サンケイスポーツ紙 連載より世界の中野に勝ってしまった88年の高松宮杯決勝 井上茂徳氏『私の失敗』<2>
私の母校は、ラグビー日本代表の五郎丸歩選手と同じ佐賀工高です。でも、子供のころから自転車に乗るのが好きで将来は競輪選手になるつもりだったので、自転車部がある佐賀龍谷高まで練習しに行っていました。そのうちに顧問の先生のすすめもあって佐賀龍谷に転校しました。
←<1>訓練中にドンチャン騒ぎ…新人の年に半年間の出場停止処分
最初から「マーク屋になる」
自転車が好きだったので、競輪学校に入ってからも訓練を苦しく感じたことはありません。でも元来が怠け者なので(笑)、「卒業できればいいや…」という感じで学校生活を過ごしていましたね。内心は「プロになってからが勝負だ」と思っていたんです。
デビューは20歳のとき。新人は先輩にアテにされるので先行するしかないのですが、「競走は位置取りが全て」と思っていたので、最初から「マーク屋(追い込みを戦法とする選手)になる」と決めていました。競輪は風圧がひとつの敵、それをかわすために位置取りこそが一番大事だと思っていたのです。
普通は、先行型から自在型へ、他ラインへ飛びついたりするようになったりして、それから追い込み型へと時間をかけて変わっていくものですが、自分の場合はそれが早かった。
22歳で初めていわき平オールスターで特別競輪(現在のGI)の決勝に乗ったときはまだ自力で動いていましたが、翌1980(昭和55)年の立川オールスターで初めてタイトルを獲ったときには、もう追い込みでした。山口健治さんは21歳でダービー(日本選手権)を獲っていましたが、私は23歳で初タイトルなので想像していた以上に早く一流になれたと思いましたね。
渾身の追い込みでグランドスラム達成
その後は、実現可能な目標を立ててひとつずつ成し遂げていったら、自然とグランドスラムが近づいていました。29歳のときに残すは高松宮杯(現在の高松宮記念杯)だけとなり、強く意識するようになりました。寛仁親王牌がGIとして格付けされる前で、今のようにグレード戦がグランプリを頂点とした構造になる前に達成したい、と。
私がデビューしたときには、中野浩一さんはすでに78年の世界選手権個人スプリントで優勝するなど世界レベルで活躍していたので、雲の上の人。別格でした。「オレの力であの人を差せるのかな」と最初は思っていました。だからこそ、後ろに付けたときは勝つために全力で抜きにいきました。追い込みで戦っているからには、それが当たり前だと思っていました。
グランドスラムがかかった88年の高松宮杯の決勝は、富原忠夫さんが先行して中野さんが番手。私はその後ろで、中野さんを差して優勝を決めました。
結局、中野さんは引退するまで高松宮杯を獲れませんでした。もし88年の高松宮杯を中野さんが勝っていたら、グランドスラムを達成できたことになります。走っている最中はそんなことは思ってもいませんでしたが、あの人も狙っていたんだな…と後になって気づきました。
あのとき、自分が獲ったのは失敗だったのでしょうか(笑)。
井上 茂徳(いのうえ・しげのり)
1958(昭和33)年3月20日生まれ、57歳。佐賀県出身。78年に日本競輪学校41期生としてデビュー。81年の立川オールスター制覇を皮切りに、特別競輪(現GI)優勝は通算9回。グランプリ優勝は3回。88年に高松宮杯を制し、競輪界初のグランドスラム(特別競輪全冠)を達成した。99年3月に現役を引退。通算成績は1626戦653勝、優勝154回。生涯獲得賞金は15億6643万4532円。現在は競輪解説者として活躍している。
(SANSPO.COMより)