サンケイスポーツ紙 連載より訓練中にドンチャン騒ぎ…新人の年に半年間の出場停止処分 井上茂徳氏『私の失敗』<1>

 中野浩一氏とのタッグで九州王国を築き、1988年には競輪界初のグランドスラマーに輝いた井上茂徳氏(57)=競輪評論家。風を切って走る先行選手の後ろから差しで勝負をかける“追い込み”を戦法とし、全盛時には『鬼脚(おにあし)』と称された。特別競輪(GI)優勝は9度、グランプリ優勝は史上最多の3度。特別競輪(日本選手権、高松宮杯、オールスター、全日本選抜、競輪祭)全制覇のグランドスラムを達成した男が、波瀾(はらん)万丈だった選手生活を振り返る。

福光俊介
井上 茂徳(いのうえ・しげのり)

1958(昭和33)年3月20日生まれ、57歳。佐賀県出身。78年に日本競輪学校41期生としてデビュー。81年の立川オールスター制覇を皮切りに、特別競輪(現GI)優勝は通算9回。グランプリ優勝は3回。88年に高松宮杯を制し、競輪界初のグランドスラム(特別競輪全冠)を達成した。99年3月に現役を引退。通算成績は1626戦653勝、優勝154回。生涯獲得賞金は15億6643万4532円。現在は競輪解説者として活躍している。

◇      ◇

同期との再会…気がついたら30人も

競輪学校に入学した頃の井上氏。夢と希望に満ちあふれていた(JKA提供)競輪学校に入学した頃の井上氏。夢と希望に満ちあふれていた(JKA提供)

 1978(昭和53)年5月のデビューから5場所ほど走ったあとの夏に、新人の教育訓練がありました。伊豆のサイクルスポーツセンターの敷地内にあるロッジに2泊3日。同期は110人くらいで、前の期で卒業が遅れた人もいて全部で120人ほどの所帯でした。

 競輪学校を卒業してから3カ月後、一緒に汗を流した仲間との再会ですから誰もがうれしかった。昼の訓練が終わると宿では思い出話に花が咲きます。飲酒は当然ながら許されていませんでしたが、最初から持ち込んでいた猛者も(笑)。私も酒は好きなので「少しだけなら…」と館内の自動販売機で缶ビールを調達し、部屋でこっそりと仲間4人と飲みながら楽しく過ごしていました。

 初日は2本か3本で就寝。それくらいにしておけばよかったのに、2日目はエスカレートしてしまい…。3本では足りなくなって販売機へと足を運んだら同期とばったり。ふたりでニンマリして「それなら一緒に飲もう」と。

 そうしているうちに連鎖反応が起きて4人から8人、8人から10人…とどんどん増えて、気がついたら私の部屋には30人も。それからはもうすさまじく、歌うわ踊るわのドンチャン騒ぎ。バラエティー番組でやっていた電線音頭が流行していて、誰かがやればみんなが手拍子で合わせて収拾がつかなくなりました。

 時刻は午前0時頃。指導員は一般の宿泊客が騒いでいると思ったようで、苦情を訴えようと恐る恐る部屋のドアをノックすれば…なんと犯人は身内! 見つけた指導員も、見つかった私たちも、その瞬間は開いた口がふさがらなかった。

制裁期間中の乗り込みが下地に

 それからは指導員に連れて行かれて取り調べです。ビール缶が山積になっているのに「1本しか飲んでいません」と嘘をつきました(笑)。翌日、強制的に帰され、東京の選手会本部からも呼び出されました。逃げて隠れていた者も何人かいましたが、あとから「自分もやった」と自首した者がほとんど。そんな中、知らぬ存ぜぬで通した者が1人だけいましたけど。

 選手会による制裁は半年間の出場停止。その年の7月から私たちは走れなくなりました。その間は収入がないですから厳しくて、車を買ったりしてローンを組んだ者はアルバイトをしていましたね。私は周りに助けてもらいました。食べさせてくれる人もいましたし。罰則の研修を受けたり、選手会の役員の講義を聴いたりして処分は5カ月に軽減されましたが、この期間中は真剣に練習しましたね。走れる者がうらやましかったし、自業自得とはいえ、走れないというのはすごく悔しかったですから。

 このときの乗り込みが下地となって後の成績に結びついたんだと思っています。また、この一件で同期間の連帯感も高まりました。結束力が強まって交流も深まりましたね。けがの功名…いや、酒の功名とでも言いましょうか(笑)。

SANSPO.COMより)

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