19世紀フランス共産主義論争の一齣
――Th. デザミ著『カベー氏の中傷と政略』をめぐって――
長山雅幸
(只今、写真の部分が工事中ですのでご了承下さい。)
Ⅰ
本稿は、いわば「デザミのパンフレット『カベー氏の中傷と政略』とマルクス」の続編、あるいは追補である。しかし、独立の論考としても読み得るように論述を工夫したつもりである。他方、逆に言えば、上記の論説と重複するところも少なくないかもしれない。この点、あらかじめ、ご了承願いたい。
本稿で問題とされるTh. デザミ著『カベー氏の中傷と政略』(Theodore Dezamy, Calomnies et politique de M. Cabet, paris, 1842)は、まず第1に、1848年のヨーロッパに革命の嵐を呼び起こすもととなったフランス二月革命とそれに向かっての七月王政下の共産主義論争を理解する上での重要な文献である。
我が国においても、1979年に『資料フランス初期社会主義』が出版されており、そこではカベーの短いパンフレットが掲載されている。あるいは、その程度の研究・紹介にとどまっている。
しかし、それにしても、この人物エチエンヌ・カベー(Etienne Cabet)は、思想史研究の分野においても必ずしも広く知られた思想家ではない。では、カベーとは何者か? それは、デザミによれば「我々の共産主義党(notre parti communiste)の中で最も目立っている人物」であり、思想史上超一級の思想家マルクスによれば、フランスにおいて「もっとも浅薄ではあるが、もっともポピュラーな共産主義者」であった。
カベーは1788年にディジョン(Dijon)に生まれた。デザミより丁度20歳年長ということになる。ちなみに、デザミはマルクスの丁度10歳年上である。
さて、カベーは、法学の博士号を取得し、故郷のディジョンで弁護士活動を行っていた。しかし、1815年の王政復古の際に「錯乱せるフランス人」として、ディジョンでの職業活動を禁止された。かくしてカベーはパリへ出る。当初は法律相談所を開設して、地道な職業生活を送っていた。しかし、その後、あのフランス革命期の自由主義貴族として有名なラファイエット(Lafayette)らと知り合い、この職業を捨て、政治活動に専念した。デザミもこのパンフレットの中で指摘しているところなのだが、1830年頃には革命運動にも参加するが、他方では検事総長、代議士と、体制側での出世も遂げるという変わった経歴をたどった。1834年には、この『カベー氏の中傷と政略』の中でもたびたび現れる彼の機関誌『ポピュレール』(Populaire)が発行される。
『カベー氏の中傷と政略』タイトル・ページ(フランス国立図書館所蔵)
しかし、そこに彼自身が書いた2つの論文が原因となり、ベルギーを経由してイギリスに亡命した。しかし、やがて1839年には恩赦が出され、カベーの帰国がかなうことになる。他方のデザミ――彼については後で詳しく述べる――は、1830年代の後半にパリにやってきたとしか分からない。しかし、1838年には、あの革命家ブランキ(Blanqui)率いる「四季協会」(la societe de les quatre saisons)に参加していたらしい。そして、この年、「道徳学・政治学アカデミー」(l’Academie des sciences morales et politiques)の懸賞論文「諸国民は道徳および経験に関してよりも知識や文明に関してより多く進歩している。その発展におけるこの相違を究明し、その救済策を示せ」にも応募した。翌39年、「四季協会」は蜂起に失敗し、ブランキ以下の首謀者が逮捕され、崩壊した。他方で、懸賞論文は「平等論」として出版され、この論文をデザミかカベーに送ったところから二人の親交は始まり、早速、彼の秘書となり、『ポピュレール』の発行に協力した。もっとも、『カベー氏の中傷と政略』によれば、カベーは「老人政治」に「夢中になる癖」があるというから、「親交」などというものではなかったのかもしれないが。
著書ではすでに1832年に処女作を世に送り出しているが、思想史上の問題としては、あのイギリス亡命後に書かれた主著『イカリア旅行記』(Voyage en Icarie)以外には見るべきものはないと言ってよいだろう。この『イカリア旅行記』の初版は『ウイリアム・キャリスドール卿のイカリアへの航海と冒険』(Voyage et aventures de Lord William Carisdall en Icarie)として、1840年に出版された。単に『イカリア旅行記』とされたのは1842年の第2版以降であるが、この第2版ではまだ "Roman philosophique et social" というサブタイトルが付いていた。第3版でこのサブタイトルもとれ、完全に単なる『イカリア旅行記』となる。そして、これは1846年の第4版、1848年の第5版まで版を重ねたのであるから、相当な数が読まれたものと推測される。現在でも、anthropos 書店から出た『エチエンヌ・カベー著作集』(OEUVRES D'ETIENNE CABET)の第1巻で『イカリア旅行記』を読むことができる。これらの『イカリア旅行記』の諸版の中で特筆すべきは、第3版のタイトル・ページである。
初版にも第2版にもこのようなスローガンの類をデザインしたものはない。この中央の菱形にデザインされた部分の上と下に太く大きな活字で「友愛」(FRATERNITE)、「共同の幸福」(BONHEUR COMMUN)とある。そして、この「友愛」の下には、共同(協同)思想の基本的テーゼである「万人は個人のため。個人は万人のため」(Tous pour chacun. Chacun pour tous.)が掲げられている。これは、戦後、賀川豊彦によって主導されてきた日本の生協運動のスローガンでもあり、ラグビーの世界でも "All for one, one for all" というそのままのテーゼが試合前にコールされる。また、これを共同(協同)思想の基本的テーゼとして、それを尺度に考えれば、宮澤賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえ得ない」という命題もまた、傍流かもしれないが、共同(協同)思想の流れの中に位置づけることができるであろう。いずれにせよ、ここで強調したいことは、こうした後に流布することになった一般的なテーゼが恐らく世界史の中で、ここで初めてまとまった形として現れているということである。
『イカリア旅行記』第3版タイトル・ページ
「協同の幸福」のそれぞれ左右の上に見える「各人にはその欲求に従って。各人からは、その力に従って」(A chacun suivant ses besoins. De chacun suivant ses forces.)は、マルクスの『ゴータ綱領批判』(Kritik des Gothaer Programms)に出てくる「共産主義のより高い段階」における「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(Jeder nach seinen Fahigkeiten, jedem nach seinen Bedurfnissen!)という分配様式の原型が示されている。実際、この『ゴータ綱領批判』の最新の日本語訳の訳者である後藤 洋氏も、服部文男氏の研究によりつつ「カベー『イカリア旅行記』第3版(1845年)の表紙にこのスローガン(A chacun suivant ses besoins. De chacun suivant ses forces. 各人はその能力に応じて。各人はその必要に応じて。)が記されている。マルクスの文言はカベーのこの本からの引用とみなされる」と注記している。そう「みなされる」かどうかは、書誌学的なアプローチからすると疑問の余地はある。つまり、マルクスは、この件について、手紙や原稿、手帳の類にカベーへの言及をまったく行っていないからである。しかし、言うまでもなく、その可能性は高い。そして、これもまた繰り返しであるが、こうした後の思想に受け継がれる一般的な形に初めて定式化したところにカベーの功績がある。ましてや、マルクスに対してすらそうであるならば、である。
この最後の部分についてややもってまわった言い方をしたが、それには理由がある。それは後の部分で再び触れることにする。
Ⅱ
このパンフレット『カベー氏の中傷と政略』は、タイトルからただちに分かるように、デザミによるカベーの批判である。もう少し内容に立ち入って言えば、「我々の共産主義党の中で最も目立っている人物」のやり方=「中傷と政略」の批判である。デザミの意図は、こうした「人物」のやり方を公に批判することによって「我々の共産主義党」の方向性を是正することにある。これを一歩引いて見れば、『カベー氏の中傷と政略』は、七月王政期のフランス「共産主義政党」の興味深いレポートと言うことができる。事実、マルクスもそのようなものとしてこのパンフレットを読んだのではなかろうか。マルクスがこのパンフレットを出版早々に読んでいることは書誌学的なアプローチからしても明らかである。
表紙によれば、このパンフレットは1842年に出版されている。その出版の経緯や更に詳しい出版時期については分からない。しかし、このパンフレットの本文で、「最近の号」として6月5日付のカベーの雑誌が問題とされており、どのように考えても、執筆、印刷、出版はこれ以降である。
これに対して、マルクスが、公の場でデザミを引用したのは1843年1月12日付の『ライン新聞』(Reinische Zeitung fur Politik, Handel und Gewerbe)紙上の「アウクスブルク新聞の論争戦術」(Die polemische Taktik der Ausgsburger Zeitung)であった。そこで、マルクスは、このパンフレットの中から、次のように引用を行っている。
「彼女〔アウクスブルク『アルゲマイネ・ツァイツンク』〕は、あちらこちらで我々に憤慨をうけあい、つまらぬ疑いを撒き散らし、くだらぬ訂正を試み、小さな仕事で大きな顔をし、年の功を鼻にかけた。そしてこの点、ヴェテランという称号については、デザミ氏がカベー氏に呼びかける次の言葉を、彼女に送ってやれる。
『カベー氏が元気を出されるように。そうすればたくさんの称号(titres)と一緒に、やがて廃兵扶助料も間違いなく貰えるというものだ!』」
このマルクスが引用を行っている部分は、このパンフレットの7ページの注である。この注は、カベーの「老人政治」を皮肉ったもので、全体はこうである。
「カベー氏には老人政治に夢中になる癖がある。彼は、自分を人民の大義(cause)のヴェテラン、老兵、上官、古参、老人として示すのが好きである。彼は、他の作家を、自分の下士官、自分の副官、若手、駆け出し作家等々と呼ぶのを好むのである。
カベー氏が元気を出されるように。そうすればたくさんの称号と一緒に、やがて廃兵扶助料も間違いなく貰えるというものだ!」
ここで、マルクスはデザミからの引用をフランス語そのもので行っており、完全に正確に引用されている。
さて、こうしたことを丹念過ぎるように見えるまでに行ってきたのは、「マルクス=シュタイン問題」と言われる問題があるからである。この「マルクス=シュタイン問題」というのは、マルクスの社会主義・共産主義思想は実はシュタイン(L. Stein)の『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(Die heutige Socialismus und Komunismus)からの引用であって、決してマルクスのオリジナルな思想ではないのではないかという問題である。この問題は、マルクスの死後、比較的早い時期から取り沙汰されてきた問題であるが、比較的最近の我が国では、廣松渉氏がこの問題を取り上げたのであった。
Ⅲ
デザミその人自身の解説が後になってしまったようである。デザミ自身の解説をするためには、私がデザミという人物に注目した理由を抜きにしては語れないと考えられたからである。その、私をデザミに注目せしめたものは、カベーにつて説明した際に一部を引用したマルクスの次の文章である。
「フランス人カベーは、イギリスに追放され、その地の共産主義思想に刺激され、それからフランスに帰って、ここで共産主義の、もっとも浅薄ではあるが、もっともポピュラーな代表者になった。これよりももっと科学的なフランスの共産主義者、デザミ、ゲーなどは、オーエンのように、唯物論の教説を、現実的人間主義の教説として、また共産主義の論理的基礎として発展させている。」
この『聖家族』(Die heilige Familie)という書物は、バウアー(Bauer)兄弟と『アルゲマイネ・リテラトゥール-ツァイツゥンク』(Allgemeine Literatur-Zeitung)誌に集った彼らの信奉者たちを皮肉り、バウアーとその他の青年ヘーゲル派と対決するとともに、ヘーゲルの観念論哲学を批判したものである。この引用した箇所は、この『聖家族』の第6章「絶対的な批判的批判、あるいはブルーノ氏としての批判」のマルクスが執筆した部分「3 絶対的批判の第三次征伐」の中の「d フランス唯物論にたいする批判的闘争」の一部分で、この直前でマルクスは、①フーリエ(Ch. Fourier)や「発展した共産主義者」が「直接に」「フランス唯物論から出発している」こと、そして、②フランス唯物論は「エルベシウスがこの唯物論にきせた着物をきて、その母国であるイギリスにさまよい帰」り、③ベンサムがこれに基づいて「彼の十分に理解された利害の体系を建設した」こと、そして④オーエンもまた「ベンサムの体系から出発して、イギリス共産主義を基礎づけた」ことが思弁的「批判的批判」(die kritische Kritik)に対抗して説明されている。それに続いて、上の引用部分である。そうすると、デザミは、「唯物論の教説を、現実的人間主義の教説として、また共産主義の論理的基礎として」最高の段階まで(少なくとも「オーエンのように」)「発展させている」思想家として読むことができる。そうであるとすれば、マルクスをしてかくのごとにく評価せしめた思想家の思想を知りたいと思うのは当然のことではなかろうか? また、上に述べたようなマルクス=シュタイン問題のごときものが提起されているのであれば、『ライン新聞』段階で読んでいることが確実であるデザミの思想がマルクスの共産主義思想にどのように取り入れられているのかを探り、断片的にしか述べられていないマルクスの共産主義像をより具体的で内容豊かなものとして理解する作業は極めて重要と言わざるをえないだろう。
このような動機でデザミに取り組むことにしたのであるが、まず彼の生まれた年で困難に直面した。1803年とするものと1808年とするものとがあるのである。文献の性質に注目すると、主にフランス・イタリアの文献では1808年とされ、ドイツ・ロシアの文献では1803年とされていた。ここから、1803年というのは、1808年の読み間違え(あるいは誤植)であると推測し、フランス系の文献にある1808年という年号を採用していた。しかし、その後、リュソンの役所にデザミの出生証明書を照会したところ、早速、コピーが送られてきた。そのコピーが、この手書きの仏文の書類である。
一見して、最初の "Aujourd'hui" は読めるのだが、数字がはっきりしない。そこで何人かのネイティヴに読んでもらった。数字の部分は、"5 mars 1808" であることはほぼ間違いないようである。この出生証明書のオリジナルの全文はこうである。
デザミの出生証明書オリジナル(所蔵先不明)
仏文は活字におこすと以下のようになるものと思われる。
” Aujd'hui,5 mars 1808,pour Maurice Duvain, devant mons.
le maire de Lucon, est comparu au lieu Louis Dezaniere,
marchant de vin, age de 32 ans, natif de Thouarcay, (domicilie a
Lucon, le quel a presente un enfant reconnu etre du sexe
masculin nomme Alexandre Theodore, ne d'hier a 11 heules du
soir du 7ieme mariage du comparant et de Vicoire Claudait, son
epouse, agee de 31 ans, native de la Caillere:assist 1edit
Dezaniere de Pierre Albert, tailleurs d'habiste, age de 42 ans et
de Jaques Gabiriel Dezaniere, cordonnier, age de 25 ans cousin
issu de germain du pere de l'enfant, domicilie de Cette
Commune:il a le present acte apres lecture ete signe de sceau,
du comparant et de ses assistants.”
ここでデザミの姓が “dezamis” となっており、また父の姓が “Dezaniere” となっているが、出生時、あるいは故郷にいた間は “Dezamis” と名乗っていたとする資料も存在するので、これが七月王制下の共産主義者にして『共有制の法典』の著者であるアレクサンドル・テオドール・デザミその人の出生証明書であると見て間違いないであろう。
入手してあるデザミの生涯に関する一次資料はこれのみである。他のデザミについての伝記的知見は、人名辞典をはじめとする他の研究者によって調査されたものに基づいている。それらによれば、デザミはフランスの大西洋側にあるヴァンデ地方のリュソンに生まれた。父ルイ・デザミはワイン商を営んでいた。上に見たカベーは、樽職人の父が意識的に高い教育をエチエンヌに与え、彼もまたこれに応えて法学博士を取得したという記述が見られるのであるが、デザミに関してはここの部分は全く分からない。しかし、結果として見ると、デザミは地元リュソンで学校教師をしており(学校の種類・性質は分からないが)1830年代後半にパリに出た際にも「教育協会」に職を得ているから、当時としてはかなりの程度の教育を受けていたものと推測される。ただし、何故デザミがパリに行くことになったのかは分かっていない。ただ、デザミがパリに着くのとほぼ同時に「四季協会」に加わっていたという点がひとつの推測の手掛かりを与えるかもしれない。話が急に飛ぶようだが、デザミは1848年の二月革命に失敗すると、落胆し、リュソンへ帰った。そして、弟に著作物の著作権を与える遺言状を残し、1850年7月24日に死去した。死因は明らかではないが、デザミの革命にかける情熱の一端が垣間見られるのではなかろうか。
デザミの著作活動は、上に見た懸賞論文とこれまで見てきた『カベー氏の中傷と政略』の他は、以下の通りである。
まず、雑誌や合同のパンフレット(発行順)。
『リュマニテール』(L'Humanitaire)
『レガリテール』(L'Egalitaire)
『第1回共産主義者宴会』(Premier banqet communiste, 1840)
『フランスおよび外国の新聞の東方問題に関する諸見解』(Opinions des journaux francais et etrangers sur la question d'Orient, 1840, avec Cabet )
『共有制の年鑑』(Almanach de la communaute, 1842)
『社会組織の年鑑』(Almanach de l'organization sociale, 1843)
『人権』(Les droits d'homme, 1848)
次に単行本(発行順)。
『弾圧と絶対平和主義の諸結果』(Consequences de l'embastillement et de la paix a tout prix, 1840)
『自分自身によって論駁されたラムネー氏』(M. Lamennais refute par lui-meme, 1841)
『共有制の法典』(Code de la communaute, 1842-43)
『社会主義によって打倒され全滅させられたイエズス会』(Le Jesuitisme vaincu et aneanti par le socialisme, 1845)
『カトリシズムおよび哲学に関する八演説の批判的検討』(Examen critique des huit discours sur le catholicisme et la philosophie, 1845)
『自由と不変的幸福の組織』(Organization de la libere et du bien-etre universel, 1846)
これらの中で、彼の主著とされるのが1842年から翌43年にかけて出版された『共有制の法典』である。この「1842年から翌43年にかけて出版された」というのは、本書が毎週日曜日に1印刷用紙分(=1折り=1 feuille=16ページ)ずつ刊行(配本)されたからである。このような形式で出版された理由は定かではないのだが、第1に、対象者である労働者にとって購入しやすいように、毎回少額で済む1折りずつを発行したとも推察できる。これはまた、最終的には全体の金額にも関係してくる。デザミは、読者の「時間と金銭の二重の節約」のために『共有制の法典』の分量を14~15折りにとどめた、と書いている。そしてまた、第2には、何等かの理由で本書の発行を急いでおり、全体の完成を待てなかったのかもしれないということが挙げられる。この推測の根拠を示すために、まず、本書の構成を見ていただこう。
序文 3~7ページ 第1章 本書のプラン 9~13ページ 第2章 基本法 13~30ページ 第3章 分配法と経済法 30~44ページ 第4章 共同食事 44~55ページ 第5章 工業法と農業法 56~72ページ 第5章(続) 農業労働の組織 73~82ページ 第6章 商業 82~95ページ 第7章 分割制と共有制の比較一覧 96~104ページ 第8章 哲学 104~124ページ 第9章 結婚・親権・家族 124~139ページ 第10章 教育 139~156ページ 第11章 産業軍 156~163ページ 第12章 風土の回復 163~170ページ 第13章 衛生法 170~193ページ 第14章 公安法 194~206ページ 第15章 科学と芸術 206~225ページ 第16章 ルソーの誤りの真の原因 226~234ページ 第17章 政治法 235~256ページ 第18章 若干の本源的真理 ――『法典』の概要:社会的・政治的組織 257~281ページ 第19章 過渡的体制 282~292ページ
ここで先ず断っておかなければならないのは、デザミが「法」(loi)と言った場合には、それはもっぱら「法則」という意味であるということである。それ故、「分配法」などと言った場合にも、分配に関する「法律」を論じているのではなく、社会の中に働く分配に関する「法則」を論じているということである。デザミは、端的に、この意味で唯物論者なのである。
デザミによれば、現存の社会は「転倒した社会」(un monde renverse)である。それは、私有財産の「分割制」であり、マルクス以降流布した用語で言えば、資本主義社会である。この「転倒した社会」(un monde renverse)という用語はサン・シモンにも見られる。しかし、デザミの思想は、サン・シモンよりもフーリエの「転倒した社会」(monde a rebours)に近いと見るべきだろう。デザミの場合は、「分割制」によって、社会の中に働く諸法則が壊乱されていまったと考える。これは、私有財産制によって「情念引力」の法則が攪乱されていると見るフーリエの思想との親和性が高いと言えるだろう。
さて、『共有制の法典』の構成に戻ろう。一見して不自然と思われる箇所があるであろう。言うまでもなく、第5章である。第5章の「農業法」に続くものとして「農業労働の組織」は書かれているのだが、何故「第5章(続)」なのだろうか。何故、第6章として独立させなかったのだろうか。この最後の点については、「工業法」に続く「工業労働の組織」がないので「第5章(続)」にとどめたとも考えられる。では、何故「工業労働の組織」はないのか。勿論、その必要を感じなかったということもあるであろう。しかし、更によく読んでみると、「第15章 科学と芸術」に「第16章 ルソーの誤りの真の原因」が対応している。全体の流れから言えば、明らかにこの第16章は浮いている。何故、第15章で論じ尽くさなかったのであろうか。第16章として独立させることに特別の意味があったのであろうか。この最後の場合であれば、今後更にこのふたつの章を検討する必要があることになる。
更に本書の構成の不自然さを示すのが、「第1章 本書のプラン」である。この「プラン」では次のようになっている。
「基本法――分配法、コミューンの計画と組織、共同食事と共同労働――工業法と農業法――教育と教授に関する法――科学会議――衛生法――公安法――統一労働によって生じる驚異――産業軍――風土の回復。 政治法、共同集会――地方――国――人道会議。 過渡的体制――社会的・政治的移行――富の直接的共有制――ほとんどすべての人々を無私無欲にする方法――国境の外に300ないし400,000人の兵士を派遣させることを余儀なくされることなく反共産主義的政府のすべてを弱体化させ、打倒し、粉砕する確実な手段――闘争後少なくとも10年後の人民の漸進的・一般的解放――完全で人間主義的な共有制。」
一見して本書の構成と異なることがわかる。まず、この「プラン」によると、①基本法系列、②政治法系列、③過渡的体制系列、これらの3つの系列から本書が構成されることになっている。しかし、実際の本書の構成ではそうはなっていない。とりわけ一見して明らかなのは過渡的体制である。これは「プラン」ではひとつの系列をなす程の内容を与えられていながら、実際には10ページしか書かれておらず、1折りも書かれていないとうことになる。内容を検討しても、この過渡的体制論が他の章に分散して章立てとしては現れていないということでないことは明らかである。
以上のことは、デザミが『共有制の法典』の全体を完成した上で書き下ろしたわけでは必ずしもないということを意味していないであろうか。では、何故、そのように性急に本書を書き下ろしたのか。この点を明らかにするヒントが、この『カベー氏の中傷と政略』にあるように思われる。
『カベー氏の中傷と政略』によると、1839年12月に、カベーに、『エデン旅行記』(Voyage a Eden)と題する「共産主義的著作」の出版計画を伝えた。これに対して、カベーは「かなり驚いたようだった」とデザミは言っている。デザミの出版計画はそのご順調に進んだ。翌年の2月の下旬から3月の上旬の頃に、デザミはアカデミーの懸賞論文を読んだと思われるトゥール(Tours)の印刷業者ポルナン(Pornin)から『エデン旅行記』の印刷の申し出を受けたのである。しかし、カベーはデザミに「その当時、正面から共産主義の問題に取り組むのを思いとどまらせようとした」のである。その時のカベーの言い様をデザミは記憶を頼りに出来る限り正確に再現しようとしている。デザミの結論はこうである、「カベー氏よ、あれは私の共有制のプランを直接出版するのを延期するよう私に決心させるためのものだったのだ」。
すでに見たように、カベーの『イカリア旅行記』初版の出版は1840年である。極めて際どい線ではあるが、カベーが日常的にデザミから『エデン旅行記』の構想を聞かされていたとしたらどうであろうか。勿論、これは推測の域を出ない。思想史上有名なところでは、サン・シモン(Saint-Simon)とコント(A. Comte)との間の剽窃問題が有名であるが、これですらも今日も白黒の決着の付かない問題なのである。ただ、こうした推測は、『共有制の法典』が出版された1842年にこの『カベー氏の中傷と政略』も出版されたという事実の理解にひとつの鍵を与えるものとは言えるであろう。
また、この『カベー氏の中傷と政略』は優れて理論的に論争的なものでもある。細かなところでは、『共有制の法典』第4章「商業」をめぐる問題がある。大きな問題では、マルクスにおいて「都市と農村の対立」の問題として知られているものである。デザミはこう言う、「都市と田舎、村と小作地の体制。我々(デザミとカベー)はこれについて何度も話し合った。しかし、あなたはこの問題について常に非常に妥協的な態度を示した」。デザミはこう述べている。
「『共有制の法典』の第3回配本の中で、私は他の著作とともに『イカリア旅行記』を引用したのであった。
その時、私はこのような疑問を引用したのであった。
『共同体はコミューンから構成されるのか、それとも都市、町、村、農場から構成されるのだろうか?』
何よりも『イカリア旅行記』を読んで、私は後者のシステムに多くの欠陥、多くの邪説、多くの不便さに驚かされた。」
この「共同体はコミューンから構成される」というのは、デザミの共産主義思想のひとつの大きな論点である。この19世紀初頭の思想界では、フランス革命のスローガンでもある自由と平等のどちらに重きを置くかが、ひとつの試金石であった。自由に重きを置く思想潮流の代表がプルードン(Proudhon)に代表されるアナーキズムである。そして、平等に重きを置くのが、デザミらの共産主義思想なのであった。
デザミの共産主義社会には、都市と農村は存在しない。存在するのはコミューンであり、社会はこの「コミューンの集合」体である。このコミューンは、所与の面積である「大国家共同体」が「できる限り土地の広さが等しく、規則的、調和的になるよう」に分割されるというやり方で、作り出される。そして、今度は逆に、このコミューンは、地理的状況や位置関係によって、ひとつの集合=「州」(une province)を成し、一定数の州が集まって共和国を形成する。そして、最終的には全共和国が「人間的大共同体」(la grande communaute humanitaire)を形成することになる。おそらく、これは、インターナショナルなものであると理解してよいであろう。
このデザミのコミューン論は、単に平等主義の帰結であるのみならず、都市と農村の対立の問題の解決として示されている点が思想史上重要である。この点で、デザミが思想史上尊敬するルソー(J.-J. Rousseau)やブオナロッティ(F. Buonarotti)が都市批判の行き過ぎになっているとも批判するのである。
それ故、『共有制の法典』と『イカリア旅行記』の相違、そして『カベー氏の中傷と政略』での論争(さらにカベーは『ポピュレール』でも応酬しており、この点は『カベー氏の中傷と政略』の中でも引用されている)は、デザミの思想を理解する上でのみならず、思想史上の都市・農村問題を理解する上でもすこぶる重要な議論を提供していると言えるのである。
また、このように構成される共和国全体の財政活動は、中央管理局(la direction centrale)が掌握し、私有財産制廃止後の「公的富」(la richesse publique)の平等で効率的な分配が各コミューン間で行われる。そうした社会は、デザミによって端的にこう記述される。
「平等な人々の共和国では、財政のためであれ商業等々のためであれ、大臣も省も必要ない。我々の全政治経済を完全に運営し、いわば社会的領域とでもいうべきものを流動化するためには、会計係と簿記職の長で十分である。」
この『カベー氏の中傷と政略』が提供してくれるもうひとつの理論的に論争的な論題は、家庭(家族)の問題である。デザミは『カベー氏の中傷と政略』の中でこう述べている。
「家庭(le foyer domestique)、あなたがかつて一度も取り組もうとしたことのない問題。」
”le foyer domestique”とは、辞書を調べてもない言葉の用法である。直訳すれば、「家庭のかまど」ということになる。そして、論点は確かに家具調度品の類にまで及ぶのである。デザミは、共有制における「個人住宅」についてこう述べている(ここでの紙幅の問題もある上に、主要部分は『カベー氏の中傷と政略』の中で引用されているので、最初の段落のみを引用する)。
「平等の制度における個人住宅ほどシンプルで賞賛に値するものはない。我らが平等なる人々は、ほとんど一日中公の場所で過ごすのであり、それ故に、いっそう数の少ないブルジョアが現在占めているほどたくさんの部屋を必要としないのである。彼らに何も欠けないようにするためには、各人に対して2~3部屋で十分である。つまり、1)寝室、2)書斎、3)小研究室である。」
これをカベーは『共産主義のプロパガンダ』(Propagande Communiste)というパンフレットをデザミ批判のために用意し、例えば、こう皮肉った。
「次のようなことを、共有制の法であると公言する共産主義者たちがいる。すなわち、各人は自分の時間の最大の部分を公共の集会の中で過ごさなければならないだろう。個人の住宅は寝るためおよび一日の数時間を過ごすためにしか必要でしかないだろう。そして彼は小さな寝室、小さな書斎、小さな実験室、そしてそれに小さな薪小屋が付いただけで十分なのである(修道士にとって独房が十分であるように)。」
これに対してデザミはこう反論する。
「改竄と偽造――これは明らかに、あなたが『小さい』という単語によって私のテキストに対して2回にわたって行った追加の結果ではないのか?」
ここで取り上げた部分はごく些細な論争あるいは言い争いであるが、ここにはプラントンにまでさかのぼる共産主義思想の根本問題がある。それこそが、家族の問題である。
デザミのコミューンの内部には家族は存在しない。その理由は、現存社会における家族の存在理由が、私有財産制の成立によって国家が子供の欲求を満たしてやらなくなったからだと見るところにある。こうして出来上がった家族はそれぞれその内部に特殊利害を持つことになる。しかし、共有制の成立=私有財産制の廃棄によって家族は存続の根拠を失う。かくして、「すべての家族(les foyers domestiques)を大社会休憩所(le grand foyer social)の中へと溶かし込み、かくしてフェデラリスムスと不平等の精神に最後の一撃を加える」ことになるのである。そして、各家族が消滅した後に「大社会休憩所」を支えるシステムとして、第1に共同食事(『共有制の法典』中でひとつの章がさかれている)、第2に共同教育、そして第3に共同労働が存在するのである。
ただ、プラントン(Platon)と比べた場合、プラトンが家族を社会の中の特殊利害の根元とみなし、これを積極的に排除しようというわけではないように見える点がややプラトンの家族廃止論の理論的構造とは異なると言えるだろう。
ただ、いずれにせよ、カベーは、デザミの家族(家庭)廃止論をやり玉にあげ、ここをひとつのウイーク・ポイントとして攻めていることは明らかである。このことは、カベーの共産主義思想の理解のためのみならず、「もっともポピュラーな共産主義者」カベーがこうした点を攻略ポイントとしたところに当時の民衆の間での共産主義運動の素顔が垣間見られ、興味深い点であると言えるであろう。
Ⅳ
このデザミのパンフレット『カベー氏の中傷と政略』重要性は、マルクスが書き込みをしながら読んだとされている点である。1840年代にローランド・ダニエルス(Roland Daniels)がマルクスの蔵書調査を行った際に、マルクスの蔵書にはこの『カベー氏の中傷と政略』はなかったのだが、旧ソ連の研究者ボールギン(Волгин)が、上のように主張している。書き込みと言っても、ほとんどは線が引いてあるだけであり、原著の42ページに見える「2」という数字の書き込みもマルクスの筆跡には見えない。また、ボールギンは、このパンフレットの来歴を明らかにしてはいないが、旧ソ連の一流の研究者の指摘でもあり、極めて貴重な資料であると見なしてよいであろう。しかし、残念ながらボールギンは旧ソ連の読者のために本文をロシア語訳にしていまっている。これでは、正確にどの場所に強調が置かれたのか解らないため、丁度ペレストロイカの時期でもあったために、モスクワのマルクス=レーニン主義研究所(当時)にオリジナルの所在を確認した。そして、マルクス=レーニン主義研究所筆頭次席所長(1988年当時)クジーミン氏(Кузъмин)、および同研究所次席所長(1989年当時)キターエフ氏(Китаев)のご協力におり、オリジナルのコピーを入手することができた。以下に問題のページを掲載しよう。
Ⅴ
最後に、この『カベー氏の中傷と政略』からは離れるが、思想史上、重要な問題に触れておきたいと思う。それは、共産主義における分配論である。
すでに上で述べた点であるが、カベーの『イカリア旅行記』第3版のタイトル・ページには「各人にはその欲求に従って。各人からはその力に従って。」という定式が現れていた。これがマルクスの『ゴータ綱領批判』の「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」によく似ているということは誰しも認めることであろう。また、スローガンとしては、後藤氏や服部氏が言うように、マルクスがカベーのこの定式化を真似たということは十分にありうることである。そもそも、マルクスの定式がカベーのものによるという指摘は後藤氏や服部氏が初めてではなく、すでに望月氏が岩波文庫版の『ゴータ綱領批判』の訳注の中でも指摘している。望月氏はそこで大雑把にではあるが、当時の論争を幅広く調査し、次のように述べている。
「(『ゴータ綱領批判』の)フランス語訳は、『各人からはその能力に応じて』(de chacun selon ses capacites, ……)。この訳は、1840年代フランスの空想的社会主義者たちの語法を意識してならば、ドイツ語原文より含蓄に富む。すでに『ドイツ・イデオロギー』は、カール・グリューン批判によせてルイ・レボーが作成したサン-シモン主義の原理『各人にはその能力(capacite)に応じて、各能力にはその仕事(oeuvres)に応じて』という対句に注目していたし(『全集』第3巻、549-550ページ)、M・ヘスも同じ『ドイツ・イデオロギー』第2巻第5章『ゲオルク・クールマン批判』のなかで共産主義を規定するのは『各人にはその能力に応じて』ではなくて『各人には必要に応じて』という原則であると主張している(同上、586ページ)。しかし、『産業者』をも生産者にかぞえたサン-シモン主義者にとっては、『仕事(ouvre)に応じて』とは『産業者』にたいする正当な利潤要求を、そして『能力に応じて』社会身分を階層分けすることを、それぞれ意味していた。これにたいし、ビュシェ派の労働者雑誌『ラトリエ』は1840年、労働者こそ真の生産者であるとの立場から、『各人にはその労働(travail)に応じて』と修正。この修正をさらにカベーが『各人にはその必要に応じて』という平等原理から批判した(『ラ・フラテルニテ』、1841年6月)。カベーは『イカリア旅行記』( 、1848年)のとびらに『各人にはその必要に応じて、各人からはその諸力(forces)に応じて』の対句をかかげている。こうした類似のいいまわしのなかから、ルイ・ブランの『各人からははその才能(faculte)に応じて、各人にはその必要に応じて』(『労働の組織』第9版、1850年)がでてくる。マルクスの命題の先駆といえよう。」
同様の思想を表したフランスの社会主義・共産主義諸思想の間の命題の変遷を追っているという点は興味を引く点ではあるが、問題の対句が現れるのが『イカリア旅行記』第5版であると極めて単純な誤認をしている点や、「マルクスの命題の先駆」という位置づけのみで、『ゴータ綱領批判』の当該箇所をより豊かに読むという問題意識に欠けている。
いずれにせよ、果たして『イカリア旅行記』にはこのスローガンを支える理論的ないし思想的裏付けがあるのであろうか。残念ながらこの点について答えてくれる研究はこれまでに存在しないようであるし、筆者自身にとっても今後の課題である。しかし、デザミに『エデン旅行記』という着想がカベーの『イカリア旅行記』に先立ってあったということを考慮する時、『共有制の法典』に見られる先進的な分配論をより高く評価すべきではないかと考えられるのである。
デザミは、社会についての考え方を忠実に、その著書のタイトルまで真似たモレリに従い、社会を支配する「基本法(則)」のより根元的なものを平等に求めている。デザミは、モレリを引用して、次のように書いている。
「宇宙の法則は――とモレリは言う――人間には何ら連帯的に見えるものではない。耕地はそれを耕す人のものではなく、木はそれから果実を摘む人のものではない。彼は自分の職業に関してさえ、自分が使用する部分しか使用しない。残りは人類のものである。」
「世界は――と彼は言い加える――会食者たちのために十分に用意された食卓のように考えられるべきである。その料理は、ある時は皆が空腹である故に皆のものであり、ある時はある人々が満腹であるが故に他の人々のものである。」
この思想の根拠は、「あらゆる生産は労働に根拠を置いている」という粗野な労働価値説であり、「それ故、社会的な諸生産物を使用する人々は労働に参加するべきである」ということになる。
この共有の状態は現在は私有財産制によって破壊されており、これを取り戻すために人間は「自然法に従い、アソシアシオンの原則をすべて実現するために、我々が述べるように、まず、土地とあらゆる生産物を大きなそして唯一の社会領域にしなければならない」。
では、この「大きなそして唯一の社会領域」にどのような平等の法則が働きうるか。第1に、「各人にはその能力に応じて、各能力にはその仕事に応じて」というサン・シモン主義者の分配原理がありうる。しかし、これは「ほとんど私有財産制と同じ結果に帰着する能力の貴族制を主義としている」として却下する。
第2には、「絶対的平等」が考えられる。これは、「兵士や病院の貧民、囚人に食料を一定量給与するような仕方で、市民に食料を一定量供給しようとする愚かでみすぼらしい平等」であるとデザミは評価し、これもまた却下する。ここでひとつ重要な点は、こうした「絶対的平等」が、当時、共産主義の平等原理であると考えられていたということである。例えば、サン・シモン主義者たちは次のように、「絶対的平等」=当時そのようなものとして考えられていた共産主義像を批判している。
「共同体組織においては、いっさいの分け前が平等である。そしてこのような分配様式に対しては必ずやたくさんの異議が生ずる。競争心の原理はなくなり、そこでは徒食者が勤勉な人間と同じように有利に恩恵を与えられ、その結果勤勉な人間は共同体のいっさいの重荷が自分にのしかかってくるのを見る。そしてこのことはこのような分配が平等の原理――それを確立することを願ったのに――とは反対のものであるということを十分明瞭に示している。」
これを越えて、第3に考えられるのが「比例的平等」である。そして、これこそがデザミが主張する平等の在り方である。ここでもデザミはモレリを引用しながら言う。
「自分の力、知性、欲求、特殊な才能に応じて共同労働に参加しなさい、そして全欲求の総計に応じて共同の富と共同の享楽を受け取りなさい。」
しかし、これでも「共同労働に参加しなさい」という部分が問題である。それ故、このモレリからの引用を次のように批判する。
「しかしながら、ここには力、能力、そして素質にかかわる自然的不平等に関しての、また、反共産主義者に言わせれば、常に労働を苦しい疲労、堪えられない束縛とみなす人間の情念や内的悪徳に関しての低級な詭弁、永遠のそして圧倒的な美辞麗句が現わされている。」
このように見てくると、デザミの平等論=分配論は、あくまでも分配と労働とを切り離し、「空腹の程度に応じて食べ、渇きに応じて飲む」というところにあるようである。何故そうしたことが可能なのか。答えは単純である。私有財産制が廃棄された共有制においては、個別利害、そしてそれらの対立が存在しないからである。
さて、このように見てきた時、我々は、『カベー氏の中傷と政略』や『共有制の年鑑』などといった小さなパンフレットも読んでいたマルクスが、同時期に出版されたまとまったフランス共産主義の著作を読んでいなかった筈はないのではないかと推論すべきではなかろうか。
若きマルクスはこう述べている。
「(……)否定できない事実がある。第一には宗教が、第二には政治が、今日のドイツの主要な関心事だということである。この二つがたとえどのようなものであるにしろ、これらから出発するべきであって、『イカリア旅行記』といったような、なんらかの体系(System)をできあがったものとして、それらに対置すべきではない。」
一見して、ここにはカベー批判が見て取れるが、それだけではなく、マルクスが決して社会主義・共産主義といった将来社会像を語ろうとしなかったという態度がうかがい知られるであろう。私見では、「経済学批判」(言うまでもなく『資本論』のサブ・タイトルである)のみならず、資本主義の一切を批判し尽くした先に、将来社会像が見えてくるものとマルクスは考えたのではなかろうか。そうした場合、『資本論』第1巻末尾やこの『ゴータ綱領批判』は、マルクスがある究極の状態で我々に残してくれた重要かつ貴重な「遺言」であると考えるべきではなかろうか。そして、これらを思想史的に更に内用豊かなものにし、今日的に有効なものへと発展させることが我々の務めであるということになるのではなかろうか。