『資本論』第3巻の論理レヴェルと「利潤論」の論理構成
--協同組合論の視点からの基礎作業--
長山雅幸
目 次
Ⅰ 問題の所在
1 監督賃金と協同組合工場
2 商業資本と生協
Ⅱ 『資本論』第3巻の論理レヴェル--問題の所在--
Ⅲ 『資本論』第3巻の理論構造
Ⅳ 「利潤」論の論理構成
1 剰余価値の利潤への転化
2 利潤の平均利潤率への転化
3 商品資本の商品取引資本への転化(商人資本)
おわりに
Ⅰ 問題の所在
本稿は、『資本論』第3巻の中に現代日本の協同組合、とりわけ消費生活協同組合(以下「生協」と略)の理論の基礎を探ろうとする一作業である。『資本論』第3巻の成立事情から見て、本来は本稿においても草稿の状態を調べ、そこにおける論理展開を明らかにすべきであるが、今回はエンゲルス編集のWerke版によって、まず論理的な確定作業を行ないたいと思う*1。
1 監督賃金と協同組合工場
そうした場合、『資本論』の中に明確に協同組合が現われるのは、やや意外なことに『資本論』第3巻第5篇「利子生み資本」第23章「利子と企業者利得」の中なのである。大雑把にこの部分を見ておこう。 第23章「利子と企業者利得」は途中、何のことわりもなしに、傍線で本文が区切られている(S.395)*2。区切られた後は、「そこで、もっと詳しく企業者利得を見よう」と書き出されている(Ebenda)。その後、「労働者の監督賃金としての企業者利得の観念」が「利子に対する企業者利得の対立から生ずる」とされる(S.396)。その後さらに「資本主義的生産それ自身は、指揮の労働がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまで」になったのを見、それゆえに「この指揮労働が資本家によって行なわれる必要はなくなった」ことを確認し(S.400)、その上で協同組合工場について次のように書いているのである。
「協同組合工場は、資本家が生産の機能者として余計になったということを証明しているが、それは、資本家自身が、最高の完成に達すれば、大土地所有者を余計だと思うのと同様である。資本家の労働が、単に資本主義的な生産過程としての生産過程から生ずるものでなく、したがって資本とともにおのずからなくなるものでないかぎりでは、つまり、それが社会的労働としての労働の形態から生じ、ひとつの共同の結果を生むための多人数の結合と協業とから生ずるかぎりでは、この労働は資本とはかかわりがないのであって、それは、ちょうどこの形態そのものが、資本主義的な外皮を破ってしまえば、資本とはかかわりがないのと同様である。もしも、この労働は、資本家的労働として、資本家の機能として、必要だ、というのならば、その意味するところは、資本主義的生産様式の胎内で発達した諸形態を俗物はその対立的な資本主義的な性格から分離し解放してかんがえることができないということにほかならないのである。貨幣資本家に対して産業資本家は労働者ではあるが、しかし、資本家としての、すなわち他人労働の搾取者としての、労働者なのである。この労働の代償として彼が要求し取得する賃金は、取得した他人の労働の量とちょうど同じであり、また、彼が搾取に必要な骨折りを自分で引き受けるかぎりでは、直接にこの労働の搾取度によって定まるのであって、この搾取のために彼にとって必要な努力、そして彼が適当な支払と引き替えに管理者に転化することができる努力の程度によって定まるのではない。」(S.400-401)
あるいは、このような形でも協同組合工場は言及されている。
「イギリスの協同組合工場の公開の収支計算書によってみれば、これらの工場は時に個人工場主よりもずっと高い利子を支払ったにもかかわらず、その利潤--他の労働者の賃金とまったく同じに投下可変資本の一部をなしている管理者の賃金を引き去った後の利潤--は平均利潤率より大きかった。利潤がより高かったことの原因は、これらのどの場合にも不変資本の充用上の節約がより大きかったということだ。しかし、ここでわれわれの興味をひくことは、ここでは平均利潤(=利子・プラス・企業者利得)が、実際に、そして明瞭に、管理賃金には全然かかわりのない大きさとして現われているということである。ここでは利潤が平均利潤よりも大きかったので、企業者利得も他の場合よりも大きかったのである。」(S.402)
問題は監督賃金とその周辺である。
2 商業資本と生協
次に問題になるのは、こと生協を問題にする場合である。
現代において現実に生協を問題にしようとした場合、まず生協とはなにかが問われなければならないのが現状である。大きく分けて、生協を経済的弱者の相互扶助組織として特徴付けるものと事業を持った特殊な社会運動として捉えるものとを挙げることができるであろう。勿論この2つの規定は相互に矛盾しはしない。しかし、生協論を経済的「土台」から構築しようとした場合には、後者の方が有効である。と言うのも、生協が大きな、そして生協独自の社会運動を展開できるのは、事業--それは、小売業であり、商業活動である--によって収益ないし利潤を獲得し、それを再配分しているからである。また、生協は小売業部門が消滅すれば生協それ自体が消滅するが、社会運動部門が消滅しても生協そのものは消滅しないであろう。もっとも、その場合は--妙な表現であるが--「生協」はもはや「生協」ではなく、「生協」という名の小売業になるのであろう。しかし、それはそれで一向に差しつかえないのである。スウェーデンの生協KF(コー・エフ)はほとんど社会運動を行なわない生協であり、世界有数の規模を持つ生協である*1。
そうであるとした場合、「日本型生協」とまで言われた日本の生協、そしてその経済的土台である商業活動はどのような性質のものであるとされるべきであろうか。
本稿では以上の問題を明らかにすることを将来の目的としつつ、『資本論』第3巻第5篇「利子生み資本」の論理構成を検討するという基礎作業を行うことを目的とするものである。
Ⅱ 『資本論』第3巻の論理レヴェル--問題の所在--
そもそも『資本論』第3巻の論理展開を、全体として、資本制的社会の経済的運動法則の暴露を目的とするマルクスの経済学批判体系の中でどのように位置づけるかという問題は、これまでにも重要な論争点となっている。それゆえ、この点にも予め触れておくべきであろう。
周知のごとくに、1857年から1863年にいたるまでに現われる経済学批判のいわゆる「プラン」の中で、マルクスは一貫して「資本一般」と「諸資本の競争」とを分けていた*2。
しかし、現行『資本論』では、当初は「資本一般」の中で捉えられていた「単一資本」の前提が外され、それまで「競争」の篇に属するとされていた「利潤」・「一般利潤率」などの諸範疇が第3巻に含められている。こうした『資本論』形成段階でマルクスが「プラン」を変更したことは、ほぼ共通の認識と言ってよいであろう*3。だがしかし、なお現在もこの変更の内容とその範囲、そして契機については必ずしも意見が一致しているわけではない。とは言え、ここでは勿論、所謂「プラン問題」を取り上げようというのではない。
本稿でまず取り上げるのは、『資本論』第3巻の最初の4つの篇を含む「利潤論」の論理構成を問い、そこから「競争」の占める位置・役割を明らかにすることである。
このように問題を立てた場合、マルクスは、原稿では第7篇48章「三位一体的定式」が始まる草稿断片の原稿の中断(しかもこの中断は紙の途中で行なわれている)の直前でこう述べていることに注目しなければならない。
「生産関係の物化の叙述や生産当事者たちにたいする生産関係の独立化の叙述では、われわれは、もろもろの関連が世界市場、その景気変動、市場価格の連動、信用の期間、産業や商業の循環、繁栄と恐慌との交替をつうじて生産当事者たちに対して、圧倒的な、彼らを無意識的に支配する自然法則として現われ、彼らに対立して盲目的な必然性として力をふるう仕方には立ち入らない。なぜ立ち入らないかと言えば、競争の現実の運動はわれわれの計画の範囲外にあるものであって、われわれはただ資本主義的生産様式の内的編成を、いわばその理想的平均において、示しさえすればよいのだからである。」(S.839) この箇所は、これまで『資本論』の分析の射程を示すものとして度々引用されてきたものである。ところが他方、第3巻第10章におけるいわゆる「不明瞭な箇所」を含めた需要供給関係の説明が行なわれたり、また更には第15章の展開においても必ずしも「観念的平均」の範囲にとどまるとは思われないヨリ具体的な分析も見られる。
このように『資本論』第3巻の「利潤論」を統一的に理解しようとするには困難がある。ここに草稿研究の意義が見いだされるのだが、残念ながら草稿研究からもこの点についての明快な解答はないのが現状である。さて、従来の現行版『資本論』の理解の仕方としては、二分的な困難があることから、そのどちらかを採用し、他方は切って捨てるという形ので主張の対立があった。すなわち、一方では、上に見たマルクスの主張に従い、『資本論』第3巻の分析から「諸資本の競争」を捨象し、「観念的平均」の叙述に純化すべきだというものである。他方では、競争論を『資本論』第3巻冒頭から積極的に導入すべきだという考え方である。そして、この両者の間で論争が繰り返し行なわれているというのが現状である*1。
私見では、前者のごとき態度こそが(草稿研究が画期的な内容上の変更を発見しない限りは)「マルクス研究」としてはオーソドックスなものであると考える。他方、本稿冒頭でも述べたように、筆者の問題関心は現代日本の生協の理論構築である。その為には、『資本論』第3巻冒頭から競争論が持ち込める のであれば、その方がゴールヘの道は近いということになる。そして、こうしたアンビバレントな態度であるからこそ、本稿を通じて一定の考察を試論として行なっておきたいと考えるのである。
論をもとに戻すならば、これまた私見ではあるが、(問題関心が現実からの接近であるからこその自戒も含めて)慎重に「マルクス研究」を進める態度が必要であると思われるのである。
さて、この論争は当然ながら「利潤論」の課題をどのように捉えるかについての見解の相違と対応している。 前者の見解は、おおむね第3巻の分析を、資本制的生産の内的諸関係を隠蔽する諸範疇の確立過程、すなわち物象化(Versachlichung)の分析として把握する。それはすなわち、資本制的生産の現象面で成立する諸範疇の自立性の仮象の背後に潜む内的諸関連、物象化を支える諸関連の暴露と、こうした自立性と物象性の成立の必然性を、抽象的概念から一歩一歩具体的な概念へと上向しながら行なうところに、マルクスの分析の特徴を求めるのである。そして、これは『資本論』第1巻・第2巻をも貰いて第3巻へといたるものと把握されるのである。所謂「下向法」に対する「上向法」である。
これに対し、後者の見解は、価値法則=等価交換の法則とする説を全面否定し、「流通形態としての資本による生産実体の包摂」を軸として競争論を導入し、現実の資本相互の関係を分析の起点に据えたのであった。 本稿においては、基本的に上述の前者の立場に立って、マルクスの叙述(とは言えエンゲルス編集ではあるが)を整合的に理解するという枠組みの中で、「競争」概念の位置づけを明確にすることを目的とする。
周知のごとく、当初、経済学批判体系「プラン」において「資本一般」から除外されていた「競争」概念の内容が「平均的観念」を取り扱う『資本論』第3巻においてどのように位置づけられるかが問題なのである。
Ⅲ 『資本論』第3巻の理論構造
『資本論』第3巻の冒頭でマルクスは『資本論』第1・2巻の論理構成を次のように小括している。
「第1部では、それ自体として見られた資本主義的生産過程が直接的生産過程として示している諸現象が研究されたのであって、この直接的生産過程ではそれにとって外的な諸事情からの二次的な影響はすべてまだ無視されていたのである。しかし、このような直接的生産過程で資本の生涯は終わるのではない。それは現実の世界では流通過程によって補われるのであって、この流通過程は第2部の研究対象だった。第2部では、ことに第3篇で、社会的再生産の媒介としての流通過程の考察にさいして、資本主義的生産過程を全体としてみればそれは生産過程と流通過程との統一だということが明らかになった。」(KⅢ, S.33--強調は原文)
このように述べたうえでマルクスは第3巻固有の課題を次のように設定している。
「この第3部で行なわれることは、この統一について一般的な反省を試みることではありえない。そこでなされなければならないのは、むしろ、全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして叙述することである。」(Ebenda--強調は原文)
この叙述の含意はどういうことであろうか。上の引用にすぐ続けてマルクスは、「現実に運動している諸資本」は「具体的な諸形態で相対している」ということを指摘した上で「この具体的な形態にとっては直接的生産過程にある資本の姿もただ特殊な諸契機として現われるにすぎない」と分析される(KⅢ, S.33--強調は引用者)。そうした上で、「われわれがこの第3部で展開するような資本のいろいろな姿」は「社会の表面でいろいろな資本の相互作用としての競争のなかに現われ生産当事者自身の日常の意識に現われるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいてゆくのである」として、『資本論』第1・2巻を総括した上での『資本論』第3巻の独自の性格を規定している(Ebenda--強調は引用者)。
このように、「直接的生産過程と流通過程の統一」は再生産表式論の課題とされつつ、第3巻では「全体として見た資本の運動過程」の中で資本が競争を何等かの媒介として「生産当事者自身の日常の意識に現われるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいてゆく」ことが問題とされているのである。
こうしたマルクスの叙述を「生産過程と流通過程の統一」の把握の仕方の変化として見る見方もある。例えば、鈴木鴻一郎氏は、この部分をもって、経済学批判体系「プラン」の変更の決定的な証拠であるとして、「直接的生産過程と流通過程の統一」と「この統一について一般的な反省を試みること」は『資本論』第2巻第3篇で行なわれているのであり、第3巻の対象は「現実的生産過程」、すなわち競争・信用・株式会社の考察であるとしている*1。
他方、これに対して佐藤金三郎氏は、『資本論』第3巻冒頭の一節をマルクスの原文と対比させ、この鈴木氏の見解を批判している*1。しかし、残念ながら、この佐藤氏の検討においても、それ以降の研究においても、なお「直接的生産過程と流通過程の統一」の「プラン」上の位置づけは明らかにされてはいないようである。そこで、次に「プラン」そのものを手掛かりに考察を進めてみよう。 経済学批判体系「プラン」においては、「資本一般」の第3項は「生産過程と流通過程の統一、または資本と利子」とされている。これはどう解すればよいのであろうか。同様の叙述を探すと、例えば、『剰余価値学説史』にも見られ、そこでは、利子生み資本=完成された物神性=でき上がった資本=生産過程と流通過程の統一と見なされている*2。つまり、完成された物神性=生産過程と流通過桂の統一なのである。 『資本論』においてもこの点は変わっていないと言ってよいであろう。この点、やや遠回りになるが、『資本論』のロジックに従って検討してゆこう。
『資本論』全3巻の最終篇である第7篇「諸収入とそれらの源泉」は、周知のごとく、第6篇のための草稿にところどころにあった断片をエンゲルスが置いたところから始まっている。そして、2つめの断片「Ⅲ」が終わったところで傍線が引かれ、その後の冒頭の文章に注釈がつけられ、ここから「原稿ではここから第48章が始まる」ことが知らされる。また、ここから始まる部分があの有名な「真の自由の国」と「自然必然の国」を論じた箇所であることは言うまでもない。 そして、この「真の自由の国」と「自然必然の国」の議論に続いてマルクスは土地所有について論じ、更に「最後に」として賃労働者について論じる(cf. S.828-829)。
その後、原稿が1フォリオボーゲン欠如し、しばらく「土地-地代」・「資本-利子」についての議論が続いたあと、突然マルクスはこう書いている。
「第3に。つまり、この意味では、資本-利子(利潤)、土地-地代、労働-労賃、という定式は、一様な、均斉な不適合を示しているのである。」(S.832) この書き出しの「第3に」は、原稿ではアンダーラインが引かれている。そして、この「第3に」に対応するのは、直前にある「第1に」・「第2に」ではなく、第48章冒頭にエンゲルスが置いた断片「Ⅰ」にある「第1に」であり、また、最初の断片「Ⅲ」にある「第2に」であろうと考えられる。
さて、この「第3に」以降でマルクスは「労働から疎外された、労働に対して独立化された、したがってまた転化している、労働条件の姿」、すなわち資本に転化した生産手段、土地所有に転化した土地と、「労働そのもの」=「合目的的な生産活動としての単純な規定性における労働」と「それが関係する」もの=「そのものとして資本」である労働手段と「そのものとして土地所有」である土地との関係についての「一様な、均斉な不適合」の分析を進めてゆくのである(cf. S.832-834)。
そして、それに続いてマルクスは資本主義的生産様式の「最も単純な諸範疇」にまで立ち返ってこう述べている。
「われわれはすでに資木主義的生産様式の、また商品生産さえも、最も単純な諸範疇について述べたところで、つまり商品と貨幣について述べたところで、神秘化的な性格を指摘したが、この性格は、社会的な諸関係、すなわち生産にさいして富の素材的諸要素がそれの担い手として役立つところの社会的な諸関係を、これらの物そのものの諸属性に転化させ(商品)、またもっとはっきり生産関係そのものを一つの物に転化させる(貨幣)。すべての社会形態は、それが商品生産や貨幣流通にまで到達しているかぎり、このような転倒に関与している。しかし、資本主義的生産様式では、そしてその支配的範疇であり規定的生産関係である資本のもとでは、この魔法にかけられた転倒された世界はさらにいっそう発展する。資本をまず直接的生産過程で--剰余労働を汲み出すものとして--見るならば、この関係はまだ非常に簡単であって、現実の関連はこの過程の担い手である資本家自身に迫ってきて、まだ彼らに意識されている。労働日の眼界をめぐる激しい論争はこのことを適切に証明している。しかし、このような無媒介の部面、すなわち労働と資本とのあいだの直接的過程の部面のなかでさえも、このような簡単なことにとどまってはいないのである。本来の独自な資本主義的生産様式のもとでの相対的剰余価値の発展につれて労働の社会的生産力も発展するのであるが、この発展につれて、この生産力も直接的労働過程での労働の社会的関連も、労働から資本に移されたものとして現われるようになる。それだけでも資本はすでに非常に神秘的なものになる。」(S.835)
ここで、軸は、「神秘化」=物神性なのだと言える。そして、それは物象化なのである。更に、この物象化において競争がひとつの位置を占めるのである。マルクスはこう言う。
「われわれは、第2部では、当然のこととして、この流通部面をただそれが生みだすいろいろな形態規定に関連して叙述し、そこで行なわれる資本の姿のいっそうの発展を指摘しさえすればよかった。ところが、現実にはこの部面は競争の部面であって、それは各個の場合を見れば偶然に支配されている。だから、そこでは、これらの偶然のなかを貫いてこれらの偶然を規制する内的な法則は、これらの偶然が大量に総括される場合にはじめて目に見えるようになるのであり、したがって、そこではこの法則は個々の生産当事者自身にとっては相変らず見えもしなければわかりもしないのである。しかし、さらに、現実の生産過程は、直接的生産過程と流通過程の統一として、いろいろな新たな姿を生み出すのであって、これらの姿ではますます内的な関連の筋道はなくなって行き、いろいろな生産関係は互いに独立し、価値の諸成分は互いに独立な諸形態に骨化するのである。」(S.836--強調は引用者)
それでは、「現実の生産過程」が「直接的生産過程と流通過程の統一」とした新たな「姿」で「生みだす」ものとはどのようなものであって、どのように理解すれば良いのであろうか。
ここで我々は『資本論』の論理構造を一貫したものとして理解しようとしているのであるから、これまでの『資本論』研究の中でかなりその論理構造が明らかにされている部分、すなわち商品論の論理構造を手掛かりとすることができるのではなかろうか。
すなわち、『資本論』冒頭商品は、それ自体は感性的な存在であるが、その矛盾を労働の二重性として内在的形態として持っている。そして、この内在的な矛盾は、価値形態論において外化され、物象化された形態規定性を受け取ることになる。そしてそれは、同時に、物神性の問題であり、物が人格化し、人格が物象化するということであった。しかもそれは、商品世界の共同事業として遂行されるのであった。そして、そこに貨幣による商品の媒介が加わり、運動形態を獲得するのである。
この論理を用いて、我々が直面している問題次元の整理・理解を試みてみよう。
まず、資本制的直接的生産過程および流通過程の内在的形態は、『資本論』第1・2巻それぞれで分析されているであろう。更に立ち入って見れば、資本制的直接的生産過程は第1巻第7篇において総括され、また、直接的生産過程と流通過程の統一としての再生産表式は言うまでもなく第2巻第3篇で総括された。
上のように理解されるのであれば、次に、なお「自己増殖する価値」としての資本が現実に展開する形態規定・運動形態は明らかにされていないと言うことができる。 まず形態規定性についてであるが、資本は、一方では、生産の社会化を実現しながらも、他方では商品生産に固有の私的労働と社会的労働の分裂を克服しえず、そしてそれが相互に各個別資本として運動する関係はいまだ解明されていないと言える。
そして、この具体的形態規定の確定が利潤論で行なわれているのではなかろうか。と言うのは、利潤こそが資本制的生産において資本が内包している矛盾の外化形態であると言えるからである。他方、この矛盾の外化形態である利潤は、この資本制的生産において資本が内包している矛盾を隠蔽するものであり、資本物神の誕生(完成への出発)とも言えるものなのである。
こうしたトリアーデは、利潤論の中にも指摘することができる。利潤論においては、第1に、各個別資本がいわば「資本家的」*1に決定しうる費用価格・利潤率・利潤範疇の定立に始まり、第2に、諸資本の共同事業によって媒介される、平均利潤率・生産価格範疇の定立、そして第3に、これらを補足するものとしての商品取扱資本・貨幣取扱資本の自立化というトリアーデを描くのである。
このトリアーデの各段階は「転化」論として展開されており、ここにはまた別の検討すべき問題があるが、それについてはここでは触れることができない*2。ここでは、以上の検討の小括として、「利潤論」に「競争を全面的に投入」して「競争論」の具体化として第3巻の論理を把握すること以上の理解がどのように異なることになるのかを整理してみよう。 まず、費用価格、利潤率・利潤範疇は、資本家にとってそれ自体は感性的ななものなのである。そして、ここ第3巻では、そうしたものが資本としてのそれにふさわしい形態規定を獲得し、しかも、その形態規定の獲得の過程が物神化であることが解明されねばならないのである。それゆえ、ここでの課題を、この過程を媒介する「競争」から解決することはできないということになる。
次に、「競争」は上に書いたごとく資本の物神化の過程を媒介するものであることが再び繰り返されねばならない。そうした性質のものとして「競争」は、平均利潤と生産価格の形成を媒介するものとして、その限りで論理の中に取り込まれているにすぎない。また、商品取扱資本の自立化においては、産業利潤、商業利潤の自立化、そして、生産者の販売価格、本来の生産価格への価格の分裂を媒介する限りでのみ論理の中に取り込まれているにすぎないと見なすことができるのである。
そうであるとするならば、第3巻における「競争」は、諸資本の現実の運動を媒介する「競争」ではないということになろう。こうした現実の諸資本の運動を媒介するところの「競争」を「資本の外的諸関係における競争」と規定するならば、ここ『資本論』第3巻の「競争」は「資本の内的諸関係における競争」と規定できるものであろう。こうした考え方はマルクス自身の中にも見られる。『経済学批判要綱』でマルクスはこう述べているのである。
「概念的には、競争は、多数の資本相互のあいだの交互作用として現われ実現される資本の内的本性、資本の本質的な規定、外的必然性としての内的傾向にほかならない*1。」(強調は引用者)
このように概念的に把握された「競争」(ここで言うところの「資本の内的諸関係における競争」)は、現実の諸資本が「諸資本」として対峙する次元で、資本の内的本性=内的矛盾が展開する際の内的諸法則の「執行者」として「資本の内在的な諸法則を外的な必然性として資本に強制」するものなのである*2
Ⅳ 利潤論の論理構成
これまでに述べてきたところを繰り返せば、マルクスは『資本論』第3巻第1~4編で、資本主義的生産の内的諸規定である価値および剰余価値が、「全体として考察された資本の運動形態」において受け取る新たな形態諸規定を、(1)利潤、(2)生産価格と平均利潤、(3)商品資本・貨幣資本の自立化の3つの論理段階で考察しているのであった。
しかし、これらの形態は抽象のレヴェルにとどまるものである。例えば、一般的利潤率を考えてみよう。ここでは産業資本であれ商業資本であれ、一般的利潤率を獲得しうるものとされている。しかし、この論理段階では、一商品生産部門内では商品はその社会的価値(=生産価格)に基づいて販売されるのであり、その部門内で特別剰余価値や資本の有機的構成の差異・回転率の相違に基づいて生じる個別の利潤率の相違を平均化する機構は存在しないのである。一商品生産部門内では、そこにおいて生まれるプラスの特別剰余価値とマイナスの特別剰余価値の相違を軸とする競争が行なわれながら、各部門の個別資本は一般的利潤率を獲得するものと想定されていると見なすべきであろう。 それゆえ、ここでの我々の課題は、資本の内的諸関係がここにおける新たな諸形態へと展開しており、更にこの新たな諸形態の展開がまた資本の内的諸関係に基礎づけられているかどうかを検討することとなるであろう。
以下では、上に述べた視座、すなわち『資本論』の叙述を上向するトリアーデと見なし、これを経て資本がより具体的な形態規定を受け取る過程=物神性の完成として理解し、利潤論の「転化」論を資本制的生産の内的諸矛盾の隠蔽と諸形態規定の外化=自立化の諸段階として考察してゆくことにする。また、以下の考察では、「競争」はその過程を媒介するものとしての位置づけにとどめることとなる。
1 剰余価値の利潤への転化
第3巻第1篇「剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化」を概観してみよう。
まず、商品の価値、あるいはその商品の生産に必要な「現実的費用」と、商品の「資本制的費用」(費用価格)とは異なるものである。前者には、資本家が取得する剰余価値が含まれていないからである。次に、利潤は量的には剰余価値に等しく、ただ剰余価値が転化された・神秘化された形態にすぎない。ただし、この転化は、剰余価値が投下総資本の産物と観念されることによって成立するものであり、「剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化か導きだされるべきであって、その逆ではない」のである(S.53)。
ここの転化の機軸をなすのが費用価格である。この費用価格についてマルクスは、例えば一つには、「費用価格という範疇は、商品の価値形成または資本の価値増殖過程とはけっして関係がないのである」と述べている(S.37)。あるいは、もう一つこうも述べている。
「それ故、商品の価値のうちただその商品の生産に支出された資本価値を補填するだけのいろいろな部分を費用価格という範疇のもとに総括することは、一面では資本主義的生産の独自な性格を表しているのである。商品の資本家的費用価格は資本の支出によって計られ、商品の現実の費用は労働の支出によって計られる。だから、商品の資本家的費用価格は商品の価値または諸商品の現実の費用価格とは量的に違うのである。[…]他面では、商品の費用価格はけっしてただ資本家の簿記のなかだけにある一項目ではない。この価値部分の独立化は、商品の現実の生産で絶えず実際に行なわれている。というのは、この価値部分はその商品形態から流通形態を経て絶えず再び生産資本の形態に再転化しなければならず、したがって商品の費用価格はその商品の生産に消費された生産要素を絶えず買い戻さなければならないからである。」(S.34--強調は原文。また、[…]は引用者による省略を示す)
こうして、費用価格範疇が利潤範疇の基盤となる。そして、更に「資本の増殖過程の神髄化」が行なわれる。すなわち、こうである。 「だから、このような、費用価格の算定に関連しての固定資本と流動資本との相違は、ただ、費用価格は、支出された資本価値から、または労働をも含めて支出された生産要素が資本家自身に費やさせる価格から、成り立つという外観を確証するだけてある。他方、価値形成との関連では、可変的な、労働力に投ぜられる資本部分は、ここでは流動資本という項目のもとにはっきり不変資本(生産材料からなっている資本部分)と同一視されるのであって、このようにして資本の価値増殖過程の神秘化が完成されるのである。」(S.43-44--強調は引用者によるもの) ここまでを見て、更に、なぜ、本来、価値形成・増殖過程と無関係な費用価格範疇が、「商品の現実の生産で絶えず実際に行なわれている」ところの「この価値部分の独立化」となるのか、そしてそれを受けて、剰余価値が投下総資本の産物として見えるのはなぜか、が問われなければならない。
まず最初の点についてマルクスは、次のように述べて、労働力の価値の労賃への転化がその理由であると述べている。 「費用価格の2つの部分、われわれの場合には、400c+100vに共通なことは、ただ、それらが商品価値のうち前貸し資本を補填する2つの部分だということだけである。
ところが、このような現実の事態が、資本主義的生産の立場からは、必然的に転倒して現われてくるのである。労働そのものの価値または価格すなわち労賃として表されるということによってである。(第1部第17章。)それだから、前貸資本中の可変資本部分は、労賃に支出される資本として、生産中に支出されるすべての労働の価値または価格を支払う資本価値として、現われるのである。」(S.41)
すなわち、労賃形態では、全労働が支払労働であるかのように現象し、これによって剰余価値の源泉との関連が消失してしまい、神秘化が起こる。また、これによって、可変資本と投下総資本の他の部分との関連が消失してしまう。
この神秘化によって、剰余価値が投下総資本の産物であると見なされる根拠が生まれる。
しかし、剰余価値が投下総資本の産物であると見なされるのは、このレヴェルの神秘化だけによって完成されるのではない。剰余価値が投下総資本の産物であると見なされる根拠は何かという視点から利潤論を読み直すと、マルクスはこの点に関わって更に4つの点を挙げていることが分かる。
「なぜならば、この資本価値は、商品の費用価格を形成するというまさにそのかぎりでは、けっして剰余価値を形成するのではなく、ただ、支出された資本の等価を、その補填価値を、形成するだけだからである。だから、この資本価値が剰余価値を形成するかぎりでは、それは、支出された資本としてのではなく、前貸しされた、したがって充用された資本一般としての、その独自な属性において剰余価値を形成するのである。それゆえ、剰余価値は、前貸資本中の商品の費用価格にはいる部分からも、費用価格にはいらない部分からも生ずるのであり、ひと言で言えば充用資本の固定成分からも流動成分からも一様に生ずるのである。素材的には総資本が生産物形成者として役だつのであり、労働手段も生産材料や労働もみなそうである。価値増殖過程には総資本の一部しかはいらないとはいえ、素材的には総資本が現実の労働過程にはいるのである。おそらく、これこそは、費用価格の形成に役だつのは総資本の一部分にすぎないが、剰余価値の形成にはその全体が役だつということの理由なのであろう。」(S. 45-46)--(引用1)
「資本家が商品を生産するのは、その商品そのもののためでもなければ、その商品の使用価値またはこの使用価値の個人的消費のためでもない。資本家にとって実際に問題になる生産物は、手でつかめる生産物そのものではなく、生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本の価値を越える超過分である。資本家は総資本を、それのいろいろな成分が剰余価値の生産で演ずる役割の相違を顧慮することなしに、前貸しする。彼はこれらの成分をすべて一様に、単に前貸資本を再生産するためだけではなく、前貸資本を越える価値超過分を生産するために、前貸しする。彼は、自分が前貸しする可変資本の価値を、ただ、それを生きている労働と交換することによってのみ、生きている労働を搾取することによってのみ、より大きい価値に転化させることができる。しかし、彼が労働を搾取することができるのは、ただ、彼が同時にこの労働の実現のための諸条件、すなわち労働手段や労働対象、機械や原料を前貸しすることによってである。すなわち、自分がもっている価値額を生産条件の形態に転化させることによってである。」(S. 51)--(引用2)
「個々の資本家について言えば、彼が関心をもつ唯一のものは、商品の生産のために前貸しした総資本にたいする剰余価値の、または自分の商品を売って得られる価値超過分の、割合だということは明らかである。他方、資本の特殊な諸成分にたいするこの超過分の特定の割合にも、またその諸成分とこの超過分との内的な関連にも、彼はただ関心をもたないだけではなく、むしろ、この特定の割合やこの内的な関連については自分の目をくらますことのほうが彼の関心事なのである。 商品の費用価格を越える商品価値の超過分は直接的生産過程で生ずるのではあるが、それは流通過程ではじめて実現されるのであって、それが流通過程から生ずるかのような外観をますますもちやすくなるのは、この超過分が実現されるかどうか、またどの程度に実現されるかは、現実には、競争のなかでは、現実の市場では、市場の状況にかかっているからである。ここで論ずる必要もないことであるが、ある商品がその価値よりも高く売られたり安く売られたりしても、ただ剰余価値の分配の変化が生ずるだけであり、また、このような分配の変化、すなわちいろいろな人々が剰余価値を分け取る割合の変化は、剰余価値の量やその性質を少しも変えるものではないのである。」(S. 53)--(引用3)
「流通過程では労働期間のほかに流通期間が作用することになり、それによって、一定の期間に実現可能な剰余価値の量が制限される。そのほかにも、流通から生ずる契機で直接的生産過程に規定的に干渉するものがある。この両者、直接的生産過程と流通過程とは、いつでも互いに食いこみ合い、侵入し合っており、そのためにそれぞれの特徴的な区別標識が紛らわしくなるのが常である。剰余価値の生産も価値一般の生産も、流通過程では、前に示したように、新たな諸規定を受け取る。資本はその諸転化の連環を通る。最後に資本はいわばその内的な有機的生活から外的な生活関係にはいる。この関係のなかでは、資本と労働とが相対するのではなく、一方では資本と資本とが相対し、他方では諸個人もまた再びただ買い手と売り手として相対するのである。流通期間と労働期間とは互いに交錯する軌道を描き、したがってどちらも一様に剰余価値を規定するかのように見える。資本と賃労働とが相対している元来の形態は、外観上はこの形態から独立な諸関係の混入によって変装させられる。剰余価値そのものは労働時間の取得の産物としては現われないで、商品の費用価格を越える商品の販売価格の超過分として現われ、したがって費用価格がたやすく商品の固有価値(valeur intrinseque)として現われ、そのために利潤は商品の内在的な価値を越える商品の販売価格の超過分として現われるのである。」(S. 53-54)--(引用4)
これら引用1から引用2までの内容規定を米田康彦氏に従って、(1)「使用価値視点と価値視点の混同」、(2)「剰余価値取得の原因と条件の混同」、(3)「剰余価値生産と現実の混同」、(4)「生産過程と流通過程の交錯」、しかもこの(4)の後者が剰余価値実現に与える制約によって剰余価値は投下総資本の産物であるかのような神秘化・転倒を受け、「利潤率は剰余価値率とは数的に違っており、他方剰余価値と利潤とは事実上同じであり数的にも等しいのであるが、それにもかかわらず、利潤は剰余価値の転化形態なのであって、この形態では剰余価値の源泉もその存在もおおい隠され消し去られているのである」(S.S8)ということになると性格規定することができるであろう*1。
『資本論』に散見される引用1~引用4を以上のように整理し性格規定を行なえば、「剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化」が「(1)労賃形態の成立を基盤とする費用価格範疇の形成、(2)投下総資本の所産と観念された剰余価値(利潤)の形成」という「2段階の論理」を通じて行なわれるのであり、「その第1段階では、剰余価値がその現実的根拠との関連を失い、第2段階では、積極的に投下総資本との(仮象的)関連を受け取る」という論理の整理が適切であることは明らかであろう(強調は引用者)*2。
2 利潤の平均利潤率への転化
以上に見た平均利潤の形態における資本制的生産様式の内的矛盾の隠蔽は、まだこの形態では、その転化・神秘化は完成されたわけではない。ここでは、利潤は形態的に剰余価値と異なるだけであって、量的には同一である。それゆえ、各生産部門において、各生産部門の固有の有機的構成・資本の回転率が存在するのに対応して、各生産部門に異なる利潤率が成立することになる。ここで更に現実的に論理を展開すれば、各資本がその資本量に比例した利潤を受け取ること、すなわち一般的利潤率の成立を見ることである。 マルクスは第2篇第8章「利潤率の相違」の分析を終えるに当たってこう述べている。
「要するに、われわれは次のことを明らかにしたのである。産業部門が違えば、資本の有機的構成の相違に対応して、また前述の限界内では資本の回転期間の相違にも対応して、利潤率が違うということ。したがってまた、利潤は資本の大きさに比例し、したがって同じ大ささの資本は同じ期間には同じ大きさの利潤を生むという法則が(一般的な傾向から見て)妥当するのは、同じ剰余価値率のもとでは、ただ、諸資本の有機的構成が同じである場合--回転期間が同じであることを前提して--だけだということ。ここに述べたことは、一般にこれまでわれわれの論述の基礎だったこと、すなわち諸商品が価値どおりに売られるということを基礎として言えることである。他方、本質的でない偶然的な相殺される相違を別とすれば、産業部門の相違による平均利潤率の相違は現実には存在しないということ、そしてそれは資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろうということは、少しも疑う余地のないことである。だから、価値理論はここでは現実の運動と一致しないもの、生産の実際の現象と一致しないものであるかのように見え、したがってまた、およそこれらの現象を理解することは断念しなければならないかのように見えるのである。
この第3巻の第1篇から明らかなように、生産部面の違う生産物でも、その生産に同じ大きさの資本部分が前貸しされていれば、これらの資本の有機的構成がどんなに違っていようとも、それらの生産物の費用価格は同じである。費用価格では、可変資本と不変資本との区別は資本家にとってなくなってしまう。ある商品の生産に資本家が100ポンドを投じなければならないとすれば、その商品が彼に費やさせるものは、彼が90c+10vを投じようと10c+90vを投じようと、同じである。その商品が彼に費やさせるものはどちらの場合にも100ポンドであって、それよりも多くも少なくもないのである。別々の部面にある同じ大きさの諸投資にとっては、たとえ生産される価値や剰余価値はどんなに違っていようとも、費用価格は同じである。このように費用価格は同じだということが諸投資の競争の基礎をなすのであり、この競争によって平均利潤が形成されるのである。(S. 162-163--は引用者)
このように、これが「現実」の資本の姿だとマルクスは捉えているのである。差し当たりここでは、次のような問題が指摘されるであろう。第1に、筆者の問題関心から言って、マルクスのこのような把握は資本主義の独占段階についても言えることなのか否か。また第2に、こうした一般的利潤率、およびそれに対応する生産価格の諸規定が、価値理論といかなる関連性を有しているのか、また価値理論を基礎としてどのように展開できるのかということである。 しかし、ここではこれらの点には立ち入らないで、マルクスの論述=論理展開を見てゆこう。
この第8章に続いてマルクスは第9章「平均利潤と生産価格」においてこれらの形成について述べ、更に第10章「市場価格と市場価値」において次のように述べる。
「この場合、本来の困難な問題は、このような諸利潤の一般的利潤率への平均化がどのようにして行なわれるかという問題である。なぜならば、この平均化は明らかに結果であって、出発点ではありえないからである。」(S.183)
「困難のすべては、商品が単純に商品として交換されないで、資本の生産物として交換され、資本は剰余価値総量のうちからそれぞれの大きさに比例してその分けまえを、またはそれぞれの大きさが同じなら同じ分けまえを、要求するということによって、はいってくるのである。そして、ある一定の資本によってある一定の期間に生産される諸商品の総価格は、この要求をみたさなければならない。しかし、これらの商品の総価格は、この資本の生産物を構成する個々の商品の価格の総計にほかならないのである。」(S. 184-185)
「競争が、さしあたりまずある一つの部面で、なしとげることは、諸商品のいろいろな個別的価格から同じ市場価値と市場価格とを成立させることである。しかし、いろいろな部面で資本の競争が、はじめて、いろいろな部面のいろいろな利潤率を平均化するような生産価格を生みだすのである。このあとのほうのことのためには、前のほうのことのためよりも資本主義的生産様式のより高い発展が必要である。同じ生産部面の、同じ種類の、そしてほぼ同じ品質の諸商品がその価値どおりに売られるためには、二つのことが必要である。第1に、いろいろな個別的価値が1つの社会的価値に、前述の市場価値に、平均化されていなければならない。そして、そのためには、同じ種類の商品の生産者たちのあいだの競争が必要であり、また彼らが共通に彼らの商品を売りに出す一つの市場の存在が必要である。」(S.190--強調は原文)
「第2に、商品が使用価値をもっているということは、ただ、その商品がなんらかの社会的欲望をみたすということを意味しているだけである。われわれがただここの商品だけを問題にしていたあいだは、われわれは、この特定の商品--価格のうちにはすでにその量が含まれているものとして--にたいする欲求があるということを想定することができたのであって、みたされるべき欲望の量にはそれ以上に立ち入らなくてよかった。ところが、一方の側に一つの生産部門の商品が立ち、他方の側に社会的欲望が立つことになると、このみたされるべき欲望の量が本質的な契機となる。今では、この社会的欲望の程度すなわちその量を考察することが必要となるのである。」(S.194)
このようにマルクスは、第10章の主な考察対象を「何によって」に向け、更に各所で「理想的平均」を超えるような考察に立ち至っているように見える。
3 商品資本の商品取引資本への転化(商人資本)
価値および剰余価値が、自立化し、内的関連を更に神秘化する第3の段階は、商品資本と貨幣資本の自立化、すなわち商業資本の形成である。 ここでは、貨幣資本については触れず、主に商業資本に限定して考察を進めるが、そうであるとしてもこの商業資本、とりわけ商業資本の自立化の問題には多くの論争が存在する*1。それゆえ、簡単ながら、筆者なりの論点整理をここで行なおう。 まずマルクスによれば、冒頭、商品資本または商業資本とは、こうしたものである。
「商品資本または商品取引資本と貨幣取引資本という2つの形態または亜種に分かれる。この二つのものを、資本の核心的構造の分析に必要なかぎりで、これからもう少し詳しく特徴づけることにしよう。」(S.278--強調は引用者)
つまり、ここでマルクスは、商品資本または商業資本を「資本の核心的構造の分析に必要なかぎりで」「もう少し詳しく特徴づけることにしよう」というわけだが、逆に言えば、商品資本または商業資本には「資本の核心的構造の分析に必要」な要素があるということである。
また、経済学批判体系の構築を目指すマルクスにとっては、他の理由もあって、ここはもう少し詳細に検討する必要があるのである。すなわちこうである。
「しかも、そうすることがますます必要だというのは、近代の経済学が、その最良の代表者たちにあってさえも、商業資本を直接に産業資本と混同していて、商業資本を特徴づける特性を事実上まったく見落としているからである。」(S.278)
『資本論』第2部においてすでに商品資本の運動は分析されている。しかし、商品資本を社会の総体として見れば、一部はつねに商品として市場に存在し、それゆえつねに貨幣へと移行しようとしている。と言うことは、他の部分は貨幣として市場に存在しており、商品に移行しようとしているということになる。ここに商品資本独立の根拠がある。つまり、こう言える。
「それは、絶えずこの形態的な変態をしている。流通過程にある資本のこの機能が一般に特殊な資本の特殊な機能として独立化され、分業によって一つの特別な種類の資本家に割り当てられた機能として確定するかぎりで、商品資本は商品取引資本または商業資本になるのである。」(Ebenda) つまり、流通資本および流通費用が、自立した資本として、G-W-G’として運動するのである。この範式から当然疑問とされるのは、社会的再生産過程における商業資本の位置である。マルクスは、それについてはこう述べている。
「ここでは、同じ貨幣片ではなく、同じ商品が二度場所を換えるのである。同じ商品が売る人の手から買う人の手に移り、そして、今度はこの人が売り手になってその人の手から別の買う人の手に移る。それは二度売られる。そして、何人もの商人があいだにはさまる場合にはもっとたびたび売られることもありうる。そして、まさにこのような同じ商品の販売の繰り返し、その二度の場所変換によって、はじめて、その商品の購入に前貸しされた貨幣が最初の買い手によって回収され、彼へのその貨幣の還流が媒介されるのである。一方の場合W’-G-Wでは、商品がある姿で譲渡されて別の姿で取得されるということを、同じ貨幣の二度の場所変換が媒介する。他方の場合G-W-G’では、前貸しされた貨幣が再び流通から取り返されるということを、同じ商品の三度の場所変換が媒介する。まさにこういうことのうちに、商品は生産者の手から商人の手に移ってもまだ最終的に売れているのではないということ、商人は販売という操作--または商品資本の機能の媒介--をさらに続行するだけだということが現われているのである。しかしまた同時に、このことのうちには、生産本家にとってW-Gであるもの、商品資本という一時的な姿にある彼の資本の単なる機能であるものが、商人にとってはG-W-G’であり、彼が前貸しした貨幣資本の特殊な価値増殖であるということも現われている。商品変態の一つの段階が、ここでは、商人に関しては、G-W-G’として、すなわち一つの特別な種類の資本の展開として、現われるのである。」(S.282--強調は引用者)
それでは「なにがこの商品取引資本に独立に機能する資本の性格を与えるのであろうか?」(S.283)。
これに対して、マルクスは次の2つの理由を挙げている。
「第1に。商品資本が、その生産者とは別な担当者の手によって貨幣へのその最終転化、つまりその第1の変態、すなわち商品資本としてのそれに属する機能を市場で行なうということ、そして、商品資本のこの機能が商人の操作によって、つまり彼の行なう売買によって媒介されており、したがってこの操作が、産業資本の他の諸機能から分離されて独立させられた特別な営業として、形成されるということ。それは社会的分業の特殊な一形態であって、これによって、元来は資本の再生産過程の特殊な一段階でなされるべき、つまりこの場合には流通の段階でなされるべき機能の一部分が、生産者とは別な特別な流通担当者の専有機能として現われるのである。」(S.283-284)
しかし、それだけでは、その再生産過程にある産業資本に対して独立な、一つの特殊な資本の機能としては現われない。そこで第2の契機が入ってくることになる。
「第2に。この契機は、独立の流通担当者である商人が貨幣資本(自分のかまたは借り入れたそれ)をこの立場で前貸しすることによって、はいってくる。その再生産過程にある産業資本にとっては単にW-Gつまり商品資本の貨幣資本への転化または単なる売りとして現われるものが、商人にとってはG-W-G’として、同じ商品の買いと売りとして、したがってまた、買いでは彼から離れて行き売りによって彼に帰ってくる貨幣資本の還流として、現われるのである。」(S.283-284)
さて、ここでマルクスが述べている論理の構造と位置づけを明らかにするために、日高晋氏の説を取り上げるのが適切であるように思われる。日高氏は、マルクスの以上の叙述を「現象面の事実をあげているにすぎない」*1とし、さらに「なぜ」商品資本の自立化が生じるかという問いに対して、「独立するからには、独立することによって産業資本の利潤率を高め、それを通じて社会全体の利潤率を高めるものでなければならない」*2としている。 勿論、商業資本の自立化によって、結果的には、商品資本は節約され、産業資本の回転期間は短縮され、利潤率の上昇をもたらすのであろう。しかし、このことを商業資本が目的意識的に「なぜ」自立化するか、商品の販売のために貨幣資本を投下するかという問題に直結させることは、まず非現実的であろう。次に、マルクスの論述に従って言えば、剰余価値が利潤に転化し、剰余価値の現実的根拠が隠蔽され、総資本の産物と観念されるようになり、さらに資本の投下には利潤の獲得がともなうという前提の成立を見ることが、妥当なマルクス理解ではなかろうか。米田氏の表現を援用して言えば、ここではマルクスは「いかにして」流通資本が商業資本として独立するのかを問題としているのであるというべきであろう*1。
「産業資本の場合には、回転期間は、生産される個々の商品の価値の大きさにはけっして影響しない。といっても、それは、搾取される労働の量に影響するので、与えられた資本によって一定の期間に生産される価値および剰余価値の量には影響するのである。このことは、生産価格に注目する場合にはもちろんおおい隠されてしまって、そうではないかのように見える。しかし、それは、ただ、いろいろな商品の生産価格が、前に述べた諸法則にしたがって、それらの商品の価値からかたよるからでしかない。総生産過程に着目し、総産業資本によって生産される商品量を見れば、一般的法則が確証されていることはすぐわかるのである。
このように、産業資本の場合に回転期間が価値形成に及ぼす影響をより精密に考察すれば、商品の価値は商品に含まれている労働時間によって規定されているという一般的法則と経済学の基礎とに帰ってくるのであるが、他方、商業価格への商人資木の回転の影響が示す諸現象は、いろいろな中間項を非常に詳しく分析してみなければ、価格のまったくかってな規定を、すなわち資本が一年間に一定量の利潤をあげようと決心するというただそれだけのことによる価格の規定を、前堤するように見える。ことに、こういう回転の影響によって、まるで流通過程そのものが、ある限界のなかでは生産過程にかかわりなしに、商品の価格を規定するかのように見える。再生産の総過程に関するすべての表面的で転倒した見解は、商人資本の考察から取ってきたものであり、また商人資本特有の運動が流通担当者たちの頭のなかに呼び起こす観念から取ってきたものである。」(S.324--強調は引用者)
このように、商業資本の成立により、資本制的生産様式の内的諸関係の神秘化=隠蔽はここまで進む。
「[…]次のこともまったく自明なことである。すなわち、資本家的な生産・流通担当者の頭のなかでは、生産の諸法則に関して、これらの法則からはまったくはずれていてただ外観的な運動の意志的表現でしかないような諸観念が形成されざるをえないということがそれである。商人や相場師や銀行家の観念は必然的にまったく転倒している。製造業者の観念は、自分たちの資本がそれに従わざるをえない流通行為によって、また一般的利潤率の平均化によって、不純にされている。競争もこれらの頭のなかでは必然的にまったく転倒した役割を演ずる。価値および剰余価値の限界が与えられていれば、どのようにして諸資本の競争が価値を生産価格に、さらにまた商業価格に転化させ、剰余価値を平均利潤に転化させるかは、たやすく見抜くことができる。しかし、このような限界がなければ、なぜ競争は一般約利潤率をあの限界にではなくこの限界に、1500%にではなく15%に、落ち着かせるのかは、絶対に見抜くことができない。競争は一般的利潤率をせいぜい一つの水準に落ち着かせることができるだけである。しかし、この水準そのものを規定するための要素は、競争のなかには絶対にないのである。」(S.324-325--傍点の強調は原文のものであり、下線による強調は引用者によるもの)
平均利潤率、資本の回転率は「競争」という形で商人や相場師や銀行家の観念は勿論、製造業者の観念を結果として転倒させているものであり、利潤率の「この水準そのものを規定するための要素は、競争のなかには絶対にないのである」。「競争」はこのような性質のものとして理解されねばならないのである。
おわりに
以上、現代日本の協同組合運動、とりわけ生協組合運動の理論として『資本論』をどのように生かすことができるのかという視点から、『資本論』第3巻の論理レヴェルと利潤論の構成を見てきた。本来であれば、生協の理論を求めるということであれば、更に立ち入った商業資本の検討(とりわけ「競争」の問題)、そして本稿では冒頭で指摘したにとどめた監督賃金の問題にまで立ち入らなければならないところである。本稿は、そうした考察の準備作業として位置づけられるであろう。 本稿で考察した問題を振り返って整理してみよう。
問題は、第1に、『資本論』体系、とりわけ「プラン」問題と現行『資本論』第3巻の「競争」の問題であった。『資本論』第3巻が「資本一般」の中で叙述されたものであるならば、マルクス経済学批判体系の解釈としては、ここに「競争」概念を持ち込むべきではない。他方、『資本論』第3巻に積極的に「競争」を持ち込むべきだという意見も少数派ではない。筆者も、現実の現代生協を扱うにあたっては、後者の意見に魅力を感じるものであるが、そうした『資本論』の解釈はマルクス当人が書いた(しかしまた長年の友人であり協力者であるエンゲルスが編集した)『資本論』の論理を正確に確定し、更にマルクスの「資本論草稿」からまぎれもないマルクスの論理を読み取ってから行なわれるべきものであるように思われる。
さて、研究の充実している商品論の成果を援用して、マルクスの叙述を上向するトリアーデとして理解しようとしたのであった。問題は『資本論』第1・2巻(そして、「直接的生産過程と流通過程の統一」を扱ったとされる再生産表式論)から第3巻へのトリアーデの理解であった。そうした際に、マルクスもまた『資本論』第1・2巻を総括した上で、「社会の表面でいろいろな資本の相互作用としての競争のなかに現われ生産当事者自身の日常の意識に現われるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいてゆくのである」という第3巻固有の性格があることが理解された。そして、その際に機軸となるのは神秘化=物神性=現実の根拠の隠蔽化なのであった。 また、神秘化=物神性=現実の根拠の隠蔽化を機軸としたトリアーデは『資本論』第1・2・3巻全体はもとより、現代生協の理論は如何にという観点から本稿で取り上げるべき利潤論においても見いだすことができた。まず第1篇では資本制的生産とは関係のない「資本制的費用」=「費用価格」が成立する。しかも、これは2段階の論理を経て「剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化」が完成するのであった。
そして、剰余価値および価値が、自立化し、内的連関を更に神秘化する第3の段階として商品資本と貨幣取扱資本の自立化が位置づけられるのであった。そこではマルクスは商業資本が「なぜ」自立化するかではなく、「いかにして」自立化するかを問題にしているのであった。また、商業資本の自立化の段階では、「資本家的な生産・流通担当者の頭のなかでは、生産の諸法則に関して、これらの法則からはまったくはずれていてただ外観的な運動の意志的表現でしかないような、諸観念が形成されざるをえない」のであり、「競争もこれらの頭のなかでは必然的にまったく転倒した役割を演ずる」のであった。
さて、本来であれば本小稿においてすら、より詳細に「競争」の問題を扱わねばならなかったのだが、この点は課題として残さざるをえない。
締めくくりとして生協に論を戻せば、生協もまた購買事業を行なう限り商業資本の一形態と見るべきであろう。長年協同組合研究に携わってこられた松村善四郎氏の判断もまた、「ひところ協同組合が資本であるかどうかが問題になったことかあるが、今では資本説が大勢であるといえよう」*1と言う。ただ、理論の問題を「大勢」であるということで判断することに疑問を感じざるをえないし(更にはどのようにして「大勢」であると結論できるのかが疑問となろう)、最新のまとまった協同組合「資本」論である堀越芳昭氏の『協同組合資本学説の研究』においてなお、「氏(松村氏--引用者)の言うように協同組合=資本説が支配的かどうか疑問である」*2とされているところに協同組合論の今後の道程の長さを感じざるをえない。
マルクス経済学で生協を問題にしようとすれば、やはり商業資本からのアプローチがまず出てくるのであり、そうすれば、「利潤」・「流通費」といった概念を機軸として、あまり生協を積極的に位置づけることができなくなる。そこで、接ぎ木的に「組織」の問題を合わせて論じて生協の積極的側面を出そうとする研究もあるが*1、これは生協論の世界で言うところの「事業と組織の二元論」となってしまう。
そこで筆者が注目しているものが、字沢弘文氏の「社会的共通資本」という 考え方であり、ここに前進のヒントがあるのではないかと考えている。宇沢氏によれば、この社会的共通資本は更に3つに区分され、自然資本、社会的インフラストラクチャー、制度資本に分けられる。筆者が注目するのはこのうちの最後の制度資本である。宇沢氏によれば、制度資本とはこういうものである。
「制度資本は、社会的インフラストラクチャーを制度的な側面から支えるものといってよい。教育、医療制度をはじめ、司法、行政、金融制度、警察、消防などがあげられるが、さらに市場自体もまた制度資本とみなされることがある*2。」 この部分だけでは「制度」のインプリケーションがかなり不明確であるから、次の説明もあわせてご覧いただきたいと思う。
「自然環境については多くの国々において、歴史的に環境から生み出されるさまざまな資源を持続的に維持するために、最適と考えられている社会的組織の形成と、環境管理のための社会的基準がつくり出されてきた。これらの組織と社会的基準は、自然環境の形態によって、また、それぞれの国の置かれている歴史的、社会的、文化的諸条件によって、異なる形態をもつが、これは一般的にコモンズ(commons)と称されている(森林、漁場に関する日本の入会制度はその代表的な事例である。
世界の多くの国で、現に存在し、あるいはかつて存在したさまざまな自然資源に関する多様な形態をもつコモンズについて、経済学的な分析が多くの経済学者たちによって積極的に行われている。それらの多くは、社会的共通資本の管理・維持のあり方に対して、興味深い結論を与えている。特に重要な結論は、これら社会的共通資本の管理を担当する社会的組織は決して、中央集権的な国家であってはならないということである。 対象とされている社会的共通資本に直接深い関係をもつ人々が中心となって、ある種の共同体的組織をもつことがまず要請される。コモンズの組織としての利害関係は、あくまてもコモンズを構成するメンバー全体の利益を中心とするものであるが、それは必ずしも、各メンバーの個別的、私的な利益と合致するとは限らない。往々にしてその間に対立、矛盾の関係が生じる。しかも、この対立、矛盾の関係をどのような形で解決するかによって、コモンズ自体が、持続可能な組織として生き残れるかが決定される*1。」 これは自然環境に関する文脈の中で書かれたものであるが、それはそのまま漁協や森林組合に当てはまるであろうし、経済的弱者の共同体、生協への応用の可能性も理解されたであろう。
更に宇沢氏はこうも述べている。
「社会的共通資本は究極的には、市場経済制度を中心として、すペての人間活動が行われる場を、よりいっそう広範な社会的、文化的、自然的、制度的環境としてとらえ、それを市場経済制度に投影することによって、経済学的な分析を可能にするためにつくられた概念であるといってよい。
自然環境の場合と同じように、社会的共通資本の各構成要素について、どのような社会的組織がその管理、維持に当たり、そこから生み出されるサービスをどのような基準にしたがって社会の構成員に配分したらよいかという問題がもっとも重要な課題となる*2。」 ここには新古典派経済学の市場礼賛の影が見えるが、マルクス経済学もまた「課題」は同じものとして進んでゆくことができるであろう。ただし、マルクス経済学の側に残された課題はまだまだ多く、ヴェブレン(彼はマルクスの影響も受けている*3)に始まる制度主義からまだ生まれ出たばかりの社会的共通資本の概念*4にもまだまだ未成熟な点は多々ある。そうした状況の中、そしてこうした問題意識から、生協理論あるいはマルクス経済学だけでなく、経済学そのものが今大きな転換期にあり、大きな進歩を遂げるべき時期にあるものと思われるのである。