私はかねてから「東ティモール(東チモール)」という場所には、大いに興味があり、ぜひ1度訪れてみたいものだと思っていました。しかし、インドネシア政府は政治・治安上の理由から、永らく外国人の立ち入りを厳しく制限していたため、念願を果たせずにいたのです。なぜまた私がヒガチモに興味を持ったのかというと、恐らくこんな理由からでしょう。
1、大国に囲まれて追い詰められた小国や植民地というものに、キョーミしんしん
私はいま香港に住んでますが、そもそも香港にキョーミを持ったきっかけもこれで、「サイゴン陥落」などインドシナ半島などで次々と共産主義政権が誕生した70年代半ばに、「人民中国」に包囲された植民地・香港という場所に、アナーキーな雰囲気が漂う魅力を感じたからです。
同様にマカオにも惹かれるものがありましたし、高校生の時ヨーロッパへ行った際にはサンマリノ、モナコ、リヒテンシュタイン、バチカン市国などの「小国めぐり」をし、ジブラルタル海峡を越えて、モロッコに囲まれたスペインの飛び地「セウタ」へも行ってきました。
世界史の授業ではオスマントルコに包囲された末期のビサンチン帝国に異常な興味を覚えましたし、近現代史では上海の共同租界や、仏領インドのボンデンシェリー、ダンヒチ自由市、クメール・ルージュに追い詰められたロン・ノル政権下のカンボジアなどに興味があります。
東ティモールも、大国インドネシアに包囲され、併合されてしまった植民地というわけで、「箱庭国家(植民地)」オタクの私にとっては、当然興味津々の存在でした。2、前時代的な植民地帝国・ポルトガルの領土だったというのが、またタマラナイ
19世紀から20世紀前半にかけて、欧米列強や日本などが植民地獲得に乗りだし、帝国主義の覇権争いが続いたのですが、ポルトガルは16世紀の大航海時代から、世界各地に植民地を築いていました。
戦後、他国の植民地が次々と独立する中で、ポルトガルは独立を一切認めず、アフリカではモザンビークやアンゴラ、アジアでは葡領インド(ゴア、ディウ、ダマン)やマカオ、そして東ティモールなどの植民地を押さえていました。しかし、ポルトガルの植民地統治というのが、いかにも前時代的な惨憺たるもので、例えば現役植民地のマカオの場合、義務教育なる制度はいまだにナシ(ポルトガル本国ですら60年代まで約半分が文盲だったくらいだから仕方がない)、産業育成に力を入れずマカオ経済を支えているのはカジノとフーゾク産業という有様。空港建設などのインフラ整備が始まったのも、中国返還が差し迫ったようやく最近のことです。
そのくせ、カトリックの布教やポルトガル語の普及みたいな文化的な「植民地支配」には異様に情熱を注ぎ、ラーメン屋や線香屋にも看板をポルトガル語で書くことを法律で義務付けてみたり、ポルトガル資本の銀行では、広告にデカデカと帆船の絵を掲げて「バスコ・ダ・ガマの開拓精神を今に伝える××銀行です」などと、ワケのわからない宣伝を繰り広げていたりします。
ヒガチモの場合、ポルトガルが統治していた75年まで、文盲率(字の読めない人の割合)は実に95%に達していたという程ですから、マカオよりもっといいかげんな統治をされていたようです。それでいて、今ではインドネシアに反発しポルトガルに親しみを持つ人が多いということですから、インドネシアはよほどヒドく荒々しい統治をしていたのでしょう。この辺の事情にもキョーミがありました。また、日本にはかつてポルトガル人が「南蛮文化」をもたらしたのですが、当時からポルトガル植民地だったヒガチモには、日本に伝わったものと同様の「南蛮文化」が残っているのか。例えばヒガチモにも「天ぷら」はあるのか? とか、ヒガチモ人もタバコのことを「タバコ」と呼ぶのか? はたまた石けんのことを「シャボン」と呼ぶのか? などです。
ちなみにマカオには、人種的には香港人と同じく中国人であるフツーのマカオ人(マカオ・チャイニーズ)のほかに、ポルトガル人と中国人、そしてインド人や黒人、マレー人(マレー半島のマラッカは17世紀までポルトガル領だった)、さらに日本人(徳川幕府のキリシタン禁制でマカオに亡命した切支丹たち)などが混血した「マカニーズ」と呼ばれる人達が1万人くらいいますが、ヒガチモにも日本人キリシタンの血を引く者たちがいるのでしょうか? う~ん、これもゼヒ解明したい課題です。
…てなことが、私がヒガチモ行きを思い立った動機なのですが、じゃあなぜ6月に行ったかというと、
1、長年東チモールのゲリラを取材していた大学の後輩のカメラマンK君が、6月に再びゲリラの取材をするというので、これ幸いとくっついて行こうとした。
(しかしK君は「東ティモールはもはやマスコミが殺到しているのでつまらん」と称して、インドネシアに着くなり、風邪で寝込んだ私を置いてこれまた独立派ゲリラのいるアチェ州へ行ってしまった)2、独立投票の実施が決まり、独立派ゲリラが鎮静化して治安がよくなったと思った。
(実際にはインドネシア残留派の民兵が暴れ出して、むしろ悪化していたらしい)3、国連のスタッフが大挙して乗り込んだため、安全そうだと思った。
(そういやカンボジアへもPKOの時に合わせて旅行しました。でも、ヒガチモでは国連のおかげでトンでもない目に…)東ティモールの独立投票やゲリラについては、最近日本のマスコミにも大きく取り上げられていますが、そこに住む東ティモールの人達は、どんな家に住んでいて、どんな物を食べているのか、とりわけ東ティモールの女子高生はどんな制服を着ているのかなどについては、ほとんど報じられていません。そこで自分の目で確かめて来ようと思ったのです。