僕が響になったから 作:灯火011
<< 前の話 次の話 >>
アルバイトが無事終了し、帰路についたころには午後8時を回っていた。重油の効果なのかは不明だけれど、今の時間でも体がすごく軽い。今日は疲れ知らずで一日を終えることができそうだ。
なお、今日の賄いはカレーライスだった。本来だったら売り切れるところなんだけれど、あまりにも私が食べたそうな顔をしていたので、マスターが―気を利かせて一食分を残しておいてくれたとのことだ。ありがたかった。
味はほどよい辛さで、野菜などの具材はカレーに溶けるほど煮込んでいて、甘くて辛くて旨いという最高のカレーだった。思わずおかわりお願いしますとマスターに迫るほどだった。
さて、それはそうとして、今日は素晴らしい事におなかがすいていない。これも重油の効果だろうか?うーん、まぁ、一日100円ぐらいの出費で空腹感とかが軽くなるのなら、いっそのこと20リットルの携行缶で燃料をためておいてやろうか。ただ、いろいろ調べたけれどベランダはまずそうだ。絶対火事になる。涼しくて火の気がない場所に置くべきとかいてあったから、玄関脇の棚の下あたりにでもしまっておこう。
あとは燃料の種類だ。重油は流石に一般的じゃない。かといって、ガソリンは船の燃料としてはどうなんだろうか?と思う。ま、何事も試してみることとする。明日はとりあえず灯油をもらってこよう。
あと燃料で驚いたのは、燃料を補給してからこの響ボディの体臭が変わったらしい。マスターやお客様曰く、
「響ちゃん、香水変えたの?」
「判ります?」
「ええ、柑橘系の落ち着く良い香りだと思うわ」
「ありがとうございます」
こんな感じのやり取りがあるぐらいには柑橘系らしい。まぁ、燃料を飲んだだけで香水なんてつけてません、とは言えないので香水ということにしておくこととする。ただそう考えると、重油以外の燃料を口にした時には一体どんな体臭になるのかが不安だ。果物系ならいいけど、変なアロマのような香りになったらたまったもんじゃない。
「響ちゃん、こんばんは」
そんなことを考えて歩いていると、声を掛けられた。この声は、すみれさんだ。
「こんばんは。奇遇ですね」
「そうね。響ちゃんは学校の帰りか何か?」
「いいえ、アルバイトの帰りです。すみれさんは?」
「あ、そうなんだ!私は仕事の帰りよ。それにしてもアルバイトやってるんだ?」
「はい、喫茶店〇〇というところで。すみれさんもよろしければいらしてください」
「〇〇って聞いたことあるなぁ。すごくコーヒーが美味しいって」
「ありがとうございます」
他愛もない世間話だ。ただ、すみれさんがぴちっとしたスーツ姿なので、少しだけ緊張する。
「あれ、そうえば響ちゃん、香水変えた?」
「あ、はい。どうでしょう?」
「そうねー。前のムスクの香りも良かったけれど、こっちの柑橘系のほうが響ちゃんらしくてかわいいわ」
「あはは、ありがとうございます」
すみれさんからもお墨付きを頂いた。ということは、僕の響ボディは重油を飲むと柑橘系の良い香がするということで確定でいいだろう。
「あ、そういえばこのあと家に来る?ほら、前に言ってた猫ちゃん家にいるし」
「よろしいんですか?」
「もちろんよ。家もここから近いし、どうする?」
「それじゃあお邪魔します」
トントン拍子で話が進んだ。気づけばすみれさんの家にお邪魔する流れだ。そして、すみれさんに付いて5分ほど歩くと、ありふれたマンションへとたどり着いた。どうやらここがすみれさんの家らしい。
「502号室ね。ちょっと汚いけど」
そういって僕をまねきいれたすみれさん。だけど、部屋を覗いてみれば整理整頓がきっちりされた、出来る女性の部屋といった感じだった。間取りは8畳の1LDK、風呂トイレ別といったところだ。そこに中身が詰まった本棚が3つほど並べられ、中央にテーブル、窓際にベッドがある。そして、猫はといえばそのベッドの上でくつろいでいた。
「猫ちゃーん。響ちゃんつれてきたよー」
すみれさんはそう言いながら猫をひょいと持ち上げ、笑顔で僕へと差し出してきた。おそるおそる手を指し伸ばして猫を持つと、「にゃー」と一鳴きされる。あ、でも可愛い。ということで左手で抱きかかえつつ、右手で頭をなでてやる。毛はふっさふさでよく手入れされていて撫でてて気持ちい。思わず笑みを浮かべてしまう。
「あ、響ちゃんそのままー」
そういうすみれさんを見てみれば、スマホを構えていた。そして、間髪入れずにシャッター音が響く。
「どうかな、可愛くとれたと思うけど」
すみれさんのスマホに写っていたのは、猫を抱きかかえて優しい笑みを浮かべる響ボディだ。うん、かわいい。
「うん。すごくかわいいです」
「あはは、よかったよかった!あ、それで響ちゃん、一つお願いがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「猫ちゃんの名前を決めてくれないかな?」
「名前ですか?」
「うん。響ちゃんになついていた猫だし、響ちゃんに決めてほしいなーって」
ふむ、名前を付ける。嫌じゃないけど、急に言われてもなかなか難しい。昔ながらの名前でいくとタマとか、三毛猫だからミケとかなのだけど、それじゃああまりにも詰まらない。
ということで、もし響が猫に名付けるとしたらどういう名前にしそうかと考える。一部ではフリーダム響だとか言われる響だから、もしかすると自分の名前のヴェールヌイからとってヴェルとか名付けそうでもあるし、真面目に考えるのならばロシアの猫の名前で多いエーシュカとかムーシャとかだろうか。そういえばこの猫の性別は…なるほど雄だ。
うーん、どうしようか。まあ…こういう名前はフィーリングが大切だというし…
「ヴェルなんてどうでしょう?名前の響きだけなんですけれど」
響のロシア名を猫につけることにした。
「ヴェル…いいんじゃないかしら!」
「にゃー」
なぜか猫からも返事があった。すみれさんもOKということだし、この猫はこれからヴェルということで決定だ。ということで、今日は時間の許す限りヴェルを撫で繰り回すこととする。
「うりうり」
「にゃー!」
「あはは。響ちゃんにされるがままねー。ヴェル!」
それにしてもヴェルは大人しい。これだけ撫でてもお腹を見せてされるがままだし、噛んでも来ない。むしろもっと撫でてくれーと言わんばかりだ。もちろん撫で続けるけどね。と、ずっと撫でていたら気づけば夜9時30分を回っていた。いけない。そろそろ帰らないと条例に引っかかる。
「すみれさん、そろそろ帰りますね」
「あれ、もう帰るの?」
「ええ、ほら。条例で10時以降の未成年の外出は控えることってあるじゃないですか。職務質問を受けるのもめんどくさいので、そろそろ」
「あー!忘れてた。そうだね、それじゃあまたね!響ちゃん。いつでも待ってるからね!」
「はい!こちらこそありがとうございました。また来ますね」
僕はそういうと、名残惜しいけれどすみれさんの家を後にした。いやー、いきなりの出会いだったけれど、猫はかわいかったし、女性の部屋というものを堪能できたので良しとする。…それにしてもあの部屋を見ると、僕の部屋も模様替えが必要だなと思う。だって、今は散らかりっぱなしの男の一人暮らしの部屋という感じだ。
せっかく女性になったのだから、そこらへんの私生活を女らしく生きてみたくもある。きっちり整理整頓された部屋に、ファンシーな家具があったりとか、もこもこだったりとか。そしてなにより、そんな場所でくつろぐ響ボディをセルフで写真に収めてみたい。絶対可愛い。うん。絶対に可愛いと思う。
そうとなれば善は急げだ。今日の夜、帰ったら少し品物を整理しよう。明らかに女性となって使わないものは捨てて、逆に使いそうなものはきっちりと整理して綺麗な部屋を目指すとしよう。