『君たちはどう生きるか』考
--社会科学と社会科学教育についての一つの覚書--
長山雅幸
表題の『君たちはどう生きるか』とは、いうまでもなく吉野源三郎著の岩波文庫の書名である。決して私がそんな大それた提起をしようというのではない。
私がこの本に出会ったのは、たしか大学院のD3か助手の頃であった。出会いの事情はこうである。
私の大学院時代の師であるH教授は、私がD2の時にT大学を退官し、その後、M学院短大に移られた。退官後も大学の図書館などを利用しに来るH教授からは、いろいろなことをご教授いただいた。その中での話である。H教授は、M学院でのゼミのテキストにこの吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を選んだというのである。ちなみに、その後、H教授は、ミヒャエル・エンデの『モモ』やサン・テクジュベリの『星の王子様』をゼミで取り上げていた。
さて、H教授から『君たちはどう生きるか』の話を聞いた私は、恥ずかしながらそれまでに同書を読んだことがなく、早速、生協の書籍部に行って手に取ってみた。しかし、数頁読み進めたところで棚に返したのである。ご承知の読者も多いこととは思うが、主人公は「コペル君」というあだ名の15歳の少年である。話は彼の身辺に起きたことを描写してゆくだけであり、文体もまた私の趣味ではなかった。
そうして私の『君たちはどう生きるか』との出会いから10年近くたって、私はふとこの本を思い出したのである。そのきっかけは、2年の基礎演習の学生を募集するにあたって、何か読んでもらって感想文でも書いてもらおうと思いついたことである。ちなみに、学内のインターネット上に示した指定文献は次の通りである。
・吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫、1982年
・天野正子『「生活者」とはだれか』中公新書、1996年
・池上惇『情報社会の文化経済学』丸善ライブラリー、平成8年
・永井均『<子ども>のための哲学』講談社現代新書、1996年
・蓮実重彦『われわれはどんな時代を生きているか』講談社現代新書、19998年
・大沢真知子『新しい家族のための経済学』中公新書、1998年
・寺島実郎『国家の論理と企業の論理』中公新書、1998年
・見田宗介『現代社会の理論』岩波新書
・西山賢一『企業の適応戦略』中公新書
・水田洋『アダム・スミス』講談社学術文庫、1997年
・梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、1974年
・伊藤信吉『ユートピア紀行』講談社学芸文庫、1997年
・間宮陽介『市場社会の思想史』中公新書、1999年
・飯田経夫『NHK人間大学 「豊かな国」のゆくえ』日本放送出版協会、平成11年
・宮部みゆき『火車』新潮文庫、平成10年
私はシラバスに「本演習では、できる限り身近な事例・事象を経済学的ないし社会科学的に理解する目を養うことを目的としている」と看板を掲げている。ちなみに、ゼミで用いる文献は、輝峻淑子『豊かさとは何か』(岩波新書)である。
さて、こうしたお題目を掲げている演習に入ってくる前に読んでもらうべき本は何か。そこで私はまず『君たちはどう生きるか』という魅力的なタイトルにもう一度引きつけられた。そこで、今度こそ読んでみたのである。主人公が15歳ならば恐らく読書対象もそのぐらいの年齢を考えているであろうし、それであれば本学の学生諸君も気軽に読めるだろうと思ったのである。ちなみに、上記の指定文献リストの順番にはある程度の優先順位がついているのである。
しかし、私は全く愚かだったことに気がついた。確かに『君たちはどう生きるか』は、私がシラバスに掲げているテーマにぴったりであった。いや、むしろ、私のごときがこのテーマに込めた以上のものを本書は持っていた。それは本書の巻末にある丸山真男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想--吉野さんの霊にささげる--」に端的に示されている。
まず、丸山は、本書との出会いをこう述べている。
「一方的な会遇と申したのが、もう御推察なさったと思われますように、昭和十二年に『日本少国民文庫』の一冊として新潮社から出た『君たちはどう生きるか』なのです。この書物から受けた感銘については鶴見俊輔さんも御葬儀の弔辞で語られたように伺っております。けれども鶴見さんは年齢からいっても、私より七、八歳年下で、その点だけでいえば、まさにこの文庫が、またこの書物が対象とした「少国民」の一人であったにちがいありません。コペル君よりは年上にしても、すくなくともまだティーンエージャーだったでしょう。ところが、私がこの作品に震撼される思いをしたのは、少国民どころか、この本でいえば、コペル君のためにノートを書く「おじさん」に当たる年ごろです。私はこの本がはじめて出たのと同じ昭和十二年に大学を卒業して法学部の助手となり、研究者としての一歩をふみ出しました。しかも自分ではいっぱしにオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したしたからではなく、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。何という精神的未熟さか、と笑われても仕方がありません。当時私はどちらかというと、ませた青年だ、と自分で思いこんでいましたから一層滑稽なのです。」(『君たちはどう生きるか』岩波文庫、309-310頁)
研究者ならまだしも、教育者でもある、しかも上に掲げたようなシラバスの内容を謳い文句にしている、そうした私にとっては、丸山のこの感想は「まさにその通り」であり、一層「一層滑稽」なのである。
『君たちはどう生きるか』は、そのタイトルが示す通り、そして、本書が1935年10月から山本有三の編纂され、1937年7月に全16巻が完結した『日本少国民文庫』の第5巻で最後の配本であり、「少年のための倫理の本」(303頁)であった。1935年といえば、すでに4年前に満州事変が起こり、国内では日増しに軍国主義の色彩が強くなっていった時代であった。この『日本少国民文庫』もまた、こうした情勢を意識したものであった。すなわち、「先生(山本)は、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめてこの人々だけは、時勢の悪い影響から守りたい、と思い立たれました。先生の考えでは、今日の少年少女こそ次の時代を背負うべき大切な人たちである。この人々にこそ、まだ希望はある。だから、この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかしてつたえておかなければならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない、というのでした。荒れ狂うファシズムのもとで、先生はヒューマニズムの精神を守らねばならないと考え、その希望を次の時代にかけたのでした。」(302頁--強調は引用者)
こうした背景の下で書かれた『君たちはどう生きるか』は、倫理の本として企画されたのであり、さらに砕いて言えば、人生訓である。しかし、吉野自身、「三百枚という長さを、道徳的なお説教で埋めても、とても少年諸君には読めないだろうと考えました」(303頁。)そこで吉野は「山本先生にご相談して、一つの物語として自分の考えをつたえるように工夫しました」(同頁)。
しかし、こうして成立した『君たちはどう生きるか』のユニークさは、丸山が指摘するように、「人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会科学の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点」にあるのである(310-311--傍点は原文、下線は引用者)。
吉野が当時の少年少女に示した社会科学的認識のモデルは、本書の「一、へんな体験」と「三、ニュートンの林檎と粉ミルク」である。
前者の内容は、おおよそこういうことである。コペル君が「まだ一年生だった去年の十月×日、午後」、叔父さんとデパートの屋上から街を見下ろしていた。すると、ふとコペル君には、眼前の東京の街が海のように見え、そしてその海面下に何十万人という、コペル君の知らない、多様な人々が生きているということに気づく。そして、デパートの上からにると甲虫のごとき車や電車に乗って「海の潮のように、満ちたり引いたりしている」(15頁--叔父さんの台詞)ことに気づき、「人間て、ま、水の分子のようなものだねえ」と考え至る(16頁--コペル君の台詞)。これを叔父さんが、コペル君の天動説から地動説へのコペルニクス的転回だと指摘する(これが「コペル君」というあだ名の由来である)。そして、「自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ」と展開する(26-27頁--おじさんのノート) 後者については、丸山が適切な要約を行っているので、これを引用することにする。「コペル君がラクトーゲンの粉ミルクで育ったことから考えを押しすすめて、粉ミルクがオーストラリアでつくられて日本にくるまで、さらに日本に来てコペル君の口にはいるまで、どれだけいろいろなちがった仕事をする人がその間に介在しているかを順々に考えてゆき、やがてコペル君のすぐ目の前にある電灯や、時計や机や畳などもが、ラクトーゲンの場合と同じように、そのうしろに数えきれない道の人のとりむすぶ関係のなかでつながっていることに気づきます」(311頁)。そして、コペル君は、これを「人間分子の関係、網目の法則」と命名する。
そして、叔父さんがこれを受けて、「人間分子の法則」の不足部分を補いながら、それを「生産関係」の説明にまで進める。ここを読み進んで、私は丸山と同じく、思わず唸った。「これはまさしく『資本論入門』ではないか--」(312頁)。『資本論』冒頭の商品論である。「けれどもとっくにおなじみの『知識』になっているつもりでいた、この書き出し(冒頭商品論--引用者)を、こういう仕方でかみくだいて叙べられると、私は、自分のこれまでの理解がいかに『書物的』であり、したがって、もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識にすぎなかったかを、いまさらのように思い知らされました」(313頁--アンダーラインは引用者)。サラリーマンを経験し、日本で一番生活しにくいと言われている自治体で子供を持ち「生活者」として生きてきたことを自負し、そこから”生きた”、”現実説明能力のある”経済学を構築しようなどと本気で目論んでいたのであるから、「思い知らされ」たなどというものではなく、とんだお笑い種である。
ところで、A君はこの吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を選んでレポートを書いてきてくれた。ちゃんと素材の部分はつかんでいた。そして、彼はこう感想を述べている。「私は、この本の叔父さんやコペル君のようになぜ万有引力の法則をニュートンが見つけたのか、そんなことは正直に言って考えたことはない。だからこの本の登場人物はまじめな人たちなんだと思いました。/ 私は今までどんな話を聞いても自分自身でなにか特別なことを考えようとしたこともありませんでした。」ここまで書いてくれれば、私の当初の目論見はかなり成功したものと思っている。また、シラバスに書いてある「身近な事例・事象」としてアルバイトを重視している。この点についてもA君はこう書いている。「自分でもバイトで、これは誰が買うのだろうと思うことがあるのにもかかわらず、(そのことについて--引用者)本気で考えたことのない自分自身にくやしさを感じました。/ だから、人は思うことがあっても、それを本気で考えることができないのだと思う。」
A君の文章には反省や悔しさはあるが、認識が変わった、開けた、という様子は見られない。また、コペル君や叔父さんの思考態度を「まじめ」ということで片づけ、「人は思うことがあっても、それを本気で考えることができないのだ」と絶望的な結論へといたってゆく。このような若い経済学徒に対して私には何ができるであろうか。
また、B君は『〈子ども〉のための哲学』でレポートを書いてくれた。彼は「本書の哲学の学び方は、とても簡単なものでした。大人になる前に抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、つまり子供の時抱く素朴な疑問の数々を、自分自身が本当に納得がいくまで決して手放さないことである」と書き、哲学の根本的な意義を学んだ。書物的に、である。
私の専門基礎演習では、夏休みにディズニーランドへ行き、生のディズニーランドの経済学、経営学、サービス経営、そういったものを参考文献を頼りに自分の目で観察・分析し、レポートを書いてもらうことになっている。往々にして書物的になってしまいがちな社会科学の学習を物に即して行ってもらおうというのである。
さて、このディズニーランド研修、そしてまた今後のゼミ教育。どのように行ってゆけばよいのか。次は『君たちはどう生きるか』の「おじさんのノート」の部分について読み直し、ヒントを探ってゆきたいと思う。
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