サービス労働論の価値形成、そしてその消費と商品化

――原田実氏の刀田和夫氏批判をもとにしてのひとつの覚書――

 

長山雅幸

 

 はじめに

 

 本学において私が経営法学科のサービス経営論を兼任担当していることは周知のところであろう。講義のシラバスには次のように記してある。「『サービス』という概念は、非常にやっかいな概念である。それはひとつには、古典的な経済理論から学ぼうとしても、そこでは『サービス』を中心的には扱っていないからである。また次に、この『サービス経営論』という学問自体が新しいものである。本稿義では、先駆的と言われている『サービス』の事例を取り上げ、考察・検討しつつ『サービス経営論』の理論構築の試みを行いたいと思う」。

 ここでは、正直に「試みを行いたいと思う」と記して、私自身が自分の講義内容は必ずしも「完成品」ではないと告白しているのである。シラバスの中で控えめに行われている告白の理由は、サービス経営論=現象論とサービス労働論=本質論との間の一貫性が私の中でまだ形成されていないところに由来する。

 ダニエル・ベルの指摘以来、社会が大きく変わり、その中での「サービス」の役割の増大は広く知られてきた。そうしたものとして、私の講義の最初の部分では、「引っ越し業」のパイオニアである「アート引っ越しセンター」を取り上げている。

 従来、引っ越しは運送業の仕事の範疇であった。そこでは、荷物を運べばいいという「運送業の常識」がまかり通っていた。集金も運転手が軍手を脱いだ手で無愛想に集金してゆくだけであった。まず、そうした中から、自分が経験して嫌だなと思ったことを取り除いていこうというのが「アート引っ越しセンター」創業者・寺田千代乃の出発点であった。ちなみに、運送業の中で、引っ越しというのはあまり儲けになる仕事ではない。運送業は運送した距離によって稼ぐ仕事であるから、市内の引っ越しなどといったら、これはもう小口の仕事としかいいようがない。しかし、寺田氏は、この小口の仕事にもっとサービスを、と考えた。営業、見積もり、集金は勿論、作業員の接客態度も徹底した。更に「引っ越し業」を「サービス業」と捉えるとより仕事に幅と奥行きが生じてくる。有名な「おまかせ引っ越しパック」がそれである。それまで依頼人が自分ですることが常識であった荷造りも引っ越し屋がやるとなれば、その部分の代金が発生する。この荷造りは決して商品の生産ではないから、経済学的に見ても完全なるサービス労働であり、薄利の引っ越し業が更に豊かな産業に発展する見込みを示した。現在のCMを見ると女性のニーズに応えた「女性だけの引っ越し」「レディースパック」が新「商品」として打ち出されている。この差別化戦略は、汚らしい作業服にいかつい顔の「お兄ちゃんたち」が来る他の業者の引っ越しを経験した女性にはかなり訴求するものではないかと私は見ている。サービス業としての引っ越し業がどこまで進化するのか、まだまだ目が離せない状態である。

 しかし、である。スミス以来の投下労働価値説に立脚するマルクス経済学においては、「サービス」という概念は極めて厄介な概念なのである。この点は――自覚しているかどうかは別であるが――いわゆる近代経済学も同様である。

 今更私などが述べることではないが、マルクス経済学においては、労働者の肉体に内在している労働力が賃金を支払う対象であり、商品なのである(労働力商品)。そして、労働者が職場に赴いて行う行為、これが労働である。しかし、18世紀のイギリス工業社会を分析対象としたマルクスの場合、主に念頭にあるのは、工業生産であり、工業生産労働である。これに対して、コンサートでのオーケストラ団員の労働、床屋の労働、教師の労働、これらはサービス労働と呼ばれる。この点については、経済学を勉強していない学生諸君も納得するところである。

 

 Ⅰ サービス労働をめぐるマルクス経済学内部の論争

 

 しかし、マルクス経済学の内部では、サービス労働の価値形成性をめぐって長年の論争がある。「通説派」と呼べるグループはサービス労働の価値形成性を全面的に否定する。当然、これには、サービス労働の価値生成性を主張する「反通説派」が存在し、更に、「両者の中間にあって教育および医療などのサービス労働による労働力価値の形成を主張し、それら労働力商品を生産するサービス労働に限ってその価値形成性性を肯定する部分的肯定説ともいうべき主張を行って」いる櫛田豊氏と斎藤重雄氏がいる。この説は、長年サービス労働の研究に携わってこられた金子ハルオ氏によって「サービス労働・労働力価値形成説」と呼ばれている。

 ちなみに、金子氏は、サービス労働の価値形成を全面的に否定する「通説派」の代表である。それでは、「反通説派」の代表的な論客は誰か。これは難しい問いであると思われるが、近年盛んに論文を発表し、論争を展開されている刀田和夫氏がその旗手であると見ることができるであろう。

 そして、マルクス経済学の発展の上に、現実の「常識的」な現象であるサービスの問題(上に見た「アート引越センター」のような現象)を位置づけることがつくづく難しいと感じたのは、原田実氏の刀田氏に対する批判論文に接してのことである。

 

 Ⅱ マルクス経済学における私のスタンス

 

 ここで、私のスタンスを示しておくべきであろうか。私は、『資本論』は厳格かつ厳密に理解されるべきであると考える。この点では、宇野派の人々とも袂を分かつ。しかし、上にも書いたように、『資本論』は18世紀のイギリス製造業を分析したものである。私は、『資本論』は、「労働力商品」、「労働の二重性」、そういった投下労働価値説の基本的な概念を堅持しつつ、21世紀の経済現象をも説明できるように進化を遂げなければならないと考えている。しかし、学説史をひもとけば、それが全くもって容易なことではないことが一目瞭然である。ヒルファーディングは『金融資本論』を書いたが、その「価値形態論」の部分は歪曲だという批判もある。その後、レーニンが『帝国主義論』を書いたが、マルクスの『資本論』の壮大な体系にはとても及ばない。にもかかわらず、我々は、マルクス主義を発展させたのは、レーニンまでであって、そこに立ち止まっていることを認めざるをえない。マルクス経済学の内部でのサービス労働論の議論を指して、「勢い議論は些末な点にこだわらざるをえない。こうして、『サービス』論争は延々と続き、当事者以外にはさして関心を惹かない批判や反批判の論文が大量に生み出されることになる」と揶揄されようとも、我々凡人は、21世紀のマルクスの登場の為にせっせと道を掃き清めてゆくしかないのである。私は、このサービス労働の問題に限らず、そうした意図で、細かな研究を積み上げていっているつもりである。それ故、現実の私は極めて中途半端な状態にいると言える。暴風雨のように21世紀の経済全般を襲うサービス経済化の波に大きな関心を寄せつつも、巨大にして精密な航空機のような『資本論』体系に一点の破綻もきたすことなく、そこからサービスの問題を解明する方策を探っているのである。以下において、杓子定規に『資本論』の規定を意欲的な理論に当てはめてこれを裁断するかのような印象を与えるかも知れないが、それは決して「保守派マルクス主義」ということではないのである。

 

 Ⅲ 原田氏の刀田氏批判――サービス労働は直接消費されるのか商品を生産するのか――

 

 さて、論をもとに戻そう。原田氏は、「人間は生きていくためには様々な物的財貨を消費しなければならない」という自明の真理から説き起こす。そして、次のような『資本論』講義を開示する。「物的財貨を生産する労働は生きた労働の形態においては何ら有用な労働ではなく、有用な財貨に結実して初めて有用な労働であり、そして財貨の消費という形態で労働が消費されるのである。したがって物的財貨の消費は死んだ労働あるいは対象化した労働の消費、または労働の間接的な消費ということができるであろう」(強調は引用者)。そうした上で、原田氏は「ところで人間はただこういう形態でしか労働を消費することができないであろうか」と問い、介護労働を例として挙げながら、「このように生きた労働そのものが直接に有用な労働として消費されている分野を筆者はサービスと規定する」と独自の見解を打ち出す。

 そうであるとすれば、「労働そのものが売買されていると考えざるを得ない」ということになるのは当然である。しかし、この主張は、『資本論』を読み慣れた者にはやや奇妙な印象を与えると言っていいであろう。それ故に、「一般にサービス労働価値形成説と呼ばれている」ところの「サービスの分野においても労働とは区別される有用効果、無形あるいは非無形生産物が生産され、それが商品として売買され、消費されていると主張する」学説が現れるのも当然と思われる。マルクスもまた、周知の『資本論』冒頭部分で「資本制的生産様式が支配的に行われている社会においては、社会の富は膨大な商品の蓄積として現れる」と書いている。原田氏のように考えると、無政府的な社会的分業の結果、「社会の富」は商品として現れざるをえないという『資本論』の基本ロジックはどうなるのであろうか。

 原田氏はそのことを問題にしてはいない。ここで原田氏にとって問題なのは刀田氏に代表されるサービス労働価値形成説(原田氏によれば、サービス労働商品形成説と呼ぶ方が適当)の批判なのである。原田氏によれば、この説の第一のポイントは次のようになる。「サービス労働においてどのような商品が形成されるかは論者によって異なるが、われわれは刀田和夫氏の主張とその他のサービス労働商品形成説に区分することができる」。

 原田氏によれば、「刀田氏が見いだされるサービス業の生産物はサービスの種類によっていろいろである」が、「中でも出色なのは『形状変化』あるいは『形態変化』という生産物である」。では、原田氏とともに、刀田氏の言うところを――長い引用になるが――見てみよう。

 「例えば衣服の仕立てなどの加工サービスを考えてみると、活動は布地の形状の変化に体化し、その結果布地は衣服になる。既製服の生産・販売では形状変化した布地である衣服が売られるが、仕立てサービスでは布地は客の所有物であるから、売られるのは形状変化という結果だけである。前者では『モノ』全体が商品であるのに対して、後者では『モノ』の上の形状変化でしかない。向じく販売される活動の結果たるものではあっても、同次元のモノではない。他方、客が消費するのは既製服を買う場合は縫製業者の活動の結果であり、また販売品である衣服そのものである。しかし仕立てサービスの場合は、それはサービス業者の販売物である活動の結果・変化した形状を消費するのではなく、それが表されている衣服そのものを消費するのである。前者の提供物である『モノ』は独立の消費の対象だが、後者はそうではない。この意味でもこの種のサービスと『モノ』商品とは同次元で比較できるものではない。同じことは対人サービスの1つである理容サービス(床屋での調髪)でも言える。ここでの活動の結果は、きれいに整えられた頭髪である。かつらの製造・販売では活動の結果である整えられた頭髪全体が商品として販売される。しかし、床屋の場合は頭髪ほ客のものであるから、それ全体は商品ではない。頭髪の上に行われたその形状の変化という結果だけが販売される商品である。また消費の対象は整えられた頭髪全体だが、それはサービス業者の提供したものではない。サービスはここでは『モノ』商品とは違って独立の消費の対象ではない。以上の点でこの種のサービスは『モノ』商品と次元を異にしている」。

 これに対して、原田氏はこう述べる。「ここで売られるものは形状変化の結果である衣服でもなければ『きれいに整えられた頭髪』でもない。そして、これもまったくそのとおりである。では、何が売られるのか。『形状変化という結果だけである』。ここにきてわれわれは完全に面食らうのである」。

 原田氏のコメントもやや理解し い。ここで例に挙げられているのは、縫製業と理髪業である。縫製業の結果は確かに「形状変化」した布地であって、衣服が商品として売買される。この場合は、抽象的人間労働は具体的有用労働(縫製)を通じて商品として物化しているのである。これが売買の対象になるのである。刀田氏の説の奇妙さはここですでに明らかである。刀田氏がこの奇妙な泥沼に足を落とすはめになったのは、その次の商品として物化しない対人サービスを商品売買として説明しようと腐心したところにあると見るべきであろう。

 原田氏の批評を更に見てゆこう。「まず、われわれがここで氏とともに確認できることは確かにそれは『次元を異にしている商品』であるということである。そして、その『次元』の差異はその商品が『独立の消費の対象ではない』という点にある。『独立の消費の対象ではない商品』は独立の使用価値を持たない商品であるということができる」。原田氏の批判は、この指摘で十分に成功しているものと思われる。「独立の使用価値を持たない商品」などありえない。それは交換、すなわち消費の対象になりえない。原田氏は「サービスが違っても同一種類の商品が売られるというのは荒唐無稽である」と揶揄しているが、「独立の使用価値を持たない」のであるから、何が売られるのかを問うことも無用と思われる。他方、恐らく刀田氏は、抽象の限りを尽くして抽出した商品範疇であると考えているのかも知れないが、いずれにせよ、価値のみを持ち、使用価値を持たない商品という範疇は成り立たない。

 

 

 Ⅳ サービス部門では何が消費されるのか?

 

 サービス労働によって生産されるものが「形状変化」であろうと、先の引用にあるように「整えられた頭髪全体」であろうと、それらは消費されえないものである。第1に、それらは交換対象とならない。第2に、消費とは、人間の意思の下に合目的的に処理され消滅する自然の物質代謝の過程であるからである。経済学全体においては、誤差として、冷蔵庫にまとめ買いして腐らせてしまった肉も「消費」に入れて考えるが、これは上に述べたような厳密な意味での「消費」ではない。

 それでは音楽の場合はどうであろうか。「……コンサートでは、演奏家によって演奏される音楽や歌が提供され、それを聴衆が買い、消費する。すなわち聴いて楽しむ。……聴衆は、楽器を奏でて歌を歌う演奏家や歌手の『労働』を聴いて楽しむのではなく、それによって演奏される音楽を聴いて楽しむのであり、これに支払う」。このように刀田氏は、「演奏家や歌手の『労働』」と「それによって演奏される音楽」とを区別して、「サービス商品=労働説」を否定しようとする。原田氏はこれに対して重ねて「コンサートにおいては、ピアノやバイオリンや演奏者たちの生きた活動=労働が直接に消費されているのである」と自説を主張している。しかし、これまた重ねて言うが、商品として対象化されていないものを、理論的に、どのように消費しうるのか疑問である。

 また、原田氏は独立の項を設けて「歌手やスポーツ選手が生産する『生産物』について」論じており、ここでは刀田氏の理論も混迷を深めているように見え、筆者はここではこの混迷には立ち入らない。この「混迷」については、今のところ筆者には積極的に述べることがない。だた、音楽についてもスポーツについても言えることは、それらが情報という特殊な商品だということである。それらが特殊である所以は、大量生産できない反面、複製が作れるというところにある。オリジナルと複製が異なるのは、少なくとも今の技術では当たり前である。原田氏は刀田氏を批判して、「日本シリーズなどのビッグゲームになるとチケットを手に入れるために何日も前から並んだり、あるいはどうしても見たいがためにダフ屋からあえて高いチケットを買うものもいるが、彼らは、刀田氏にしたがえば『同一物』がテレビ中継で見られることを知らない愚かものということになる」という批判は的を射ている。

 また、映画とビデオの関係は、複製と複製の複製という関係にある。少し待てば、1本のレンタル料で一家で1週間ビデオで見られるにもかかわらず、一人当たりの料金を支払って映画館に足を運ぶ人がいるというのは、刀田氏にとっては、不可解な現象となるのであろうか。複製(CD、テレビ中継、映画、ビデオ)を消費する場合には、完全に死んだ労働=対象化された労働、すなわち商品を消費しているのである。その複製を構成する死んだ労働は、刀田氏が言うような歌手や野球選手も自分から分離された「生産物」を生産するという意味ではなく、プレイヤーたちも『資本論』の解説書にある通りに労働を対象化するのであり、ディレクター、技術者、助手等々の労働が対象化された商品が生産され、消費者はそれを消費するのである。

 

 Ⅴ プレイヤーないしアーティストの労働の生産物の価値

 

 原田氏は、「百歩譲ってそこに生産物が形成されていると仮定しよう」とし、「問題はその『生産物』の価値である」と問題を提起している。この点を見てみよう。

 原田氏によれば、こうである。「ある物が労働によって形成されるからといって、そこに必ず価値が形成されるとは限らない。絵画や小説は労働の産物であるが、しかしその『価値』は画家や小説家がそれに費やした労働には比例しない。それはそこに費やされた労働に関わりなく純粋に需要供給関係によって決定される」。

 このように原田氏が主張するのは、次のような基本原理を原田氏が採用するからである。「筆者は労働による価値規定が適用されるためには、労働量と生産物量あるいは販売量との間に一定の比例関係が存在するということが絶対の条件と考える。この関係が存在しない場合には労働価値論は適用できない」。

 原田氏の主張に対してまず言えるのは、絵画や小説という随分と扱いの難しい、恐らくは例外的とも言えるものを持ち出している点である。ここにサービス労働を論じることの難しさを感じる。すなわち、論者はそれぞれ自分の理論に適合的なサービス労働を持ち出してそれを論じ、反論する時にはそれが当てはまらない、あるいは当てはまり難い例を挙げて反論する。しかし、こうした泥仕合も重要であると考える。なぜならば、サービス労働を論じるに当たっては、原田氏の次のような態度は中途半端なものとして排除されるべきだと考えるからである。すなわち、原田氏はこう言う。「介護の労働を取り上げて見よう。……このように生きた労働そのものが直接に有用な労働として消費されている分野を筆者はサービスと規定する。もちろんこの規定によってサービスのすべてが網羅されるわけではないが、しかしここでの議論においてはこの問題は重要ではない」(強調は引用者)。原田氏と我々が進むべき方向は、全てのサービス労働を一元的に説明すること。あるいは、例外的なサービス労働があるのであれば、それを理論的に峻別すること、であろう。刀田氏の議論は、全てのサービスが「商品」を生産するとして全てのサービスを一元的に説明しようとしたところに積極的意義があるのではなかろうか。

 さて、議論をもとに戻そう。ただし、絵画や小説はあまりにも複雑な様相を呈するように思われるので、音楽家のサービス労働という比較的近似なものを素材に論じたいと思う。サービスが価値を産むのか産まないのかは一大議論であるから、それに判断を下すことはここではできないが、原田氏の刀田氏批判の脈絡にそって、音楽家の「生産物」の価値は如何に、と問いを立ててみよう。これが原田氏の言うように「そこに費やされた労働には関わりなく純粋に需要供給関係によって決定される」とするには大いに疑問である。少なくとも日本で公演が行われる場合、新日本フィルハーモニー管弦楽団とベルリンフィルハーモニー管弦楽団とでは、チケットの価格が違う。CDの売り上げ枚数も違う。それは、両者のプレイヤーの才能と熟練の違いである。『資本論』体系には「才能」という概念は存在しないから、これを排除してもいい。ドイツからの渡航費用を差し引いても、ベルリンフィルの熟練がチケットの価格を第一義的には決めるのである。勿論、内田義彦氏の『資本論の世界』にもあるように、熟練労働を理解せずしても、ファッションとしてベルリンフィルのチケットを買い求める人が存在し、それが結局需給関係に反映しているという事実はあるだろうが。

 この場合、サービス労働のオリジナルは、確かに、労働の熟練度を高めて演奏に臨んでも大量生産はできない。しかし、そのライブ録音(情報の複製)は、大量生産できる。名演であれば、それだけ大量に売れ、大量生産が行われる。原田氏が価値を形成しないものとして挙げている作家の労働、デザイナーの動労も、同様に、単に需給関係に帰するのでは、労働の熟練(複雑労働)という点を見落としていると言わざるをえないのではなかろうか。

 

 むすびにかえて

 

 さて、先に筆者は、小説や絵画を、複雑なものとして考察から排除した。しかし、これまでの考察で包括しきれないサービス労働は多々ある。例えば、モデルの労働はどうなのか? 支払われるギャラ(賃金)の相違は需給関係のみに帰するものなのか。更には、整形されたモデルの容姿は消費されるものなのであろうか? あるいは、宗教家の労働はどうなのか。こうなると我々は、斎藤重雄氏と同様に、宗教行為「でのサービス生産の本質は観客(この場合は妥当な表現ではないが――引用者)の気分転換で、転換された気分が生産物であり、瞬時に消失する流動状態でも、ましてや流動的な具体的労働でもない」、宗教家の「労働と労働手段とが結合して生まれる」癒し「自体は活動状態の中間生産物であり、観客はこれを自らの再生産のために生産的に消費する。リフレッシュされた気分・生産物の消費過程はこの気分での生活過程や、労働力の発現過程である」、と言いたい衝動にかられる。しかし、この斎藤流「商品」は労働が対象化=外化されたものではなく、また交換=購買の対象となりえず、決して「商品」とは言えない。

 「サービス経済化の進展」ということが盛んに言われている今日、サービス労働の一元的理解、あるいはサービス労働の理論的な分類、これが今後我々が早急に解明すべきものであろう。

 

2002年3月27脱稿)