二重の「聖地」喪失に惜しむ声 博多スターレーン3月末閉鎖 ボウリング愛好家「どこでプレーすれば」 プロレスファン「数々のドラマが誕生」

3月末での閉鎖が決まった博多スターレーン=1月21日、福岡市博多区
3月末での閉鎖が決まった博多スターレーン=1月21日、福岡市博多区
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ボウリング愛好家やプロボウラーから長年親しまれている博多スターレーン=1月23日、福岡市博多区
ボウリング愛好家やプロボウラーから長年親しまれている博多スターレーン=1月23日、福岡市博多区
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博多スターレーンで開かれるプロレス興行には多くのファンが詰め掛ける=2018年12月
博多スターレーンで開かれるプロレス興行には多くのファンが詰め掛ける=2018年12月
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創業者の中野徳次郎が最初に開いた「福岡スターレーン」の表札
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 老朽化で3月末での閉鎖が決まった福岡市博多区の博多駅近くにある「博多スターレーン」。数々の熱戦が繰り広げられた西日本最大規模のボウリング場であり、併設のホールはプロレスファンに「西の聖地」として親しまれてきた。足しげく通うボウリング愛好家、プロレスファンの双方に閉鎖を惜しむ声が広がっている。

 「手足をもがれたくらいショックで…」。福岡市の鍼灸(しんきゅう)マッサージ師、岩下由美子さん(54)は肩を落とす。視覚障害がある岩下さん。視覚障害者向けのボウリングイベントに参加したのを機に、14年前から週に3~4回の頻度で通う。「スタッフも障害者への対応に慣れていてすごくプレーしやすい。閉鎖後、他にいいボウリング場が見つかるかどうか」と気をもむ。

 博多スターレーンが開業したのは1972年11月。麻生太吉、伊藤伝右衛門と並ぶ筑豊の炭鉱王だった中野徳次郎が開いた。

 事業を引き継ぐイースタンスポーツ(東京)によると、中野は52年に火災で焼けた福岡市の別邸跡地に、当時米国ではやっていたボウリング場を建設。「福岡スターレーン」の名で親しまれた。もっと大きな施設を、と「博多スターレーン」を造ったという。

 84レーンを有し、開業時から西日本最大級の規模を誇った。九州最大のプロ・アマオープントーナメントや視覚障害者向けの国際大会など、数多くの大会の舞台となった。「フロアがギャラリーでいっぱいになる大会も少なくなかった」とイースタンスポーツの花田清輝支店長(62)は話す。

 趣味や娯楽の多様化もあり、ボウリング場に往時のにぎわいはなくなった。だが、今でもシニアを中心に常連客は多い。同市南区の倉光義治さん(73)は、定年を機に若いころ親しんだボウリングを再開。12年前に博多スターレーンで週に1回対戦するリーグまで立ち上げた。「レーンが良質なウッド(木材)で非常に投げやすい。こんなボウリング場は貴重で、地元の愛好家にとっては“聖地”みたいなもの。閉鎖は残念で仕方がない」

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 博多スターレーンの2階ホールは、プロレスファンの間では、東京の後楽園ホールと並び立つ「西の聖地」と呼ばれ、月数回のペースで興行がある。閉鎖が明らかになった後、ツイッターには「悲しくてしょうがない」「残念」などとファンの投稿が相次いだ。

 なぜこの場所が「聖地」となったのか。2カ月に1回試合を開く有力プロレス団体は「程よい広さで、観客との距離感や音の反響がちょうどいい。立地の良さも魅力」と話す。

 「ドラマが生まれやすいのも大きい」と語るのは、スターレーン近くのプロレスショップ「赤の魂」オーナーの辛島拓也さん(44)だ。交流が乏しかったプロレスリング・ノアと全日本プロレスの両団体が参加する興行や、ノアの社長兼レスラーだった三沢光晴さんが試合中に急死した翌日、残された選手が涙をこらえて敢行した試合など、多くの逸話が誕生したという。

 辛島さんも「聖地」に魅せられた一人。25年ほど前から試合に通い詰め、会場を出る選手の追っかけを重ねて一緒に食事に行くほど親しくなった。選手たちの後押しもあり、2012年に店を開いた。今では、試合前後に選手や関係者が店を訪れるようになった。

 最終日となる3月31日には、3団体による興行が急きょ決まった。「最後は派手に盛り上がるでしょう」。期待と悲しみが入り交じった表情で辛島さんはチケットを販売する。

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 福岡都心部で進む再開発の波。街の機能が新しくなる一方で、かつて親しまれた場所は少しずつ姿を消していく。博多スターレーンと同じような施設を再び造るのは難しいだろうが、娯楽が集まるこうした場に、熱烈な需要があるのは間違いない。

=2019/02/01付 西日本新聞夕刊=

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