デザミのパンフレット『カベー氏の中傷と政略』とマルクス
はじめに
「マルクスはフランス社会主義の文献をいつ読んだのか」。「フランス社会主義と初期マルクス」の中で廣松渉氏はこう問題を提起している(1。そしてそこで廣松氏は、『ライン新聞』以降を検討して、「この時期にフランス社会主義についてかなりの事象的知識をマルクスが獲得したことは察せられるけれども、系統的に研究した形跡は認めがたい」とし、更に「パリ時代までのマルクスがフランス社会主義を本格的に研究した形跡は認めがたいという暫定的な結論をうる」と述べている(2。他方、「マルクス本人としては-ルーゲ宛の手紙やフォイエルバッハ宛の手紙、そしてまた『経哲手稿』や『神聖家族』での言及の内実にかんがみるとき-フランス社会主義・共産主義に対して、既に一定の自己了解を遂げていたように察せられる」(3。ここで廣松氏は「新しい問題に直面する」、すなわち「マルクスは一体いかにして、フランス社会主義・共産主義を、一通りは "判って了った”つもりになっていたのか?」が問題となるのである。そして、「この問題を解くために」「ローレンツ・フォン・シュタインによる社会主義・共産主義の紹介[『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』]がドイツ思想界でどううけとめられていたか」([ ]内は引用者、この点以下同様)が検討され、しかる後に、『ライン新聞』の論説「共産主義とアウクスブルク『アルゲマイネ・ツァイトゥング』」および『独仏年誌』に掲載されたルーゲ宛の手紙におけるマルクスのフランス社会主義・共産主義の「把握」の仕方を検討している。そして、次のように結論するのである。
「われわれとしては、この時期のマルクスがフランス社会主義・共産主義 について事象的知識に乏しかったこと――さもなければ、右のような ”把握” はとうてい生じなかった筈である――それにもかかわらず、否、むしろそ の故に、ここでのマルクスはシュタインの視角にはまりこんでいるように看 ぜられる。(尚、43年1月12日号『ライン新聞』[「アウクスブルク新聞の論争戦術」]の一文から、マルクスがデザミの Calomnises <ママ> et politique de M. Cabet.1842.を読んだことが判る。このカベーとの論争の書のほか、ヴァイ トリングの著書も一応は読んだものと思われるが、それは到底シュタイン流の視座を揺るがすものではありえなかった筈である)。」(4
しかし、我々としては、この廣松氏の結論に疑問を感じざるをえない。例えば、廣松氏がこの結論を引き出すにあたって検討している「共産主義とアウクスブルク『アルゲマイネ・ツァイトゥング』」の中で、『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』では社会主義・共産主義と「併存する叙述家たち」の中に分類されているルルーとプルードンを、マルクスが共産主義として扱っている点は、明白に「シュタインの視座」から逸脱しており、マルクスが自分の目でこれらの思想家の文献を読んでいたのではないかという心証を強めることになりはしないだろうか5。ましてや、シュタインの『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』初版(1842年)の中では取り上げられていないデザミの文章を、マルクスは「アウクスブルク新聞の論争戦術」で直接引用しているのであり、マルクスがデザミに関する知見を彼が書いたもののみから得ていたことは確実である。マルクスが、いかなる知見をそこから引き出しえたのか、これは、すこぶる興味深い問題であると言えるであろう。
以上の理由から、本稿は、『ライン新聞』1843年1月12日付第12号に掲載されたマルクス執筆と思われる記事で直接引用されたデザミの『カベー氏の中傷と政略』の内容の紹介・検討を目的としている。
この問題の記事は、「アウクスブルク新聞の論争戦術」の一連の記事(6 の最後のものであり、とりわけその前の『ライン新聞』第3号掲載の記事と内容的に密接なつながりを持ったものである。この第3号掲載の記事の中で、マルクスは、「彼女[アウクスブルク『アルゲマイネ・ツァイツンク』]は、『ライン新聞』が一通信員の問題の際に『若気の憤瞞』を発散させていると言っている」ことを指摘し、「アウクスブルク嬢は、女性がもはやみずから乙女を装うことができず、今や妹たちに向かって、若者ほど恐ろしいものはないという非難をやってのけるあの年令期に達した」(7 と皮肉っている。そしてそれを受けて第12号掲載の記事ではこう言われるのである。
「彼女は、あちらこちらで我々に憤慨をうけあい、つまらぬ疑いを撒き散らし、くだらぬ訂正を試み、小さな仕事で大きな顔をし、年の功を鼻にかけた。そしてこの点、ヴェテランという称号については、デザミ氏がカベー氏に呼びかける次の言葉を、彼女に送ってやれる。
『カベー氏が元気を出されるように。そうすればたくさんの称号[titres]と一緒に、やがて廃兵扶助料も間違いなく貰えるというものだ!』」(8
この「カベー氏が元気を云々」の文章は、『カベー氏の中傷と政略』の7頁の脚注にある。この脚注の中でデザミは、カベーの「老人政治」を皮肉って、全体ではこう言っているのである(9。
「カベー氏には老人政治に夢中になる癖がある。彼は、自分を人民の大義[cause]のヴェテラン、老兵、上官、古参、老人として示すのが好きである。彼は、他の作家を、自分の下士官、自分の副官、若手、駆出し作家等々と呼ぶのを好むのである。
カベー氏が元気を出されるように。そうすればたくさんの称号と一緒に、やがて廃兵扶助料も間違いなく貰えるというものだ!」
デザミがこの文章を書いた際の趣旨とマルクスがこの文章を引用した際の趣旨は完全に合致しており、デザミによる「ヴェテラン」という語に対する強調や「称号」という言葉に含められた皮肉もマルクスは非常に良く生かしていると言えるであろう。
1) 廣松 渉「フランス社会主義と初期マルクス(上)」(『現代の眼』 1971年4月号)30頁。
2) 同33頁。
3) 同34頁。
4) 同「フランス社会主義と初期マルクス(下の一)」(1971年6月号) 171頁。
5) 『マルクス=エンゲルス全集』(大月書店)第1巻、126~7頁。
6) この「アウクスブルク新聞の論争戦術」には署名がない為、取り扱 いには慎重を要する。これがマルクスのものと認定されたのは、旧『メ ガ』以降のことである。この「アウクスブルク新聞の論争戦術」全体 は、形式的に独立した3つの記事から成っている。ここで我々が問題 にしている1843年1月12日付第12号に掲載された記事は、1月8日ミュンヘン発の記事へ追加されたような体裁になっており、括弧付きになっ ている。今日、新『メガ』がこの第12号掲載の記事をマルクスのもの とする根拠は次の3点である。①この3日前、つまり、1月3日にマル クスが「『お隣の』某新聞の告発に対する答弁」と題する記事の中で、 「我々は予言者フルダ[アウクスブルク『アルゲマイネ・ツァイトゥ ング』-引用者]の再度の挑戦に対しては近く舞踏曲を奏でて真面 目な回答をするであろう」と予告していること(『全集』第1巻、185 頁)。②記事の内容が1842年11月10日付の「アウクスブルク新聞の論 争戦術」とよく似ていること。③文体がマルクスのものであるということ。
以上のことから、我々もこの『ライン新聞』第12号掲載の括弧付き の記事をマルクスのものと見なしても差し支えないものと思われる。 Vgl.MEGA2,I/1,S.1100. 7) 『マルクス=エンゲルス全集』第40巻、321頁。
本稿での同全集からの引用は、必ずしも訳文通りではない。また、 これ以外からの引用に関しても、引用文中の強調および括弧は特にこ とわりのない限り原文通りである。そして[…]は引用者による省略 を意味している。
8) 同、322頁。
9) 本稿で使用した『カベー氏の中傷と政略[Calomnies et politique de M.Cabet]』は、フランス国立図書館(B.N.)所蔵のものである。本書からの引用は、引用文の後に書名を Cabet.と略記し、頁数とともに括弧内に示す。
I デザミとカベー
この『カベー氏の中傷と政略』というパンフレットは、デザミとカベーとの論争の産物である。そしてこの論争は、両者の共産主義思想の対決のみならず、二人の過去の関係の清算という側面をも持っている。それ故、この二人の人物の簡単な紹介も兼ねて、二人が出会うまでの経歴を見ておいた方が良いであろうと思われる。 まず、このパンフレットの著者であるアレクサンドル-テオドール・デザミ[Alexandre-Theodore Dezamy]についてであるが、彼は、1808[?]年3月4日に、フランスの大西洋側にあるヴァンデ地方のリュソンという町に生まれた。母は同じヴァンデ地方のラカイエールの出身であり、父ルイ・デザミはワイン商を営んでおり、その他にリュソンには父方でドイツ出身の叔父ジャック-ガブリエル・デザミが靴屋(洋服屋とする資料もある)を営んでいた。 このような環境の中でデザミがどのような教育を受けたのかは分からないが、いずれにせよ彼は地元ではコレージュの教師をしており、或る程度の高等教育を受ける機会があったものと思われる。そして1835年頃に彼は何等かの理由でパリへ赴き、「自由教育協会」の教師となるが、そこでの教師としての経歴はすこぶる立派なものであり、やはりヴァンデで相当な教育を受けていたものと推察される。そして、1839年にはデザミは、「道徳学・政治学アカデミー」の「諸国民は道徳および経験に関してよりも知識や啓蒙に関していっそう進歩している。その発展におけるこの相違を究明し、その救済策を示せ」という問いに対して、同年12月27日発行のパンフレットで答え、思想界にデビューすることとなったのである。 また、他方の当事者エティエンヌ・カベー[Etienne Cabet]は、1788年1月1日にディジョンに生まれた。彼の父は樽屋であったが、息子を学者にすべく、意識的に高い教育を彼に受けさせた。エティエンヌも父の期待に応え、法学で博士号を取得し、ディジョンで弁護士活動を始めたのである。しかし1815年の王制復古の際、彼は、「錯乱せるフランス人」として、ディジョンでの職業活動を禁じられ、パリへ行くことになった。 パリでは法律相談所を開くなどして、地道な生活を送っていたが、あのフランス革命期の自由主義貴族として有名なラファイエット等と知り合い、政治活動に専念する為に、これらの仕事を捨てた。 1830年頃には、カベーは革命運動にも身を投じるが-そして、後に見るようにデザミもこの点に注目するのだが-他方では検事総長にまで出世し、1831年7月の選挙では代議士として選出された。 著作活動としては、1832年に『1830年の革命、および1789年・1792年・1799年・1804年の革命と王制復古によって解き明かされ啓発された現在の状況』を出版し、1833年には『労働者たちの嘆かわしい状況を改善する諸手段』を出版した。1834年には機関紙『ポピュレール』を発行するまでに至った。だが、この『ポピュレール』にカベー自身が書いた2つの論文が原因で、彼は亡命せざるをえなくなる。ベルギーを経由してイギリスへ渡り、そこで『フランス革命史』を執筆した。そして1839年に恩赦が出され、カベーも帰国が許された。 デザミが、カベーと知り合ったのは、ちょうどカベーが帰国したばかりの時だったのである。デザミは、共産主義思想界におけるカベーの君臨を「老人政治」とやゆしていたが、この時デザミは31才でありカベーは51才であった。そして、デザミは例のアカデミーの出題に答えた論文をカベーに送り、そこから彼の秘書となり、カベーの執筆活動に協力した次第は以下に見る通りである。
Ⅱ 『カベー氏の中傷と政略』の内容
(1) 『カベー氏の中傷と政略』の成立事情
パンフレット『カベー氏の中傷と政略』は、序文と5つの章から成っている。 まず、デザミは序文の冒頭で、かつての政治上の仲間を批判しなければならないことの苦しさを嘆いている。しかし、この苦しさの為に沈黙を守る訳にはいかない。なぜならば、カベーはデザミを中傷したのであり、これに対して沈黙を守るということは「私[デザミ]の意見では、中傷に奨励金を与えることになるだけ」だからである(Cabet.p.3.)。更にまた、この苦しみを越えてデザミを前進させるものは、「カベー氏の大好きな検閲、独占、老人政治、教皇政治といった一定の企てから、思想の自由という主張と討論の自由という主張とを同時に護る」という意志である(ibid.)。つまり、カベーは「我々の共産主義的党派[notre parti communiste]の中で最も目立っている人物」であり、彼のあしき影響がこの「党派」の中に今まで以上に浸透するのをデザミが恐れるからである。また、このパンフレットには、単にカベーを批判するだけではなく、そうすることを通じて達成すべきもっと積極的な主張がある。それは「第1に、共産主義者自身をも全くひどいあやまちへと投げ込んでしまう社会秩序を変えることの必要性、第2に、プロレタリアートが互いに結びつき、更に前進する前に、まず自分たちの固有の統一を形成できる共同地を探すのを今まで以上に急がなくてはならないということ」である(ibid.)。特に、この第1の点が、このパンフレットの最終章全体にわたって展開されていることは以下に見る通りである。 さて、デザミは序文でこのように書いている訳だが、それでは何故カベーはデザミを-「中傷」という点はともあれ-批判しなければならなかったのであろうか。パンフレットの第1章は「1842年5月8日付の『ポピュレール』誌。そこで私はカベー氏によって非難されており、その記事は偽造と中傷以外に殆ど何も含んではいない」と題されている。何故カベーはこの5月8日の号でデザミを批判しなければならなかったのか。まずこの点を明らかにする為に、パンフレットの第1章は後回しにして、第2章「カベー氏の攻撃の口実とその真の目的」から見てゆくことにしよう。 デザミは第2章を次のように書き出している。
「『共有制の法典』の第3回配本の中で、私は他の著作とともに『イカリア旅行記』を引用しようという気になったのであった。 その時、私はこのような疑問を取り扱った。 『共有制社会は、コミューンから構成されるのか、それとも都市、町、村、小作地から構成されるのであろうか?』」(Cabet.,p.16.)
この点にもうすこし立ち入って見ておいた方が良いであろう(1。
デザミの主著である『共有制の法典』は、1842年から1843年にかけて、毎週日曜日に印刷用紙一枚分(=1 feuille=16頁)ずつが配本されるという形式で出版された。そうすると、第3回配本分というのは33頁から48頁までの部分のことであり、第4章「分配法と経済法」(30~55頁)の殆どの部分にあたっている。 この『共有制の法典』第3章の冒頭で、デザミはまず「今日、兵士や病人、貧民、囚人に食糧を一定量給与するのと同じように、市民に食糧を供給しようという愚かでみすぼらしい平等」を退け(Code.,p.30.)、「いつかすべての人々に、本当に大切なかけがえのない財産、すなわち健康、平和、そして安全を手に入れさせるであろうし、そのことによって必然的に道徳、それに続いて幸福が生じてくるこの共有制社会を、調和的に機能させるのに最も適切で効果のある手段はどのようなものか、今、見ることにしよう」と述べている(Code.,p.31.)。 デザミの考えでは、共有制社会は、ほぼ等しい面積を持つコミューンだけによって構成されなければならない。その理由のひとつは、平等という法則が宇宙全体を支配しているという18世紀的な形而上学的唯物論的前提であるが、より実際的には、教育の統一化、習慣の完全な同一化、都市民と農村民の区別の解消、職業選択の自由の保証等々をもたらす為にこのことが要求されているのである(Code.,pp.31-2.)。そもそも大都市に対する批判は新しいものではなく、当時最大の権威者たちの幾人か、すなわちフェヌロン、マブリ、エルヴェシウス、そしてブオナルロティ、ルソーも述べていることである、とデザミは言う(Code.,pp.32-6.)。そしてその際、デザミは、カベーについて次のように述べているのである。
「1837年に印刷された『イカリア旅行記』(2 の著者は、まず留保することなしに、都市と首都の組織を採用したのであった。今日ではカベー氏はこのヒエラルヒー的様式を意に介していないように見える。その第2版(アバイエ通り、11番、「マレット」で販売中)の序文の中で、彼は都市があってもなくても共有制を組織しうる等々と認めている(3。新たな検討の後に、カベー氏が、第3版の中で、彼の著作の他の幾つかの部分を急いで修正するであろうということは疑いもない。」(Code.,p.36.ou Cabet.pp.18-9.)
このようなデザミの言明に対して、カベーは、『ポピュレール』5月8日号をはじめその他のパンフレット等で、デザミ批判を展開したという訳である。 デザミは『ポピュレール』5月8日号でのカベーの反論を引用している。
「『法典』の著者は、『イカリア』の第2版で、我々が、都市を擁護した我々の見解を修正し、第3版では他の幾つかの点を急いで修正している、と公言している。だが、『法典』は、思想の面では、都市や家族に関する以外は、『旅行記』の受け売りにすぎないので、すべての人々は、我々が『法典』の理論を採用する為に家族に関する意見を変えたのだと彼が公言したのだ、ということを理解したのである。同じく多くの人々が、自分たちは『法典』が我々の現実の諸見解を表現しているように思えたから『法典』を読んだだけである、と我々に言っている。[…]」(Cabet.,p.19.)
つまり、デザミの言い分を敷延して表現すれば、カベーとの個人的な交際があった時期に、デザミは『イカリア旅行記』初版での都市論に対して何かと意見を述べたのであり、カベーはそれを取り入れて修正を加えた、だが、デザミの考えではその修正はまだまだ不十分なものである、それ故、『共有制の法典』で公にその旨を述べただけである、ということになるであろう。しかし、カベーの言い分では、なるほど都市や家族についてのデザミの考えは独創的であるが、それ以外は自分の著作の盗作なのである。つまりカベーは、自分が意見を修正したかどうかという問題を、逆にデザミによる『イカリア旅行記』の盗作問題としてすり替え、デザミを攻撃しているのである。しかし、それでもデザミの目から見れば、この反撃には何の説得力もない。それは第1に、カベーにはこれまでに「我々の現実の諸見解」と呼べるような「不変」「不動」の見解などなかったし、第2に、『ポピュレール』5月8日号が出た時、デザミは「まだ家族についてただの一言も語っていなかった」(4 のである(ibid.)。つまり、カベーは、デザミの思想を彼の出版物だけからではなく、個人的な交際の中でも知っていたということを、自ら暴露してしまっているのである。
(3) カベー批判――歪曲したプロパガンダと虚偽の経歴――
このパンフレットの第3章は、「『共有制の法典』第7回配本分での注におけるすべての批判と非難は完全に根拠があるということ」と題されている。
『共有制の法典』第7回配本分というのは、97頁から112頁までであり、第7章「分割制と共有制の比較一覧」の殆どと第8章「哲学」の前半を含んでいる。問題の注は第8章にある。
「人民を教育し、何等かの教育システムを組織する為には――繰り返し言うが――我々にとってガイドとして、また指針として役立つ根本思想から始めなければならない。つまり、哲学を持たなければならない」(Code.,p.104.)。
このように、人民大衆の教育・啓蒙との密接不可分な関係の下に『共有制の法典』第8章「哲学」は展開されている。その中でデザミは、知識の独占を主張するソフィストを批判したキケロについて述べており、問題の注はその文章に付いている。主要な論点としては、カベーが『共産主義のプロパガンダ』と題するパンフレットで、「哲学は二次的な問題でしかない」ということ、「学者の為にしか取り扱われるべきでなく、また、労働者の為には書かれるべきでなく、そして、彼らと討論されるべきでない一定の問題がある」ということを述べているとデザミが批判していることが挙げられる(Code.,p.109. ou Cabet.,p.21.)。
更にまた、カベーは、同じく『共産主義のプロパガンダ』の中で、『共有制の法典』第4章「共同食事」を批判しており、デザミもここでこれに応酬している。
この第4章では、「共同食事」を中心論点として、①将来の共有制での消費生活の具体的在り方と②平等=分配論について展開されている。思想史的に見て、ヨリ重要なのは後者であろうが、ここで問題にされるのは前者の中の「個人住宅」についてであり、しかもカベーとデザミの考え方の相違そのものではなく、カベーの批判の仕方、いわばその手口の批判である。
まずデザミは、批判の対象となっている第4章の一部分を引用し、これをカベーがどのような仕方で紹介しているかが、『共産主義のプロパガンダ』からの引用で示されている。しかし、『共有制の法典』からの引用はかなり長いものなので、ここはまずカベーによる紹介を示し、その後でデザミとともにカベーの紹介の仕方を批判してゆくことにしよう。カベーはこう書いている。
「次のようなことを、共有制の法であると公言する共産主義者たちがいる。すなわち、各人は自分の時間の最大の部分を公共の集会の中で過ごさねばならないであろう。個人の住居は寝る為および一日の数時間を過ごす為にしか必要ではないだろう。そして、彼は小さな寝室、小さな書斎、小さな実験室、そしてそれに小さなまき小屋が付いただけで十分なのである(修道士にとって独房が十分であるように)。女性たちと子供たちはばらばらに住まわせられるであろう(何故かはまだ分からないが)。市民のそれぞれが自分の家事をするであろう(あたかも彼には社会の為にすべきいっそう有益なものは何もないかのように)。そして家事をしたくない人たちの為には、ベッドメイキング、掃除、洗濯等々のことをしにくる別の市民がいるであろう[…]。-一言で言えば、結婚・家族・家事の廃止、男・女・子供の分離を共有制の法と公言する共産主義者たちがいるのである(6。」(Cabet.,p.23.)
このカベーによる紹介には、第1に「改竄と偽造」がある(ibid.)。まず、デザミは、共有制において各個人に「何も欠けるものがないようにする為には、各人に対して2~3部屋、つまり、1)寝室、2)書斎、3)小研究室で十分である」と書いており(Cabet.,pp.22-3. ou Code.,p.52.)、カベーによって2箇所に追加された「小さい」という形容詞は悪意に満ちた改竄と言えるであろう。それから、「市民のそれぞれが自分の家事をするであろう」、「家事をしたくない人たち」、「別の市民」という部分もそうである。確かにデザミは、「家事をすることは、今日のような不愉快な雑役とは程遠く、非常に容易なこととなるであろう。それ故、全員で家事をすることが習慣となるであろう――とは言え、この仕事を任された当番の市民が何人かいるのではあるが――ということを信じるのは全く当然のことである」と述べている(ibid.)。しかし、「この仕事を任された当番の市民が何人かいる」という文章でデザミが言おうとしていることは、「家事の世話は(もしもその仕事をヨリ容易にあるいはヨリ経済的に果たすのであれば)他の職務と同様に、公共の奉仕――どんな奉仕と比べても同じくらい快く同じくらい名誉のある奉仕であり、選択によって自分を[それぞれの奉仕活動に]分類するような奉仕、または、各人が全員で役割を果たすような奉仕[…]――となりうるのだということ」なのである(Code.,p.23.)。それをカベーは、まるで「家事をしたくない人たち」がいる場合、この仕事をするように強制された「下男」がいるかのように描いているのである。デザミは言う。「このような思想が『法典』全体と全く矛盾するものであるのに、何故それらを私に帰することができるのだろうか? 『法典』で私は絶えず次のような教説に立ち返っている。すなわち、すべての社会的な機能に関して、市民たちは自分自身でそれを選択するのだということ。法はもはや強制をその基礎としてはならないということ。また、法は単なる基準、行政官でしかないべきであり、水先案内人にすぎないものであるべきだということ。無限の自由からこそ最も完全な秩序が生ずるであろうということ。これらである」(ibid.)。
第2に、カベーの紹介には「加筆と挿入」がある。上に見た「小さい」という形容詞の挿入などの他に、ここでデザミが特に「加筆と挿入」と呼ぶものは、「女性たちと子供たちは別々に住まわせられるであろう」という文章、そしてまた「(修道士には独房が十分であるように)」という但書である(Cabet.,p.24.)。デザミが描く将来の「個人住宅」には、寝台の他に衣装戸棚、洗面台、ナイトテーブル、可動式の浴槽などが備えられており、「馬の手の寝台、聖水容器、キリスト十字像、そして修道士の家具類すべての基礎となる宗規」だけの修道士の独房とは無縁のものである(ibid.)。疑いの余地なくカベーの悪意の現れと言えよう。前者に関しても、デザミは決して『共有制の法典』当該箇所でそのようなことは言ってはおらず、他の場所にもこのような言明はない(Cf.Code.,p.125ff.)。
第3に、『共産主義のプロパガンダ』には「老獪な比較とほのめかし」がある。まず、「『ファランステール』という語が、一般に、共産主義者たちやプロレタリアたちにとって憎たらしいものであるということ」を知った上で、カベーは、デザミの「コミューン」を「ファランステール」と言い換えていること(Cabet.,p.25.)。そして、将来社会では都市や首都がなくなり、コミューンだけが存在するというデザミの議論をねじ曲げ、現在、デザミが「躊躇なく、ためらわず、熟慮することなく、出来る限り最も迅速に、また、絶対欠くべからざることとして、パリやボルドー、それにリヨンといったフランスおよび地球上のあらゆる都市を破壊しようとしている」(7 と、カベーがデザミを非難していることである(ibid.)。 要するに、カベーのデザミに対する批判は、その殆どすべてが何の根拠もない意図的な曲解に基づくもの、すなわち「中傷」であるということになる。 第4章は「カベー氏が自分自身で語る彼のキャリアについての批判的分析」と題されており、彼が『ポピュレール』等で自分について述べたものの中に見られる「自慢癖」、「変節」、「瞞着」、「矛盾と民主主義上の異端」が指摘されている。ここでは、デザミが、第3章を書いたのと同じ意図をもって、この第4章を書いたのだということさえ分かっていれば、この章に特に詳しく立ち入る必要はないように思われる。できるだけ簡単にその主な内容を示しておこう。
イ)「自慢癖」。1815年および1830年の革命の際に自分が英雄的な活動を行ったとカベーは言っているが、「弁護士が、彼の行った弁護活動の為に、ギロチンにかけられたということはこれまでない」のであり、「代議士は、旧憲章と同様に新憲章に従っても、不可侵」であり、かれの行為は取り立てて「英雄的」と言えるようなものではないということ(Cabet.,pp.27-9.)。
ロ)「変節」。①ルイ・フィリップが暗殺されそうになった現場にいなかったと言いながら、後ではその暗殺を阻止したのは自分であると言っていること(Cabet.,p.30.)。②ラファイエットの友情を裏切ったこと(Cabet.,pp.30-1.)。
ハ)「瞞着」。①復古王制の粛正によってラファイエット等が逮捕された場合に彼らを救う為に、イギリスに亡命したのだとカベーは言うが、真の理由は出版法違反による逮捕を免れること、あるいは、フランスでできる以上に落ち着いて執筆活動を続けることではなかったかということ(Cabet.,pp.31-2.)。②『フランス革命史』の出版について(Cabet.,p.32.)。③カベーは『イカリア旅行記』の出版を画期的なものと言っている。しかし、カベーは亡命先のイギリスで「何人かの共産主義者たちと接触し、彼らから衝撃を受けた」のであり、フランスにはすでにブオナルロティのすぐれた著作があった。それなのに、カベーはこのブオナルロティ等の先行者について一言も触れていないということ(Cabet.,pp.32-3.)。④『イカリア旅行記』はその出版が一度延期されたが、カベーはその理由を、その方が革命に有利であったからだと言っている。しかし延期の真の理由は、単に「幾つかの乗り越えられない障害の為に遅らされたのだ」と思われるということ(Cabet.,p.33.)。 ニ)「矛盾と民主主義上の異端」。⑤今日の社会問題・政治問題の解決策として共産主義があるというのに、かつてはカベー自身が非難していた聖職者を「丁重にもてなし」、その著作を「哲学」と呼ぶに至っているということ(Cabet.,pp.33-4.)。⑥「ブルジョアの支配者たちの目から見て一般に功績があればある程、人民の目にはますますふさわしくないものとなる」にもかかわらず、カベーが「検事総長の地位に自分以上にふさわしい人物はいない」と言っているということ(Cabet.,p.34.)。⑦陪審員制度という「ブルジョア的かつフェデラリスト的制度(8」の設立に加担し、その上、その功労をもって勲章を要求するというカベーの反民主主義的態度(ibid.)。⑧カベーは「民主主義者でありまた共産主義者でもある」筈なのに、「現在の秩序の尊厳を余りに好み」、「自分自身を信頼させる為に、元代議士・元検事総長等々の肩書を褒めあげたがる」ということ(Cabet.,p.35.)。⑨『アトリエ』との論争の際に、カベーは「牽制の政略」、つまり「部分的改革」に反対したのであったが、今日では、「有権者にパンと独立を保証する前に、選挙制度改革を支援し署名することによって」、そしてサン・シモン主義やフーリエ主義などの改良主義的な運動に加担することによって、かつての言動をひるがえしたということ(ibid.)。⑩カベーが、独立・平等の精神を憎み、ごくささいな機会も逃さず自分を褒めたたえ、自分を売り込んでいるということ(Cabet.,pp.37-8.)⑪かつてカベーは「あらゆるものに対する、あるいは反対する闘争に耐える用意ができている」と言い、何度も『ナショナル』を、その反共産主義的・反革命的性格の故に非難していた。しかしカベーは「今日になって、共産主義的叙述家たちに対立して『ナショナル』の束縛的な政略、教皇制礼賛者的にして反革命的な政略を支持している」ということ(Cabet.,p.39.)。⑫カベーは若い作家たちの能力を不当に低く評価し、自分に「白紙署名[全権]を要求している」ということ(ibid.)。以上である。
(4) 私有財産と情念
さて、これまでカベーのデザミ批判に対するデザミの反批判の内容を見てきたのであるが、これらは決してカベーというデザミに対立する特定人物を個人的利益から追い落とすことを目的としたものではないということを繰り返し言っておかなくてはならない。デザミがこのパンフレットを発行したのは、フランスにおける共産主義勢力の団結と拡大の為であり、このようなものを出版したこと自体は、カベーに気の毒であるとすらデザミは考えていたのではなかろうか。なぜならば、「今日のすべての人間は堕落しやすい」ということは真実だからである。
『カベー氏の中傷と政略』の最終章は「今日のすべての人間は堕落しやすいか?」と題されている。ここで、まずデザミはローマ時代からフランス革命後の王制復古までの歴史を概観する。そしてこう結論づけている。「すべての人間は堕落しやすいものであり、我々の社会法がごく僅かであっても特権によって損なわれている限り、財産制度が続く限り、人間は堕落しやすい」(Cabet.,p.42.)。つまり、私的財産制度があり、不平等の時代が続く限り、人は私的な幸福のみを追及し、文筆家たちは自分の文章が売れることだけを考えるようになるのである。これは、この時代の必然的な帰結なのである。「野心と偽善、つまりは虚栄と堕落、ここに我々の現実の締め括りがるのだ! 醜悪にして悲惨な真実だ!」(Cabet.,p.43.)。 それではどうすれば良いのか? 例によってデザミは歴史を知ることから始める。例えばアテネ人のもとには、「どのようなものであれ、あまりに強力になった者-たとえそれが彼の美徳によるものであっても-は誰でも追放によって追い払う」為に発明された陶片追放の制度を見ることができる(ibid.)。そして「この追放は非常な名誉以外のものを何も含んではいなかった」のである(ibid.)。そして、ローマやフランス革命の経験をもふまえるなら、歴史が我々に示しているのは、「不信が独立と自由の守りの女神である」ということに他ならない(ibid.)。しかし「[アテネ人たちとは]違う共産主義者である我々は、陶片追放を欲してはいない。つまり、我々の原理は、私的な野心をコントロールするに十分な力を持っているのである」(ibid.)。
ここで、デザミの共産主義思想の基盤である「情念」論の一端が示される。つまり、こうである。人間が誰でも持っている諸情念の「幾つかは、我々を悪徳へと導くが、他の情念は、我々を正しい道に保つ」(Cabet.p.44.)。後者の典型的な例は「献身」であろう。しかし、常に献身的な人間というものはありえない。なぜならば、それは複数存在する情念の内のひとつにすぎず、他の情念によって必ず妨害されるからである。問題は、ひとつ、あるいは幾つかの情念だけを取り上げるところにある。諸情念は、全体としては「相殺されあうのであり、互いに均衡されあう」のである(ibid.)。それだけでは人間を堕落させかねない虚栄や野心といった情念も、全体の中の一部分として、人間が「公共の福祉」に結びつくよう協力するものなのである。
しかし、今日の共産主義運動を発展させるにあったては、私有財産制度を前提としなければならない。そこで「以上のこと全体から導き出される論理的結論」として、デザミはこう言う。「共同の救済は、一人の人間-彼がどのような人間であるにしても-の上にその根拠を置くべきでは決してないということであり、人民は真実-それがどこに由来しているにしても-にしか注意を注ぐべきではないということである」(Cabet.,p.45.)。つまり、いかなる人間も堕落することはあるのだから、革命の指導を一個人にまかせることはできないし、指導される人民は、外見に惑わされることなく真実を見極めることが必要である、とデザミは説いているのである。
1) 以下で引用される『共有制の法典[Code de la communaute]』は、Edition d'Histoire の復刻版(パリ・1967年)をテキストとして用いた。本書からの引用の際は、Code.と省略し、本文中にその頁数と ともに括弧の中に示した。
2) 『イカリア旅行記』初版が1837年に印刷されたというのは、デザミ の思い違い、あるいは誤植であろう。『イカリア旅行記』初版、すな わち『ウイリアム・キャリスドール卿のイカリア旅行と冒険』は1840 年に出版されているのである。デザミ自身もこのことに気づいたらしく、『カベー氏の中傷と政略』での引用では、「1837年に印刷された」 の部分は削除されている。ちなみに、『イカリア旅行記』第2版は1842年、第3版は1845年にそれぞれ出版された。
3) この点については、河野健二編『資料フランス初期社会主義』(平凡社、1979年)157頁を参照。
4) 『共有制の法典』の中で家族の問題が扱われるのは、第9章「結婚、親権、家族について」(第8~10回配本分)においてである。
5) 《le foyer domestique》というフランス語は、一般的には「家庭」 と訳されている。この点、ドイツ語の《Herd》なども同様である。だが、デザミは場所によって《le foyer domestique》と《la famille》 とを使い分けている為、敢えて前者を「かまど」とした。
6) Cabet, Propagande Communiste, Paris, 1842, pp.5-6.
7) Ibid.,p.9.
8) 「フェデラリスム」という語は、「分割制」、すなわち私有財産制 を意味している。Cf. Dezamy, M. Lamennais refute par lui-meme, p.41.
(2) カベー氏の中傷と政略
盗作の件に関しては、カベーの『イカリア旅行記』の方が『共有制の法典』よりも前に出ている訳だから、『共有制の法典』を読んでいない一般の『ポピュレール』購読者に対しては通りがいい。しかし、デザミの意見によって『イカリア旅行記』第2版に修正が加えられた点をカベーが否定する為には、『イカリア旅行記』が出版された1840年よりも前にデザミなる人物を知らなかったということを証明しなければならない。更に、デザミが盗作等々をやりかねない人物であるということも示す必要がある。そして、カベーは実際にそうしたのである。そこでデザミはこの「先例」にならって、この『カベー氏の中傷と政略』の第1章で、二人のこれまでの関係を要約し批判に答え、カベーの批判がまったく中傷にすぎないということを明らかにしているのである。
先のデザミの略歴のところでも述べたように、デザミは1838年の末に、「道徳学・政治学アカデミー」の出題に答える論文を出版した。そして、この論文を翌年になってカベーに送ったところから二人の交際が始まった、とデザミは言明する(Cabet.,p.5.)。そして、この論文の中ですでにデザミは共産主義的なプログラムを確立していた、それ故、この時点ですでに自分とカベーの思想の食い違いは明らかであったとデザミは言う。まず、カベーの「科学と哲学に対する懐疑的態度」がそうであり、「懐疑的」ならまだしも、「貴方[カベー]の著作の中には理神論、唯心論、汎神論、自然主義、唯物論といったすべてのものが見いだされる」とデザミは批判している(Cabet.p.6.)。更に「報償金を欲しがるのに従って意見を変え、殆どいつでも(論文においてすら非常にしばしば)賛否両論を支持し」、イカリア共産主義の根本概念である「献身」をめぐっても「風見鶏的態度」でごまかしている(ibid.)。
また、「かまど[le foyer domestique]」(5 の問題については、カベーは一度も取り組んだことはないし、「都市、田園地帯、村落ならびに小作地の体制」については、カベーは常にデザミに対して非妥協的な態度を示していた、とデザミは証言するのである(ibid.)。
それはともあれ、1839年にデザミはカベーと親交を結び、カベーの秘書となった。そしてカベーが亡命前に発行していた機関紙『ポピュレール』の再開に向けて協力したのであった。しかし、デザミは自分独自の思想を練り上げることも怠らなかった。同年12月に、デザミはカベーに『エデン旅行記』と題する「共産主義的著作」の出版計画を伝えた(Cabet.,p.7.)。そして翌年1840年の2月下旬か3月上旬頃、トゥールの印刷業者でポルナンという人物がデザミの著作の出版を引き受けてくれることになった。その話しをすると、カベーは出版をとりやめるようデザミを説得したのである(ibid.)。同年5月に雑誌『エガリテール』の趣意書を見せた際も同様であった(Cabet.,p.8.)。
こういった事情の為、デザミは次第にカベーから離れてゆき、1840年7月1日に共産主義者J.-J.ピヨ等と共に「第1回共産主義者宴会」を開催した頃には、もはやカベーとは殆ど会うこともなかった(ibid.)。むしろ、カベーはこの「宴会」の報告集が出版されると、これに激怒したのである。デザミは推測して言う、「貴方は、プロレタリアがブルジョアや有名人の誰をも頭にいただくことなしに、共産主義の旗を全く独自に勝手に揚げたということ、そして恐らくは、1840年7月1日以来、平等の共有制、社会的かつ全く現世的な共有制、理性的な共有制、これらの時代が始まったということに最初から不満であったようだ」(ibid.)。カベーとしては、何よりも自分を差し置いて「共産主義の旗を全く独自に勝手に揚げた」ことが不満であったに違いない。というのも、カベーは「自分が登場するまではまだバブーフ主義者とエルヴェシウス主義者しかいないと言い、自分が近代共産主義の唯一の創始者であると自任」しているからである(ibid.)。
しかし、カベーは再び-デザミに『エガリテール』の出版を断念させる為か、それともデザミの才能を認めていた為か-デザミの協力を求めてきた。最初の仕事は「東方問題」に関するパンフレットの共同執筆であった(Cabet.,p.9.)。しかし、報酬が公正とは言えず、また、カベーは「共同著作者の名前を含んだタイトル・ページを削除させ、パンフレットの最後に貴方[カベー]の名前だけを載せさせた」のであった(Cabet.,p.10.)。そして「しばらくすると、貴方[カベー]は、恐らくは、私[デザミ]が辛抱できなくなるのを恐れて、私に一緒に『共産主義者から改良主義者への12通の手紙』を出版することを申し入れた」(ibid.)。デザミはこの申し入れを受けたが、カベーは二度とこのことについて触れはしなかった。そして、さすがにこの時は、デザミの心中に「信頼の欠如」が芽生えることになったのである。
同様のことは『ポピュレール』の編集の中でも行われた。すなわち、カベーは、或る時はデザミの論説を「葬り去」り(Cabet.,p.11.)、また或る時は、デザミが著者であるということを示す《le modeste D》という署名を入れることを怠るということを繰り返したのである(Cabet.,p.12.)。とりわけ、『ポピュレール』第8号の「共産主義に対する水曜会[Mercuriale]」と題する論説は、僅かの語句に修正を加えただけでカベーのものにされてしまているのである(Cabet.,pp.12~3.)。
また、カベーは自分がデザミに数百フランの提供を申し出たと言っている。確かに「私[デザミ]が、貴方[カベー]の為に働いた14ケ月の間、貴方は、私に、数回、合計で400フラン支払った」(Cabet.,p.10.)。しかしそれは「前以て定められていた代価」の一部-というのも、デザミは1~2度この「代価」の受け取りを辞退しているのだから-なのである。
更に金銭に関して、カベーは「『ラムネー氏の論駁』が売れないので、私[デザミ]ががっかりしていた」と言う(Cabet.,p.13.)。つまり、1841年にデザミは『自分自身によって論駁されたラムネー氏』と題するパンフレットを発行し、ラムネーの『人民の過去と未来』(1841年)を批判したのであったが、これが思ったほどの収入にならず、デザミが「がっかりしていた」とカベーは言っているのである。しかしデザミにとって「この出版は金銭上の投機ではなかったのだ」(ibid.)。このパンフレットを出版したのは、多くの共産主義者たちがデザミに彼を批判するよう勧めたからであり、デザミ自身その必要を感じたからである。しかも、ラムネー批判の出版はそもそもカベーが予告しておきながら実行を怠った、あるいはその努力すらしなかったものなのである。また、デザミの『自分自身によって論駁されたラムネー氏』の販売-このパンフレットもまた『共有制の法典』と同様に配本形式で出版された-に関しても、3回めの配本をカベーの取り巻きたちが意図的に売らなかったのである。「恐らく、それは、3回めの配本で『共有制の法典』[の出版]を予告していたからである」とデザミは言う(ibid.)。
金銭上の中傷にとどまらず、カベーはまたデザミを「おべっか使い」であるとも言う(ibid.)。しかし、今日では「私は貴方と根本的に別れた」のであるから、カベーにこびて何の利益もある筈はない。そもそもデザミを或るところでは「無礼である」と言い、他のところでは「へつらっている」と描くこと自体が「矛盾と馬鹿げたこと」であろう(Cabet.,p.14.)。
あるいはまた、カベーは、自分たちが『ポピュレール』を発行しようとしている時に、別の雑誌『商業の晒台』を発行しようとしたということで、デザミを非難している(ibid.)。しかしこの点について「貴方[カベー]は、ご自分の思考の中に、極端な混乱を持ち込んでいる」(ibid.)。つまり、デザミは、『ポピュレール』発行の準備が着手される3ケ月前に、すでにこの雑誌を出版する意図をカベーに伝えてあり、デザミは3ケ月間その出版を「延期するよう強制されて」いたのである(ibid.)。
更に、デザミとガティ・ド・ガモン夫人との関係、そしてまた、彼女の為に『ファランステーリエン』誌をデザミが編集すると言ったということについて「貴方[カベー]は全く破廉恥にも嘘をついている!」(Cabet.,pp.14-5.)。まず第1に「私[デザミ]は、彼女の著作[『フーリエとその体系』]でしか彼女を知らない」(Cabet.,p.15.)。それに、確かに「私[デザミ]は、貴方に対してこの本を称賛した」が、徹底した平等主義者であるデザミが、フーリエの不平等の体系の実現に手を貸す筈はないのである(ibid.)。
最後にデザミは、カベーの悪質な「マヌーヴァー」を2つ取り上げている。第1に、カベーは自分のパンフレット『リーニュ・ドロワト』に対する同意書を、自分自身および近親者の手で書き、発表した(Cabet.,p.16)。そして第2に、『ナショナル』に対する抗議文をデザミが作成し、印刷所にそれをまわした後、カベーは校正刷を要求し、勝手に自分の名前を入れ、章句を入れ替えた(ibid.)。
以上が、1842年5月8日付『ポピュレール』でのデザミ非難に対する一応の反論である。しかし、カベーはデザミを、盗作をもやりかねない信用すべからざる人物であると「中傷」したのであり、デザミはこの「前例」に従って、カベーという人物の姿を描く権利がある。とは言え、デザミは「中傷」という手段は使わない。カベーが『共有制の法典』をいかに歪曲して紹介し、いかにつじつまの合わない仕方で自分の経歴を飾り立てているかを、カベーの文章に即して証明するだけである。 第4章は「カベー氏が自分自身で語る彼のキャリアについての批判的分析」と題されており、彼が『ポピュレール』等で自分について述べたものの中に見られる「自慢癖」、「変節」、「瞞着」、「矛盾と民主主義的な体裁をした邪説」が指摘されている。が、この点については、デザミがどのような意図をもってこの第4章を書いたのかがさえ分かっていれば、特に詳しく立ち入る必要はないように思われる。できるだけ簡単にその主な内容を示せば十分であろう。
イ)「自慢癖」。1815年および1830年の革命の際にカベーが英雄的な活動を行ったと彼は言っているが、「弁護士が、彼の行った弁護活動の為に、ギロチンにかけられたということはこれまでない」のであり、「代議士は、旧憲章と同様に新憲章に従っても、不可侵であ」り、彼の行為は特に「英雄的」と言えるようなものではないということ(Cabet.,pp.27-9.)。
ロ)「変節」。@ルイ・フィリップが暗殺されそうになった現場にいなかったと言いながら、後ではその暗殺を阻止したのは自分であると言っていること(Cabet.,p.30.)。 @ラファイエットの友情に対する裏切り(Cabet.,pp.30-1.)。
ハ)「瞞着」。@復古王制によって粛正によってラファイエット等が逮捕された場合に彼らを救う為に、イギリスに亡命したのだとカベーは言っているが、真の理由は出版法違反による逮捕を免れること、あるいは、フランスでできる以上に落ち着いて執筆活動を続けることではなかったかということ(Cabet.,pp.31-2.)。 @『フランス革命史』の出版について(Cabet.,p.32.)。 @カベーは『イカリア旅行記』の出版を画期的なものと言っている。カベーは亡命先のイギリスで「何人かの共産主義者たちと接触し、彼らから衝撃を受けたのであった」が、フランスではすでにブオナルロティのすぐれた著作があり、しかもカベーはこのブオナルロティ等の先行者について一言も触れていないということ(Cabet.,pp.32-3.)。 @『イカリア旅行記』はその出版が一度延期されたが、カベーはその理由を、その方が革命に有利であったからだと言っているが、延期の真の理由は、単に「幾つかの乗り越えられない障害の為に遅らされたのだ」と思われるということ(Cabet.,p.33.)。
ニ)「矛盾と民主主義的な体裁をした邪説」。@今日の社会問題・政治問題も解決策として共産主義があるというのに、かつてはカベー自身が非難していた聖職者を「丁重にもてなし」、その著作を「哲学」と呼ぶに至っているということ(Cabet.,pp.33-4.)。 @「ブルジョアの支配者たちの目から見て一般に功績があればある程、人民の目にはますますふさわしくないものとなる」にもかかわらず、カベーが「検事総長の地位に自分以上にふさわしい人物はいない」と言っているということ(Cabet.,p.34.)。 @陪審員制度という「ブルジョア的かつフェデラリスト的制度(6」の設立に加担し、その上、その功労をもって勲章を要求するというカベーの反民主主義的態度(ibid.)。 @カベーは「民主主義者でありまた共産主義者でもある」筈なのに、「現在の秩序の尊厳を余りに好み」、「自分自身を信頼させる為に、元代議士・元検事総長等々の肩書を褒めあげたがる」ということ(Cabet.,p.35.)。 @『アトリエ』との論争の際に、カベーは「牽制の政略」、つまり「部分的改革」に反対したのであったが、今日では、「有権者にパンと独立を保証する前に、選挙制度改革を支援し署名することによって」、そしてサン・シモン主義やフーリエ主義などの改良主義的な運動に加担することによって、かつての言動をひるがえしたということ(ibid.)。 @カベーが、独立・平等の精神を憎み、ごくささいな機会も逃さず自分を褒めたたえ、自分を売り込んでいるということ(Cabet.,pp.37-8.) @かつてカベーは「あらゆるものに対する、あるいは反対する闘争に耐える用意ができている」と言い、何度も『ナショナル』を、その反共産主義的・反革命的性格の故に非難していた。しかしカベーは「今日になって、共産主義的叙述家たちに対立して『ナショナル』の束縛的な政略、教皇制礼賛者的にして反革命的な政略を支持している」ということ(Cabet.,p.39.)。 @カベーは若い作家たちの能力を不当に低く評価し、自分に「白紙署名[全権]を要求している」ということ(ibid.)。以上である。
(4) 私有財産と情念
さて、これまでカベーのデザミ批判に対するデザミの反批判の内容を見てきたのであるが、これらは決してカベーというデザミに対立する特定人物を個人的利益から追い落とすことを目的としたものではないということを繰り返し言っておかなくてはならない。デザミがこのパンフレットを発行したのは、フランスにおける共産主義勢力の団結と拡大の為であり、このようなものを出版したこと自体は、カベーに気の毒であるとデザミは考えていたのではなかろうか。なぜならば、「今日のすべての人間は堕落しやすい」ということは真実だからである。 『カベー氏の中傷と政略』の最終章は「今日のすべての人間は堕落しやすいか?」と題されている。ここで、まずデザミはローマ時代からフランス革命後の王制復古までの歴史を概観する。そしてこう結論づける。「すべての人間は堕落しやすいものであり、我々の社会法がごく僅かであっても特権によって損なわれている限り、財産制度が続く限り、人間は堕落しやすい」と(Cabet.,p.42.)。つまり、私的財産制度があり、不平等の時代が続く限り、人は私的な幸福のみを追及し、文筆家たちは自分の文章が売れることだけを考えるようになるのである。更にデザミは言う、「野心と偽善、つまりは虚栄と堕落、ここに我々の現実の締め括りがるのだ! 醜悪にして悲惨な真実だ!」(Cabet.,,p.43.)。
それではどうすれば良いのか? 例によってデザミは歴史を知ることから始める。例えばアテネ人のもとには、「どのようなものであれ、あまりに強力になった者-たとえそれが彼の美徳によるものであっても-は誰でも追放によって追い払う」為に発明された陶片追放の制度を見ることができる(ibid.)。そして「この追放は非常な名誉以外のものを何も含んではいなかった」のである(ibid.)。つまり、歴史は「不信が独立と自由の守りの女神である」ということを我々に教えているのである(ibid.)。しかし「[アテネ人たちとは]違う共産主義者である我々は、陶片追放を欲してはいない。つまり、我々の原理は、私的な野心をコントロールするに十分な力を持っているのである」(ibid.)。
ここで、デザミの共産主義思想の基盤である「情念」論の一端が示される。つまり、こうである。人間が誰でも持っている諸情念の「幾つかは、我々を悪徳へと導くが、他の情念は、我々を正しい道に保つ」(Cabet.p.44.)。後者の典型的な例は「献身」であろう。しかし、常に献身的な人間というものはありえない。なぜならば、それは複数存在する情念の内のひとつにすぎず、他の情念によって必ず妨害されるからである。問題は、ひとつ、あるいは幾つかの情念だけを取り上げるところにある。諸情念は、全体としては「相殺されあうのであり、互いに均衡されあう」のである(ibid.)。それだけでは人間を堕落させかねない虚栄や野心といった情念も、全体の中の一部分として、人間が「公共の福祉」に結びつくよう協力するものなのである。 しかし、今日の共産主義運動を発展させるにあったては、私有財産制度を前提としなければならない。そこで「以上のこと全体から導き出される論理的結論」として、デザミはこう言う。「共同の救済は、1人の人間-彼がどのような人間であるにしても-の上にその根拠を置くべきでは決してないということであり、人民は真実-それがどこに由来しているにしても-にしか注意を注ぐべきではないということである」(Cabet.,p.45.)。つまり、いかなる人間も堕落することはあるのだから、革命の指導を一個人にまかせることはできないし、指導される人民は、外見に惑わされることなく真実を見極めることが必要である、とデザミは説いているのである。
1) 以下で引用される『共有制の法典[Code de la communaute]』は、 Edition d'Histoire の復刻版(パリ・1967年)をテキストとして用 いた。本書からの引用の際は、Code.と省略し、本文中にその頁数と ともに括弧の中に示した。
2) 『イカリア旅行記』初版が1837年に印刷されたというのは、デザミ の思い違いであろう。『イカリア旅行記』初版、すなわち『ウイリア ム・キャリスドール卿のイカリア旅行と冒険』は1840年に出版されて いる。ちなみに、『イカリア旅行記』第2版は1842年、第3版は1845年 にそれぞれ出版された。
3) この点については、河野健二編『資料フランス初期社会主義』(平凡社、1979年)157頁を参照。
4) 『共有制の法典』の中で家族の問題が扱われるのは、第9章「結婚、 親権、家族について」(第8~10回配本分)においてである。
5) Cabet, Propagande Communiste, Paris, 1842, pp.5-6. 6) 「フェデラリスム」という語は、「分割制」、すなわち私有財産制 を意味している。Cf. Dezamy, M. Lamennais refute par lui-meme, p.41.
@ むすびにかえて――デザミとマルクス――
マルクスが『ライン新聞』1843年1月12日付第12号で直接引用を行ったデザミの『カベー氏の中傷と政略』の全体の内容は以上のようなものである。そして次には、マルクスがここから得た知見をどのように利用したのかが検討されねばならないのだが、周知のようにマルクスはこのパンフレットをはじめ社会主義・共産主義の文献に関してはノートをとっておらず、はっきりした事は何も分からないのが現状である。だが、ソ連のフランス社会思想史研究者ヴォールギンが、その研究書『T.デザミ-共有制の法典』の中の「マルクスが注意を向けたデザミの著作からの抜粋」で、『カベー氏の中傷と政略』の8ケ所を挙げている(1。その8ケ所とは、パンフレットの@11~2頁、@12頁(以上第1章)、@35頁、@37~8頁、@38頁(以上第4章)、@42頁、@43頁、@45頁(以上第5章)である。
「マルクスが注意を向けた」とは言うのは、マルクスの蔵書にある『カベー氏の中傷と政略』に書き込まれた強調線に基づいている。そして、ヴォールギンは、この強調線をデザミの文章とともに再現しているのである。だが、残念なことにヴォールギンはソ連の読者の為に、テキストをロシア語に翻訳してしまっている為、線が引かれている箇所が瞹昧になっており、ヴォールギンが列挙している箇所を今ここで訳出しても余り意味がないように思われる2。そこで、ポイントだけをこの資料から抽出しておこう。 まず第1に、第2章・第3章に対する強調がないということが挙げられる。特にこの第2章こそは、カベーによるデザミ批判の「真の目的」が示された場所であり、デザミ自身の共産主義理論の中でも少なからざる意義を有するコミューン論の一端が示されているものであった。にもかかわらず、マルクスはこの点に注意しなかったのである。その理由を、将来の社会像を描いて見せることに反対する(具体的にはカベーの『イカリア旅行記』が挙げられている)という『独仏年誌』掲載の書簡で示された思想によって説明することは十分に可能であると思われる。
このようにマルクスはデザミとカベーの共産主義論争の中心的な部分に注意を払わなかったのだが、このパンフレットの中心論点であるデザミのカベー批判――マルクスの側からすればデザミによるカベーという人物のレポートとでも言うべきか――にマルクスが関心を示したという事実が第2の点として挙げられる。つまり、上の@から@までの箇所である。
そして第3に、パンフレットの第5章で展開されている、私有財産制の下では人間は堕落しやすいものであるというデザミの唯物論的なリアリティーにマルクスが特別の関心を向けたということである。この唯物論的な人間把握は、非常に素朴なものであるが、当時のフランスに広く流布していたカベーおよびビュシェの思想体系の根本概念が「献身」であり、フォイエルバッハの唯物論が結局は「愛」にたどり着いたという点を考えあわせるならば、若きマルクスの関心を引くに十分な内容であったと言えるであろう。
また、『聖家族』の中でマルクスは「フランス人カベーは、イギリスに追放され、その地の共産主義思想に刺激され、それからフランスに帰って、ここで共産主義の、最も浅薄ではあるが、最もポピュラーな代表者になった。これよりももっと科学的なフランス人の共産主義者、デザミ、ゲーなどは、オーエンのように、唯物論の教説を、現実的人間主義の教説として、また共産主義の論理的基礎として発展させている」と述べている3。勿論、この文章はマルクスがパリに行ってから書かれたものであり、当地でフランスの共産主義・社会主義に関する情報収集も或る程度進んでいた筈である。しかしそれにしても、カベーが「イギリスに追放され、その地の共産主義思想に刺激され」たこと、及び、その彼がフランスで「最もポピュラーな代表者」であったこと、これらのことをマルクスは1842年末の段階ですでにデザミのパンフレットを通して知っていたのだということは、留意しておくべきことと思われる。しかもこのことは、上でヴォールギンの資料から抽出したマルクスの強調線の特徴の第2点と対応している。更に、マルクスがデザミを唯物論的共産主義の観点から「もっと科学的なフランス人の共産主義者」としている点は、同じく強調線の特徴の第3点と対応していると言えるのではなかろうか。
最後に、『カベー氏の中傷と政略』からの直接引用が行われたのが1843年1月12日付『ライン新聞』紙上であったことの重要性について触れておきたい。
廣松氏が、パリ移住前のマルクスのフランス社会主義・共産主義に対する評価は専らシュタインによるものであると推論する理由のひとつは、当時のドイツではフランスの社会主義・共産主義文献を入手することが困難であったというところにある。氏の著書『マルクスの思想圏』では、かつての論文「フランス社会主義と初期マルクス」よりもこの困難さの程度が弱まっているように見えるが、「シュタインのあの大著[『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』]での紹介は、いわば入手しうる唯一の資料だった」という点は依然として変わっていない(4。しかし、『カベー氏の中傷と政略』は1842年にパリで出版されており、また、1843年1月12日の号に掲載されたのだから、ほぼ間違いなくマルクスは出版された年内に『カベー氏の中傷と政略』を読んでいたことになる。しかも、この『カベー氏の中傷と政略』では、「最近の号」として6月5日付のカベーの雑誌が問題にされており、このパンフレットが出版されたのは6月後半以降であるということになる。すると、マルクスは半年以内にパリで出版されたパンフレットを入手できたということになる。
「はじめに」で触れたルルーやプルードンに対する『ライン新聞』時代のマルクスの独特な評価をも考慮する時、我々としては、当時のマルクスには、フランスの社会主義・共産主義の文献を入手するにあたっての困難はそれほど大きなものではなかったと推測せざるをえないのである。それ故、ルルーやプルードン、そしてコンシデラン、カベー等々の著書が『ライン新聞』時代にマルクスによって読まれていたということは未だ確認しえないものの、これらの著作をマルクスは出版されてからほどなく入手し、読んでいた蓋然性も極めて高いものと言えよう。 マルクス主義のフランス的「源泉」として誰の名前を挙げうるかはともあれ、若きマルクスが、フランスの個々の社会主義・共産主義思想家の文献を読み、独自にその評価を定め、自らの共産主義をつくりあげていったということは、確かであろうと思われるのである。
1) 2) このヴォールギンの資料が、当該問題について今日我々に使用しうる唯一の資料であることは言うまでもないことである。が、このヴォ ールギンが用いたマルクス所蔵の『カベー氏の中傷と政略』の所在について服部文男教授から貴重な情報をご提供いただき、マルクスの強 調箇所を正確に知る可能性が生じてきた。そこで、この強調の線引き の再現は後の機会に譲ることとしたい。また、ヴォールギンの資料に は、『カベー氏の中傷と政略』の他、『自分自身によって論駁された ラムネー氏』、そして『共有制の法典』が、「マルクスによって注意 を向けられた」ものとして挙げられているが、ヴォールギンの資料には、何のデータもなく、マルクスがいつ頃これらを購入したのか全く 分からない。この点が明らかにされれば、上に述べた可能性の程度も また或る程度変わってくるであろう。新『メガ』@/5に期待する点である。
3) 『マルクス=エンゲルス全集』第2巻、137頁。
4) 廣松 渉『マルクスの思想圏』(朝日出版社、1980年)286頁。 《注》 (I) 1) 廣松 渉「フランス社会主義と初期マルクス(上)」(『現代の眼』1971 年4月号)30頁。 2) 同33頁。 3) 同34頁。 4) 同「フランス社会主義と初期マルクス(下の一)」(『現代の眼』1971年 6月号)171頁。
5) 『マルクス=エンゲルス全集』(大月書店)第1巻、126~7頁。
本稿での同全集からの引用は、必ずしも訳文通りではない。また、これ以 外からの引用に関しても、引用文中の強調および括弧は特にことわりのない 限り原文通りである。そして[…]は引用者による省略を意味している。
6) この「アウクスブルク新聞の論争戦術」には署名がない為、取り扱いには 慎重を要する。これがマルクスのものと認定されたのは、旧『メガ』以降のことである。この「アウクスブルク新聞の論争戦術」全体は、形式的に独立 した3つの記事から成っている。ここで我々が問題にしている1843年1月12 日付第12号に掲載された記事は、1月8日ミュンヘン発の記事へ追加されたよ うな体裁になっており、括弧付きになっている。今日、新『メガ』がこの第 12号掲載の記事をマルクスのものとする根拠は次の3点である。@この3日 前、つまり、1月3日にマルクスが「『お隣の』某新聞の告発に対する答弁」 と題する記事の中で、「我々は予言者フルダ[アウクスブルク『アルゲマイ ネ・ツァイトゥング』-引用者]の再度の挑戦に対しては近く舞踏曲を奏 でて真面目な回答をするであろう」と予告していること(『マルクス=エンゲ ルス全集』第1巻、185頁)。@記事の内容が1842年11月10日付の「アウクス ブルク新聞の論争戦術」とよく似ていること。@文体がマルクスのものであ るということ。 以上のことから、我々もこの『ライン新聞』第12号掲載の括弧付きの記事 をマルクスのものと見なしても差し支えないものと思われる。Vgl.MEGA2,I/ 1,S.1100. 7) 『マルクス=エンゲルス全集』第40巻、321頁。
8) 同、322頁。
9) 本稿で使用した『カベー氏の中傷と政略[Calomnies et politique de M.Cabet]』は、フランス国立図書館(B.N.)所蔵のものである。本書か らの引用は、引用文の後に書名を Cabet.と略記し、頁数とともに括弧内に 示す。 (@)
1) 以下で引用される『共有制の法典[Code de la communaute]』は、Edition d'Histoire の復刻版(パリ・1967年)をテキストとして用 いた。本書か らの引用の際は、Code.と省略し、本文中にその頁数と ともに括弧の中に 示した。
2) 『イカリア旅行記』初版が1837年に印刷されたというのは、デザミの思い 違い、あるいは誤植であろう。『イカリア旅行記』初版、すなわち『ウイリ アム・キャリスドール卿のイカリア旅行と冒険』は1840年に出版されている のである。デザミ自身もこのことに気づいたらしく、『カベー氏の中傷と政 略』での引用では、「1837年に印刷された」の部分は削除されている。ちな みに、『イカリア旅行記』第2版は1842年、第3版は1845年にそれぞれ出版された。
3) この点については、河野健二編『資料フランス初期社会主義』(平凡社、1979年)157頁を参照。
4) 『共有制の法典』の中で家族の問題が扱われるのは、第9章「結婚、親権、 家族について」(第8~10回配本分)においてである。
5) 《le foyer domestique》というフランス語は、一般的には「家庭」と訳されている。この点、ドイツ語の《Herd》なども同様である。だが、デザミは場所によって《le foyer domestique》と《la famille》とを使い分けている為、敢えて前者を「かまど」とした。
6) Cabet, Propagande Communiste, Paris, 1842, pp.5-6.
7) Ibid.,p.9.
8) 「フェデラリスム」という語は、「分割制」、すなわち私有財産制を意味 している。Cf. Dezamy, M. Lamennais refute par lui-meme, p.41. (@)
1) 2) このヴォールギンの資料が、当該問題について今日我々に使用しうる唯一の資料であることは言うまでもないことである。が、このヴォールギンが用いたマルクス旧蔵の『カベー氏の中傷と政略』の所在(モスクワ)およびその整理番号まで判明しており、マルクスの強調箇所を正確に知る可能性がある。しかし、筆者はまだそれを利用できないでいる。そこで、この強調の線引きの再現は後の機会に譲ることとしたい。また、ヴォールギンの資料には、『カベー氏の中傷と政略』の他、『自分自身によって論駁されたラムネー氏』そして『共有制の法典』が、「マルクスによって注意を向けられた」ものとして挙げられているが、ヴォールギンの資料には、何のデータもなく、マルクスがいつ頃これらを購入したのか全く分からない。この点が明らかにされれば、初期マルクスの思想形成とデザミの共産主義思想との関係もいっそう明確なものとなるであろう。新『メガ』@/5に期待する点である。
3) 『マルクス=エンゲルス全集』第2巻、137頁。
4) 廣松 渉『マルクスの思想圏』(朝日出版社、1980年)286頁。