湯田町の産業と「魅力ある観光地づくり」
長山雅幸
本稿は、図表の点で、最終的に『年報』に掲載されたものとは異なっています。
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はじめに
去る2001年12月11日に、西和賀郡湯田町で、岩手中部区広域市町村圏事務組合主催、本学附属地域経済文化研究所共催で、湯田町を対象に「岩手中部・地域フォーラム」が開催された。基調講演は笠井雅直氏(名古屋学院大学教授)による「魅力ある観光地づくり」であり、パネルディスカッションのテーマは「温泉文化の町、再発見による観光地づくり」であった。そして、このパネルディスカッションのコーディネーターは高橋秀憲氏(本学教授)、パネリストは影山一男氏(本学助教授)、細川春雄氏(ほっとゆだ地域づくり委員会事務局長)、高鷹峰子さん(「湯の花会」会長)、そして筆者であった。本稿では、10分間の発言時間で言い尽くせなかった内容を述べてゆきたいと思う。
Ⅰ 湯田町の歴史から「魅力ある観光地づくり」を考える
岩手県湯田町は、いわゆる岩手県中部地域の西側に位置し、国道107号線(旧「平和街道」)ならびに秋田自動車道の北上市-横手市間に広がる町である。鉄道では、北上市と秋田県を結ぶJR北上線(旧「横黒線」)の走る町である。
この町の歴史的な、あるいは温泉文化の中心地が湯本温泉地区である。この湯本温泉地区は、湯田町のほぼ北西部に位置し、正確な位置を示せば、地区内の湯本郵便局の位置は、東経140度6分32秒、北緯30度20分34秒である。また、平地部の標高は、湯本公民館付近でほぼ255メートル、地区の南北の距離は約800メートル、東西は広いところでは約250メートルあり、面積は0.30平方キロメートル、人口と世帯数は、平成7年10月1日現在の国勢調査では、人口が553人(男、250人、女、305人)で、世帯数は189世帯となっている。湯田町全体では、平成7年10月1日現在で人口4,471人。人口減少が続いている。この人口減少の様子は、表1に明らかである。
湯田町の現在の主な産業は農業、そして温泉旅館業である。かつては、林業と鉱業も盛んであった。温泉については、湯本温泉に関して言えば、口伝によると万治元年(1658年)に狩人によって発見されたとされているが、実際にはもっと古いのではないかと言われている。『南部御領温泉記』には「湯田の湯、和賀郡沢内村付近にあり、湯坪1ヶ所、自然の岩を横半間長さ一間に掘り、湯船にする」とある。また、『沢内風土記』(宝暦13年〔1763年〕)には、「称すべきは湯田の温泉である。羽州秋田の人々は、毎年、夏から秋にかけて、老若男女、僧侶までが次々とやって来て、その数が年中二、三千もあるという。これはこの湯が病気によく効く何よりの証拠である」とある。
さて、時代は下り、明治、大正時代に入ると町内各地で鉱業、林業が盛んになり、木炭や薪が多く出荷されるようになった。こうしたことから、平和街道や横黒線も開通する。また、これとともに町内の交通手段としても、人力車や馬車、馬ソリが活躍するようになった。「岩手県南バス労組史」(1985年)によると、昭和4年に湯本ホテルが町内で初めて専用自動車で川尻~湯本間を1日6往復運行を開始した。昭和10年頃のバスの運行状況について、新田喜代松さんは、「私は昭和4年に小屋敷さん(鉄三=八戸出身の人で湯本ホテル専用の運転手をした)の助手になった。主に川尻駅から新町まででそれ以上は道路が悪くて行けなかった。翌年から川船まで行った。客はお寺さん、役場関係で紅葉時となれば、湯本温泉までの客で忙しかった。普段は湯治客も客筋だった。料金は湯本―川尻間が50銭か60銭だったろう。ガソリンは一缶が1円30銭だった。当時の車はガソリンが切れれば途中の民家から石油を借りて走ったものだった」と回顧している。
湯田町の温泉情緒を省みながら昔話を語ればおおよそ以上のようである。それでは次に、これまた大雑把なものではあるが、湯田町の平成までの歴史を年表化して分析を試みよう。それが、表2である。
万治元年 (1658) | 狩人によって湯本温泉が発見される。(口伝) | 温泉 |
宝歴13年 (1763) | 秋田から多くの湯治客が来る。(『沢内風土記』) | 温泉 |
明治20年 | 平和街道完成 | 交通 |
明治23年 | 赤石鉱山創業 | 鉱業 |
明治26年 (1893) | 正岡子規が湯本温泉に投宿する。 | 温泉 |
大正12年 | 湯本温泉株式会社創業 | 温泉 |
大正13年 | 横黒線(北上線)の全通 | 鉱業 (交通) |
大正15年 | 「この地は温泉のみによりて生活するにあらず三十余の商家と多数の農家があるため設備の完備せる割合には物価の安さに驚くばかりなり。」(”温泉春秋”) | 温泉 |
木炭検査所川尻出張所設置 | 林業 | |
昭和5年頃から | 旅館業(湯治宿も含む)が経済の中心になる。 | 温泉 |
太平洋戦争中 | 軍用材として大量の林産物が生産され、”半農半林”といった形での林業労働者が増加した。 | 林業 |
昭和35年 | 人口がピークに達する(12,913人)。 | |
昭和39年 | 赤石鉱山操業停止 | 鉱業 |
昭和45年 | 「湯田町過疎地域振興計画」策定 | |
平成6年 | 観光客の伸び悩み・減少傾向が見られ始まる※。 | 温泉 |
平成9年 | 秋田自動車道開通 | 交通 |
表2
上に見た点と重複するが、湯田町は18世紀から秋田圏の温泉地として栄えていた。正岡子規が投宿したところからも、当時、有数の温泉地となっていたことがうかがわれる。また、大正12年の湯本温泉株式会社の創業は、近代的な意味でも湯田町が温泉地として反映していたことを意味していると言えるだろう。他方で、明治23年には、象徴的なものとして、赤石鉱山が創業を開始し、鉱山の町としても繁栄を遂げてゆくことを示している。大正13年の 線の開通は、鉱山の繁栄によるものであったが、またこれは、湯治客を大量に運んでくることになる。湯田町が繁栄の極みへといたる時期である。また、大正15年に木炭検査所川尻出張所の設置や太平洋戦争中の林業の繁栄は、温泉、鉱山とならんで、第3の産業として林業が湯田町の基幹産業であったことを示している。
やや唐突であるが、湯田の昔話に「首切り地蔵」というものがある。その冒頭をここに引こう。
「仙人峠から小繋(のちの大荒沢)へ下り、ここから坂をのぼって板敷野(いまの峠山)、本庄へ通るむかし道(秀衡街道)の、その坂道のわきに、赤いずきんをかぶった地蔵さまがまつられていた。
近所の人たちは”首切り地蔵さん”と呼んで、毎年新しいずきんやよだれかけをあげて、ねんごろにまつっていた。
村の人たちに大事にされている首切り地蔵には、今から約二百四十年も前に、村がひっくるかえるほどさわいだある悲しいできごとが秘められていた。
田畑が少ないこの山里に住む百姓達は、 でかせぐか山の木をたよりにして、やっと生きていた。しかし、山は全部殿様のもので、木一本きるにしても殿様のお許しがなければならなかった。」
そこで暮らしに困った村人たちが欅の銘木を盗伐することにした。首領となった孫作は、事が発覚した際には自分一人で責めを負うと主張し、着々と計画を進めた。しかし、周到に計画した筈の盗伐計画も発覚し、孫作一人が責めを負い、獄門さらし首となった。この首切り地蔵は、この孫作の霊をなぐさめるためのものなのである。
さて、ここでの主眼は湯田町の悲劇の紹介ではなく、今から二百数十年前にも湯田では農業だけでは生活してゆけず、鉱業ならびに林業で生計をたてていたということである。昭和5年にはすでに旅館業が湯田町の経済の中心になったと言えるが、太平洋戦争中は、鉱山労働者とならんで、林業労働者も多く存在した。
しかし、昭和35年には人口がピークに達する。すなわち、それ以降減少の一途をたどることになるのである。人口減少に大きな拍車をかけたのは、昭和39年の赤石鉱山の操業停止に始まる鉱山の相次ぐ閉山である。昭和40年代にはすべての鉱山が操業を停止する。そうした中、昭和45年には「湯田町過疎地域振興計画」が策定されることになる。
かくして、温泉の町から始まった湯田町は、その後、林業、鉱業で栄えるわけだが、後二者は、輸入に押される形で湯田町から消えてゆく。いわば、湯田町は「歯抜け」の形でもとの温泉町に戻ったのである。そのもとに戻った姿は過疎の町となった訳である。温泉(旅館)業は林業、鉱業のようなラディカルな減少あるいは消滅という形をとることなく安定した動きを示しているが、それは、それ以前に比べて「安定している」がゆえに林業・鉱業消滅の穴を埋めるものではない。否、むしろ、安定的ではあるが、伸び悩み、あるいは減少傾向が見られるのである。この伸び悩み・減少傾向を『湯田町過疎地域自立促進計画』は、こう分析している。
「近年の入れ込み者の伸び悩みは、旅行のニーズが団体・宴会型からグループ・癒し、体験型へと変化しており、受け入れ側の対応の遅れも一つの原因と考えられ、温泉旅行組合では、地域の食、自然、温泉を組み合わせたツアーを企画実施する等、新たな取り組みも見られる。」
聞き取り調査でも、多くの関係者から、かつては秋田県からの団体客が投宿し、宴会を行い、また、飲食街へと出ていったが、近年、こうした観光客の減少が著しいという意見が多く聞かれた。こうした観光客の減少の原因はいくつか考えられるが、ここでは、①自動車の普及と性能の向上、①’道路網の発達、②日本の富裕化、この2点が主要なものとして挙げられるのではなかろうか。①と①’とは、合わせて高速交通社会の到来と言ってよいであろう。このように考えると、秋田県側から、ひと山ふた山越えて温泉の町にやってくることが観光であった時代に対して、その程度の移動ではもはや「観光」という実感が味わえなくなったと考えるべきであろう。この「歯抜け」の状態は、産業別就労者数からも確認することができる。それが表3である。
それでは、湯田町にはどのような観光客が訪れるであろうか、あるいはまた、呼び込むことができるであろうか。次に、この点について考えてみよう。
Ⅱ 湯田町を訪れる観光客のニッチ・パターン
生物学の棲み分け(ニッチ・パターン)の考え方を援用して湯田町を訪れる観光客の動向・動態、そして今後の展望を考えてみよう。湯田町を訪れる観光客のニッチ・パターンを、横軸に目的、縦軸にかける費用を取って考えてみよう。そうすると、以下のようになるものと考えられる。
デラックスタイプ
A領域 B領域
温泉(保養)目的観光客 湯田町ファン
日帰り入浴B型
湯治型=従来型 アウトドア型
C領域 D領域
安価タイプ
図1 湯田町を訪れる観光客のニッチ・パターン
このように、A領域=「保養目的デラックスタイプ」、B領域=「観光目的デラックスタイプ」、C領域=「保養目的安価タイプ」、D領域=観光目的安価タイプ、この4つのパターンが得られるであろう。
現在の湯田町の観光客の基幹的なタイプは、C領域の湯治型であると言ってよいであろう。また、昭和30~40年代はA領域の「保養目的デラックスタイプ」であったと言ってよいであろう。しかし、宝歴年代まで遡れば、伝統的に湯治の町であったと言ってよいであろう。さて、現在の問題は、昭和30~40年代のA領域の「保養目的デラックスタイプ」の欠如をどう埋めるかということになるであろう。
話は前後するが、それぞれの領域のニッチの特徴をひとつずつ見てゆこう。
順序が前後するかもしれないが、まず、現状であるC領域の「保養目的安価タイプ」から見てゆこう。このタイプは、典型的に湯治客である。食事は車などで運んでくるか、地元のスーパーで買うかなどの自炊型であり、布団さえも持ち込みであることが多い。宿泊日数も1週間などを単位として予約が入る。関係者からの聞き取りから、この客は固定化しており、その限りでは問題はない。
この形態は、温泉産業としては、次のような特色がある。
メリット | 手間がかからない(自炊)。翌年の計画が立てやすい(固定客)。 |
デメリット | 薄利である(自炊、豪華な客室を必要としない)。
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表4
湯田町の温泉(旅館)業が、広がりを見せず、雇用の拡大ももたらさない理由は、この表のデメリットに明らかである。薄利なのである。調理にかかわる消費・サービス(食材、板前・仲居の雇用など)や宿泊にかかわる消費・サービス(クリーニングなど)への波及がないのである。当然、飲食街への波及もない。それでは、もっと利益の厚い業態への移行がなされないのは何故か。それもまた、表のメリットにある通りである。自炊であり、また寝具などまで時前であるため、手間がかからず、伝統的に湯治旅館は家族経営か、半農のパートしかいないのである。これを変革するためには経費がかかる。また、固定客が多いため、1ヶ月先、あるいは来年の予定がたち、経営的に安定しており、変革の動機に火を付けるものがないのである。また、薄利で回転させているため、客室の改装などの先行投資の資金繰りも難しいのではないかと推測される。
日帰り入浴Cとは、「ほっと湯田」、「砂ゆっこ」、「穴ゆっこ」、「オアシス館」等を利用する観光客である。入浴料とレストハウスなどの飲食のみの行動となる。これまた、C領域の特徴として、薄利である。しかし、秋田自動車道の開通や国道107号線の整備などに伴って、今後の増加が見込まれる層である。私自身の調査の過程でも、赤いスポーツカーのカップルが「砂ゆっこ」を訪れていた。こうした近隣の層を「お手軽なドライブコース」として集客することが課題であろう。つまり、薄利多売路線である。
以下、領域の順番に従って見てゆこう。
A領域の「保養目的デラックスタイプ」の温泉目的観光客は、すでに述べたように、昭和30~40年代の観光客のタイプである。団体で温泉地に赴き、宴会で大騒ぎし(その分、利益も厚い)、更に近所の飲食街へと出かける(波及効果)。聞き取りによれば、観光客は秋田、主に横手から来ていたようである。しかし、これも現在ではすたれている。原因はやはり高速交通社会の到来と富裕化であると思われる。今日、湯田町近郊の人々にとって温泉地での宴会といえば、盛岡市近郊、あるいは仙台市近郊ということになるのではなかろうか。あるいは、せめて花巻温泉というところであろうか。そうすると、湯田町はこれらの温泉街からの観光客の「奪還」ということになるであろう。そうした場合には、これらの温泉地との明確な差別化が必要となるであろう。露天風呂などの入浴施設の充実、その他、客室、料理の充実は当然のこととなるであろう。そうした場合、充実を越えた特質化(差別化)等が求められることになるであろう。そう考えた場合、ほっとゆだ地域づくり委員会事務局長の細川氏の発言にあった「 」は注目に値する。「食」は、湯田町特産のきのこ・山菜を使った四季の料理であり「山里料理」と命名されている(湯田町の気候から言って、冬に関しては難しいとのことであるが)。「動」は、湯田町の自然観察(散策)である。自然の林の中を散策し、季節の花々を見る。特に春先のカタクリが素晴らしいとは、聞き取りの先々でよく聞いたことである。一見したところでは、湯田町の温泉以外の自然の観光資源としては白糸の滝ぐらいのようにしか見えないが、それだけではないようであり、また、先に見た「首切り地蔵」や「穴薬師」、「ダミ沢の供養碑」なども、もはや「自然の観光資源」に入れることができよう。更に「自然の観光資源」としては、自然を活用したイベントが挙げられる。例えば、廻戸ふな釣り大会(7月)、あやめ祭り(7月)、和賀川ゴムボート川下り(7月)、きのこ祭り(10月)や雪あかり(2月)、雪合戦大会(2月)などが典型的なものとして挙げられるだろう。しかし、ここまで範囲を広げてゆけば、ニッチ・パターン図の横軸の右側の領域、すなわちB領域に入りかねない。そこで、次にB領域の説明に入ろう。
B領域の「観光目的デラックスタイプ」は、温泉以外の観光資源を求めて湯田町にやってくる観光客である。湯田の観光資源ということになると、ほぼ必然的に自然の観光資源ということになる。重複する部分もあるが、白糸の滝、そしてカタクリ、りんどう、紅葉などであるし、イベントとしても、きのこ祭り、「雪あか」などである。更には、和賀川ゴムボート川下り大会、マラソン大会なども開催されている。
ここまで述べてきて、ニッチ・パターンの水平軸から上の領域について説明しなければならないであろう。すでに述べたように、このニッチ・パターンの縦軸には費用を取ってある。従って、湯田町の温泉旅館を湯治旅館(自炊型)と割烹旅館(デラックス型)とに二大区分するとすれば、B領域の「観光目的デラックスタイプ」は、保養=湯治以外の観光目的で湯田町を訪れ、割烹旅館に宿泊し、飲食街を飲み歩くといった行動様式をとらなければならない。そうでなければ、湯田町の観光産業にとってメリットは少ない。そのためには、高付加価値の宿泊料金を取れる高付加価値の客室が必要である。そして、そうした客室に引きつけるための高付加価値、すなわち が必要である。代表的なものは料理である。前述の「山里料理」はまだ高付加価値というところまではいっていないようである。現在の湯田町でこの点で見るべきものとしては、温泉の熱を利用して養殖されているスッポンのフルコースを食べさせる旅館があるとのことであり、こうした差別化戦略が今後とも工夫されることが必要である。そうでなければ、例えば、現在の「山里料理」では、きのこや山菜といった安価な食材が使われていることもあって、A領域にとどまらざるをえないし、また、これは後述する点であるが、自然の観光資源をフル活用しても、安価タイプのD型におさまってしまう可能性も大きいのである(これもまた後述することであるが、このD型も排除されるべき観光の形態では決してない)。
次に、同じB領域の日帰り入浴B型は、温泉も含んだ湯田町の自然の観光資源を求めつつも、豪華な食事と数時間の客室での休憩を含んだ商品である。これは、盛岡市や仙台市周辺部の温泉旅館ではよく見られるものである。宿泊がないので薄利ではあるが、食事を売りにする、すなわち、食事を高付加価値にすれば、旅館側にとっても利用者側にとっても手軽であるために多売が期待できるのである。しかし、近代的な経営形態をとっている割烹旅館でも従業員が半農であったり、また、ましてや湯治旅館では家族経営であったり本格的な板前がいないため、手が回らないという理由でせっかくの客層を多くの旅館が取り逃がしているのが現状である。
次に、D領域、すなわち観光目的安価タイプは、客層としては湯田町ではまだ少ないものと思われる。湯治温泉に宿泊して湯田観光を楽しむ観光客、キャンプ場・バンガローなどを利用してアウトドアを楽しむ観光客などがここの層として考えられる。湯田町内にも2ヶ所のキャンプ場(ひとつにはバンガローがある)があるが(これは「まだ2カ所」と言いうるであろう)、こうした客層には、「ふれあい遊星館」や「森林体験センター・ゆう林館」等の温泉が重要な意味を持つことになるだろう。この客層は、湯田町の温泉産業には大きな意味を持たない。すなわち、湯田町内で行う消費は僅かなものだからである。しかし、これも薄利とはいえども、手軽なだけに年間に数回のリピートも期待され、多売の可能性も否定しえないであろう。
さて、湯田町を訪れる観光客のニッチ・パターンのそれぞれの領域の説明は以上である。次に、このニッチ・パターンの中での、湯田町の今後の望ましい発展の方向を探ろう。
湯田町の観光資源のメインは今更言うまでもなく、温泉である。これは、本稿のニッチ・パターンでは「保養目的」と呼ばれている。そして、現在湯田町で支配的な観光客の層はC領域の湯治型と日帰り入浴C型である。湯田町の望ましい観光の発展の方向はいかなるものか。それは、Ⅰで見たように、林業、鉱業の衰退による「歯抜け」現象を補うものとして観光業が発展することであろう。そうすると、高収益で、雇用にまで波及するものであることが望ましい。湯田町の観光資源を考えると、いわば「商圏」を拡大し、仙台以南、とりわけ「大消費地」である東京からの観光客を大幅に増やすことは難しいであろう。湯田町の人々の工夫は認めざるをえないが、どれもありきたりのもので遠隔地の観光客を呼び込むのは、一部の例外を除いて、無理であろう。
そう考えてくると、C領域に多くの観光客がいる湯田町では、これをより付加価値の高いA領域に移行させることが差し当たっての課題であると言っていいだろう。同様に高付加価値のB領域へ一気に移行するということもありうるのだが、交点を挟んでの移行は一度に複数の要因を変化させながらの移行となるので、一部の例外を除いては、困難ということになるであろう。そうすると、差し当たりの課題は、従来型の湯治型=温泉目的の客に食事をしてもらうということになるであろうか。そうすると、この点では、「食動楽」の「山里料理」は、今後の一層の発展が期待される取り組みであると評価できる。そうした場合、これまでの湯治旅館の家族経営、ましてや板前などいないという状況からの旅館の構造改革が必要となるであろう。湯治客がほぼ固定客であるという理由でイノベーションを怠っていては、この固定客も、各地で温泉開発が行われている今日、どこに分散・消滅してゆくかわからないと言っていいであろう。客を積極的に引きつける工夫が絶対に必要である。
デラックスタイプ
A領域 B領域
温泉(保養)目的観光客 湯田町ファン
日帰り入浴B型
湯治型=従来型 アウトドア型
C領域 D領域
安価タイプ
図2 湯田町を訪れる観光客のニッチ・パターン(2)
更には、この「山里料理」がより高級化し、ごく一部に見られるスッポンのフルコースのような高級食材が膳に出され、それに見合った客室が用意されるにいたると、これでB領域への移行は行われたと言ってよいであろう。パネリストの高鷹さんの旅館の新館では、湯川温泉で唯一板前をおいた温泉旅館であり、客室も充実している。この戦略は、B領域へ入りかかっているものと評価してよいであろう。
デラックスタイプ
A領域 B領域
温泉(保養)目的観光客 湯田町ファン
日帰り入浴B型
湯治型=従来型 アウトドア型
C領域 D領域
安価タイプ
図3 湯田町を訪れる観光客のニッチ・パターン(3)
次に、ニッチ・パターンの下の領域に同じく存在するC領域とD領域の関係はどうであろうか。結論は極めて簡単である。C領域の湯治客とD領域の観光客は全く層が違う。D領域の観光客は、ファミリーや若者、カップルである。もっとも、C領域の日帰り入浴C型は、このD領域の客層と重なると言える。「ほっと湯田」や「オアシス館」で日帰り入浴を経験した層が、次には、キャンプと入浴という形でC領域からD領域へと展開しているとも考えられる。私が長峰公園で実際に見た観光客は、自家用車でやってきて、大型のテントを張ったファミリーと、小型のテントをバイクに積んだカップルであった。ちなみに、私たち家族はバンガローに宿泊(1泊1棟4,000円)し、「ふれあい遊星館」で入浴した。特徴的なのは、これらは皆、町の施設か第三セクターであるということである。
この点について少し考えてみよう。2000年9月5日、湯田温泉郷旅館組合(高橋繁廣組合長)が湯田町に観光地にふさわしい環境づくりを要望し、町が策定を予定していた「総合計画」への提言を行った。この提言はこうである。
「温泉観光は旅館業だけの事業ではなく、なによりも町の地場産業であり、観光客の落ち込みは湯田町の落ち込みにつながることを強く訴えており、湯田温泉郷にあっては旅館の体力低下が著しく、このままでは旅館数の更なる現象が心配されている。こうした中で、観光客に来ていただいて本当に喜ばれる温泉地づくりを目指し、個々の旅館がまず改善すべきこと、地区として共同で取り組むことについては率先して取り組むことを決意し、町にも観光地にふさわしい観光づくりに特別の努力をお願いしたい」。
更に、提言事項は次の通りである。
「①観光事業推進体制の強化
②温泉旅館体力強化の施策
③民間と競合する公的施設の改革については、五月二十六日付けの閣議決定を遵守すること(民間と施設競合しない旨の内容)
④町長と語る会において提起している各温泉地からの要望の実現に努力すること」(太字は原文の通り)
ここで注目すべきは③である。上述の「森林体験交流センター・ゆう林館」は入浴設備のほかに入浴後に休憩するための交流促進室(利用料350円)がある。また、「ふれあい遊星館」には宿泊施設もある。しかし、この③との兼ね合いで食事の施設は敢えて作っていない。「ふれあい遊星館」の泊まり客は中学生などの団体が多いらしく、そういうお客さんも民間の旅館にまわしてもらいたいという意見もあるが、こうしたB領域の日帰り入浴B型やD領域の宿泊客は果たして民間の温泉旅館とバッティングするものなのであろうか。「ふれあい遊星館」がなければ、中学生の団体客は民間の温泉旅館に宿泊するであろうか。おそらく、答えは否である。他の町のそうした施設を探すことになるであろう。岩手県側の中学校であれば、温泉にこだわらないのであれば、岩手山青年の家で十分であり、どうしても温泉をというのであれば、焼走温泉のバンガローでもよかろう。秋田県側でも事情は同じではなかろうか。つまり、D領域の客はあくまでもD領域の客であって、そのものとしては他の領域に転化しはしないのである。むしろ、D領域の客の将来の潜在的な可能性に期待すべきではなかろうか。これまでの叙述に即して、「ふれあい遊星館」に宿泊するのが中学生の団体であったとして、湯田町が気に入った場合、次にリピーターとして湯田町を訪れる時(この想定ではおそらく両親が一緒であろう)、民間の温泉旅館に宿泊する可能性は大きいだろう。宿泊施設がある、休憩施設がある、それだけで民間と競合すると目くじらをたてていては、そもそもの呼び水となる部分を閉じてしまうことになるのではなかろうか。日帰り入浴B型やD領域の観光客は、他の領域へと転化しうるいわば潜在的な可能性を秘めた部分として、これはこれで保護し大切にすべき部分ではなかろうか。いわば湯田温泉郷への間口を広げるのである。
岩手県紫波郡にはラ・フランス温泉館があり、同西根町にはゲンデル・ランドがある。これらはともに宿泊施設も完備しているのだが、これらから宿泊施設を除いたものを湯田町に建設しても、民間とのバッティングは起こらないものと予想される。ゲンデル・ランドは24時間営業で仮眠室もあるのだが、それでも民間との競合はほとんどないものと予想される。民間の温泉旅館とでは、訪れる目的が違うのである。露天風呂やサウナ、ジャグジーバスなど、入浴設備に工夫を凝らし、ラーメン程度の軽い飲食、またはおにぎりなどの持ち込みで半日ないし数時間過ごすのである。これは温泉旅館とは競合するとは思えない。重ねて言えば、湯田町の温泉街への呼び水になるものであって、決して競合するとは思えないのである。
さて、考察をまとめよう。
現在の湯田町の温泉(旅館)産業の基幹をなす客層は湯治客である。それは、私が描くニッチ・パターンでは、左下のC領域に属する。さて、湯田町が現在抱えている最大の問題は人口減少である。それでは、現在の湯田町の基幹産業は何か。それが温泉(旅館)産業なのである。すでに見たように、林業が抜け落ち、鉱業が抜け落ち、そして団体の宴会客が減り、それに伴って飲食店街が陥没しているいわば「歯抜け」状態の湯田町の状況を温泉(旅館)産業が補ってゆかなければ、町の産業の発展、そして人工の流出の阻止は望めない。そうした場合、湯田町の温泉旅館が進むべき道は、まずニッチの領域の上の領域への移行であるということになる。
デラックスタイプ
湯治型=従来型
安価タイプ
図4
そう考えた場合、二つの方向、すなわち上のニッチ・パターンで描いたように、太線の矢印のように真上に進む方策と、点線の矢印で描いたような交点をまたいで斜め上へと進む方策とがあるであろう。すなわち、保養目的デラックスタイプと観光目的デラックスタイプへの移行である。
真上に進む場合は、従来型の温泉目的の客に高付加価値なものを提供するということが、その中身となる。湯治だけではなく、ある程度上質の客室を用意し、ある程度高級な食事を味わってもらうことが基本路線となるであろう。上述の「山里料理」は、この点では成功した事例と言ってよいであろう。
点線の矢印で示した右斜め上へ移行するということは、「ある程度」が外れた高級な客室、高級料理、充実した浴場が求められることになるであろう。これには、客室・浴場の改装といった巨額の先行投資が必要となるし、板前を雇い入れ、高級食材を仕入れるというランニング・コストがかかることになる。いずれにしても難しい問題である。料理だけで言えば、スッポンのフルコースを食べさせる旅館があるということで、この点だけで言えば、B領域に入ると考えられるが、その他の要素についてはまだ実地に見聞していないので判断しかねる。
いずれにせよ、当面、湯田町が進むべき方向は、真上への移行、すなわちA領域=保養デラックスタイプへの移行が最も妥当な戦略であると言えるのではなかろうか。
次に、ニッチ・パターンの下の領域、すなわち「安価」領域を考えてみよう。まず、C領域。湯治客は、良くも悪くも固定客であり、ここに変動をもたらすのは難しそうである。日帰り入浴C型は、「ほっとゆだ」、「砂ゆっこ」、「穴ゆっこ」を代表とする温泉施設の利用者である。入浴料とレストハウスなどでの飲食のみの行動が予想され、湯田町の温泉産業の収入部分としては小さいかも知れないが、今後、①C領域の主流である湯治客、②他の領域の客層となる可能性を秘めており、また、そのように変化させていかなければならない客層だと言えるであろう。この点をもう少し詳細に見れば、ファミリーや女性のグループ客などは、A領域に移行させうるであろう(太線矢印)し、アウトドア派のファミリー、若者はD領域へと変化させうるであろう(点線矢印)。
デラックスタイプ
日帰り入浴C型
安価タイプ
図5
ここで、この項の小括的なことを言えば、一言で温泉街と言っても、そこに滞在ないし周遊する観光客には、大きく言って4つの層がありうる。それらのある特定の層に絞り込んでその温泉街の特色を出す、すなわち他との差別化をはかるという戦略もある。しかし、繰り返しになるが、各産業の撤退によって「歯抜け」状態になり人口の減少が続いている湯田町にとっては、4つのすべての領域を大切に育成するべきであると思われる。
基幹部分であるC領域の湯治客も温存すべきである。否、むしろ、今のところ固定客となっているからといって、それに安住することは危険であろう。これも繰り返しであるが、高速交通網の発展と、各地での温泉開発を考えれば、この従来の湯治客にも が必要な時期に来ているのではなかろうか。また、同じC領域の日帰り入浴C型も、民間との競合を過敏になって恐れずに、呼び水として、施設もより充実させて呼び込むことが必要であろう。D型も同様である。これもまた、今後の呼び水として十分に保護・育成していく必要がある。
温泉街の繁栄、雇用の創出ということを考えると、A領域、B領域の観光客の増加が望まれるところである。A領域については、まだまだ各旅館の創意工夫によってその拡大の余地は大きいものと思われる。B領域は、先行投資が必要であることや、目玉となる(温泉以外の)観光資源に乏しいところから、まだ本稿でも模索の段階であるとしか言えない。しかし、東京からもカタクリの花などの自然観察に訪れる観光客も僅かながら継続的にいるという話が、何人かからの聞き取りであった。多目的ダムなどを作るまでもなく、これもまた工夫次第では、高付加価値観光旅行に見合う、いわば観光資源の「再発見」がありうるのではないかとも思われる。
最後に、観光産業の視点からひとつ付け加えておきたいと思う。
日本人の観光の形態=特徴のひとつに「モノ化」現象があると言われる。それは典型的にはお土産の購入に現れる。極端な例では、ハワイに行きながらも水着に着替えることもなく免税品店をひたすたまわり、ひたすらブランド物を買いあさる若い女性が挙げられる。こうした現象は、日本人が、観光≒レジャーというものを理解していない国民であるという悪しき例として挙げられるのであるが、現状がそういうものであれば、観光産業論としては、これを取り入れるべきである。そうした場合、湯田町には見るべきものがない。しかし、これもまた、戦略=売り方では相当変わってくるものである。例えば、温泉熱で養殖されているスッポンである。スッポンのフルコースを出す旅館の例はすでに述べたが、国道107号線の「道の駅」の売り物はスッポンラーメンである。売店でも、湯田町産のものではないが、スッポンドリンクなど様々なスッポン・グッズが売られている。そして、スッポンが強壮剤として有名なところから、これまた湯田町には関係ないのだが、まむしが並べて売られている。それなりに上等な品揃えと評価できるであろう。しかし、ひとたび湯田町に入ってしまうとスッポンの「ス」の字もない。また、秋田自動車道のサービス・エリアにもまたスッポンは置かれていない。食堂のメニューにもスッポンはない。僅かなお土産資源であっても、スッポンの町、あるいはりんどうの町と認識させて観光客の購買意欲を煽ることは可能である。町全体としてのお土産物の販促が望まれるところである。
Ⅲ 湯田町の温泉産業の概念図
湯田町の温泉産業がどのような連関の中で成り立っているのか。それは、まだ今後の研究・調査を待たなければならないところである。しかし、それはそれとして、私は、下図のような極めて一般的な湯田町の温泉産業の概念図を考えてみた。
温泉館 レクリエーション施設
飲食店
リクリエーション湯治
日用雑貨
(商店)
病気湯治
食料品
(商店)
病院・薬局
図6 湯田町の温泉を核とした産業の概念図
見苦しい図で恐縮であるが、これは敢えてこうしたのである。科学論、方法論としては言うまでもない自明のことなのであるが、対象は見方によって変わる。温泉を核として広がる各分野を妙な線で括ってみたのは、そのことを示すためである。
一見してこの括りの曲線は何に見えるであろうか。フリーハンドで書いた下手な線であるから何にでも見えるかもしれないが、うわばみには見えないだろうか。そう書けば、慧眼な読者ならすぐにお分かりのように、サン=テグジュペリの『星の王子様』の冒頭に出てくるあのうわばみである。
この概念図もまた、フォーラムの際に、湯田町民の皆さんのために示したものである。「目に見える」=「自明のもの」も、「子供の目」をもってすれば、別のものにも見える。そして、それこそが真実かもしれない。とは言え、私が書いた概念図が真実だというわけではない。湯田町の皆さんにもう一度、見慣れたうわばみ(と思われているもの)を見直していただきたいという意図で示したものである。
この図では、時計の6時のところから人間の基本的欲求に基づくものから始めて時計回りによりそこから離れていくものを描いてみた。
そうすると、当然、最も切実なものは、病気湯治である。これは、『沢内風土記』に万病に効くといった記述が見られ、古い時代には時代にはよく当てはまったものらしいが、今日の湯田町ではあまり見られないものである。温泉地によく見られる温泉病院もここにはない。岩手県の場合であれば、岩手医科大学が花巻温泉に温泉病院を持っている。もうひとつ温泉病院が必要かどうかはここでは置くとしても、そういう発展の道筋もありうるということである。
時計の9時の位地に保養湯治を位地づけた。これまた繰り返しであるが、これが現在の湯田町の基幹部分である。そして、これに伴って、食料品店や雑貨店といった商店が成り立っている。
第3のものとして、時計の12時の位地にリクリエーション湯治というものを考えてみた。ただの湯治との区別はこうである。
年齢層 | 目的 | |
湯治 | 中高年 | 肉体疲労回復 |
リクリエーション湯治 | 若者、ファミリー | 心的リフレッシュ |
表5 湯治とリクリエーション湯治
このようにただの湯治とリクリエーション湯治とを分けてみると、後者の場合、「砂ゆっこ」などの温泉館の利用やオートキャンプ場の使用がまず考えられるであろう。そして、これらのいずれにも食堂の施設はないから、飲食店の利用ないしは食料品店の利用が考えられるであろう。
そして、最後が温泉観光である。この場合、(単なる湯治の場合と同じように)旅館が利用される(とりわけ割烹旅館)ことは、当然の前提である。この型の温泉の利用の仕方は、典型的には料理でもって旅館ないし町の収入源となる。
むすびにかえて
上に述べたリクリエーション湯治という概念は、観光論でもあまり見ない概念ではないかと思われる。いわば、これは、私の趣味の問題である。しかし、すでに見たように、ニッチ・パターンのB領域に入る温泉観光客を早急に獲得することは現在の湯田町には難しい。C領域の従来型の湯治客も、現在は安定しているとはいえ、それだけに数を増やしたり、落としてゆく金銭の額を増やさせることも難しい。そこで、A領域へと移行することが正攻法であろうと論じたわけであった。そして、最後に、私のニッチ・パターン図では位置づけにくいリクリエーション湯治という客層を掘り出してみたのである。
リクリエーション湯治と従来の湯治とを肉体疲労回復と心的リフレッシュとで分けたわけであるが、温泉効果による心的リフレッシュでもありうるし、自然散策の場合もありうる。単なるドライブがてらということもある。また、宿泊施設についても、「旅館でのんびり」というパターンも、テントを張ってアウト・ドアであろうパターンも考えられる。このように幅広い領域であるから、入れ込み客も、団体、ファミリー、カップル、個人とありうるし、宿泊の有無もある。これを一覧表化すればこのようになるであろう。
日帰り | 宿泊 | |
団体 | ① | ② |
ファミリー | ③ | ④ |
カップル | ⑤ | ⑥ |
個人 | ⑦ | ⑧ |
表6 各スタイルの温泉客に対するサービスの類型化
ここでは詳細に述べないが、このようにリクリエーション湯治というやや形になりにくいものであっても、8つの領域が考えられるわけで、それぞれに対してそれぞれの戦略がありうるということである。しかるに、これまでに見てきた大雑把な湯田町の今後の発展戦略についても、より細かな領域分けを行うことによって、よりきめの細かな観光地戦略がありうるということなのである。