右太衛門さんにいろいろなリアルになんとかしろと・・・

 

三吉 それは無理ですよね(笑)

 

泊 それでずっと受けてきている方ですからね。

 

三吉 私はチャンバラという言葉が好きなんです。例えば、私の母堂は市川右太衛門が好きですし、私は個人的には「忠臣蔵」が好きで、随分いろいろな「忠臣蔵」をみていますが、「忠臣蔵」のどれが好きかというと、片岡千恵蔵が大石で、大川橋蔵が

浅野内匠頭でという、東映時代劇の全盛の時の豪華絢爛。

 

泊 市川右太衛門の橘左近

 

三吉 要するに、吉良上野介の月形龍之介が、後に水戸黄門になるくせに吉良上野介というところがうんとよくて、あの本当に憎々しい感じ。

 

泊 史上最高の上野介でした。

 

三吉 そして大川橋蔵がいじめられる感じがとてもよくって、最後に切腹する時に近習が渡り廊下のところで最後に会うじゃないですか。涙、涙ですね。

 

泊 江戸時代から練りに練られた物語ですものね。

 

三吉 そうですよね。あれは日本人の心の中に忠と孝というのは「忠ならんと欲すれば孝ならず」じゃやないけども、忠と孝が大事で、あの近習の侍が礼服が烏帽子大紋のところ、長裃を着て大恥をかきそうになる意地悪をされて、ところが、もう一着ちゃんと用意されているんですね。あれは本当にいいなと・・・

 

泊 いやいや凄い。ご住職の知識に圧倒されます。

 

三吉 これまた泊さんの資料によりますと、時代考証のいわゆるリアルとフィクション、ノンフィクションというお話にもなってくるのかもしれませんが、「暴れん坊将軍」の企画に東映の上層部からクレームがついたとのことですね。「将軍が城を出て、市中で立ち回りをやるのは乱暴ではないか」と言われた時に、「いや、28年の治世の間に26回、つまり年に1回、将軍様がお忍びで出てもそれはあり得ることです」とご説得をされたと言うのが、すばらしいなと思いました。

 

泊 苦し紛れでしたが、ここを突破しないと成立しませんので。テレビ朝日の局長も粋な人で「ああ、そうかそうか、28年のうちに26回だけ出たんだな」って、笑ってハンコを押してくれて。そのお陰で27年、831回も続きました。初演は松平健24歳でした。

 

三吉 24歳ですか。でもよく発掘されましたね。勝新さんのところにおられたということですが。

 

泊 事情があって前の番組が打ち切りになったものですから急遽温存していた吉宗を用意したんですが、主役級の役者は出払って残ってない。その時、勝新太郎さんの弟子に松平健というのがいるというのを小耳にはさんで面接したのですが、皆が感じが暗くてよくないと言う。見ると松平健は黒シャツに黒のズボンの黒装束で緊張して立っている。そこで2回目の面接の時は事務所に白い服を着てくるように頼みましてね。(笑)松平健は白装束でにこやかに現れたんですね。笑顔の素敵な若者でした。新人主役決定の裏話です。

新人だからタイトルも「暴れん坊」にしましたが、松平健が貫禄がつき始めると題名を変えようという話がでましたね。変えなくて良かった。

 

三吉 でも格いいですよ。やっぱり海に白い馬で走ってくるというのは、最初からそうだったのですか・

 

泊 タイトルバックに白馬が登場するのは5年後で、はじめは茶色の鹿毛でした。新人で勝負でしたから脇を固めようと、北島三郎、横内正、天知茂といった方々に出ていただきました。北島さんがカギだと思ったから新宿コマの楽屋に訪ねたんですが、スケジュールは2年先までびっしりなんですよ。でも北島さんは「兄弟仁義」で京都に思い入れがあるもんでうすからやりくりして出てくださいました。

 

泊 これは後日談ですが、北島さんが皇太子(現在の天皇陛下)と美智子妃殿下の前で歌うことになって、ここからは北島さんの話ですが、宮内庁からは歌うだけで直接話しかけてはいけないと厳命されていたけど、北島さんは「殿下リクエストは」と声をかけちゃうんです。すると殿下は「あの、ぐっと!というのを」とおっしゃった。「ぐっと」というのは「暴れん坊将軍」で北島さんが歌う主題歌です。そして歌い終わったら美智子様が「番組をいつまでもお続けください」っておっしゃられたそうです。宮中では毎週土曜の8時にはテレビの前にお座りになって「暴れん坊将軍」を観ておられるだと、この話を聞いた時は北島さんと万歳しましたね。この番組は天皇家のご了承がなければ止められませんよと(笑)、テレビ朝日に新しい社長が就任するたびにこの話をしたものです。

この対談は妙壽寺本堂落慶30周年記念インタビューとして同寺の広報誌「寺楽寿(てらす)」16号、17号に掲載されたものです。

転載許可を頂きました。話の展開により一部見出しと構成を変更しておりますが全文掲載させていただきました。

なお対談相手は三吉廣明氏(妙壽寺住職)です。

 


泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代
【パート1】高倉健さんとの思い出

 

三吉 東映に入社されたのはいつ頃になりますか

 

泊 昭和30年に東映に芸術職で入社しました。芸術職というのはプロデューサー、監督、シナリオライターを目指すコースなんですが、私は助監督を希望して大泉の東京撮影所に配属になりました。

当時の東映は唸りをあげて前進していましたから、撮影現場は3日徹夜なんていうのは当たり前で、私はたちまち身体を壊して1年余りで本社計画本部に異動しました。配属は映倫審査係で残酷描写や性描写、映画の面白いところをカットしてもらう仕事でしたね。2年後脚本課に異動して、当時は東映とニュー東映と二つの配給系統を持っていましたから週に4本の脚本が必要で大忙しでした。でもこちらは何とかして面白いものを作ろうというところでしたね、

 

三吉 資料を拝見すると、特に印象深かったのは、高倉健さんの映画のデビュー作の時にご入社されて、最初に助監督を務められ、カチンコを叩いたとか・・・

 

泊 そうでした。初めて現場に出たのが「電光空手打ち」という映画で、これが高倉健のデビュー作でした。健さんの前でカチンコを叩いて私の映画人生は始まりました。健さんも私のカチンコで初めて芝居をして役者人生が始まった訳で、これだけが私の自慢です。

健さんはその後「網走番外地」で大ヒットし、「唐獅子牡丹」もフレークして大スターになって行くんですね。やがて東映を離れて大作に出演して見事な男を演じて行きます。

 

健さんへの思い入れが強いものですからちょっとお話させてもらいますが、私が東映に副社長で戻った頃、健さんと再会しました。その時に私は健さんの前でカチンコ叩いて映画人生が始まったのだから最後も健さんの前でカチンコを打ってそれで辞めようとずーっと思っていたんだ。そう言いました。「僕が出て、泊さんがファーストカットのカチンコ打って、その映画は当たるね。ゾクゾクしてきたよ」健さんはそう言ってくれたんです。その翌年に「ぽっぽや」が決まりました。健さんが20年ぶりに東映に戻って来たぞと、撮影所は沸き立ちました。

 

三吉 大ヒットでしたね

 

泊 その時私は東映アニメの社長を務めていたのですが 、健さんとの男の約束を果たしに本業をサボって健さん登場のファーストカットを打ちに北海道滝川の現場に向かいましたね。前の晩は羽田のホテルに泊まってカチンコの片手打ちの練習を何十回もやって。

 

三吉 そうですか(笑)

 

泊 1月15日(平成11年)厳寒の北海道ですが、熱い思い出ですね。健さんは「カチンコが鳴り響いたよ」と駆け寄ってきて「忘れません」と握手をしてくれたんですよ。健さんから宝物のような手紙をもらいました。「泊ちゃんのカチンコから気を貰って「ぽっぽや」は完成しました。役者は気を貰うことが本当に大切なんです。忘れません」と書いてありました。

任侠を演じて地歩を築いた健さんは任侠を貫いたと思います。作家の陳舜臣さんは中国では道徳の第一番は侠、正義はすぐ180度変わる、信頼すべきは侠である、と言っていますね。侠の字を辞書で引くと義理堅い風骨を持つ人、男気のある様とあります。健さんはご住職のおっしゃった任侠映画から文芸大作までこの姿勢を変えていない、ゆるがない人間力なんですね。