クルド人のお祭り ~ネブロス~
2004年3月21日に埼玉県の蕨市民公園で開かれ、クルド人と日本人合わせて約400人が参加しました。
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2004年のネブロス・メッセージ(下の友好協会提言)を読み上げるクルドの女性。
最後はクルド人も日本人もクルディスタン・ダンスで踊って踊って踊って・・・クルディスタン&日本友好協会提言
原文トルコ語(2004年 3 月21日)ネブロスとは何か
ネブロスは、クルド民族のお祭りです。ネブロスは、歴史的に消され、無いものとされ、逆に新しくよみがえります。ネブロスは、圧迫され、搾取され、弾圧され、逆に自由の叫びをあげます。ネブロスは、メソポタミアの民たちの解放を願いました。ネブロスは、横暴の終焉、正義と真実の民の歴史です。ネブロスは、暗闇が終わり、春の素晴らしい、生命が生き返るときです。バンザイ、ネブロス。 バンザイ、自由。バンザイ、人として生きる希望。ネブロスの歴史
クルディスタンと世界の多くの場所で、毎年3月21日に行っているネブロス祭りの歴史と神話の起源は、メソポタミアにあります。伝説は、人びとの生き方、歴史的に重要な出来事が、特に口から口へ伝えられ、広まり、現在にまで残されてきました。ネブロスの意味と成り立ちを見ると、クルドの人びとと他のメソポタミアの人びとの歴史の中で、ネブロスは最も記念すべき日だということがわかります。
ネブロスを理解するために、クルドの歴史と文化の始まりであるメディア帝国について見なければなりません。アッシリア帝国の支配が終わり、メディア人の文化が始まったその日がネブロスなのです。
伝説によれば、アッシリアの暴君「デハック」の両肩から二匹の蛇が生まれ、彼はその蛇と共に生きなければならなくなったというのです。蛇をなだめるために、デハックは毎日、民衆のなかからふたりの若者を選び、殺して、その脳味噌を食べさせました。人びとは、デハックがいなくなることを願っていました。デハックの家臣は犠牲になる若者をかわいそうに思い、ふたりのうち一人を逃がし、代わりに羊の脳味噌をデハックに渡すようになりました。殺される若者の半分は助かり、助かった若者たちは山に逃げて、クルド人の祖先になったということです。このクルド人の中から「カワ」という鍛冶屋の若者が立ち上がり、デハックに抵抗する組織をつくって、紀元前612年3月21日に、民衆を率いて王宮を取り囲みました。カワは王宮に突撃し、鉄を打つハンマーと自分の腕でデハックの頭を叩き割って倒しました。カワたちは山の頂上に大きな火をともして、神と民衆に知らせました。その火は自由と解放の炎として、村から村へ、町から町へ、国から国へと瞬く間に広がり、中東全体にネブロスの火がともりました。そして、クルドの文化、メディア王国が始まった、ということです。現代におけるネブロスの意味
ネブロスは、弾圧や悪政、不正や暗黒の終わりであり、自由と希望、明るさと美しさの始まりです。現代にも、その意味は受け継がれなければなりません。平和になって、みなが仲良く手をつながなければなりません。抑圧され、植民地にされ、自由を奪われている人びと、自分たちの国を占領されている人たちの手にかけられた鎖を壊さなければなりません。山に火を焚き、人びとが喜び合って踊ることに意味があるのです。横暴な悪政を倒し、勝利の歌をうたいましょう。
現代においてのネブロスの新しい意味は、抵抗すること、になります。カワのように闘い続けるクルドのすべての革命家、抵抗を続けるすべての人民、それから抑圧された他の民たちが解放されることを、考えなければなりません。
クルド人たちは、歴史を奪われ、もっとも自然な人間としての権利を踏みにじられ、刑務所へ、死へと送られました。帝国主義の罠にかけられ、自分たちの祖国で難民となっています。世界中に散らばっているクルド人の正義のために、ネブロスは深い意味を与えているのです。
ネブロス (Newroz) は、nawroj,newruz,nuwroz,navruz,であってはなりません。ネブロスとは、真実と正義のシンボルでなければなりません。ネブロスとは、時代遅れの古さが終わり、新しい最初の名前でなければなりません。ネブロスは、抑圧された国民と人民が大きく、そして歴史的に変化しなければなりません。ネブロスは、革命家や知識人、同じ時代のカワたちを育てなければなりません。ネブロスは、民族の指導者を信じ、自由の闘いにあふれる敬愛を示さなければなりません。ネブロスは、帝国主義、植民主義、時代錯誤、裏切り、抑圧者の協力者に反対しなければなりません。ネブロスは、クルディスタンから中東へ、世界へ、光を放つ太陽でなければなりません。日本のクルド人
クルド人たちが、日本において日本人たちと出会ったのは最近のことです。クルディスタンでは長く戦争が続いてきたため、世界を訪れている日本人たちが私たちの国を十分に見ることはできませんでした。また、世界でばらばらになったクルド人たちは、日本から地理的に遠い地域にいるため、出会いは遅くなってしまいました。ヨーロッパやアメリカの立場とはずいぶん違います。
クルド人が日本へ来た最初の一歩は、1995年のことです。それ以前に、3人ほどのクルド人がいました。そして今日では、500人から550人のクルド人が日本で生活しています。これらの人びとは、ほとんど全員が国籍のある植民地からこの国へやってきました。1996年から97年にかけて、北クルディスタンの人びとが日本へ集まり、助けを求めました。しかし、日本政府がこの状態を認めたがっていないことは、新聞記者やジャーナリストによって何度も明らかにされています。今のこの状態を国際的に見ても、クルド民族が他の民族と兄弟のような関係になりたいという考え方は、否定されるべきものではありません。日本の人たちと、日本の行政機関も、私たちを理解してくれるようになると信じて疑いません。
今日、街角で日本人たちにクルド問題について質問が向けられると、それに対する大多数の答えは、「正しくない」「かわいそうなことをしている」というものです。政府機関はクルド問題について厳しく対応し、クルド人をまるで犯罪者のように扱っていますが、人びとの理解は変わりません。なぜならば、これまでずっとわたしたちは自分の力で、まじめに、同じ住民として一緒に暮らしてきたからです。ただ、難民申請者として……。友好協会の役割について―何をしてきたか
クルディスタン&日本友好協会は、日本でのクルド人の生活を支えながら、クルド文化を日本人に紹介し、二つの民族が友情で結ばれること、特に社会的な絆を強めることを目的に立ち上げられました。立ち上げから今まで、様々な企画を立案し、実行してきました。
そしてこれからも、もっとたくさんのプランを実行し、それらを続けていくことが、基本的な目標です。設立から8カ月の間、一番取り組んだことは、共同でプランを練ったことです。正当な選挙、共同でクルド人たちのメッセージをつくる、などもやりました。
蕨市民会館では、クルドの文化を紹介する試みを行いました。特に、女性たちが作ったクルド料理は好評でした。いろいろな組合や、民主的なグループ、クルド人の友人たちが参加しました。また、日本人とクルド人の友好的なつながりを発展させるための話し合いも行いました。ミュージック・コンサートやダンスの披露などもありました。日本のクルド人問題を解決するため、難民申請者の問題について書いたパンフレットを、関係者に配りました。また、牛久の収容所に収容されている友人たちの処遇を改善させるために、面会に訪れました。政府のしていることを、日本人も一緒に訴えました。マスコミも世論も、もっとこの問題に敏感になってくれるとうれしいです。
イラクとクルディスタンの方向性について、日本人の考えを明らかにしたデモに、友好協会から8人の代表が参加しました。そしてクルド人も自分たちのメッセージを読み上げ、続いて、今後もこういった活動を行っていこうと提案しました。
日本の中にある国際的なさまざまな事務所との関係を築くために、それらの場所を訪問しました。クルド人の現状を説明し、この問題の解決に向けて話し合いました。NGO はクルド問題について、大変よく理解しています。今後も継続して訪問をしたいと思います。
その他にも、友好協会ではさまざまなことを行いました。日本にいるクルド人たちみんなに働きかけ、いつも会合を開き、メンバーを増やす努力を続けました。その結果、クルドについて理解する日本人が増え、雑誌や書籍、新聞やニュースも出ました。何をするべきか
友好協会の今後の方向性と目的があります。まず、日本で生活するクルド人たちに、友好協会のメンバーになり、そして、そのメンバーひとりひとりが、友好協会の力になってほしいと思います。メンバーの中で選挙を行い、新しいスタッフと責任者を選出します。クルディスタンの権利の問題を大切に考えていかなければなりません。また、日本の国民とのさらなる信頼と友好関係を発展させ、地域住民の人たちとも積極的に交流し、私たちを理解してくれる人たちとの親交を深めたいと思います。新聞やテレビなど、メディアへのメッセージも出します。日本政府とクルド人の問題について、良いお知らせが出来ればうれしいです。そして、クルド人たちに日本の文化も紹介したいと思っています。
これから私たちは、真剣に取り組んでいかなければなりません。一人ひとりが、わたしたちの祖国クルディスタンに対して責任を持ち、クルディスタンを大切にしていかなければいけないのです。