こんにちは 最近どう、
What's up?
今日はまたちょっと趣向を変えて、みなさんが知っている
源義経
義経の幼名は牛若丸(うしわかまる)
義経の父義朝は平家の清盛に討ち滅ぼされ、母常盤御前が
清盛の妾になることを条件に命を助けられて
僧になるため鞍馬山に預けられました。
(7才とも11才とも言われる)
鞍馬天狗に育てられる!
そこで出会った見知らぬ山伏(鞍馬天狗)に武術、剣術だけではなく
兵法もを習うことになります。
武蔵坊弁慶と出合った京都五条橋でも、
壇ノ浦の合戦でおごる平家を打ち破ったヒーローが
もしかしてあの世界を股にかけ大帝国を作った・・・
義経と静の恋物語 の前に ミュージックタイムはいかが
ラブストリーは突然に
義経と静御前
平家を壇ノ浦の源平の合戦で打ち破ったのち、
頼朝の許可なく勝手に越権行為をしたとして
頼朝に謀反の疑いをかけられ、都落ちした義経の一行が
軍勢を立て直すべく九州へ渡るため大物浜から乗船するが、
折からの暴風雨によって難破し一行は離散。
一命を取り留めたものの、
ただでさえ少なかった味方の軍勢と
離れ離れになり、女子の足では
これから果てしなく続く険しい山道の逃避行は
無理と判断したのか、
(この時すでに静御前は身重だった)
女人禁制の吉野山(大峰山)を前に愛妾「静」に
平坦な道から母のいる京に帰るよう、別れを告げる。
義経は、
「遠方の地に行って再起を図る、
再起した暁には必ず迎えに来る」
と誓いを立てます。
静御前は
真っ直ぐに義経を見つめ
「・・・・・・」
静の目に
涙があふれて光る
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義経は
「静、泣くでない。
生きていれば、必ず再会出来る。
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たとえこの世でなくてもあの世でまた会えるではないか。」
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自分が使っていた鏡を取り出して手に握らせ、
「これを自分だと思って使ってくれ」と
御前を諭します。
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この時、静御前は、
♪見るとても 嬉しくもなし 増鏡(ますかがみ)
恋しき人の 影を止めねば♪
と和歌を詠みます。
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その後の「静御前」
静は帰京の道中に頼朝側に捕えられ、丁重な扱いを受けたものの
取り調べの為、鎌倉に送られた。
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頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣したとき、
当時都一とうたわれるほどの舞の名手として名高い静を召して
神前で舞と歌を奉納し、その舞いを鑑賞することになった。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)鎌倉まつり「静の舞」
2017年鎌倉静の舞
このときの静の歌が、
「吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ しづのをだまき繰り返し
昔を今になすよしもがな」
=「倭文(しず)の布を織る麻糸をまるくまいた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら」
行方の知れない恋人義経を恋い慕う歌だった。
義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、
妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、
あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。
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「成吉思汗」
の名前が、
この静の歌に対する義経の返歌だという。
この名前を和風に読むと「吉成りて汗を思う」となる。
「吉」は義経と静が別れた場所、吉野山、「汗」はアセではなく、
水干(すいかん)という、白拍子(しらびょうし、歌舞妓)だった
静の衣装。
つまり、「吉野山での誓いが成就した今、
私は静を思っている」となる。
また、「成吉思汗」は
「なすよしもがな」
とも読める。
おそらく義経は日本人の家来を日本へ送り、
静の行く方を探ったのであろう。静の歌は義経に伝わったものの、
義経の静に対する思いにも関わらず、静の方は行方知れずのまま。
「成吉思汗」の名は静への暗号か。世界に冠たる大王であれば
「神祇崇官」とかになるだろう。
まああらためて考えてみれば、「成、吉、思、汗」
随分とヘンテコリンな漢字を使ったものだな。
日本の訓読みでもセイキチシカン、大王の名?かなり無理がある。
他に納得のいく有力な漢字の説明が全くない以上、
この「ナスヨシモガナ」説が最も有力な説になる!
一説に 静は、義経が衣川の戦いに没したと思ったのか、
讃岐国にある長尾寺において宥意和尚から
母の磯禅師(いそのぜんし)と共に得度を受け、
剃髪後、宥心尼と名を改め、
薬師庵において信仰の日々を送るようになった。その後、
先に亡くなった母の後を追うように、
義経に逢うことなく24歳の短い生涯を閉じたという。
静はすでに義経の子を身ごもっていたが、生まれた赤子が男の子だったため
頼朝に取り上げられて海に沈められて殺されてしまいました。
義経の正室は頼朝から押し付けられた関東の武将の娘、郷御前(さとごぜん)ですが、
北方逃避行にも同行していたようです。
義経が成吉思汗であれば彼の子孫が、そして弁慶らの子孫もモンゴルにいる!白鵬や朝青龍は彼らの子孫かも?
余談:
鶴岡八幡宮は子供の時や学生の時もよく初詣に行きました。社会人になっても5年以上行っていたのですが、おみくじが凶→凶→大凶と3年続いて嫌になってやめました(笑)。
それからは寒川神社ばかりです。
八幡宮は「やはたのみや」、「秦氏の神の宮」という意味です。
成吉思汗=源義経説は昔からあります。
衣川の戦いは偽戦で、首実検は身代わりだというのである。
そして蝦夷地を経由して、当時の十三湊(とさみなと)を
本拠にする安東水軍の手引きで韃靼国(だったん、満州)へ
渡った。
・823年に来日したオランダ商館医員のドイツ人医学者シーボルトは本格的な日本研究をおこなって『日本』を著したが、彼はこのなかで成吉思汗=義経説 を書いている。
・水戸光圀公黄門様以後の水戸藩主が編纂した
『大日本史』は次のように記述しています。
『大日本史』は、水戸光圀公 以来、250年にわたって、歴代の水戸藩主が各時代の大学者だけを集めて編纂した3 97巻の大著作なのです。たとえ1行の文章でも多くの学者の目にさらされ、検討を繰り返して生まれたものであり、重みがあります。
「世に伝う。義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわ ゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日 と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもっ て、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(かん)にすといえど も、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したり と偽り、しかして逃走せしらんか。」
・松前福山略記 「文治五年五月十二日に源義経、藤原忠衡、武蔵坊弁慶、常盤坊海尊、亀井六郎など主従百人余蝦夷地渡海す。・・・(中略)・・・
韃靼国に渡る。」
・新撰陸奥国誌 (明治9年・1876年) 「文治五年義経十三壇林寺に来る。主従7人。十三より海に航し、西蝦夷に住了にヲカムイ岬より満韃の地に渡る。」
・『可足記』(延宝年間)に次の記述 「九郎判官(義経)の身代わりには一家の内、杉目太郎行信が致し、行信 が首、鎌倉の見参に入候」
これだけ見ても義経の北行生存説、大陸渡航説は
昔の歴史書に記してあり
単なる現代人のロマンや願望妄想ではないことを証明!!!
本当のことと思われます!!!!!!
現代の学校で教える歴史は大ウソ!
(君が代に起立しないなどでわかる通り日教組や教育委員会は
反日の巣窟、当然中立を装う教科書も推して知るべし)
過去ブログ「弥生時代はなかった」でも言及した通り、
歴史学界はGHQが日本民族の劣化政策のために総入れ替えした
反日歴史学者で占拠されている!
日本を貶めるのが使命・目的の(反日)歴史学者は到底、
義経=成吉思汗説は認めるわけにいかず。
衣川での死亡説を刷り込もうとします。
よって、これまでの日本史は完全無視します。
頼朝は藤原泰衡による衣川の戦いそのものを偽戦と見抜いていた。
そのため届いた首の受け取りを拒否、藤沢の白幡神社に葬られた。
その証拠に首が届いてからわずか、
1ヵ月後には奥州征伐(藤原泰衡討伐)の大軍を平泉に
差し向けています。
今まで、GHQが反日歴史学者に作らせた歴史の嘘に
すっかりダマされていました。
歴史に限りませんが、健康、栄養学、医学でも
ダマされない、洗脳されないためには、
これまでのように誰かが予め用意してくれたコースを
行くのではなく、また周りの大勢が行く道に流されるのではなく、
貴方自身が選んだ道筋を
自分の足で歩んでいきましょう。
コツはワクワクする方を選んでいけばいい。
絶対、権威のありそうなところは選ばないようにしましょう!
余談:
成吉思汗=義経説を否定する人達は成吉思汗の即位前の名前がテムジン(鉄木真)だったということから、鬼の首をとったように勝ち誇ったがごとく得意満面になる、が、異国に来て、現地の人を支配し続けるなら、いつまでも自国の本名のままの人はいない。異国に行って出世しようと思えば必ず名前を現地風の名に変える。このことは、現代社会におい ても同じことで、サッカー選手でさえ帰化する時、日本風の名前にする。例)ラモス瑠偉さん、三都主選手、闘莉王選手、
在日韓国人は例外なく日本名の通称名を使用する。
余談:日本一のお金持ち・資産2兆2930億円(18年)ただし有利子負債14兆2998億円(16年)のソフトバンクの孫さんは(会社からお金を抜き取っただけの日本一の借金王!)
元の名が安本さんで(本名が安、親が済州島出身といわれる)、孫はあとから名のった名字で本名ではない。孫子か孫文にあやかった?韓国の子会社を使って電波調査させ、CMで繋がり度No1と捏造した。
かつて私もJphone・Vodaphoneの頃からの続きで使っていたことがありましたが、ソフトバンクに変わって数年後家族全員他社に変えました。
ソフトバンクの携帯の人とだけつながりが悪い。同一場所(平塚、水戸の各某オフィス内)で比べるとソフトバンクだけ電波が届いていない。
繋がりにくさNo.1!
CMの日本人役のお父さん犬は 白丁(ペクチョン・被差別民・乞食)の犬(蔑称)を意味します。
在日特別割引料金がある、社員は在日だらけとかいい話はあまり聞きません。
ミナモトノヨシツネは現地の人にはかなり発音しずらかったらしく、
「テムジン」はテンジン(天神)のなまりである可能性があります。
「源義経」汗の音読は「ゲン・ギ・ケイ」で、それが当時の
モンゴル語のなまった発音で
「ゲンギスケイカン――ゼンギスカン――ジンギスカン」に
なったと考えられています。
現地では「ジンギス」という語彙の由来については
確実なことは分かっていない!という
あり得ないブザマな体たらく、
モンゴル語では全く意味をなさない言葉です。
1710年にフランスのドラクロワ F. Petis de la Croix という人物が
出版した 『大ジャンギスカンの歴史』(Histoire du Grand
Genghiscan)という書物 のタイトルにあるように、
1710年のフランスでも「Genghiscan」と表記して いる。
ドイツ人は、驚くことに今でも「ゲンギスケン」と発音していた。
ドイツ語ではGenghis KhanとDschinghis Khanの両方の綴りが
ある。
「チンギスハーン」という発音は旧ソ連の勢力下に置かれてからの
ロシア語発音変化で最近のものです。
物知り顔でこういう発音をするのは恥ずかしいですね。
「ジンギスカン」という言葉の意味も由来も全くわからない!
「成吉思汗」という漢字の当て字の説明も全くできない!
無様な大陸側の歴史解釈は一切無視できます!
義経は義朝の九男で検非違使尉(判官ハンガン)に任ぜられたので
「九郎判官」とも「源九郎判官義経」ともいうそうです。
どなたでも、「判官びいき」という言葉はご存知か、
あるいは聞いたことくらいはおありだと思います。
「負けそうな方を応援する」という意味として使われていて、
これは本来は源「判官」義経への民衆の同情心を表す言葉で、
種々の事情から敗者の役柄を演じなければならなかった義経を
慕う人々の気持ちを表現している言葉です。
次回、続編「義経はジンギスカンになった②」は、
源義経判官=ゲンギスカン=成吉思汗を角度を変えて検証。
義経とジンギスカンの両者を
「生存年代や背格好の特徴」などで比較して、
違った見地から 検証して行きます。
「もしかすると」から 「確信」に変わる?!
To be continued.
ではまたお会いする日まで、
お元気で
Have a good day!
See you next time.
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Re:JブログのJoanと申します。
コメントありがとうございます。
歴史は
彼(征服者)の書いた物語=his story=historyですので、
これからも真実の面白い題材をブログにしていこうと思っています。
ルックとシャーミー
2018-10-21 21:13:28
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