江戸時代後期(天保8年2月)に大阪で起きた、大塩平八郎(大阪町奉行与力)の乱は天下の耳目を集めたの有るが、評判の割には事実(事件の大きさ)は小さかった様です。天保と言えば「天保の飢饉」等が有ったのですが、この天保の飢饉時は、以前の天明の飢饉を教訓としての備えが有って、餓死者数は少なかった様です。(0では有りません)但し、餓死者の少ない事と、庶民の塗炭の苦しみはとは別で、江戸から派遣された小人奸者の役人共は、庶民の苦しみをよそに御政道正しからず、宴遊に興じていたと言う。天保8年正月(決起前)には疫病が流行って、大阪では死者が一万人以上有ったと言われる。
能吏としても名高く、知行一致の陽明学者で有った大塩平八郎は、在職中には堕落した僧侶や庶民を惑わす巫女の検挙、又は奸悪な官吏の糾弾等を行ったと言われる。これで人気の出ないはずは無いだろう。乱で家を焼かれた大阪庶民達は怒るどころか、陰では「大塩様」と尊称していたと言われる。
「天より下され候、村々の小者のものに到る迄へ」 上の文は大塩平八郎の「洗心洞中」から門弟に出した、決起の檄文の冒頭で有って「
四海困窮致し候は、天録ながく立たん」と有って、陽明学者の大塩平八郎の面目躍如したものが有るだろう。庶民の為に立ちあがった大塩平八郎の義挙は、日本の歴史史上では始めての出来事で有って、中国の教科書にも載る由縁でも有るのだろう。
結果は残念ながら準備不足や軍資金の不足、又内部者の裏切り者も出て、乱は一日で収束したので有る。大塩平八郎及び親子(養子の格之助)等の一味で逃げおせた者は、なお一ヶ月を逃げたので有る。隠れ家は大阪市中の「美吉屋五郎兵衛」方の隠居所で有ったと言う。追手探索方は秘かに親子を急襲したので有る。結果は火災の中で平八郎及び格之助は自裁したので有る。この時親子の死骸は焼けただれて顔が定かで無かったと言われる。
かくして、義経がジンギスカンになった如く、大塩平八郎が焼死したのでは面白くも無く、生存説が出たので有る。その第一は明治26年発刊の「史論第二号」に出された「奥並継オク、ナミツグ」の「大塩平八郎欧州に失踪する」と言うもので有る。
これに依れば、大塩平八郎は乱後に大阪から肥後国の長崎五陵村長岡氏宅に投じ、やがては薩摩国から中国福建省に逃げ、此処で数余年過ごした後に欧州に渡ったと言う。これが大塩平八郎の福建省生存説で有る。「奥並継」は明治時代の官の編集官でも有り、著作も残っている(国会図書館蔵)様ですから、一般人は当然ながら、この生存説を信じた様です。
注
大塩平八郎の捕り物一件については、江戸幕府の記録にも残っていて、火を付けて自ら火中で死んだと言うのが真実の様です。ただ当時はDNA鑑定が無く顔が判別出来ない事が、この様な生存説を生んだので有ろう。また西南戦争の大山格之助は平八郎の養子だった格之助と言う説もある様です。話としては面白いが全て虚構の産物なのです。コメントを頂きました方へのご返事と致します。

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