2005年09月09日

古琉球人物列伝(3)中山王武寧とその臣下



今回は中山の察度・武寧政権のもとで活躍した者たちを紹介します。

◆武寧(ぶねい)
中山王(在位1396-1406年)。察度の子。神号は中之真物(なかのまもの)。1404年(永楽2)、明より冊封使時中が派遣され、武寧は琉球で初めて冊封を受けた。世界帝国の明から王として公認された武寧の威光はさらに高まったと考えられる。しかしそれが仇となり彼を増長させたのであろうか。1406年(永楽4)、琉球国の使者が去勢された宦官数人を明に献上するという事件が起こった。朝貢に人間を献上するのは異例の事態である。永楽帝は「彼らも人の子である。罪無き人を無理やり去勢するとは忍びない」と受け取りを拒否して諭したという。おそらくこの使者は武寧の使者と考えられ、もしそうなら武寧の残虐ぶりがうかがえよう。そしてこの年、南山の大里按司を倒し勢いに乗る佐敷の思紹・尚巴志軍によって浦添グスクは陥落、察度より続いた中山政権は滅亡する。武寧のその後の消息は不明。おそらく思紹らによって処刑されたと思われる。



◆完寧斯結(かんねいしけつ) 
中山王武寧の世子。後継者として1405年(永楽3)に明へ使節を派遣しているが、思紹・巴志らによる武寧政権の打倒後は消息不明。父の武寧とともに殺されたか。

◆泰期(たいき) 
中山王察度の弟。武寧の叔父。1372年、察度の使者として初めて明へ渡る。『おもろさうし』には「唐商い」を流行らせた「宇座の泰期思い」として登場する。生没年は不明。察度・武寧政権下では初めての朝貢使者として、また王弟として一目おかれた存在であったと考えられる。

◆地保奴(ティポヌ) 
モンゴル元朝皇帝の末裔。17代天元帝(ウスハル・ハーン)の次男。明の洪武帝(朱元璋)に捕らえられ、1388年(洪武21)、資財を与えられ琉球に追放された。おそらく中山政権の保護下にあったと思われる。その後の消息不明。彼についてはこちらを参照。

その他、察度・武寧政権に仕えていた家臣たちの名前を紹介(読み方は推定)。

◆日孜毎(ひにみ)、闊八馬(こはま)
中山王察度の一族。1392(洪武25)、南京国子監に留学。

◆仁悦慈(えいじ)、段志毎(だんしみぃ)、麻奢理(まさり)、誠志魯(せいしろ)
寨官(按司)の子。南京国子監に留学しエリート教育を受ける。帰国後は按司として各地に君臨したと考えられる。

その他家臣:阿不耶(うふや)、甚模(ぎぼ)、嵬谷(ごえく)、寿礼(しゅり)、察都(さと)、亜撤都(あさと)、毎歩(みぶ)、鴉勒佳稽(あらかき)、友賛(よざ)、養埠(やぶ)
など。


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この記事へのコメント
こんにちは。小島@お出かけ前です。
東京塔近辺で行き先がばれてしまう今日この頃。

とりいそぎ、

◆地保奴(ティポヌ)

しびれます(^-^。

武寧さんはここをこっそり覗いているスギシ嬢が以前ラフ描いてましたね。こっそりひょうたん島な感じで完成させて下さいよ。ええ。

しかしティポヌはいい。逆為朝伝説というか。伝説でなく事実なところがまたしびれますね。『グスクの海』では思いつきで馬育成の志堅原さんと仲がいいことにしてみます。

●セリフ例
1:「皮肉なものだ。ここでこうして育てている馬達が」
「明の手先となり、我が祖国を踏み荒らす尖兵として用いられるとはな・・」
「だがそれがこの中山に益するのであれば」
「義を以って義を殺すのも・・・私に課せられた宿命なのだろう」

思いつきだとこんな感じですね。
場所は牧場で相手は志堅原さんです。
Posted by kojima at 2005年09月10日 13:32
ティポヌと琉球の馬、いい組み合わせですね。

彼は生まれた時から中国の宮廷生活にどっぷりつかっていたでしょうが、琉球の牧場を駆ける馬を見て、かつて騎馬軍団でユーラシア大陸を席巻したモンゴルの血がうずいたかもしれません。

しかしその馬たちが自らの同胞を駆逐するために送られているという現実…

彼を牧場で登場されるのはナイス配置だと思います。
Posted by とらひこ at 2005年09月10日 21:51
ナイスどうもです(^_^v

では別記事の投稿です。
Posted by kojima at 2005年09月11日 12:41
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