サンケイスポーツ紙 連載より40歳で引退決意…まだタイトルを獲れていたかも 井上茂徳氏『私の失敗』<5>
あの時やめたのは失敗だったかな…。そんな思いが頭をかすめました。
現役引退は1999年3月。その月末に行われる「日本選手権(ダービー)を最後にしよう」と決め、事前に公表しました。静かに去っていく有名な選手もいましたが、私は自分の走る最後の姿をファンの目に焼き付けてからやめたかった。
命懸けで走るのはもう無理だった
トップで戦うようになってからは目標を高く設定し、タイトル争いができなくなったら引退とは思っていたんです。98年1月に立川競輪場で落車して右鎖骨を骨折し、その後は本来の走りができなくなった。レースでの違反点がかさみ、99年4月からS級二班にランクが下がることになり、決意を固めました。
死にものぐるいでやれば、もうしばらくは走れたでしょう。しかし、当時40歳だった私は「命を懸けて走るのはもう無理」だった。「日々の練習から解放されたい」との思いも募っていた。
日本選手権では全力を尽くしましたが、4回走って(7)(3)(6)(7)着でした。ラストランの後、みんなが拍手で出迎えてくれた瞬間、熱いものがこみ上げてきました。弟分だった佐々木昭彦(43期=引退)は号泣するし、周りの男たちも声を上げて泣いている。21年間の現役生活で一度も泣いたことはありませんが、このときだけは右手で目頭を押さえました。
引退翌日の決勝戦で優勝したのは、今も現役の神山雄一郎。私、滝澤正光に次ぐグランドスラム(全GI制覇)の達成です。私がバンクを去るのと同時期に史上3人目のグランドスラマーが誕生したのは感慨深いですね。3年後の2002年には、松本整が43歳でGI寛仁親王牌を獲得。神山は47歳の今年、GII共同通信社杯を優勝。神山は年末のグランプリ優勝がないので、ぜひ獲ってほしい。私もあのとき引退を思い止まっていれば、まだタイトルを獲れたかもしれない。もちろん、後悔はありません。
ラインこそ競輪の醍醐味
競輪も時代とともに変わりました。今はレースにおける主役は先行選手で、追い込み型は昔のようには動けなくなりました。追い込みの仕事(牽制や競り込みなど)をしようにも、ペナルティーがあったりするから難しい。自力や自在で戦った方がメリットがあるから、自力型や単独で戦う自在型が増え、レースもライン戦ではなく細切れ戦ばかりになる。
その結果、追い込みの質や技術が落ち、ラインも崩れやすくなる。これではお客さんはレースを読めません。競輪は“ラインありき”なのだから、マーク屋がどこに行くかが分からないようなレースより、ラインがあった方が車券推理もしやすくなります。
また、自転車競技は風圧との戦いでもあります。空気抵抗を避けようと人の後ろを回る者がいてラインができ上がり、弱者が強者を倒すこともあります。ラインを形成することによって信頼関係が生じ、人間の絆がラインを強くも弱くもする。そこに競輪の醍醐味(だいごみ)があります。
かつて、後楽園競輪場(1942年~72年)には8万人ものお客さんが入りました。競輪の発展を祈り、シンプルなライン戦の復活を切に願っています。【終】
井上 茂徳(いのうえ・しげのり)
1958(昭和33)年3月20日生まれ、57歳。佐賀県出身。78年に日本競輪学校41期生としてデビュー。81年の立川オールスター制覇を皮切りに、特別競輪(現GI)優勝は通算9回。グランプリ優勝は3回。88年に高松宮杯を制し、競輪界初のグランドスラム(特別競輪全冠)を達成した。99年3月に現役を引退。通算成績は1626戦653勝、優勝154回。生涯獲得賞金は15億6643万4532円。現在は競輪解説者として活躍している。
(SANSPO.COMより)