(……あ、れ?)
予想していた痛みがやってこない。
目を閉じて妹の身体を抱きしめていたエンリ・エモットが、不審に思って薄く目を開けると、一陣の突風が吹き抜ける。小さな悲鳴を上げて再び目を閉じたエンリは、全身に生暖かい液体が降り注いでくるのを感じて後ろを振り返った。
そこには首の無い兵士が剣を振り上げたまま固まっていた。胴体から噴水のように噴き上がった血が容赦なくエンリの身体に降り注ぎ、髪も服も赤く染められていく。
「いやああああ!!」
「うわああああ!?」
エンリの悲鳴と聞き慣れない少女の悲鳴が重なった。
「……え?」
困惑するエンリの前に、いつの間にか一人の女性が立っていた。この辺りでは見かけない黒髪に紫の瞳。意志の強そうな整った顔立ち。世にも美しい少女がそこにはいた。
「あ……あなたが、助けてくれた、の?」
「そ、そう、みたいだ」
青ざめた顔の少女が引き攣った笑顔を浮かべる。死体を視界に入れないように顔を背け、横目でエンリの顔を覗き見ていた。歳はエンリと同じか僅かに上くらいに見えたが、スタイルが良く、髪も肌も信じられない程綺麗で、同性のエンリですら見惚れてしまうくらいの美人だった。
身体の線がよくわかるドレスを着ているが、不思議と下品に見えないのは、それが途轍もなく高級なものだと分かるからだろう。
(こんな人っているんだ……)
同じ女としても、自分とのあまりの差に嫉妬すらわいてこない。むしろこんな綺麗な人と結婚できる男の人が羨ましく思えてしまう。全身が血まみれなことすら忘れて、エンリは暫くの間、目の前の少女と見つめ合った。
どれほどの間そうしていただろうか、頭を失った兵士の体がドシャリと音を立てて地面に倒れると、エンリの背中に先程兵士に斬りつけられた痛みが戻ってくる。心配そうな妹の前で必死に表情を取り繕うが、焼け付くような痛みは耐えがたく、呻き声が漏れるのを止められない。
「うううっ……」
「あ……怪我してたんだな。これを使うといい」
そう言って黒髪の少女が差し出してきたのは、それだけでも売り物になりそうなほど美しい小瓶。中に入っているのは毒々しいほど赤い液体だった。状況的に回復のポーションなのだと想像はつくが真っ赤なポーションなどエンリは見たことも聞いたこともない。
「え……あの、これは?」
「はやく飲んで」
さすがにエンリは躊躇するが、この美しい少女はたった今自分と妹のネムを助けてくれたのだ。そのネムも彼女に見惚れているのか何も言わない。きっと悪いことは起きないだろうと、エンリは意を決して蓋を外し、瓶に口をつけた。
受け取ったポーションを飲み干すと、焼けつくような背中の痛みが水に溶けるように消えていく。見た目は返り血で酷いことになっているが、立つことも走ることも問題はなさそうだった。
「嘘……すごい……」
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
「うん、もう大丈夫。この人が助けてくれたから」
腕の中で心配そうにしているネムをあやしながらエンリは立ち上がった。
「助けてくれてありがとうございます!私はエンリ・エモット、こっちは妹のネムです。良かったらあなたの名前も教えてくれませんか?」
◆
モモンガが勢いで助けた血まみれの少女はエンリ・エモットと名乗った。助けられたのはいいが言い訳できない人殺しになってしまったことに、モモンガは強いショックを受けていた。あの兵士がこんなに弱いと知っていれば、もっと弱い魔法を使っていただろう。
咄嗟の事で夢中だったので、とにかく強い魔法をと考えて選んだ<現断>だったが、魔法強化技術も使っていない一撃で死ぬとは思わなかったのだ。
しかしやってしまった事はどうにもならない。それに放っておけばこの姉妹が殺されていたのだ。やりすぎかもしれないが、間違ってはいないはずだった。下手に蘇生などできないし、このまま放っておくしかないだろう。とにかく今は一刻も早くここを立ち去るべきだ。
「な、名乗る程の者じゃない。それじゃ」
背を向けて飛び立とうとするモモンガをエンリの悲痛な声が呼び止めた。
「あの!助けてもらった上にこんなこと頼める立場じゃないってわかってます。それでもどうか!どうかお願いします!両親を、村を助けてほしいんです!私にできることなら何でもしますから!」
「……えー……」
目に涙を浮かべながら懇願してくるエンリを見て、モモンガは途方に暮れた。元々こんなことをする気はなかったのだ。悲鳴を聞いたら頭が真っ白になって飛び出してしまい、結果として二人が助かったというのが正しい。村を襲っている兵士達を排除して村人を救出するとなれば、一体どれだけの人間を殺さなければならないのか。
「お願い……します……どうか……」
「おねがいします!」
モモンガが断りかねている間にネムとかいう幼い少女まで追加される。これで見捨てて飛び去るというのはあまりにも寝覚めが悪い。結局、一度関わってしまった以上最後まで面倒を見なければいけないということなのかと、モモンガは大きく息を吐いて向き直った。
(というかこの子恐いよ……全身血まみれで必死の形相だし……俺のせいなんだけどさ!)
このクエストを引き受けるとして、どうすればいいかと考えたモモンガは、別に殺す必要はないことに気づいた。あれほど弱い相手なら、状態異常魔法で無力化することも可能なはずだ。捕えた後で村人に殺されるかもしれないが、それはモモンガの知った事ではない。
(万が一のためにアンデッドを作るか?いや、この作戦なら俺一人の方がいいな)
「わかった。何とかやってみよう」
「ほ、本当ですか!ありがとうございます!ありがとうございます!」
モモンガは大喜びで頭を下げ続ける二人を落ち着かせ、その場にいるように言いつけていくつか
の防御魔法をかけていく。選んだ魔法は3つ。
生物の接近を阻む魔法、
射撃攻撃を弾く魔法、
魔法攻撃を防ぐ魔法、
こういった魔法を見たのは初めてなのか、エンリとネムの姉妹は目を丸くして見入っている。ここまで素直に感動してくれるのは、モモンガとしてもなかなか気分が良いものだった。
「その光の中にいれば安全だ。それじゃ」
「あの、どうかお名前を!お名前を教えてください!」
ここまで来たら、さすがに答えないのも可哀想に思えてくる。
「俺……いや、私は」
モモンガ、と言いかけて言葉に詰まった。それはアインズ・ウール・ゴウンのギルドマスターにして最高位のアンデッドとしての名だ。
それは栄光あるギルドの終わりを見届けられなかった自分に、ただ一人のアーケインルーラーの少女としてこの世界に転生した自分に、相応しい名ではない。ヘロヘロとの待ち合わせをすっぽかしてしまった事も、鈴木悟の心に棘として刺さっていた。
「さと……サトリ。私の事はサトリと呼んでほしい」
なんのことはない、本名の悟を少し変えただけだ。だがこの世界で生きていく限り、この名前こそが自分を表す記号なのだ。いつか帰る事が出来たら、その時はモモンガの名でヘロヘロに謝ればいい。
エンリとネムが深く頭を下げるのを見てから、サトリは
◆
「この野郎!汚い血がついただろうが!」
ベリュースはとっくに動かなくなった中年の男の体を、繰り返し蹴飛ばしていた。久しぶりに若い娘を楽しむチャンスを台無しにされたのだ。無駄に抵抗された苛立ちもあり、剣で滅多刺しにしたが、いまだに気が収まらないでいた。報告を上げるべき上司がいなくなったせいで、村中を探し回る羽目になった部下のロンデスが、ようやくみつけたベリュースに感情を押し殺した声で呼びかける。
「ベリュース隊長。この村の掌握は完了しました。撤収の準備を」
「まだ逃げた娘がいる。捕まえて連れてこい」
「は……」
「安心しろ。俺の後でお前たちにも使わせてやる」
またか、とロンデスは思ったが口には出さない。こんな人間でも上司は上司だし、本国ではそれなりの家柄だからだ。しかし、この男のせいで作戦に支障がでるようなことだけは避けなければならなかった。
「予定時刻も迫っておりますので、自分は遠慮しておきます。では、これで」
「ふん。さっさと行け」
ベリュースは手を振ってロンデスを追い払う。寛大な上司が部下を労ってやろうというのに優等生ヅラをする可愛くない部下であるが、役には立つ。べリュースとてその程度の人を見る目はあった。
(精々働かせてやる。どのみち成果はすべて俺のものだ)
喉の渇きを感じたべリュースは、何かないかと近くの民家の中に立ち入ったところで急に意識に靄がかった。目から意志の光が消え、口を半開きにして棒立ちになる。呆然自失のべリュースの前に、いつの間にか黒いドレスを纏った少女が立っていた。
「……隊長って言うからにはこいつが一番強いのか?その割には抵抗らしい抵抗もなかったな」
安堵とも落胆ともつかない言葉を漏らすその少女は、ベリュースが今までに抱いたどんな女より美しい肌と髪をしていた。桜色の唇から紡がれる言葉は、ベリュースの耳には天上の琴の音色のように心地良く響く。
「お前の仲間を一人残らず村の広場に集めろ。今すぐに」
◆
村の広場には襲撃側の兵士たちが整列していた。生き残っていた村人はすべて村の共同倉庫の中に押し込まれている。ロンデスはあの好色で下劣な上司が「お楽しみ」を諦めて撤収を急がせた理由が気になったが、任務が時間通りに遂行されることに文句はないので、あえて問うこともしなかった。
「べリュース隊長。1名を除いて全員集結しました」
ロンデスが同僚に話を聞いた限りでは、その1名は逃げた村娘を追って行ったらしい。状況的に近くにあるトブの大森林に迷い込んだ可能性がある。捜索に向かうべきなのだが上司の許可が出ないのでそれも出来なかった。
「隊長……?」
整列せよ、と指示を出したきり、ベリュースは口を噤んだままだ。さすがに隊員たちも隊長の様子がおかしいことに気づいて動揺しはじめる。ロンデスの言を借りればべリュースの行動は常におかしいので、気づくのが遅れてしまったのだ。
静かに動揺が広がる広場で、ベリュースのすぐ隣の何もない空間に、前触れもなく黒いドレスを身につけた少女が現れた。それは他の誰でもない、<完全不可知化>を解除したサトリである。一斉に剣に手をかけるロンデス達を前に、サトリは目を閉じてわずかに顔を背けると、芝居っ気たっぷりに指を鳴らした。
「
パチンと言う音と共にサトリが行使した魔法で、居並ぶ兵士全員の意識は深い靄に覆われる。命じられるまま一斉に地面に膝をついた。
「ふふふ。呆気ない。隊長が隊長なら部下も部下ね」
余裕たっぷりに侮蔑の言葉を投げかけながら、養豚場の豚でも見るような目で兵士達を見下ろすサトリだが、その内心はギリギリだった。なにしろ人殺しが仕事の集団相手に、荒事の経験など皆無の人間が挑むのだから。
魔法で制圧しているとはいえ、何かの拍子に格闘戦になったらと思うと、恐ろしくて足が竦んでしまいそうになる。初めて人殺しをしてしまった衝撃からも、まだ立ち直れていない。苦悩した末に鈴木悟が思いついたのは、ユグドラシルの時と同じようにロールプレイをすることだった。
『魔法詠唱者サトリの中には闇の人格がいて、いつかサトリの身体を完全に乗っ取ろうと画策している。彼女は奔放で残虐で好色で(中略)絶大な魔力を自在に操る恐るべき魔人なのだ』
ちなみにベースはペロロンチーノの作ったNPCシャルティアを参考にしていた。女性NPCで真っ先に思いついたのがシャルティアだったのと、彼女くらい突き抜けていたほうがやりやすいと思ったからだ。
「全ての装備を脱いでここに並べなさい。終わったら列に戻って……そうね、豚におなりなさい」
傍若無人でサディスティックな絶対者を演じているサトリだが、冷や汗や細かな震えは隠せない。声に出さないようにするのがやっとだった。冷静になって考えれば、支配の魔法を受けてまともな思考力を無くした者達がそんなことに気づくはずもないのだが。
居並ぶ兵士達は命令通りに身につけた全ての装備を外していく。数十人の男たちが躊躇なく下着を脱ぎ捨てたところで、サトリのロールプレイが剥がれた、もとい、闇のサトリの人格を振り払った。
「し、下着は脱がなくていい。というか脱ぐなよ。馬鹿かお前ら」
魔法が付与された下着という可能性もなくはないが、そちらの嗜好がない鈴木悟としては同性のモノなど見たくない。ましてや数十人のそれが臨戦態勢になっている光景なんて軽くトラウマものだ。
(なんでこんな状態になってんの!?俺のせい!?<集団人間種支配>の効果中なのに……むしろ魔法で理性が飛んでるから!?)
兵士の醜態を見ている内に、サトリはゾクリとしたものが背筋を走るのを感じた。今の自分の姿を見た屈強な男達が、本能を剥き出しに間抜けな痴態を晒している。もちろん魔法という前提があってこそだが、その光景はサトリの己の容姿への自信を高めただけでなく、説明しがたい衝動の火を胸の内に灯してしまった。
目の間では下着一枚の兵士達が四つん這いになってフゴフゴと鼻を鳴らしている。そうさせたのは自分だ。サトリの口元に亀裂のような笑みが浮かんできた。この連中を思う存分玩具にしてさらなる醜態を晒させたら、どれだけの愉悦を感じられるだろうか、と。
(……って何考えてるんだ俺は!?まだ闇のサトリとの切り替えが上手くいってないな)
サトリは軽く頭を振って燃え上がる感情を押さえつけた。さすがに今そんなことをしている暇はない。説明のつかない名残惜しさを感じながら、兵士の一人に命じて村人を解放させる。
ぎゅうぎゅうに押し込められていた倉庫から解放され、広場へ飛び出してきた村人達が目にしたのは、黒いドレスを着た少女の前に下着姿でひれ伏す男達、という異様な光景だった。