気になる国境線

 
 カリーニングラードの砂州  ブランコ岬  アフガニスタンの盲腸  アラスカの盲腸  トーゴの盲腸
 ナミビアの盲腸  サウジアラビアの国境線      

むかし「地下鉄漫才」というのが流行ったことがあります。「地下鉄の電車は一体どうやって地下へ入れたんでしょう?気になって、夜も眠れなくなっちゃう!」というネタで一世を風靡した夫婦の漫才師がいたのですが、地下鉄って、実際には地上を走っている区間があるので(東京で言えば、銀座線は渋谷、丸ノ内線は後楽園や茗荷谷あたり、その他の線は地上を走る「国電」や私鉄と相互乗り入れ)、どうやって地下に入れたもへったくれもないわけですが、「鉄分」のない一般国民たちがホイホイとひっかかって、このネタだけ繰り返してウケ続けていました。やがてこの漫才師はNHKの教養番組で地下鉄の車両を搬入する現場に立ち会わされて、もう地下鉄ネタができなくなったのか、「芦ノ湖の遊覧船は一体どうやって湖に入れたんでしょう?気になって、夜も眠れなくなっちゃう!」という新ネタを始めていました。いや、これは私もホントに疑問だったわけですが、ネタとしてあんまりウケなかったようですね・・・。

さて、何の話でしたっけ・・・?




カリーニングラードの砂州

東ヨーロッパにあるロシアの飛び地・カリーニングラードは、かつてドイツの飛び地・東プロイセン。詳しい歴史的経緯はこちらで書きましたが、この100年間でドイツ領→ドイツの飛び地→南北に分割されて北はソ連領(南はポーランド領)→ソ連解体でロシアの飛び地・・・と複雑に統治国が入れ替わった場所です。

で、その海岸はというと、北も南も延々と100km続く不気味な砂州に遮られていて、なんだか「ガミラス星」みたいなカタチをしています・・・(何のこっちゃ?)。砂州の上にもしっかりと国境があって、東プロイセン(カリーニングラード)の支配者の移り変わりとともに、ボーダーが出現したり消えたり移動したりを繰り返しています。歴史的に順を追って見てみましょう。

●1914年の地図(第一次世界大戦前)

東プロイセンはベルリンから陸続きのドイツ帝国の領土で、飛び地でもなんでもありませんでした。ケーニヒスベルクとダンチヒが二大中心都市で、砂州はすべてドイツ領。なお、当時のポーランドやリトアニアなどのバルト三国ははロシア領でした。

●1933年の地図(第一次世界大戦後)

第一次世界大戦で敗れたドイツは領土を割譲させられて、東プロイセンはドイツの飛び地として残りました。本土との間の西プロイセンは新たな独立国のポーランドへ割譲、ダンチヒは国連管理下の自由市となり、北のメーメルは連合国を代表してフランスが委任統治していましたが、23年にリトアニアが占領。その結果、北の砂州にはリトアニアとドイツの国境線が引かれ、南の砂州にはダンチヒとドイツの国境線が引かれました。

●1943年の地図(ナチスドイツの占領期)
 

ナチスが政権を握ってドイツが勢いを盛り返すと、ドイツ系住民が多かったメーメルは1939年にドイツへの編入を要求してして実現。さらにドイツはポーランドへ侵攻してソ連と分割占領し、西プロイセンとダンチヒを併合しました。上の地図では白い部分がドイツの併合地と占領地。再びすべてドイツ領になったので、砂州の上の国境線は消えました。

●1975年の地図(第二次世界大戦後)

第二次世界大戦で再びドイツは負けて、東プロイセン一帯の領土をすべて失いました。西プロイセンとダンチヒ、東プロイセンの南半分はポーランド領に、東プロイセンの北半分はソ連領になり、リトアニアなどバルト三国もソ連に併合されました。代々住み続けていたドイツ人は強制追放され、都市の名前もダンチヒ→グタニスク、ケーニヒスベルク→カリーニングラード、メーメル→クライペダと、ドイツ語からロシア語やポーランド語などに変わっています。

砂州にも再び国境線が出現しました。南の砂州には旧東プロイセンを南北に分割するポーランドとソ連の国境が引かれましたが、その位置は戦前のダンチヒとの国境に比べて東へ移動しています。一方で北の砂州は全体がソ連領なので国境線はありません。ただしソ連の国内で、カリーニングラード(旧東プロイセンの北半分)はロシア・ソビエト社会主義連邦共和国、メーメルはリトアニア・ソビエト社会主義連邦共和国と、管轄は分かれていました。

●現在の地図(ソ連崩壊後)

ソ連崩壊に先立って、1990年にリトアニアがソ連から独立し、北の砂州にもリトアニアとソ連(91年末以降はロシア)との国境線が引かれました。ただし戦前の国境線と比べると、位置がやや南へ移動しているようですが、どうでしょう?

北側の砂州(クルシュー砂州)の衛星写真 (google maps)
南側の砂州(ビシラニー砂州)の衛星写真 (google maps)

さて、砂州の現状ですが、北側の砂州(クルシュー砂州)の国境の北側にあるリトアニアの町・ニダは、ソ連時代に幹部専用の保養地として周辺の開発が厳しく制限されたために自然が残り、現在では世界遺産に登録された観光地に。南側のビシラニー砂州もポーランド領内のクリニツァ モルスカはリゾート地として賑わっているようですが、ロシア領内はどうなっていることやら・・・。

カリーニングラード & リトアニア 旅行記(その2?2) 北の砂州の国境を越えた体験記があります
Lithuania - Russia [Kaliningrad] [2003] 北の麹サ州の国境の写真(英語)
Kursiu Nerija National Park リトアニアのニダ国立公園のサイト。砂州の写真がたくさんあります(英語)
Neringa ニダの保養地の公式サイト(英語)
Neringa クリニツァ モルスカの公式サイト。写真がいろいろあります(ポーランド語)




ブランコ岬

モーリタニアの地図 西サハラとの国境線沿いを延々と走る鉄道も不気味です
ブランコ岬の衛星写真 (google Earth)
ラゴウイラの衛星写真 (google Map)右上へ移動するとヌアディブが大都会に見えますね

 

アフリカ北部で象の鼻のように大西洋に垂れ下がった岬がブランコ岬ですが、岬の付け根から先端まで、まるで「鼻の穴」のように律儀に国境線が貫通しています。ようするに、1885年にフランスとスペインが植民地分割をやった時の境界線が現在に至っているわけで、旧フランス領は独立してモーリタニアですが、旧スペイン領は西サハラとして独立しようにもできない状態のまま。スペインが1976年に領有権を放棄した後はモーリタニアが占領し、岬の国境線は一時消滅したが、独立ゲリラ(ポリサリオ解放戦線)に攻撃されたモーリタニアも79年に領有を放棄して、現在ではモロッコが占領中です。

ブランコ岬の先端のモーリタニア側には、ヌアディブ(フランス領時代はエチエヌ)と言うモーリタニア第二の都市がありますが、日本や韓国の漁船も立ち寄る港があるほかは何も無い町で、国際空港があっても銀行や売店はなく、内陸で採掘した鉄鉱石を運ぶための鉄道の駅はあっても駅舎もホームもないとか。ただし近年ではアフリカからヨーロッパへの密入国ルートとして、取り締まりが厳しくなったセウタメリリャに代わって、ヌアディブからスペイン領のカナリア諸島へ渡ろうとする人が増えているとか。

一方で、西サハラ側の岬の先端にはラゴウイラ(スペイン領時代はラ・アグエラ)という町がありますが、道路はモーリタニア側にしか通じておらず、輪をかけて何もないような場所。1920年代に飛行場が作られてスペイン軍の空軍基地として使用されていましたが、住民は500人足らずしか存在せず、1920年から24年にかけてここで発行されていたオリジナルの切手は、コレクターの間では「入手最困難」の1つに挙げられているそうな。ここ数年はモロッコが西サハラ領有を正当化する一環として移住政策が行われて、3700人以上が住んでいるようです。

ヌアクショット モーリタニア側の岬の町・ヌアディブの見所
夫婦珍道中 ヌアディブから西サハラへ、かなり壮絶な砂漠越えの話
写真・モーリタニア ヌアディブの駅の写真がありますが、なかなか壮絶・・・
The Armored Train Page かつて西サハラの独立ゲリラ対策に使われていたモーリタニア鉄道の装甲車
Adventures of Mauritania: Nouadhibou ヌアディブの観光案内(英語)




アフガニスタンの盲腸(ワハン回廊) 

アフガニスタンの地図で、とても気になるのが東の端へひょろひょろ伸びる盲腸のような一角。ワハン渓谷もしくはワハン回廊と呼ばれる地帯ですが、パキスタンとタジキスタンに挟まれたこの盲腸のおかげで、アフガンはわずかながら中国と国境を接しています。一体なぜこんな国境線が引かれたのでしょう?

今でこそ辺境の中の辺境のようなワハン渓谷ですが、かつてはユーラシア大陸の東西を結ぶシルクロードの地として重要な場所でした。はるか昔にアレキサンダー大王に率いられて遠征してきたギリシャ人の子孫が仏教と出会って花開いたガンダーラ美術の中心地は、この回廊の南側にある現パキスタン領ペシャワールもあたり。世界史の教科書に出てくる「大月氏」なる国があったのは、アフガン東部からワハン渓谷にかけて。三蔵法師こと玄奘三蔵がインドへ向かったときも、マルコ・ポーロが中国へ向かったときもここを通ったのでした。

ではシルクロードとして重要な交通路をアフガンが領土として確保したのかと思えば、それとはまったく関係ありません。ワハン回廊ができたのは19世紀後半で、ポルトガルによる喜望峰回りの東西海上交易ルートが確立して、シルクロードがすっかり廃れた後のことです。

18世紀から19世紀後半にかけて、ワハン渓谷やその北のパミール高原を支配していたのは清朝、つまり中国でした。パミール高原を「大パミール」、ワハン渓谷を「小パミール」とも呼びます。もっとも清朝が支配していたといっても、実際には要所に守備兵を置いていたくらいで、中国の法律が適用されたり役人が派遣されていたわけではなく、当時のチベットや新疆、モンゴルと同じく、清朝へ朝貢することを条件に、地元の伝統的な族長の下で自治が行われていました。

一方でアフガニスタンは18世紀前半までペルシャ(現在のイラン)やムガール帝国(インド)の支配下にありましたが、1747年にドゥラニー朝が成立してアフガンの周辺一帯を征服。現在のイラン東部からパキスタン西部や北部、ワハン渓谷の南に位置するカシミール地方まで支配する王国を築き上げます。

19世紀に入るとドゥラニー朝は内紛で弱体化し、代わって1826年にバラクザイ朝が成立しますが、この頃、アフガニスタンはロシアとイギリスから狙われることになります。中央アジアを征服したロシアは北からアフガンに進出し、インドを征服したイギリスは南からアフガンへ進出してきました。

イギリスはロシアの先手を打つために、インドに亡命していたドゥラニー朝のジョジャー王を担いでアフガンに傀儡国家を樹立することを狙い、38年にアフガンへ侵攻しました。イギリス軍はカブールを占領し、ジョジャー王は国王の座を回復、イギリスはアフガン各地の首長たちに手当を支給して懐柔に努めましたが、3年後にイギリスのインド総督が「経費節減」を理由にアフガン駐屯軍の半分を撤退させ、首長たちへの手当も廃止すると、各地で反乱が勃発。ジョジャー王は暗殺され、42年にはアフガンから撤退しようとしたイギリス軍部隊1万6500人がほとんど惨殺される結果になりました(第一次アフガン戦争※)。

※もっともそのうちイギリス兵は690人で、残りは3810人のインド兵や人夫、その家族、一緒に逃げようとした商人など。
この戦争でアフガンの支配を断念したイギリスは、アフガンをイギリスとロシアの緩衝地帯とすることにして、1871年から73年にかけてロシアと協定を結びました。しかしここで問題になったのが、緩衝地帯とするアフガニスタンの領域は果たしてどこからどこまでかということ。アフガン本土の征服は断念したとはいえ、現在のパキスタンやカシミールなどその周辺部の征服を終えたイギリスにとっては、アフガンは広いほうがいい(ロシアが手出しできない地域が増えるから)。一方で、これから進出しようとしているロシアにとっては、アフガンは狭い方がいい(征服してもいい土地が増えるから)と、思惑が異なっていたのでなかなかまとまりませんでした。

特に対立したのはワハン渓谷で、イギリスはワハン渓谷はバダフシャン(アフガン東北部)の属領だからアフガン領だと主張し(だからロシアは手出しをするなということ)、ロシアはアフガン国王の統治が及んでいないから独立した王国だと主張(だから併合してもいいだろということ)。結局ロシアがイギリスに妥協して、ワハン渓谷はアフガン領だと認め、そのかわりロシアは当初の交渉ではアフガンとともに緩衝地帯にする案が出ていたボハラ汗国ビヴァ汗国(アフガンの西北端からアラル海にかけて存在した国)を除外させて、保護国にしました。

※そういう事情があったためか、ロシアはボハラ汗国とビヴァ汗国を正式には併合せず、周囲をすっかりロシアに囲まれた形でロシア革命後の1924年まで存続した。1922年の地図
これらの協定はパミール地方に宗主権を持っていた清朝は無視して決められ、イギリスとロシアは現地調査も行っていなかったので、具体的な境界線は曖昧なままでした。1891年にロシア軍がパミール高原の中国軍を追い出しましたが、そのままワハン渓谷を越えてカシミールへ侵入。さらに中国軍がいなくなったパミール高原をイギリスが後押ししたアフガン軍が占領したため、ロシア、イギリス、アフガンが入り乱れて紛糾し、結局これでは緩衝地帯の意味がないと、1895年に3ヵ国が現地調査を行って、具体的な国境線を画定。現在のワハン回廊が決まりました。

追い出された中国はといえば、イギリスとロシアに抗議したものの、イギリスからは「ロシアを防ぐためだ」、ロシアからは「イギリスを防ぐためだ」と言われて相手にしてもらえず、パミールを3ヵ国の共同統治領にしようと提案もしたが無視されました。その後清朝が倒れて中華民国になってもワハン回廊を含めたパミールの領有権を主張し続けていましたが、戦後成立した中華人民共和国は1960年代にアフガニスタンと条約を結んで正式にワハン回廊を放棄。90年代にはソ連から独立したタジキスタンとも条約を結んで、パミール高原も正式に放棄しています。ただし「中華民国」を名乗っている台湾政府は現在でもワハン回廊はじめパミールの領有権を主張していて、台湾発行の地図を見るとワハン回廊は存在しないことになっています。まぁ、台湾の地図ではモンゴル国も存在しないことになっていますけどね。

地図を見ただけでは、ワハン回廊はアフガン本土に接している西部が入口で、中国に接している東部は最果ての辺境という感じがしますが、衛星写真を見てみると、回廊西部は不毛な険しい山脈でアフガン本土と隔てられているのに対して、回廊東部は谷沿いに湖と緑が広がる高原地帯で、さらに河川を通じて現在タジキスタン領になっている北側のパミール高原と繋がりが深い地域であることがわかります。ワハン回廊がアフガン領になるまでの経緯を知れば、もともとそういう地域だったのかと納得がいきますね。

ワハン回廊に住んでいるのはワヒ族(「ワハンの人」という意味らしい)で、タジキスタンやパキスタンなど国境に跨って農牧生活を送っていますが、東西冷戦や中ソ対立の頃も、9・11テロ後の現在も外国人の立ち入りはかなり難しい地域。東トルキスタン(中国の新疆ウィグル自治区)の独立ゲリラがパキスタン軍と交戦したとか、ビン・ラディンが潜伏しているとか、いろいろと物騒な情報が飛び交う一角でもあります。

中華民国全図 
中華民国地図集 新疆省 パミール高原やワハン回廊は中国領(台湾領)ですが、いちおう「中ソ国境未確定」ということになっています




アラスカの盲腸

アラスカの地図 いきなり出てくる矢印に驚かないように・・・

アラスカといえばアメリカの飛び地。本土との間を隔てるカナダとは例によって一直線で国境線が引かれていると思いきや、太平洋側ではアメリカ領が盲腸のように南へ垂れ下がっていて、アラスカの州都ジュノーも盲腸の部分にあります。私は子供の時から「アラスカの州都はアンカレジ」だと信じて疑いませんでした。だって当時はアメリカやヨーロッパへ行く飛行機は「アンカレジ経由」がほとんどだったから、世界的な大空港がある大都市なんだろうなって(※)。

※当時は東西冷戦が激しかったので、西側の飛行機は日本からヨーロッパへの最短距離にあたるソ連のシベリア上空を飛べなかったため、アラスカ上空を迂回してアンカレジで給油していたのが真相。そういえば大韓航空機がソ連の領空を飛んで銃撃されたり撃墜されたりする事件もあった。アンカレジ経由便には日本人乗客が多かったので、JALが給油中のサービスとして「空港でうどん屋を開きました」と宣伝していたが、日本からの直行便がなくなった今はどうなったことやら。
そのアラスカの州都・ジュノーは、19世紀末から20世紀初めにかけてゴールドラッシュで賑わった町ですが、現在では鉱山は閉鎖されて人口3万人。アンカレジは国際ターミナルではなくなったものの、人口28万人でアラスカ最大の都市です。

アラスカはかつてはロシア領で、1867年にアメリカが購入したわけですが、太平洋岸の「盲腸」はその当時からのもので、ロシア人はあちこちに交易所を作って現地のエスキモーやインディアンから毛皮を買い付けていました。ようするに、シベリアからベーリング海峡を越えて進出してきたロシアは、アラスカ北部では内陸まで支配したものの、南部では海岸沿いを支配し始めただけだった。一方で、アメリカから北上してきたイギリスは、ハドソン湾を拠点に内陸部のエスキモーやインディアンと交易に乗り出して支配を広げ、その結果、海岸沿いはロシア(→アメリカ)、内陸はイギリス(→カナダ)ということで、領土分割が行われたということでしょう。

で、その盲腸部分ですが、フィヨルドが奥深くまで入り組んでいて、よ~く見てみるとかろうじて氷河でつながっているという部分もあります。ジュノーからアンカレジまで車で行こうとするなら、雪上車でないと無理?具体的にはこんな感じの場所 のようですもん。

 

アラスカ州政府日本支局 州都ジュノーの案内




トーゴの盲腸

トーゴの地図

アフリカの国って、大雑把にばざばざ切り分けたような形の国が多いですが、西アフリカの海岸沿いは細かな国が入り乱れています。西アフリカには大航海時代からヨーロッパ人が進出し、列強各国が入り乱れて海岸に砦を築き勢力を競っていたので、その砦を内陸へ延長して勢力範囲の分割が決まり、それが現在の国境線になったということでしょうね。一昔前の地図を見ると、この辺りには「穀物海岸」「象牙海岸」「黄金海岸」「奴隷海岸」と、特産品の地名が付けられています。

さて、そのうち奴隷海岸の一角に位置するトーゴですが、ブルキナファソと接する北端の国境線をよく見てみると、東へ20kmほどガーナ領へ盲腸のように張り出した一角があります。さらに現地の詳細地図を見てみると、このトーゴの本土と「盲腸部分」とを結ぶ道路はなく、ブルキナファソの道路が飛び出しているだけ。盲腸から本土へ行くにはいったんブルキナファソを通って行かなくてはならないのですが、一体なぜこんな奇妙な国境線が引かれたのでしょう?

トーゴはかつてドイツの植民地。第一次世界大戦でドイツが負けると、他の植民地とともに国際連盟の委任統治領という形で戦勝国に配分されて、トーゴは東の3分の2がフランス領に、西の3分の1がイギリス領になりました。フランス領とイギリス領の境界線は、内陸部では主に川や稜線に沿って引かれましたが、ブルキナファソは当時フランスの植民地(仏領西アフリカ)だったので、ブルキナファソの道路沿いの一角はフランスに分け与えられたということでしょうね、たぶん。なお盲腸部分の南側の国境線は、いちおう川に沿って引かれています。

第二次世界大戦後、トーゴはフランスとイギリスの信託統治領になりましたが、別々の国に分割支配されたために再び統一することはなく、イギリス領は1956年の住民投票の結果、翌年独立したガーナの一部となり、フランス領は1960年に単独で独立しました。同じくフランス領とイギリス領に分割され両者が合併したカメルーンや、イギリス領とイタリア領が合併したソマリアのその後のゴタゴタを見ると、分かれて良かったかも知れないですね。


なぜかロシア語の詳細地図。クリックすると全体図に拡大します


ドイツ植民地だった頃のトーゴの地図(1913年)。Bokoは現在「盲腸」の西南にある町・Bawku。

 
1943年の地図。トーゴは仏委(=現在のトーゴ)と英委(現在のガーナ東部)に分割されています。
ダホメ→現在のベナン、黄金海岸→ガーナ、象牙海岸→コートジボワール、上ボルタ→ブルキナファン、
仏領スーダン→マリ・・・と独立して国名が変わったのが多いですね。当時の独立国はリベリアだけ




ナミビアの盲腸(カプリビ回廊)

カブリビ回廊の衛星写真 (google Map)

アフリカ南西部の国・ナミビアの北部から、約400kmにわたってフライパンの柄のように東へ張り出した一角があります。カプリビ回廊(カプリーヴィ・ストライブ)と呼ばれる地域ですが、なぜこんな国境線が引かれたのでしょう?

ナミビアはかつてはドイツ領南西アフリカで、ドイツが1884年に植民地として領有宣言をしたが、ドイツの進出に警戒感を覚えたのが南アフリカのケープ植民地を拠点にしていたイギリスで、85年にベチュアナランド(現:ボツワナ)を保護領にした。当時、ドイツはアフリカ東海岸にも植民地を築こうとしてイギリスと対立し、86年には東海岸に領土を広げていたオマーン帝国の分割ラインを決めて、ドイツはタンガニーカ(現:タンザニア)を、イギリスはケニアを獲得したが、続いてドイツはアフリカ東西の植民地を結ぼうと、内陸部への進出に意欲を見せたため、ケープタウンからカイロまでアフリカを南北に結ぼうと企んで南アフリカ会社を設立し、ローデシア(現:ジンバブエとザンビア)の獲得に乗り出していたイギリスと再び対立した。

そこで1890年に妥協が成立。イギリスはタンガニーカ沖合にある貿易拠点・ザンジバル島を獲得する代わりに、ドイツは南西アフリカから東海岸への通路としてベチュアナランドの一部だったカプリビ回廊を獲得した(※)。なぜ中途半端な回廊が東海岸への通路になるのかというと、カプリビ回廊の先端はザンベジ川に接していて、ザンベジ川を下ればポルトガル植民地だったモザンビークの北部で東海岸に出られたから。さらに98年に英独両国は秘密協定を結び、財政破綻状態だったポルトガルが借金の申し込みをしてきた場合、モザンビークを南北に分割して北はドイツが、南はイギリスが併合してしまうことも申し合わせていた。

※ヘルゴランド=ザンジバル条約といい、この他にドイツはイギリスからハンブルグ沖合のヘルゴランド島を獲得した。
もっとも、ザンベジ川の川下には滝や急流があって、インド洋まで船で出るのは不可能だった。なんだかドイツは騙されたような感じだが、第一次世界大戦で南西アフリカは国際連盟の委任統治領になり、結局イギリスの手に渡る。イギリスはカブリビをベチュアナランドに戻したが、国連から預かった領土なので勝手に併合するわけには行かず、1929年に改めて南西アフリカの一部に戻し、属国だった南アフリカに委任統治させた。

さて戦後、南アフリカは国連の非難を無視して南西アフリカを併合してしまい、本国同様にアパルトヘイトの象徴として悪名高い傀儡黒人国家のホームランドを設置した。カブリビも1972年にホームランドが設置され、76年には東カブリビ自治国(間もなくロジ自治国と改称)に昇格したが、南西アフリカ人民機構(SWAPO)による独立闘争が盛んになると、南アはアンゴラの反共ゲリラ(UNITA)の支援基地とするため、84年にロジ自治国を取り消して南アの直轄領に戻してしまった。南西アフリカは国連の暫定統治を経て、1990年にナミビアとして独立し、SWAPOによる政府が発足した。

カプリビはナミビア本土との間は200km近くに及ぶ国立公園で隔絶されていて、道路1本でかろうじてつながっている状態だ。人口8万人のうち1万7000人がロジ人だが、他の住民もロジ語を話し、ロジ人はザンビアにも46万人、ジンバブエに7万人、ボツワナに1万4000人と、国境線を跨って4ヵ国に分散して住んでいる。というより、昔からザンベジ川の畔で暮らしていたら、いつの間にか自分たちの故郷が4ヵ国に分断されてしまい、自治国ができたと思ったら勝手な都合で取り消されたというのが真相だ。だからカプリビの住民たちは、遠くの同国人(ナミビア人)より近くの外国人(周辺各国のロジ人)に一体感を持ち、ナミビアからの独立を求める声も根強い。

1963年には南アの白人支配に反対するカプリビ・アフリカ人国民連合(CANU)が結成され、SWAPOと共闘していたが、「SWAPOはナミビアが独立を達成した暁には、カプリビの分離独立を認めると約束したのに裏切った」と、ナミビア独立後に再びCANUやカプリビ解放戦線(CLF)が登場。ザンビア西部で独立を目指すロジ人のバロツェ愛国戦線(BPF)とともに武力闘争を開始して、イテンゲ自由国(またはカプリビ回廊自由国)の独立を宣言し、カナダを拠点に亡命政府を発足させた。

ナミビア政府は、CANUやCLFはアンゴラのUNITAに支援されているものと見て、アンゴラ政府軍と協力して討伐戦争に乗り出し、カプリビからは多くの難民がボツワナへ逃れた。しかし2002年にUNITAのサビンビ議長が戦死すると、UNITAは壊滅状態になり、カプリビの独立闘争も下火になったようだ。


 


接しているようで接していないナミビア(左上)とジンバブエ(右下)の国境。その距離およそ15km

World Odyssey 地球一周旅行 カプリビ回廊の写真もあります
Caprivi African National Union of the Free State of Caprivi Strip/Itenge (CANU) カプリビ回廊自由国の公式サイト(復元サイト)




サウジアラビアの「空白地帯」の国境線(ルブ・アル・カリ)

1974年のサウジアラビアの地図 北側の国境線ははっきり引かれていまずが、南側はさっぱり。海岸あたりに仕切りがあるだけ
1991年のサウジアラビアの地図 イラクとの国境線で見直しが始まっています。南側の仕切りも内陸へ延びてきました
2003年のサウジアラビアの地図 アラブ首長国連邦(UAE)を除いて国境線が画定。イエメンの領土が拡大し、UAEは縮小、イラクとの国境は一直線に

 
左は一昔前の典型的なアラビア半島の地図(クリックすると拡大します)。右は現在の地図

一昔前のアラビア半島の地図は、国境線が引かれていなくて、海岸にいくつか仕切りがあるだけという描かれ方をしたものがほとんどでした。特にサウジアラビアとアラビア半島南側の国々との間には国境線がなく、北側のヨルダン、イラク、クウェートとの間には国境線が引かれてはいたものの、いかにも怪しげな中立地帯があったりで、とっても謎な存在でした。

単純に想像して、アラビア半島の南部には何も無い不毛な砂漠が広がっているから、わざわざ国境線を引かずにいるんだろう・・・と思っていました。実際にこの一帯はその名もルブ・アル・カリ(「空白地帯」砂漠)と呼ばれています。しかし、同じような境遇のサハラ砂漠にはきちんと国境線が引かれているし、「空白地帯」とはいっても遊牧民(ベトウィン)が住んでいているはず。一体なぜ国境が曖昧なままだったのでしょう?

これはまずサウジアラビアが国境線の画定に消極的だったためです。沙漠の住民はわずかな草を求めて年中移動を続けている遊牧民なので、こういう場所で土地を押さえても、住民は年中入れ替わってしまうから支配できません。そのかわり××族はどこの王やスルタンに属するかということははっきりしていました。日本ではムラを単位とした地縁社会なので支配者はまずムラ=領地を押さえましたが、遊牧民は部族を単位とした血縁社会だがら支配者は部族を押さえれば十分。ヘタに国境線をきっちり引くと、遊牧民が自由に移動できなくなり、勇猛なベトウィンたちの戦闘力に支えられて建国したサウジアラビアとしては、ベトウィンの反発を招きかねない国境線の画定はやりにくかったのでしょう。

イギリスと決めた「勢力範囲」の線が描かれている地図(1931年)
そしてサウジアラビアという国自体、初代国王のイブン・サウドが1902年にリアド城を襲撃したことから始まり、1921年に正式に独立を宣言(当時はネジド王国)した後も、西海岸のヘジャス王国やアシル王国を征服するなど拡張を続けていたので、国境を決めたくなかったようです。さすがにイギリスが直接統治していた北側のヨルダンやイラクとの間は、1922年に国境線を画定しましたが(決まらなかった部分は「中立地帯」に)、南側については1914年にイギリスとアラビア半島の中央を境に勢力範囲を取り決めたものの、イギリスの支配はほとんど放置状態だったので、サウジアラビアは30年代半ばに南部の「空白地帯」を征服するなど、支配地を広げ続けていました。

戦後、アラビア半島での石油生産が本格化すると、国境画定はますます難しくなります。サウジアラビアは1950年代にはブライミ・オアシスの領有権を主張してマスカット・オマーン(現在のオマーン)や休戦オマーン(現在のアラブ首長国連邦)と軍事衝突したり、オマーンのスルタンと対立していたオマーン・イマーム国を支援し、70年代には北イエメンの王党派ゲリラを支援して、周辺の国々と対立を続けていました。

しかし湾岸戦争を契機に、サウジアラビアは地域の安定を重視して1990年代に入ると周辺各国との国境線画定を積極的に進めるようになりました。カタール(96年)、イエメン(2000年)との国境確定に続いて、アラブ首長国連邦との間でもサウジ側がブライミ・オアシスの領有権を放棄する代わりに、首長国側がカタールとの国境地帯を放棄するなど、交渉が進展しつつあります。

そういうわけで、最新のアラビア半島の地図を見ると、きっちり国境線が引かれるようになってしまいました。
 

「空白地帯と呼ばれる沙漠 ルブ'アルカリ ジェトロのリヤド事務所のサイト。サウジアラビア南部の広大な砂漠地帯の報告
特異な国 サウジアラビア 杏林大学の水島慎也氏の卒論です
 
 

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