19世紀フランス共産主義の一系譜
――Th.デザミの共産主義思想――
                               長山雅幸
                                《目次》
                      はじめに
           Ⅰ 伝記的概略と『共有制の法典』の概観
           Ⅱ 社会哲学
            1.人間科学 ――人間の欲求、能力、情念――
            2.社会の基本法 ――平等――
                 @ 社会批判と共産主義社会観
            1.コミューン論
            2.労働・生産論
                     Ⅲ  革命論
                      おわりに
  はじめに 
                                                 
 アレクサンドル‐テオドール・デザミ(Alexandre‐Theodore Dezamy)はフランス七月王政(1830~1848)下に活躍した、マルクスとほぼ同時代、あるいはやや先行する共産主義者である。今日の日本でもデザミの名前は1)七月王政下の社会運動家として1、2)マルクスとの関係で2、3)フーリエとの関係で3たびたび見られる。
 思想史上のデザミの評価は『聖家族』(1844年)におけるマルクスの次のような文言に基づくところがかなり大きいように思われる。 
    「フランス人カベーは、イギリスに追放され、その地の共産主義思想に刺激され、それからフランスに帰って、ここで共産主義の、もっとも浅薄で はあるが、もっともポピュラーな代表者になった。これよりももっと科学的 なフランスの共産主義者、デザミ、ゲーなどは、オーエンのように、唯物論 の教説を、現実的人間主義の教説として、また共産主義の論理的基礎として 発展させている4。」
 また、フーリエの影響を受けた思想家として広く知られている理由もまた、ローレンツ・フォン・シュタインの評価によるところが大きいと見ることができる。シュタインは、『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』の1848年版で、『共有制の法典』における住居、飲食、便益品、睡眠などに対する配慮及び将来の共同体の地図が巻末に付されている点をフーリエの影響と指摘している5。 
 この他にデザミの名前はアーノルト・ルーゲによって取り上げられており6、これらの古典的評価がこれまでデザミを《思想史上重要な思想家であるらしい》という位置に押しあげ、そしてそこに止どめることとなったのではなかろうか。 また、マルクスにおける共産主義思想の成立過程という問題を提起するならば、マルクスは経済学に対しておこなったような抜き書きを行なっておらず、この成立過程を検討する際の材料として、マルクス及びエンゲルスの著作や手紙などに現われている「三大空想的社会主義者」以外の社会主義者・共産主義者は極めて重要であろう。また事実、ソ連、フランスを初め英語圏や日本でもデザミやその他の「1848年以前」=「マルクス以前」の社会主義者・共産主義者の研究がはじまっているのである7。    
 そこで本稿では、以上に見た理由から共産主義者デザミを取り上げ、彼の共産主義思想そのものを明らかにするため、彼の主著『共有制の法典』を中心に検討してゆきたい。          
 1) この観点からデザミの名前が挙げられているものとしては次のものがある。喜安朗、「ブルジョワ王政と市民社会」(井上幸治編、『フランス史』、山川出版、1977年)、同、「二月革命を越えて」(野田宣雄編、『1        9世紀のヨーロッパ』、有斐閣、1980年)、中谷猛、「E.カベと平等的共    同社会論」(『立命館法学』、140号、1978年)、河野健二編、『資料フランス初期社会主義』(谷川稔氏作成の「文献リスト」)、平凡社、1979年。    
 2) この観点からデザミの名前が挙げられているものとしては次のものがある。水田洋、『マルクス主義入門』、社会思想社、1971年、広松渉、「初期マルクスとフランス社会主義」(『現代の眼』、1971年、4、5、6、7月号)       、同、『青年マルクス論』、平凡社、1971年、同、『マルクスの思想圏』、       朝日出版社、1980年、坂本慶一、『マルクス主義とユートピア』、紀伊国屋書店、1970年。またこの他に、「社会主義思想史」の観点からデザミが取り上げられているものとして、平井新『社会思想史研究』、橘書房、1960年、古賀英三郎「フランス社会主義」(田村秀夫他編著『社会思想史事典』、中央大学出版部、1982年)がある。
 3) この観点からデザミの名前が挙げられているものとしては、五島茂・坂本慶一、「ユートピア社会主義の思想家たち」(『世界の名著―オウエン/サン・シモン/フーリエ』、中央公論社、1969年)がある。
  4)  マルクス、『聖家族』、『マルクス=エンゲルス全集』、大月書店(以下では『ME全集』と略す。また邦訳からの引用は、必ずしも訳文の通りではない)、第2巻、137頁。      
 5) Lorenz von Stein,Socialisumus und Comunisumus des heutigen Frankreichs,Leipzig,1848,S.539-540.ちなみに1842年の初版はカベーまでで終わっており、デザミの名前はない。
 6) Arnold Ruge,Zwei Jahre in Paris,Bd.1,Leipzig,1846,S,77-93.
  7)  ソ連の研究としてはВ.П.Волгин,Французский утопический коммунизм,Моссква,1979 がある。またこのヴォールギンには『共有制の法典』の翻訳、解説、資         料を備えたТ.Дезами-Кодекс Общности,Мскваがある。フランスのものとしてはGian Mario Bravo,Les socialistes avant Marx,vol.1-3,Paris,1979.英語圏のものとしては、Pa        ul E.Coucoran,Before Marx:Socialism and communism in France,1830-1848,London,1983.がある。また、日本でもデザミの思想にたちいった研究が始まっており、岩本勲『フランスにおける革命思想』、晃洋社、1978年がある。   

 

     Ⅰ 社会哲学  
      1.人間科学 ――人間の欲求、能力、情念――  
 デザミの問題関心は根本的な社会改革である。これまでモラリストや哲学者たちは社会、すなわち、「不平等と独占、隷属と圧制という運命の円環」(Code.p.5)の中でどうどうめぐりをするだけで「政治的諸形態」(ibid.)にまでしか到達できなかった。しかしながら、社会の害悪をその根本原因において批判した人物が二人いる。モレリとエルヴェシウスである。特にデザミにおけるモレリの強力な影響はタイトル中の「法典(code)」という言葉からも明白である。    それでは、モレリが批判したという社会の害悪の根本原因とは何か。それは所有権である。モレリは「この世における唯一の悪徳」として「貪欲」、「所有欲」を認める。しかしこの「唯一の悪徳」すら所有権の存在しないところには存在しえない11。   
 デザミの根本思想は、18世紀的な唯物論の系譜に属し、それは第19章「若干の本源的真理」の中の11項目の諸命題で明確に示されている。その中で、自然と人間(個別的存在者)との関係は次のように定式化される。
  
      「すべての生きている存在は有機体である。自然は絶対的な有機体である。すべての個別的存在者の生命は、自然の一般的有機体の発現であり、個別的存在者は、この有機体の中でしか存在しえないが故に、部分的な有機体、換言すれば、不完全な有機体である。」(Code.p.258)
       
 このように人間を自然の一部とすれば、人間は自然の法則、すなわち、「自然法(loi de la nature)」に支配されるものである。しかし、現存社会ではこの法則が撹乱され、破られている。それ故、取り戻すべき自然法を「探し、見付け、その後にそれらを公布すること」が「立法者」及びデザミの「任務」なのである12(Code.p.13)。
 その際にデザミが「確信の基準」とするのが「人間の科学」、すなわち、「人間の欲求、能力、情念」の分析である。ここから「社会組織の基礎」である幸福、自由、平等、友愛、統一、共有制が導出される。そしてこの「人間の科学」の基本的概念装置をデザミは次のように言う。
   「人間は生まれてくるときには才能(talents)も悪徳も、そしてまた美徳も担ってはいないが、能力と欲求は持って生まれてくる。彼らの外界との関係は、彼らの欲求を活動の動機に変える。自己愛(l'amour de soi)は我々の全動機のアンサンブルである。これは情念の木の幹であり、情念はいわばその小枝にすぎない。そしてまた、その木は感覚の中に必要な根を持っている。」(Code.p.113)
    
 すなわち、まず、人間に本来的あるいは内在的な質といったものはないとされ、情念についての当時の一般的な理解=モラリストたちによる理解が否定される。人間には欲求、すなわち、自己保存のための「全動機のアンサンブル」としての「自己愛」とその実現のための「能力」が備わっているだけである。当然人間は外界に働きかけることによってしか、自分の欲求を満たすことはできず、その際の活動は合目的的なものでなければならない。それ故、漠然とした「アンサンブル」にすぎない「自己愛」は具体的な「活動の動機」に転化されなければならない。そして、この動機こそがデザミの体系における「情念」なのである。すなわち、「情念は活動の動機である」(Code.p.260)。
 しかし、このようなメカニズムを通じて成立するのはエゴイズムであり、個々人を結び付け社会を調和させるどころか、社会を個々人へと分解させるであろう。しかしながら、デザミは次のように考える。 
   
      「人間たちは自分たちを必要とし、互いに絶対的に必要としている。そのようにして、自然は我々の自尊心(amour‐propre)を明白な犠牲や相互の好意にたいして準備したのである13。」(Code.p.114)
 それでは何が人間たちを互いに必要とさせあうのか。それはまず第一に、「同じ種類の動物を互いにむすびつける共感の情(sentiment sympathique)」(Code.p.115)である。そして第二に、「我々の欲求は、常に、何らかの理由で、我々の個人的力の限界を越えているということを我々に教える」ということである(Code.p.115)。「この個人的力の限界から、愛と計算によって、人間は人間と同一化しながら、各人は、すべてのものに対する意識を形成するために、自己の記憶をなくしたように見え、自分の個人的な幸福にいたるために、常に、公益をめざすという結果が生じるのである。」(ibid.)
 このようなデザミの「人間科学」(自然状態論)は、モレリの影響を直接受けていると言える14。そしてその中において、人間は欲求と能力は持っているものの、個人の能力は自分の全欲求を満たすには及ばず、理性に補完されつつ、諸個人は調和するものと考えられているのである。 
 欲求と能力、そして個人の能力の限界=他者への依存というメカニズムから導出された社会性は《自己と他者(Soi et Autrui)》と表現される。この《自己と他者》という定式が意味するものは、献身とエゴイズムの批判であり、ひいては、献身を基礎とする共産主義・社会主義思想及びエゴイズムを基礎とした資本主義体制に対する批判である。この献身とエゴイズムは「自然の動機」ではなく、いわば、関心の「二つの逆方向への過剰」である(Code.p.115) 「自己に対する愛(amour de soi)」と「他者に対する愛(amour de autrui)」は、どちらか一方に偏ることなく、均衡するものなのである。また特に、献身の批判は他の諸思想の批判―具合的にはビュシェの『ラトリエ』派及びカベーの批判―を含んでおり、思想史上留意すべき問題点である15。 
11)  Morelly,Code de la nature,Les classiques du peuple,Editions sociales,1970,p.47.モレリ、『自然の法典』、大岩誠訳、岩波文庫、1951年、26頁。
12) このような問題意識もまたモレリの影響の下にあるものと思われる。cf.ibid.,p.71.前掲訳書62頁参照。
13)  《amour de soi》と《amour‐propre》の区別はルソーにおいては明確であり、本田喜代治、平岡昇両氏は前者を「自己愛」、後者を「自尊心(利己心)」と訳しており、筆者もこれに従った。(ルソー『人間不平等起源論』、岩波文庫、1932年改訳、181頁参照。)すなわち、ルソーにおいては「自己愛」は「一つの自然的な感情」であるのに対して、「自尊心」は「社会のなかで生まれる相対的で、人為的な感情」にすぎない(前掲訳書同頁)。また、モレリにおいては両者の区別は明瞭ではないが、「自尊心」(大岩訳では「自負心」)が「自然秩序」の中でとる形態が「自己愛」と理解することができる。(cf.Morelly,op.cit.,pp.41-42.前掲訳書17頁参照。)デザミにおいては両者の区別が一層不明確であり、「自然秩序」たる共有制においても「自尊心」が存在するという点がルソー、モレリと異なっている。( cf.Code.p.147.あるいは本稿@の2を参照。)
14)  cf.Morelly,op.cit.,pp.42-43.前掲訳書19-20頁参照。
15) マルクスは『ドイツイデオロギー』の中でこのビュシェとカベーを取り上げている。ビュシェはまさしく「自分の義務をふさわしくはたすためには、献身が必要である」と主張するのであり、これを批判するカベー自身も、マルクスによって「カベーはまさしく、あたかも献身、犠牲的行為に訴えるかのような外観をまだ多くもちうる共産主義者なのだ」と規定されている。『ME全集』第3巻、223-224頁参照。

 

      2.社会の基本法  ――平等――
             
 前節で見たように、デザミにおいて、社会はそれ自体として調和的に成立しうるものなのである。しかし、これだけでは不十分である。モレリが提起した「人間がもはや退廃することも哀れな状態になることもない状態を探しだす」15(Code.p.14.)という問題は平等が実現されることによって満たされるのである。平等の実現は可能なことである。なぜならば。平等は「最大の宇宙から最小の虫にいたるまで、すべてのものを支配する調和であり、均衡である」(Code.p.11)からであり、現存社会はこの本来の調和と均衡が破られた状態であるからである。 
 自然状態論と同様に平等論についてもデザミはモレリから大きな影響を受けている。デザミはモレリから次のように引用している。
  
   「宇宙の法則は――とモレリは言う――人間には何ら連帯的に見えるも  のではない。耕地はそれを耕す人のものではなく、木はそれから果実を摘  む人のものではない。彼は自分の職業に関してさえ、自分が使用する部分  しか使用しない。残りは人類のものである。」
   
   「世界は――と彼は言い加える――会食者たちのために十分に用意され  た食卓のように考えられるべきである。その料理は、ある時は皆が空腹で  ある故に皆のものであり、ある時はある人々が満腹であるが故に他の人々  のものである17。」(Code.p.14.)--(1)
 デザミがこのようなモレリの思想を採用する根拠は何か。それは「あらゆる生産は労働に根拠を置いている」ということであり、「それ故、社会的な諸生産物を使用する人々は労働に参加するべきである」18(ibid.)ということになる。 この共有の状態を取り戻すために人間は「自然法に従い、アソシアシオンの原則をすべて実現するために、我々が述べるように、まず、土地とあらゆる生産物を大きなそして唯一の社会領域にしなければならない」19(ibid.)。
 それでは、このデザミ=モレリ流の平等論についていますこし立ち入って見てみよう。
 デザミによれば、分配の方法には次の四つ、私有財産制、サン・シモン主義の分配原理、絶対的平等、比例的平等があるという(Code.p.49)。第一の私有財産制の分配方法については改めて論じる必要はない。第二のサン・シモン主義の分配原理というのは《各人にはその能力に応じて、各能力にはその仕事に応じて》という標語で広く知られているものであり、能力に応じて仕事(及び生産財)を分配し、その仕事量に応じて(消費財の)分配量が決定されるというものである。要するに、これは能力と仕事量を基準とする平等である。デザミはこれを「ほとんど私有財産制と同じ結果に帰着する能力の貴族制を主義としている」と評している(ibid.)。
 これらに対して、第三の絶対的平等というのは、当時一般に「共産主義」と言った場合にイメージされたものであり、「兵士や病院の貧民、囚人に食糧を一定量給与するような仕方で、市民に食糧を一定量供給しようとするおろかでみすぼらしい平等」(Code.p.30)である。デザミの論敵の一人であるラムネーも共産主義をこのようなものとして批判していたし、サン・シモン主義者たちも次のように批判する。
  「共同体組織においては、いっさいの分け前が平等である。そしてこのような分配様式に対しては必ずやたくさんの異議が生ずる。競争心の原理はなくなり、そこでは徒食者が勤勉な人間と同じように有利に恩恵を与えられ、その結果勤勉な人間は共同体のいっさいの重荷が自分にのしかかってくるのを見る。そしてこのことはこのような分配が平等の原理―それを確立することを願ったのに―とは反対のものであるということを十分明瞭に示している20。」 
 すなわち、《各人には能力に応じて、各能力にはその仕事に応じて》を旗印とするサン・シモン主義者は労働の基礎に競争原理を置くのであり、労働の量と無関係に「平等な」分配は労働を阻害すると主張するのである。  
 それでは第四の比例的平等とはどのようなものであろうか。この分配方法こそデザミが主張するものであり、ここでもやはりデザミはモレリの文章を引用する。
 
    「自分の力、知性、欲求、特殊な才能に応じて共同労働に参加しなさい、そして全欲求の総計に応じて共同の富と共同の享楽を受け取りなさい。」(Code.p.18)
    
 この引用文中「全欲求の総計に応じて」という部分の解釈には慎重を要するが、先の引用(1)、そして、「空腹の程度に応じて食べ、渇きに応じて飲む」という平等の「原理」(Code.p.51)からすると、モレリ=デザミ流の平等は、各人の様々な欲求が、それぞれの水準で満たされるというところにあると見るべきであろう。       
 しかし、このよな分配論は、「絶対的平等」と同様に、あるいはそれ以上にサン・シモン主義者から批判されるであろう。その上デザミはモレリからの上の引用文に対して次のように批判するのである。
  「しかしながら、ここには力、能力、そして素質にかかわる自然的不平等 に関しての、又、反共産主義者に言わせれば、常に労働を苦しい疲労、堪え られない束縛とみなす人間の情念や内的悪徳に関しての低級な詭弁、永遠のそして圧倒的な美辞麗句が現わされている21。」(ibid.)--(2)
 デザミの共有制においても「各人が自分の力に応じて……労働する」(Code.p.80)ことに変わりはない。しかし、唯物論的観点からすれば能力や才能の不平等は、社会的不平等の結果でこそあってその原因ではない。また能力、才能の不平等は必ずしもそれ自体「不平等」ではなく、「分け前」の不平等にも結び付かない。つまりそれは「不平等」ではなくむしろ「多様性」である。
 更に上記引用(2)からすると、共有制が実現すれば、もはや労働は「苦しい疲労、堪えられない束縛」であることをやめる、とデザミは考えていると見るべきである。それ故、いかなる形であれ「労働に参加しなさい」という命令は必要ないのである。
 かくして、「比例的平等」の実現の可否は、労働と分配との間の量的関係を完全に断ち切れる否かにかかっているということになる。この点は@の2で扱うことにする。  
16)  cf.Morelly,op.cit.,p.40.前掲訳書14頁参照。
17)  cf.ibid.,p.44.同訳書21頁参照。
18、19)  ヴォールギンの伝えるところによると、マルクスは蔵書の『共有制の法      典』中、この引用の付近の欄外2箇所に×印をつけているという。СМ.В       олгин,Т.ДЕЗАМИ,стр.485.
20)  Doctrine de Saint‐Simon,publiee avec introduction et notes          par C.Bougle et Elie Halevy,Paris,1924,248.『サン・シモン主義宣        言』、野地洋行訳、木鐸社、1982年、101頁。
21)  ヴォールギンの伝えるところによると、マルクスは蔵書の『共有制の法典』   中、この引用の欄外に縦線を引いているという。СМ.Волгин,Т.ДЕ   ЗАМИ,стр.486.
   @ 社会批判と共産主義社会観   
    1.コミューン論
 デザミの共産主義社会は「コミューンの集合」体である(Code.p.235)。コミューンはまず、所与の面積である「大国家社会共同体」が「できる限り土地の広さが等しく、規則的、調和的になるよう」に分割されることによって形成される(Code.p.31)。このコミューンは、地理的状況や位置関係に従って、一つの集合、すなわち、州(une province)を形成し、一定数の州は共和国を形成する。そしてついには、全共和国が人間的大共同体(la grande communaute humanitaire)を形成するのである。(Code.p.31)     
 それでは、「各コミューンの広さ及び住民の数はどのくらいか?」この問いに対してデザミは最終的な回答は留保しつつも、人口は一万人、そして面積はこの人口にふさわしく定めるのが適当であると答える。むしろこの場合に問題なのは、コミューンの具体的な広さなどではなく、それを決定する要因である。デザミは次のように考える。    
   「私は一方では、友愛的競争心、共和主義的情熱、芸術、科学、産業へ  の愛、一言で言えば、すべての一般情念はあまりに小さいコミューンの中  ではその飛躍的発展において窮屈な状態のままだということがありうる、  と考える。他方では、あまりに多くの人間が住んでいるコミューンは適正  な管理、労働の適正な実行、とりわけ農耕の適正な実行のしっこくであり、  その上に、公衆衛生、教育等々の観点から見ればヨリ大きな不都合がある、  と判断される。」(Code.p.37) 
 このデザミのコミューン論は、第一に都市批判を基礎としている。彼は都市と農村、そしてまた首都、地方都市、市町村の区別がなくなることによって、教育が統一的なものとなり、慣習及び習慣が完全に同一化し、そしてまた、楽しみと労苦及びあらゆる自主性が完全に混合された共同体ができあがると考えるのである。更にまた、都市民(les citadiens)と農村民(les campagnards)の区別がなくなり、青年たちには職業選択の自由が与えられるのである。(Code.p.32)そして第二に、ルソーやブオナルロティの都市批判が「逆の行き過ぎに落ち込んでしまって」、「社会を村によって構成しようとしている」ことに対する批判の上に成り立っている(ibid.)。デザミは「都市と農村を結合させたあらゆる利益をもたらす」規模のコミューンを構想しているのである。   
 まず、コミューンの内部から見てゆこう。
 デザミのコミューンの内部には家族は存在しない。彼は現存社会における家族の存在理由を、私有財産制度の成立によって国家が子供の欲求を満たしてやらなくなったからだと考える。このようにして発生した家族は、共同体から直接影響を受けることはなく、家族内部の特殊利益を持つことになる。共有制の成立=私有財産の廃棄によって家族は存立の根拠を失い、かくして、「すべての家族(les foyers domestiques)を大社会休憩所(le grand foyer social)の中へとかしこみ、かくしてフェデラリスムと不平等の精神に最後の一撃を加える」こととなる。(Code.p.135)
 この「大社会休憩所」を支えるシステムとしては第1に共同食事、第2に共同教育、そして第3に共同労働が『共有制の法典』の中に見られる。
 第1の共同食事はプラトン、カンパネッラ、トマス・モアそしてフーリエにも見られるものであり、デザミに固有に思想ではない。しかし共同食事を言う際に、プラトンが私的利害の排除、カンパネッラとトマス・モアが秩序あるいは教育、そしてフーリエが節約を前面に押し出すのを受けて、デザミが「共同食事の原則的な目的は平等な人々の中で友愛の感情を発達させ保持することである」(Code.p.44)とし、「家庭食事」=「分割家政」が廃止され、「共同調理場」がとってかわることによって節約、衛生、仕事の単純化がもたらされる(Code.pp.41-42)としているのは、長い間にわたるこの思想の集大成であると言える。この「共同食事」が実際にどのように行なわれるのかということについては、デザミ自身も細かい点は医者や経済学者の領分であるとしているので(Code.p44)ここでは立ち入らない。しかし、一見たわいのないものに見えるこの「共同食事」の思想も、「生産の社会化」に対して、「消費の社会化」、「生活の社会化」と問題を立て直せば、その意義が多少とも明らかになるのではなかろうか。 
  第二の共同教育については、さしあたり体育教育が共同で集中しておこなわれることによって、子供たちに十分な設備と注意が与えられ、社会的な観点から言えば、労働と生産物が節約されると デザミは言う。また、教育のヨリ本質的な問題である産業教育、そして「大社会休憩所」を支える第三のシステムである共同労働の問題は、次に見る労働=生産論の中で述べることにする。
 次にコミューンをその相互の関係において、特に経済面に限って見てみよう。 共和国全体の経済管理は、中央管理局(la direction centrle)によって行なわれる。共有制においては、当然、商業は廃棄されている。しかし、共有制は、商業の肯定的側面、すなわち、「すべての物を一方の極から他方の極へと移し、伝達し、循環させる驚くべき運動、巨大な活動」(Code.p.90)をヨリ効率よく作動させる。 
 個別財産(la propriete individuelle)の廃棄によって、すべての土地が共同体のものとなっていることが当然の前提である。生産は、共同体の市民全員によって行なわれる。全生産物は一度倉庫に集められ、その後、公的富( la richesse publique)の平等な分配が、すべてのコミューンの間で行なわれるのである。このような分配を行なうためには、全体的な管理と計画が必要であり、そのために、各コミューンは最低年に一度はコミューンの全収穫物・工業製品に関する報告書を中央管理局に提出する。管理局はこの報告書に従って各々のコミューン内の富と欲求を評価し、この二つの量的関係が適正になるようにコミューン間で富の移動を行なうのである。すなわち、  
   「平等な人々の共和国では、財政のためであれ商業等々のためであれ、大臣も省も必要ない。我々の全政治経済を完全に運営し、いわば社会領域  とでもいうべきものを流動化するためには、会計職と簿記職の長で十分である。」(Code.p.43)   
 デザミのこの思想はすでにマクレランの著作を通じて日本でも知られているものであり、そこには明確に国家死滅論の端緒が見られる22。すなわち、デザミの体系において、「共産主義国家」は「共産主義社会」と読み替えられるべきものなのである。また、ケーギはこの思想をサン・シモンの『寓話』の影響かもしれないとしているが、『共有制の法典』には他にサン・シモンの影響を明確に示す箇所はなく、積極的な根拠はない23。
22)  マクレラン、『マルクス主義以前のマルクス』、西牟田久雄訳、勁草書房、   1972年、280頁参照。
23)  vgl.Paul Kagi,Genesis des historischen Materialisumus,Wien,19       65,S.243
     2. 労働・生産論
 デザミは資本主義体制下の労働の性質を単調さ、時間的過剰、生活を再開するために強制されたものととらえる。特にこの最後の観点から言えば「生活のために働く芸術家」もまた「15時間にわたってピンの頭を作る職人、帳簿を際限なく見比べ続ける帳簿係」と大差ないのである(Code.p.56)。
 また、労働の単調さは労働者の「すべての思考能力を麻ひさせ、抹殺」してしまう(ibid.)。それ故、労働者が無為に陥っているにしても、「非難すべきは労働の単調さと間違った組織化」であり、モラリストたちが「人間は本来怠惰である」と結論するのは彼らの皮相さを示すものなのである(Code.p.57)。
 他方、現存の労働ですら「楽しみ事や快楽」として行なうことができるのである。実際、たくさんの有閑者たちは狩猟や指物細工、時計組み立てといった「労働者にとっては本物の労働」であるものを、暑さや渇きに耐えてながらも楽しみ事として行なってるのである(ibid.)。
 現存社会の労働が耐えがたいものであるのはまさしく現存社会に問題があるのである。この社会はいわば「転倒した社会(un monde renverse)」24(ibid.)であり、「共有制」ではなく「分割制」であるからである。ここで デザミが言っている「転倒」とは生産と消費の関係の「転倒」である。現存社会にあっては、労働し生産物を作り出す労働者は、自分が作り出した果実が溢れる中で貧困状態にとどまり、労働しない人々、「有閑者」、すなわちブルジョアジーはぜい沢ざんまいの生活をするという「転倒」である。労働者たちは明日の生活の糧を得ることができるかどうかという不安に悩まされ、若いうちにすでに病人となり、貧困の中で死んでゆく。彼らの主人であるブルジョアジーが彼らにしてくれることといえば、救貧税を受け取るための登録に行かせ、オピタルや貧民収容所に彼らを放り込むだけである。そしてデザミはこのような中での労働者の死を「真の殺人」であると告発するのである25(Code.p.60)。
 このような分配の不平等を基礎付けているのが所有の「分割制」、すなわち、持つ者と持たざる者への「分割」である。それ故、「共有制」の実現によって所有による分配の不平等は解消される26。
 しかしここでもまだ、労働に応じた分配というサン・シモン主義者の主張は反論できない。
 共有制の下では労働は「苦しい疲労、堪えられない束縛」であることをやめるとデザミが考えていたらしいことはすでに見た。それに加えてデザミは「何人かの人たちだけが労働しなくてはならないという仮定の下では直ちに骨が折れ不愉快なものとして現われるであろうすべてのものは、コミューン全体が労働に参加する時には、もはや快い雑役、真の遊戯(jeu)となるであろう」(Code.pp.80-81)と述べる。ここで、先に見た労働をめぐるモレリ批判の含意が積極的な形で表明される訳である。それでは何故、共有制の下では労働が「快い雑役、真の遊戯」となるのか。この点にいますこし詳しく立ち入ってみよう。
 まず、労働についてデザミは「共同体の中では人間の生存と楽しみに必要なすべての労働は工業法と農業法によって管理される職務である」(Code.p.61)としている。そして、「《共有制が十分に実施される》時には、法はもはや単なる規則、単なる案内にすぎないであろう。」「というのは、その時には社会諸法は自然法の真の表現、直接の表現であるからである。」(ibid.) 
 要するに、共有制の下では、人々は、自分たちもその一部であるところの自然の法則に従うだけであり、その際に嫌悪感や不快感が伴なうはずがない。それ故、直接に労働を管理する役職にある人々は「適切に言えば、その《こだま》、水先案内人にすぎないであろう。」総じて言えば、「この時代には、諸物はいわばそれ自体で進行するであろう」(ibid.)。
 それでは、労働そのものの質はどのようになるのか。生産と分配の関係が平等なものになることによって、本節冒頭で述べた時間的過剰と生活を再開するために強制されたものという性質はある程度緩和されるであろう。しかし、単調さという点は分配の平等によっては全く変わるところがない。そこで、この労働の単調さを解決する手段として「労働の組織」が提案される。
 まず、作業場の組織については3つの意見がすでに出されているとデザミは言う。第1に、工場内分業が行なわれていない場合。第2に、「イギリスではすでに習慣となっている」(この言葉は暗に、フランスにおいてはまだ工場内分業が確立していない、あるいはまた、すくなくともデザミがそう考えていたことを示している)工場内分業。これら「二つの意見、特に第二の意見に対しては、労働がまだ極端に単調なままであるという理由で反論が出ている」。それに対する第三の様式、「分割様式(le mode parcellaire)」は、労働を「小部分(fraction)」に分割し、いくつかのこの小部分を行なう(この意味で、この様式下で行なわれる労働は「合成された分割労働(le travail parcellaire compose)」と呼ばれる)というものであり、この様式は単調さを免れているのみならず、迅速で完全な仕事ができるという利点があるのである。(Code.pp.64-65)
                               アトリエ 
 このように労働の分割と再結合を行なうためには、労働を行なう作業場をも分割しなければならない。各産業は各々が「一般作業場(atelier general)」―例えば印刷業―を成し、これが「特殊作業場(atelier special)」―印刷、製本、仮とじ等々―に分割される。更にこの「特殊作業場」は「作業場小部分(section d'atelier)」―構成、植字、組み上げ等々―に分割されるのである。(Code.pp.65-66)  
 しかし、このような意見には「職業の選択のために市民たちの間に仲たがいが生じ、あなたたちの産業の枠組みの大部分は空白のままであろう」(Code.p.79)、すなわち、「人は疲労し、非衛生的で危険、あるいはまた不快な仕事をしようとしないであろう」(Code.p.80)といった反論が当然予想される。
 この反論に答えるのに際してデザミは、第5章(続)の冒頭で農業労働の組織についてかなりの長文をフーリエから引用しているが、そのフーリエに対して批判をおこなう。「確かに私は、フーリエがこのような場合に、困難から逃れるために発明した馬鹿げた献身的な人々のコルポラシオンに思い切ってたよろうとは思わない。合理主義者は自然の手段しか探求できないのだ。」(ibid.)ここで言われているフーリエの「コルポラシオン」が一体何を指しているのかは明らかではないが、いずれにしても、デザミがフーリエの「ファランステール」における労働の組織論を全面的に承認していたわけではないことは明白である。「合理主義者」デザミにとって受け入れることができなかったのは、恐らく、フーリエの労働組織論(更にはフーリエの全体系)の基礎である情念論であったのではなかろうか。
 フーリエは神が情念引力、そして引力一般を配分し宇宙を創造したと考える27。そして、必要最低限の生活手段を保障しようなどと神の摂理に反したことをするならば、人間(文明人)は無為に陥ってしまう。それ故「協同社会制度においては、労働は、今日の祝宴や芝居と同じくらいに魅力的なものでなければならない」28のである。
 これに対してデザミは、すでに述べたようにモレリに従い、人間に生来備わっている悪徳としての情念を否定した。現存の労働者たちの怠惰は、情念の帰結、すなわち人間の本性ではなく、労働者に与えられる労働の性質が原因なのである。その結果、デザミの体系にあっては労働を阻害する積極的要因がない。「比例的平等」の実現がデザミの共産主義思想の特徴であるわけだが、この「平等」の実現は自然の法則に従うことにすぎない。このようなデザミの体系の中には、フーリエのように労働を快楽にかえることによって、人間の労働意欲を支えねばならないという積極的な理由はない。単調さ、時間的過剰、そして生活を再開するために強制さえたものという労働の性質が取り除かれたならば、労働者の意欲をそぐような性質を労働から取り除ければデザミの場合、十分なのである。そして、その際に労働の組織に加えて利用されるのが機械と科学技術の進歩なのである。
 『共有制の法典』の中でデザミが取り上げる例は屎尿処理に関する問題である。そこでデザミは二年前に『医学新聞』で読んだ屎尿の科学処理と下水設備について紹介している。一見たあいのない問題のようであるが、人口が急激に増大しつつある40年代の大都市パリにとってはこれは大きな問題であったのである29。 『社会主義によって打倒され全滅させられたイエズス会』においては、機械の使用による労働の軽減について論じられている。デザミは工業と農業、特に後者の分野への機械の導入を促進するよう主張するのであるが、他方、現存社会には機械の導入を妨げる要因があると指摘している(Jesuitisme.p.138)。すなわち、「最も有用な機械装置(la mecanique)の発明は、一方で競争、恐慌そして商業上の破局(des catastrophes commerciales)を準備し、アルティザン(artisan)の家に不安と貧困をもたらすのである」30(Jesuitisme.pp.138-139)。   デザミはフランス労働者の貧困を見ており、その上で工場制機械工業が確立したイギリス労働者階級の貧困もまた知っていた訳である31。しかし、産業革命が開始されたばかりのフランスにおいて、デザミは、機械工業がアルティザンを駆逐し、没落せしめて発展してゆくことに気付かなかった。要するに、一方でデザミは眼前の社会の中に、機械の生産力という共産主義への発展の要因を見出だしたものの、他方、機械制大工業の発展が労働者を貧困化させ、恐慌によって自ら崩壊し、共産主義への道を開くという認識にはいたらなかったのである。このような一面性はカベー、ヴァイトリングにも共通し、40年代の初期共産主義によく見られる特徴と言える。  
 最後に、産業教育について見ておかなければならない。
 デザミによれば、子供たちは3~4才になると各種の作業場へ連れてゆかれ、様々な労働を見学する。こういった状態で子供たちは自分の傾向(aptitude)と適性が現われるがままにされる。彼らを労働へと導くために、彼らを強制する必要などない。彼らの「模倣本能」は十分に強力なものであり、彼らに道具を与えさえすれば、子供たちは自ずと労働へ入ってゆくのである。これら最年少の子供たちに与えられる労働は間引きや石拾い、野菜洗い、皿洗いなど、要するに年令相応以上の力を強要されることのない労働である。彼らが作業場の中でヨリ高い地位を占め、技術を発展させるよう刺激するものは人間であれば誰でもが持っている「自尊心(amour‐propre)」である(Code.pp.146-147)。
 子供たちに各自の傾向、能力が現われると、彼らはそれに従って、あるいは、「公共の評価に対する愛」に導かれて職業を選択する。かくして、職業が市民たちに押し付けられるのではなく、市民自身が自由に職業を選択することになる(Code.p.62)。 
 ここに見られる「自尊心」と「公共の評価に対する愛」もまた、共有制の下で労働意欲を補完するものと言えよう。
24)  「転倒した社会(un momde renverse)」という言葉はサン・シモンにも見られ、また、フーリエの「転倒した社会(monde a rebours)」をも起想させる。サ    ン・シモンについては、服部文男、『マルクス主義の形成』、青木書店、1984年、   39頁を参照。またフーリエの場合の「転倒」とは「虚言と嫌悪観を催す産業と    が支配している」状態を指している。 Fourier, Le nouveau monde industri   el et societaire ou Invention du procede d'industrie attrayante et    naturelle distribuee en serie passionees,1829,Oeuvres completes de    Ch.Fourier,1848,tome 6,p.2.『産業的協同社会的新世界』、田中正人訳、『オ    ウエン/サン・シモン/フーリエ』収録、中央公論社、1969年、442頁。
25)  ヴォールギンの資料によれば、マルクスは蔵書の『共有制の法典』中のこれらの労働者の状態の描写部分の欄外に縦線を引いているという。СМ.Во    лгин,Т.ДЕЗАМИ,стр,486.
26)  あるいはまた、「分割制」とは生産の「分割制」であり、生産の無政府性のことを意味する。生産が「共有制」の下で行なわれることによって、それ以    前に生じていた膨大な無駄が節約されるとデザミは言う。
27)  ibid.,p.23.同訳書466頁。
28)  ibid.,p.10.同訳書451頁。
29)  喜安朗『パリの聖月曜日』平凡社、1982年参照。
30)  機械の使用については、すでに1819年のフランスでシスモンディが批判 を行なっていた。すなわち、「機械の改良と人間労働の節約は、直接に国民   的消費者の減少に貢献するものであって、なぜならば滅亡させられる労働    者はすべて消費者であったからである。」 Jean‐Charles‐Leonard Sismonde   de Sismondi,Nouveaux Principes d'Economie Politique,Paris,,1819,nou   velle edition,Edition Jeheber,Geneve‐Paris,3ed.,1951,tome2,p.218.菅   間正朔訳、『経済学新原理』、日本評論社、1950年、下、244頁。
31)  『共有制の法典』ではフローラ・トリスタン(Flora Tristan)の『ロンドン散策』(Promenades dans Londre,1840)及びイギリス「産業調査」か        らイギリスの労働者階級の状態が描かれている。cf.Code.p.60,172.
     @ 革命論
 1840年代のヨーロッパの革命論はひとつの転機を過ぎたばかりであったといえる。すなわち、1839年の「四季協会」の蜂起の失敗によって、少数精鋭による暴力革命の方式に大きな疑いが持たれるようになっていたのである。他方、この「四季協会」の失敗以前にもブランキズムとは異なった革命方式、特に正反対のものとして、平和的革命の方式がサン・シモン主義者やフーリエ主義者、その他の社会主義・共産主義諸派からすでに提出されてはいた。例えば、「出生」による「所有」を批判するサン・シモン主義者は相続権を個人から国家へ集中することによって、私有制度の廃棄をめざしたのであった。
 このような中でデザミの革命に対する態度はどのようなものであっただろうか。確実に言えるのはわずかに三つのことだけである。その第一は、デザミの思想の実現のためには改良では全く不十分であり、暴力的であれ平和的であれ革命が必要であるということである。すなわちデザミは次のように述べるのである.
    「これらすべての危険〔貴族の復活の危険〕をいっきに断ち切る唯一の手段は、〔我々の〕再生の敵から彼らの勢力の唯一の手段、圧制の唯一の元    手である〔私有〕財産と貨幣を取り除くことではないか?」(Code.p.290)
 そして第二に、過渡期に関してデザミは、カベーの過渡期論、すなわち、「過渡的社会組織の諸原理」に反対するものであるということである。すなわち、デザミはカベーの『イカリア旅行記』からこの部分を引用し、これを批判しているのである。デザミの引用によれば、カベーの「絶対的自由のシステム」は、わずか50年のうちに完全に実施されるという。しかし、それまで現在の私有制度は維持され、各人の幸福は、たとえそれがどんなに不平等なものであろうとも尊重される。ただ、相続、贈与あるいは将来獲得する物については変更を受けることとなり、不平等は減少することになる。現時点で15歳以上の市民は、共有制が実施されても労働の義務を負わない。ただし、15歳未満の子供及び将来生まれてくる子供たちは、基本的な産業教育を授けられ、労働の義務を負う。「人民の所有地は、可能ならば、共有制の実施のために供せられる」(Code.p.288-289.強調は長山)。デザミはカベーのこのような過渡期論を「生半可な方法(demi‐mesures)」と評している(Code.p.290)。
 第三に、プロレタリアート自身によるプロレタリア革命を志向していたということである。デザミは1840年に「第一回共産主義者宴会」を開催した際のカベーの態度を次のように述べている。
   「あなた〔カベー〕はこれ〔「第一回共産主義者宴会」〕を《危険なゆきすぎ》と評するだろう!あなたはプロレタリアがブルジョアや有名人の誰をも頭にいただくことなしに、共産主義の旗を全く独自に勝手にあげたこと、そして恐らくは、1840年7月1日以来、平等の共有制、社会的で全く現世的な共有制、理性的な共有制、これらの時代が始まったということに最初から不満であったようだ。」(Cabet.p.8)
  それでは次に、この三点についていま少し詳しく検討してみよう。
 まず第一に、デザミが必要とした革命は平和的なものであったであろうか、それとも暴力的なものであっただろうか。この問いについては、一般的には、デザミが志向したのは暴力革命であるという答えが予想される。というのは、一般に、デザミは「新バブーフ主義」に属する革命家と考えられており32、このことからの単純な帰結として、デザミは暴力革命を志向したと考えられるのである。しかしながら、『独仏年誌』刊行のためパリの共産主義者・社会主義者に協力を求め、何度もデザミにも会っているルーゲは次のように証言している。「彼〔デザミ〕はカベーと同様、暴力によって目標に達しようなどということはほとんど言わなかった33。」それではデザミ自身の言うところではどうだろうか。彼は「専制の基礎、すなわち、〔私有〕財産と貨幣」を敵から取り上げるとしつつも、革命それ自体(そしてその内容としての暴力や独裁)については極力触れないよう努力しているように見える。最後の最後に次のように言うのみである。   「今、共産主義は暴力や強制を用いる意図も必要もないと言い加える必     要が私にあるだろうか?……人民のなすべきことは、特権者たちがもはや、  多数の人々に害をもたらす富の独占に固執しないようにすることである。」  (Code.p.291)
 何故、このような混乱・あい昧さが生じたのであろうか。「社会革命の準備過程の独自の表現の中で、デザミが秘密結社の役割や陰謀による革命の実現の可能性に関してはなにも言わない」ことに対して「たぶん1839年の蜂起の失敗の経験が彼に闘争の陰謀的方法に対する懐疑的態度を抱かせたのだ」とするヴォールギンの見解34が、さしあたり、筆者には最も説得力のあるものと思われる。1840年代という革命方法の転換期が、デザミをして、「革命の陰謀的方法」、ヨリ拡大して「革命の暴力的方法」に対して「懐疑的態度」をとらしめたと考えうるのである。
 第二に、カベーの過渡期論を批判するデザミ自身に過渡期論はあるだろうか。確かに、『共有制の法典』の中で、デザミ自身の過渡期論が展開されている箇所はない。しかしながら、『共有制の法典』第一章「本書のプラン」にある「過渡的体制――社会的・政治的移行――富の直接的共有制――社会のほとんど全体を無利害にする方法……」といった項目――この「プラン」の後半部分は完成稿『共有制の法典』ではほとんど割愛されている――から、デザミの体系に過渡期論はあるとみるべきである。実際、デザミは次のようにも述べている。
   「第一章と第三章で、私はすでに州会議(l'assemblees provinciales)について語った。これらの政治体(corps politiques)は、まだ管理機関が不完全な過渡期の間は、確かに有効であろう。しかしながら、共有制が実際にあまねく作動する時には、中間機関は無用のものとなるだろう。」(Code.p.236)
  
 また、過渡期の独裁については、デザミが「ジャコバン主義の伝統に加わり、バブーフ主義に同調している」という理由で、彼が「革命的独裁を必然的なものとみなしている」35とするのは安直に過ぎるにせよ、「まったく調和的な共同体」が成立するまでは「独裁の問題」が生じる余地はあると考えるべきではなかろうか(Code.p.250)。
 第三に、「プロレタリアート自身によるプロレタリア革命」ということであるが、この点については、岩本氏が指摘している通り、デザミは自分が属している革命潮流の総帥であるブランキが「デクラッセ(declasse)=没落したブルジョア知識人に多くの期待を寄せる」36のと異なり、一層進歩した階級的革命観を持っていたと言える。この点についてはガロディも「共産主義政党を鍛えあげるためには理論の上の非妥協性が絶対に必要だと理解したのは、デザミのもっとも偉大な功績の一つである。彼はすでに、理論上の偏向は、つねに労働者階級の利害にたいする他の階級の利害の圧力を表現するものである、ということを知っていた」と高く評価している37。それでは、その具体的内容はどのようなものであろうか。特に、資本主義体制の下での政治闘争に対する態度はどうであろうか。この点ではまったく相反する見解が出されているが38、私見では、デザミはプロレタリアートによる政治闘争は不可能と考えたとすべきであろう39。
  ところで、デザミは40年代に高揚する普通選挙制要求運動に反対しており、このことはデザミ独自の民主主義論及び七月王政の政治構造とも相まって複雑な問題を含んでいるのだが、その際、彼は次のように言っている。
   「フランスでも〔イギリスと〕同様に普通選挙が布告されたとしよう。結果はどうなるか?ただちに陰謀家の群れは、ジャコバンの外套をまとい、ブルータスに変装して政治の場で互いに打ちのめしあうであろう。そこで彼らはプロレタアに最も魅力的な約束を惜しみ無く与えながら、何度も彼  らの手を握るのだ。――これらのたくさんの偽りの兄弟は選出されるのか  ?そうなることを恐れるだけの理由がある。それは第一に、ほとんど彼ら  だけが人目につき、代議士職の費用を負担するのに十分の富を持っている  からである。第二に、人民は十分な教育も、大衆の中に自分たちの真の友を見付けにゆくのに必要な時間も持っていない。第三に、人民はまだ飢え  の隷属状態の中で富への直接的な依存状態にあるからである!」(Code.p.253)
    
 ここに見られる第一の点は富の独占であり、これは革命によって撃ち破られるしかない。第二の点の後半部と第三の点は経済闘争にかかわる点であるが、デザミには経済闘争の観点は見られない。とすれば、資本主義体制の下での政治闘争の可能性は第二点の前半部、すなわち、大衆の教育のみにあるといえる。「第一回共産主義者宴会」における「平等教育」の思想はもと教育者であったデザミに固有のものである。しかしデザミは、このような教育が七月王政によって実施されることを期待することはできなかったであろう。デザミはエルヴェシウスの言葉を引用し、知識と富、そして権力との間の密接な関係を指摘している。
   「ある人々に享楽を保証し、その他の人々をすべての重荷の下におしつぶす特権をなくしてしまわなければならない。この特権は、すべての人々に要求する権利があり、それ故、生活の糧や人々が吸い込む空気と同様に無償ですべてが意のままになるべき知識の特権である。
 それにしても、知識は排他的に富に属し、権力は排他的に知識に属する。権力は富と知識を何人かの手に集中する。彼らは人民の社会組織を前にしてしか権力を手放そうとしないであろう。」(Code.p.251-252.『人間論―その知的能力と教育について―』からの引用。)
 すなわち、デザミが主張するのは労働者教育、すなわち、プロレタリアート自身によって鍛えあげられた共産主義理論をプロレタリアートに普及すること、要するに、イデオロギー闘争であったといえる。
 ところで、デザミの体系が唯物論であり、更にマルクスがデザミを「オーエンのように、唯物論の教説を、現実的人間主義の教説として、また共産主義の論理的基礎として発展させている」と評価していることはすでに見たとおりである。確かにデザミの唯物論は粗野な機械的唯物論ではなく、自然の中に存在する理性=人間の任務は自然、あるいは社会の「アンサンブルを把握し、再建することである」とし、人間精神が環境を再規定すると考えており、マルクスもこの点に注目したのではなかろうか。ガロディもまた、デザミにおける哲学・科学の役割について「デザミが示している諸思想の役割は、マルクスの諸定式に非常に近い」と評価している40。   
 最後に、マルクス、エンゲルスがデザミの著作を独訳したのも、彼の著作のイデオロギー闘争のテキストとしての性格に注目したものと考えられるということを付け加えておきたい41。
32)  岩元氏の前掲書でデザミが扱われている第3章のタイトルは「バブーフ後継者-革命的社会主義者たち」である。および平井新、『社会思想史       研究』、塙書房、1960年、297頁。  
33)  Ruge, Zwei Jahre in Paris,S.78.  
34)  Волгин,Т.ДЕЗАМИ,стр.53.  
35)  Волгин,Т.ДЕЗАМИ,стр.54.  
36)  岩本前掲書212頁。  
37)  ガロディ、『近代フランス社会思想史』、316頁。  
38)  Волгин,Т.ДЕЗАМИ,стр.20.及び岩本前掲書210頁を参照。  
39)  デザミは次のように述べている。「政治的改良は、次に社会組織(la constitution sociale)を改良するための手段であると言われている。私は次の   ように答えよう。大衆が革命状態にあり、強力な衝動が彼らに与えられる    時には、そのことは不可能ではない。しかしなお、この場合にも、勝利は    プロレタリアート(proletariat)にとてひじょうに冒険的なものである。」(C   ode.p.251)
40)  Garaudy,Le communisme materialiste avant 1848,Un precurseur: Theodore Dezamy,chez La Pensee,No.18,1948,Paris.本稿で用いたテ        キストは覆刻版(1972年)である。  
41)  1846年3月17日付けエンゲルスからマルクスへの手紙、「『外国の有名な社会主義者叢書』のプラン」、「フーリエ商業論の一断章」からマルクスと      エンゲルスにフランス、イギリスの社会主義・共産主義文献を翻訳する      計画があったことが知られる。しかしこの計画は結局叢書としては実現      しなかった。そして、ただ一冊出版されたのがデザミの『社会主義によっ     て打倒され全滅させられたイエズス会』であったのである(訳者はE.O.Welle    r)。この点については別稿を期すつもりである。

 

      2.社会の基本法  ――平等――
             
 前節で見たように、デザミにおいて、社会はそれ自体として調和的に成立しうるものなのである。しかし、これだけでは不十分である。モレリが提起した「人間がもはや退廃することも哀れな状態になることもない状態を探しだす」(Code.p.14.岩波文庫14頁)という問題は平等が実現されることによって満たされるのである。平等の実現は可能なことである。なぜならば。平等は「最大の宇宙から最小の虫にいたるまで、すべてのものを支配する調和であり、均衡である」(Code.p.11)からであり、現存社会はこの本来の調和と均衡が破られた状態であるからである。 
 自然状態論と同様に平等論についてもデザミはモレリから大きな影響を受けている。デザミはモレリから次のように引用している。
  
   「宇宙の法則は――とモレリは言う――人間には何ら連帯的に見えるものではない。耕地はそれを耕す人のものではなく、木はそれから果実を摘む人のものではない。彼は自分の職業に関してさえ、自分が使用する部分しか使用しない。残りは人類のものである。」
   
   「世界は――と彼は言い加える――会食者たちのために十分に用意された食卓のように考えられている。その料理は、ある時は皆が空腹であるが故に皆のものであり、ある時は他の人々が満腹であるが故にただ一人のものである。」(Code.p.14.岩波文庫21頁参照)--(1)
 デザミがこのようなモレリの思想を採用する根拠は何か。それは「あらゆる生産は労働に根拠を置いている」ということであり、「それ故、社会的な諸生産物を使用する人々は労働に参加するべきである」(ibid.)ということになる。
 この共有の状態を取り戻すために人間は「自然法に従い、アソシアシオンの原則をすべて実現するために、我々が述べるように、まず、土地とあらゆる生産物を大きなそして唯一の社会領域にしなければならない」(ibid.)。
 それでは、このデザミ=モレリ流の平等論についていますこし立ち入って見てみよう。
 デザミによれば、分配の方法には次の四つ、私有財産制、サン・シモン主義の分配原理、絶対的平等、比例的平等があるという(Code.p.49)。第一の私有財産制の分配方法については改めて論じる必要はない。第二のサン・シモン主義の分配原理というのは《各人にはその能力に応じて、各能力にはその仕事に応じて》という標語で広く知られているものであり、能力に応じて仕事(及び生産財)を分配し、その仕事量に応じて(消費財の)分配量が決定されるというものである。要するに、これは能力と仕事量を基準とする平等である。デザミはこれを「ほとんど私有財産制と同じ結果に帰着する能力の貴族制を主義としている」と評している(ibid.)。
 これらに対して、第三の絶対的平等というのは、当時一般に「共産主義」と言った場合にイメージされたものであり、「兵士や病院の貧民、囚人に食糧を一定量給与するような仕方で、市民に食糧を一定量供給しようとするおろかでみすぼらしい平等」(Code.p.30)である。デザミの論敵の一人であるラムネーも共産主義をこのようなものとして批判していたし、サン・シモン主義者たちも次のように批判する。
  「共同体組織においては、いっさいの分け前が平等である。そしてこのような分配様式に対しては必ずやたくさんの異議が生ずる。競争心の原理はなくなり、そこでは徒食者が勤勉な人間と同じように有利に恩恵を与えられ、その結果勤勉な人間は共同体のいっさいの重荷が自分にのしかかってくるのを見る。そしてこのことはこのような分配が平等の原理―それを確立することを願ったのに―とは反対のものであるということを十分明瞭に示している。」14 
 すなわち、《各人には能力に応じて、各能力にはその仕事に応じて》を旗印とするサン・シモン主義者は労働の基礎に競争原理を置くのであり、労働の量と無関係に「平等な」分配は労働を阻害すると主張するのである。  
 それでは第四の比例的平等とはどのようなものであろうか。この分配方法こそデザミが主張するものであり、ここでもやはりデザミはモレリの文章を引用する。 
    「自分の力、知性、欲求、特殊な才能に応じて共同労働に参加しなさい、そして全欲求の総計に応じて共同の富と共同の享楽を受け取りなさい。」(Code.p.18)
    
 この引用文中「全欲求の総計に応じて」という部分の解釈には慎重を要するが、先の引用(1)からすると、モレリ=デザミ流の平等は、各人の様々な欲求が、それぞれの水準で満たされるというところにあると見るべきであろう。       
  しかし、このよな分配論は、「絶対的平等」と同様に、あるいはそれ以上にサン・シモン主義者から批判されるであろう。その上デザミはモレリからの上の引用文に対して次のように批判するのである。
  「しかしながら、ここには力、能力、そして素質にかかわる自然的不平等 に関しての、又、反共産主義者に言わせれば、常に労働を苦しい疲労、堪え られない束縛とみなす人間の情念や内的悪徳に関しての低級な詭弁、永遠の そして圧倒的な美辞麗句が現わされている。」(ibid.)--(2)
 デザミの共有制においても「各人が自分の力に応じて……労働する」(Code.p.80)ことに変わりはない。しかし、唯物論的観点からすれば能力や才能の不平等は、社会的不平等の結果でこそあってその原因ではない。また能力、才能の不平等は必ずしもそれ自体「不平等」ではなく、「分け前」の不平等にも結び付かない。つまりそれは「不平等」ではなくむしろ「多様性」である。
 更に上記引用(2)からすると、共有制が実現すれば、もはや労働は「苦しい疲労、堪えられない束縛」であることをやめる、とデザミは考えていると見るべきである。それ故、いかなる形であれ「労働に参加しなさい」という命令は必要ないのである。
 かくして、「比例的平等」の実現の可否は、労働と分配との間の量的関係を完全に断ち切れる否かにかかっているということになる。この点は@の2で扱うことにする。  
  14)  Doctrine de Saint‐Simon,publiee avec introduction et notes par C.Bougle et Elie Halevy,Paris,1924,248.『サン・シモン主義宣        言』、野地洋行訳、木鐸社、1982年、101頁。
  15) ただし、「自分の力、知性、欲求、特殊な能力に応じて共同労働に参加しなさい、そして全欲求の総計に応じて共同の富と共同の享楽を受け取      りなさい」という引用がモレリのどの著作からの引用なのかをデザミは明     記しておらず、未だ不明である。露語訳の訳者ヴォールギンは、この引      用への訳注で次のように述べている。「この文章は、シェイエスのパンフ     レットの第2版から取られたものである。この文章は引用文ではなく、『自     然の法典』の中のモレリのヨリ詳細に展開された適当な諸命題の簡潔な定     式であろう。」しかしここでも、シェイエスのどのパンフレットなのかは     示されていない。Волгин,Т.ДЕЗАМИ-Кодекс Об     щности,стр.90.

 

   @ 社会批判と共産主義社会観   
    1.コミューン論
 デザミの共産主義社会は「コミューンの集合」体である(Code.p.235)。コミューンはまず、所与の面積である「大国家社会共同体」が「できる限り土地の広さが等しく、規則的、調和的になるよう」に分割されることによって形成される。    (Code.p.31)このコミューンは、地理的状況や位置関係に従って、一つの集合、すなわち、州(une province)を形成し、一定数の州は共和国を形成する。そしてついには、全共和国が人間主義大共同体(la grande communaute humanitaire)を形成するのである。(Code.p.31)     
 それでは、「各コミューンの広さ及び住民の数はどのくらいか?」この問いに対してデザミは最終的な回答は留保しつつも、人口は一万人、そして面積はこの人口にふさわしく定めるのが適当であると答える。むしろこの場合に問題なのは、コミューンの具体的な広さなどではなく、それを決定する要因である。デザミは次のように考える。
    
   「私は一方では、友愛的競争心、共和主義的情熱、芸術、科学、産業へ  の愛、一言で言えば、すべての一般情念はあまりに小さいコミューンの中  ではその飛躍的発展において窮屈な状態のままだということがありうる、  と考える。他方では、あまりに多くの人間が住んでいるコミューンは適正  な管理、労働の適正な実行、とりわけ農耕の適正な実行のしっこくであり、その上に、公衆衛生、教育等々の観点から見ればヨリ大きな不都合がある、と判断される。」(Code.p.37)
 
 このデザミのコミューン論は、第一に都市批判を基礎としている。彼は都市と農村、そしてまた首都、地方都市、市町村の区別がなくなることによって、教育が統一的なものとなり、慣習及び習慣が完全に同一化し、そしてまた、楽しみと労苦及びあらゆる自主性が完全に混合された共同体ができあがると考えるのである。更にまた、都市民(les citadiens)と農村民(les campagnards)の区別がなくなり、青年たちには職業選択の自由が与えられるのである。(Code.p.32)そして第二に、ルソーやブオナルロティの都市批判が「逆の行き過ぎに落ち込んでしまって」、「社会を村によって構成しようとしている」ことに対する批判の上に成り立っている(ibid.注)。デザミは「都市と農村を結合させたあらゆる利益をもたらす」規模のコミューンを構想しているのである。   
 まず、コミューンの内部から見てゆこう。
 デザミのコミューンの内部には家族は存在しない。彼は現存社会における家族の存在理由を、私有財産制度の成立によって国家が子供の欲求を満たしてやらなくなったからだと考える。このようにして発生した家族は、共同体から直接影響受けることはなく、家族内部の特殊利益を持つことになる。共有制の成立=私有財産の廃棄によって家族は存立の根拠を失い、かくして、「すべての家族(les foyers domestiques)を大社会休憩所(le grand foyer social)の中へとかしこみ、かくしてフェデラリスムと不平等の精神に最後の一撃を加える」こととなる。(Code.p.135)
 この「大社会休憩所」を支えるシステムとしては第1に共同食事、第2に共同教育、そして第3に共同労働が『共有制の法典』の中に見られる。
 第1の共同食事はプラトン、カンパネッラ、トマス・モアそしてフーリエにも見られるものであり、デザミに固有に思想ではない。しかし共同食事を言う際に、プラトンが私的利害の排除、カンパネッラとトマス・モアが友愛、そしてフーリエが節約を前面に押し出すのを受けて、デザミが「共同食事の原則的な目的は平等な人々の中で友愛の感情を発達させ保持することである」(Code.p.44)とし、「家庭食事」=「分割家政」が廃止され、「共同調理場」がとってかわることによって節約、衛生、仕事の単純化がもたらされる(Code.pp.41-42)としているのは、長い間にわたるこの思想の集大成であると言える。この「共同食事」が実際にどのように行なわれるのかということについては、すでに邦訳もあるプラトン、カンパネッラ、トマス・モアの思想とそれほどの相違がなく、デザミ自身細かい点は医者や経済学者の領分であるとしているので(Code.p44)ここではこれ以上立ち入らない。しかし、一見たわいのないものに見えるこの「共同食事」の思想も、「生産の社会化」に対して、「消費の社会化」、「生活の社会化」と問題を立て直せば、その意義が多少とも明らかになるのではなかろうか。 
  第二の共同教育については、さしあたり体育教育が共同で集中しておこなわれることによって、子供たちに十分な設備と注意が与えられ、社会的な観点から言えば、労働と生産物が節約されると デザミは言う。また、教育のヨリ本質的な問題である産業教育、そして「大社会休憩所」を支える第三のシステムである共同労働の問題は、次に見る労働=生産論の中で述べることにする。
 次にコミューンをその相互の関係において、特に経済面に限って見てみよう。 共和国全体の経済管理は、中央管理局(la direction centrle)によって行なわれる。共有制においては、当然、商業は廃棄されている。しかし、共有制は、商業の肯定的側面、すなわち、「すべての物を一方の極から他方の極へと移し、伝達し、循環させる驚くべき運動、巨大な活動」(Code.p.90)をヨリ効率よく作動させる。 
 個別財産(la propriete individuelle)の廃棄によって、すべての土地が共同体のものとなっていることが当然の前提である。生産は、共同体の市民全員によって行なわれる。全生産物は一度倉庫に集められ、その後、公的富( la  richesse publique)の平等な分配が、すべてのコミューンの間で行なわれるのである。このような分配を行なうためには、全体的な管理と計画が必要であり、そのために、各コミューンは最低年に一度はコミューンの全収穫物・工業製品に関する報告書を中央管理局に提出する。管理局はこの報告書に従って各々のコミューン内の富と欲求を評価し、この二つの量的関係が適性になるようにコミューン間で富の移動を行なうのである。すなわち、  
   「平等な人々の共和国では、財政のためであれ商業等々のためであれ、大臣も省も必要ない。我々の全政治経済を完全に運営し、いわば社会領域  とでもいうべきものを流動化するためには、会計職と簿記職の長で十分で  ある。」(Code.p.43)   
 デザミのこの思想はすでにマクレランの著作を通じて日本でも知られているものであり、そこには明確に国家死滅論の端緒が見られる16。すなわち、デザミの体系において、「共産主義国家」は「共産主義社会」と読み替えられるべきものなのである。また、ケギはこの思想をサン・シモンの『寓話』の影響かもしれないとしているが、『共有制の法典』には他にサン・シモンの影響を明確に示す箇所はなく、積極的な根拠はない17。
  16)  マクレラン、『マルクス主義以前のマルクス』、西牟田久雄訳、勁草書房、1972年、280頁参照。
  17)  vgl.Paul Kagi,Genesis des historischen Materialisumus, Wien, 1965, S.243.
     2. 労働・生産論
 デザミは資本主義体制下の労働の性質を単調さ、時間的過剰、生活を再開するために強制されたものととらえる。特にこの最後の観点から言えば「生活のために働く芸術家」もまた「15時間にわたってピンの頭を作る職人、勘定書きの欄を際限なく比べ続ける帳簿係」と大差ないのである(Code.p.56)。
 また、労働の単調さは労働者の「すべての思考能力を麻ひさせ、抹殺」してしまう(ibid.)。それ故、労働者が無為に陥っているにしても、「非難すべきは労働の単調さと間違った組織化」であり、モラリストたちが「人間は本来怠惰である」と結論するのは彼らの皮相さを示すものなのである(Code.p.57)。
 他方、現存の労働ですら「楽しみ事や快楽」として行なうことができるのである。実際、たくさんの有閑者たちは狩猟や指物細工、時計組み立てといった「労働者にとっては本物の労働」であるものを、暑さや渇きに耐えてながらも楽しみ事として行なってるのである(ibid.)。
 現存社会の労働が耐えがたいものであるのはまさしく現存社会に問題があるのである。この社会はいわば「転倒した社会(un monde renverse)」18(ibid.)であり、「共有制」ではなく「分割制」であるからでえある。ここで デザミが言っている「転倒」とは生産と消費の関係の「転倒」である。現存社会にあっては、労働し生産物を作り出す労働者は、自分が作り出した果実が溢れる中で貧困状態にとどまり、労働しない人々、「有閑者」、すなわちブルジョアジーはぜい沢ざんまいの生活をするという「転倒」である。労働者たちは明日の生活の糧を得ることができるかどうかという不安に悩まされ、若いうちにすでに病人となり、貧困の中で死んでゆく。彼らの主人であるブルジョアジーが彼らにしてくれることといえば、救貧税を受け取るための登録に行かせ、オピタルや貧民収容所に彼らを放り込むだけである。そしてデザミはこのような中での労働者の死を「真の殺人」であると告発するのである(Code.p.60)。
 このような分配の不平等を基礎付けているのが所有の「分割制」、すなわち、持つ者と持たざる者への「分割」である。それ故、「共有制」の実現によって所有による分配の不平等は解消される。(あるいはまた、「分割制」とは生産の「分割制」であり、生産の無政府性のことを意味する。生産が「共有制」の下で行なわれることによって、それ以前に生じていた膨大な無駄が節約されるとデザミは言う。)
 しかしここでもまだ、労働に応じた分配というサン・シモン主義者の主張は反論できない。
 共有制の下では労働は「苦しい疲労、堪えられない束縛」であることをやめるとデザミが考えていたらしいことはすでに見た。それに加えてデザミは「何人かの人たちだけが労働しなくてはならないという仮定の下では直ちに骨が折れ不愉快なものとして現われるであろうすべてのものは、コミューン全体が労働に参加する時には、もはや快い雑役、真の活動(jeu)となるであろう」(Code.pp.80-81)と述べる。ここで、先に見た労働をめぐるモレリ批判の含意が積極的な形で表明される訳である。それでは何故、共有制の下では労働が「快い雑役、真の活動」となるのか。この点にいますこし詳しく立ち入ってみよう。
 まず、労働についてデザミは「共同体の中では人間の生存と楽しみに必要なすべての労働は工業法と農業法によって管理される職務である」(Code.p.61)としている。そして、「《共有制が十分に実施される》時には、法はもはや単なる規則、単なる案内にすぎないであろう。」「というのは、その時には社会諸法は自然法の真の表現、直接の表現であるからである。」(ibid.) 
 要するに、共有制の下では、人々は、自分たちもその一部であるところの自然の法則に従うだけであり、その際に嫌悪感や不快感が伴なうはずがない。それ故、直接に労働を管理する役職にある人々は「適切に言えば、その《こだま》、水先案内人にすぎないであろう。」総じて言えば、「この時代には、諸物はいわばそれ自体で進行するであろう」(ibid.)。
 それでは、労働そのものの質はどのようになるのか。生産と分配の関係が平等なものになることによって、本節冒頭で述べた時間的過剰と生活を再開するために強制されたものという性質はある程度緩和されるであろう。しかし、単調さという点は分配の平等によっては全く変わるところがない。そこで、この労働の単調さを解決する手段として「労働の組織」が提案される。
 まず、作業場の組織については3つの意見がすでに出されているとデザミは言う。第1に、工場内分業が行なわれていない場合。第2に、「イギリスではすでに習慣となっている」(この言葉は暗に、フランスにおいてはまだ工場内分業が確立していない、あるいはまた、すくなくともデザミがそう考えていたことを示している。)工場内分業。これら「二つの意見、特に第二の意見に対しては、労働がまだ極端に単調なままであるという理由で反論が出ている」。それに対する第三の様式、「分割様式(le mode parcellaire)」は、労働を「小部分(fraction)」に分割し、いくつかのこの小部分を行なう(この意味で、この様式下で行なわれる労働は「合成された分割労働(le travail parcellaire compose)」と呼ばれる)というものであり、この様式は単調さを免れているのみならず、迅速で完全な仕事ができるという利点があるのである。(Code.pp.64-65)
                               アトリエ 
 このように労働の分割と再結合を行なうためには、労働を行なう作業場をも分割しなければならない。各産業は各々が「一般作業場(atelier general)」―例えば印刷業―を成し、これが「特殊作業場(atelier special)」―印刷、製本、仮とじ等々―に分割される。更にこの「特殊作業場」は「作業場小部分(section d'atelier)」―構成、植字、組み上げ等々―に分割されるのである。(Code.pp.65-66)  
 しかし、このような意見には「職業の選択のために市民たちの間に仲たがいが生じ、あなたたちの産業の枠組みの大部分は空白のままであろう」(Code.p.79)、すなわち、「人は疲労し、非衛生的で危険、あるいはまた不快な仕事をしようとしないであろう」(Code.p.80)といった反論が当然予想される。
 この反論に答えるのに際してデザミは、第5章(続)の冒頭で農業労働の組織についてかなりの長文をフーリエから引用しているが、そのフーリエに対して批判をおこなう。「確かに私は、フーリエがこのような場合に、困難から逃れるために発明した馬鹿げた献身的な人々のコルポラシオンに思い切ってたよろうとは思わない。合理主義者は自然の手段しか探求できないのだ。」(ibid.)ここで言われているフーリエの「コルポラシオン」が一体何を指しているのかは明らかではないが、いずれにしても、デザミがフーリエの「ファランステール」における労働の組織論を全面的に承認していたわけではないことは明白である。「合理主義者」デザミにとって受け入れることができなかったのは、恐らく、フーリエの労働組織論(更にはフーリエの全体系)の基礎である情念論であったのではなかろうか。
 フーリエは神が情念引力、そして引力一般を配分し宇宙を創造したと考える19。そして、必要最低限の生活手段を保障しようなどと神の摂理に反したことをするならば、人間(文明人)は無為に陥ってしまう。それ故「協同社会制度においては、労働は、今日の祝宴や芝居と同じくらいに魅力的なものでなければならない」20のである。
 これに対してデザミは、すでに述べたようにモレリに従い、人間に生来備わっている悪徳としての情念を否定した。現存の労働者たちの怠惰は、情念の帰結、すなわち人間の本性ではなく、労働者に与えられる労働の性質が原因なのである。その結果、デザミの体系にあっては労働を阻害する積極的要因がない。「比例的平等」の実現がデザミの共産主義思想の特徴であるわけだが、この「平等」の実現は自然の法則に従うことにすぎない。このようなデザミの体系の中には、フーリエのように労働を快楽にかえることによって、人間の労働意欲を支えねばならないという積極的な理由はない。単調さ、時間的過剰、そして生活を再開するために強制さえたものという労働の性質が取り除かれたならば、労働者の意欲をそぐような性質を労働から取り除ければデザミの場合、十分なのである。そして、その際に利用されるのが機械と科学技術の進歩なのである。
 『共有制の法典』の中でデザミが取り上げる例は屎尿処理に関する問題である。そこでデザミは二年前に『医学新聞』で読んだ屎尿の科学処理と下水設備について紹介している。一見たあいのない問題のようであるが、人口が急激に増大しつつある40年代の大都市パリにとってはこれは大きな問題であったのである21。 『社会主義によって打倒され全滅させられたイエズス会』においては、機械の使用による労働の軽減について論じられている。しかし、機械の使用については、すでに1819年のフランスでシスモンディが批判を行なっていた。すなわち、「機械の改良と人間労働の節約は、直接に国民的消費者の減少に貢献するものであって、なぜならば滅亡させられる労働者はすべて消費者であったからである。」22このような機械反対論は40年代のデザミまで届き、それにデザミは《アソシアシオンの体制の下では、すべての自然な発展は全社会の満足のために実現するのである》と答える。(Jesuitisume.pp.138-139)
 デザミはフランス労働者の貧困を見ており、その上で工場制機械工業が確立したイギリス労働者階級の貧困もまた知っていたはずである23。しかし、機械の生産力はデザミの思想の中では、ストレートに共産主義社会における一般的富裕へと結び付く。要するに、デザミの機械論は、一方では、眼前の社会の中に共産主義への発展の可能性を見出だしたものと評価しうるし、また他方では、フランス資本主義の初期段階におけるオプティミズムとも評しうる。このような二重性はカベー、ヴァイトリングにも共通し、40年代のフランス初期共産主義によく見られる特徴と言える。  
 最後に、産業教育について見ておかなければならない。
 デザミによれば、子供たちは3~4才になると各種の作業場へ連れてゆかれ、様々な労働を見学する。こういった状態で子供たちは自分の傾向(aptitude)と適性が現われるがままにされる。彼らを労働へと導くために、彼らを強制する必要などない。彼らの「模倣本能」は十分に強力なものであり、彼らに道具を与えさえすれば、子供たちは自ずと労働へ入ってゆくのである。これら最年少の子供たちに与えられる労働は間引きや石拾い、野菜洗い、皿洗いなど、要するに年令相応以上の力を強要されることのない労働である。彼らが作業場の中でヨリ高い地位を占め、技術を発展させるよう刺激するものは人間であれば誰でもが持っている「自尊心(amour‐propre)」である(Code.pp.146-147)。
 子供たちに各自の傾向、能力が現われると、彼らはそれに従って、あるいは、「公共の評価に対する愛」に導かれて職業を選択する。かくして、職業が市民たちに押し付けられるのではなく、市民自身が自由に職業を選択することになる(Code.p.62)。 
 ここに見られる「自尊心」と「公共の評価に対する愛」もまた、共有制の下で労働意欲を補完するものと言えよう。
  18)  「転倒した社会(un momde renverse)」という言葉は、フーリエの社会観である「転倒した社会(monde a rebours)」を起想させる。フーリエの        場合の「転倒」とは「虚言と嫌悪観を催す産業とが支配している」状態を        指している。 Fourier, Le nouveau monde industriel et societaire        ou Invention du procede d'industrie attrayante et naturelle           distribuee en serie passionees,1829,Oeuvres completes de Ch.          Fourier,1848,tome 6,p.2.『産業的協同社会的新世界』、田中正人訳、『オ       ウエン/サン・シモン/フーリエ』収録、中央公論社、1969年、442頁。
  19)  ibid.,p.23.同訳書466頁。
  20)  ibid.,p.10.同訳書451頁。
  21)  喜安朗、『パリの聖月曜日』、平凡社、1982年参照。
  22)  Jean‐Charles‐Leonard Sismonde de Sismondi,Nouveaux Principes d'Economie Politique,Paris,,1819,nouvelle edition,Edition             Jeheber,Geneve‐Paris,3ed.,1951,tome2,p.218.菅間正朔訳、『経済学        新原理』、日本評論社、1950年、下、244頁。
  23)  『共有制の法典』ではフローラ・トリスタン(Flora Tristan)の『ロンドン散策』(Promenades dans Londre,1840)及びイギリス「産業調査」か        らイギリスの労働者階級の状態が描かれている。cf.Code.p.60,172.
     @ 革命論
 1840年代のヨーロッパの革命論はひとつの転機を過ぎたばかりであったといえる。すなわち、1839年の「四季協会」の蜂起の失敗によって、少数精鋭による暴力革命の方式に大きな疑いが持たれるようになっていたのである。他方、この「四季協会」の失敗以前にもブランキズムとは異なった革命方式、特に正反対のものとして、平和的革命の方式がサン・シモン主義者やフーリエ主義者、その他の社会主義・共産主義諸派からすでに提出されてはいた。例えば、「出生」による「所有」を批判するサン・シモン主義者は相続権を個人から国家へ集中することによって、私有制度の廃棄をめざしたのであった。
 このような中でデザミの革命に対する態度はどのようなものであっただろうか。確実に言えるのはわずかに三つのことだけである。その第一は、デザミの思想の実現のためには改良では全く不十分であり、暴力的であれ平和的であれ革命が必要であるということである。すなわちデザミは次のように述べるのである
    「これらすべての危険〔貴族の復活の危険〕をいっきに断ち切る唯一の手段は、〔我々の〕再生の敵から彼らの勢力の唯一の手段、圧制の唯一の元    手である〔私有〕財産と貨幣を取り除くことではないか?」(Code.p.290)  そして第二に、過渡期に関してデザミは、カベーの過渡期論、すなわち、「過渡的社会組織の諸原理」に反対するものであるということである。すなわち、デザミはカベーの『イカリア旅行記』からこの部分を引用し、これを批判しているのである。デザミの引用によれば、カベーの「絶対的自由のシステム」は、わずか50年のうちに完全に実施されるという。しかし、それまで現在の私有制度は維持され、各人の幸福は、たとえそれがどんなに不平等なものあろうとも尊重される。ただ、相続、贈与あるいは将来獲得する物については変更を受けることとなり、不平等は減少することになる。現時点で15歳以上の市民は、共有制が実施されても労働の義務を負わない。ただし、15歳未満の子供及び将来生まれてくる子供たちは、基本的な産業教育を授けられ、労働の義務を負う。「人民の所有地は、可能ならば、共有制の実施のために供せられる」(Code.p.288-289.強調は長山)。デザミはカベーのこのような過渡期論を「生半可な方法」と評している。
 第三に、プロレタリアート自身によるプロレタリア革命を志向していたということである。デザミは1840年に「第一回共産主義者宴会」を開催した際のカベーの態度を次のように述べている。
   「あなた〔カベー〕はこれ〔「第一回共産主義者宴会」〕を《危険なゆきすぎ》と評するだろう!あなたはプロレタリアがブルジョアや有名人の誰を  も頭にいただくことなしに、共産主義の旗を全く独自に勝手にあげたこと、  そして恐らくは、1840年7月1日以来、平等の共有制、社会的で全く現世的  な共有制、理性的な共有制、これらの時代が始まったということに最初か  ら不満であったようだ。」(Cabet.p.8)
  それでは次に、この三点についていま少し詳しく検討してみよう。
 まず第一に、デザミが必要とした革命は平和的なものであったであろうか、それとも暴力的なものであっただろうか。この問いについては、一般的には、デザミが志向したのは暴力革命であるという答えが予想される。というのは、一般に、デザミは「新バブーフ主義」に属する革命家と考えられており24、このことからの単純な帰結として、デザミは暴力革命を志向したと考えられるのである。しかしながら、『独仏年誌』刊行のためパリの共産主義者・社会主義者に協力を求め、何度もデザミにも会っているルーゲは次のように証言している。「彼〔デザミ〕はカベーと同様、暴力によって目標に達しようなどということはほとんど言わなかった。」25それではデザミ自身の言うところではどうだろうか。彼は「専制の基礎、すなわち、〔私有〕財産と貨幣」を敵から取り上げるとしつつも、革命それ自体(そしてその内容としての暴力や独裁)については極力触れないよう努力しているように見える。最後の最後に次のように言うのみである。   「今、共産主義は暴力や強制を用いる意図も必要もないと言い加える必     要が私にあるだろうか?……人民のなすべきことは、特権者たちがもはや、  多数の人々に害をもたらす富の独占に固執しないようにすることである。」  (Code.p.291)
 何故、このような混乱・あい昧さが生じたのであろうか。「社会革命の準備過程の独自の表現の中で、デザミが秘密結社の役割や陰謀による革命の実現の可能性に関してはなにも言わない」ことに対して「たぶん1839年の蜂起の失敗の経験が彼に闘争の陰謀的方法に対する懐疑的態度を抱かせたのだ」とするヴォールギンの見解26が、さしあたり、筆者には最も説得力のあるものと思われる。1840年代という革命方法の転換期が、デザミをして、「革命の陰謀的方法」、ヨリ拡大して「革命の暴力的方法」に対して「懐疑的態度」をとらしめたと考えうるのである。
 第二に、カベーの過渡期論を批判するデザミ自身に過渡期論はあるだろうか。確かに、『共有制の法典』の中で、デザミ自身の過渡期論が展開されている箇所はない。しかしながら、『共有制の法典』第一章「本書のプラン」にある「過渡的体制――社会的・政治的移行――富の直接的共有制――社会のほとんど全体を無利害にする方法……」といった項目――この「プラン」の後半部分は完成稿『共有制の法典』ではほとんど割愛されている――から、デザミの体系に過渡期論はあるとみるべきである。実際、デザミは次のようにも述べている。
   「第一章と第三章で、私はすでに州会議(l'assemblees provinciales)に  ついて語った。これらの政治体は、まだ管理機関が不完全な過渡期の間に、  確かにそれらの統一性を持つであろう。しかしながら、共有制が実際にあ  まねく作動する時には、中間機関は無用のものとなるだろう。」(Code.p.236)
  
 また、過渡期の独裁については、デザミが「ジャコバン主義の伝統に加わり、バブーフ主義に同調している」という理由で、彼が「革命的独裁を必然的なものとみなしている」27とするのは安直に過ぎるにせよ、「まったく調和的な共同体」が成立するまでは「独裁の問題」が生じる余地はあると考えるべきではなかろうか(Code.p.250)。
 第三に、「プロレタリアート自身によるプロレタリア革命」ということであるが、この点については、岩本氏が指摘している通り、デザミは自分が属している革命潮流の総帥であるブランキが「デクラッセ(declasse)=没落したブルジョア知識人に多くの期待を寄せる」28のと異なり、一層進歩した階級的革命観を持っていたと言える。この点についてはガロディも「共産主義政党を鍛えあげるためには理論の上の非妥協性が絶対に必要だと理解したのは、デザミのもっとも偉大な功績の一つである。彼はすでに、理論上の偏向は、つねに労働者階級の利害にたいする他の階級の利害の圧力を表現するものである、ということを知っていた」と高く評価している29。それでは、その具体的内容はどのようなものであろうか。特に、資本主義体制の下での政治闘争に対する態度はどうであろうか。この点ではまったく相反する見解が出されているが30、筆者は、デザミはプロレタリアートによる政治闘争は不可能と考えたと見ている。
  ところで、デザミは40年代に高揚する普通選挙制要求運動に反対しており、このことはデザミ独自の民主主義論及び七月王政の政治構造とも相まって複雑な問題を含んでいるのだが、その際、彼は次のように言っている。
   「フランスでも〔イギリスと〕同様に普通選挙が布告されたとしよう。結果はどうなるか?ただちに陰謀家の群れは、ジャコバンの外套をまとい、  ブルータスに変装して政治の場に倒れるであろう。そこで彼らはプロレタ  リアに最も魅力的な約束を惜しみ無く与えながら、何度も彼らの手を握る  のだ。――これらのたくさんの偽りの兄弟は選出されるのか?そうなるこ  とを恐れるだけの理由がある。それは第一に、ほとんど彼らだけが人目に  つき、代議士職の費用を負担するのに十分の富を持っているからである。  第二に、人民は十分な教育も、大衆の中に自分たちの真の友を見付けにゆ  くのに必要な時間も持っていない。第三に、人民はまだ飢えの隷属状態の  中で富への直接的な依存状態にあるからである!」(Code.p.253)     ここに見られる第一の点は富の独占であり、これは革命によって撃ち破られるしかない。第二の点の後半部と第三の点は経済闘争にかかわる点であるが、デザミには経済闘争の観点は見られない。とすれば、資本主義体制の下での政治闘争の可能性は第二点の前半部、すなわち、大衆の教育のみにあるといえる。「第一回共産主義者宴会」における「平等教育」の思想はもと教育者であったデザミに固有のものである。しかしデザミは、このような教育が七月王政によって実施されることを期待することはできなかったであろう。デザミはエルヴェシウスの言葉を引用し、知識と富、そして権力との間の密接な関係を指摘している。
   「ある人々に享楽を保証し、その他の人々をすべての重荷の下におしつ  ぶす特権をなくしてしまわなければならない。この特権は、すべての人々に要求する権利があり、それ故、生活の糧や人々が吸い込む空気と同様に無償ですべてが意のままになるべき知識の特権である。
  それにしても、知識は排他的に富に属し、権力は排他的に知識に属する。権力は富と知識を何人かの手に集中する。彼らは人民の社会組織を前にしてしか権力を手放そうとしないであろう。」(Code.p.251-252.『人間論―その知的能力と教育について―』からの引用。)
 すなわち、デザミが主張するのは労働者教育、すなわち、プロレタリアート自身によって鍛えあげられた共産主義理論をプロレタリアートに普及すること、要するに、イデオロギー闘争であったといえる。
 ところで、デザミの体系が唯物論であり、更にマルクスがデザミを「オーエンのように、唯物論の教説を、現実的人間主義の教説として、また共産主義の論理的基礎として発展させている」と評価していることはすでに見たとおりである。確かにデザミの唯物論は粗野な機械的唯物論ではなく、自然の中に存在する理性=人間の任務は自然、あるいは社会の「アンサンブルを把握し、再建することである」とし、人間精神が環境を再規定すると考えており、マルクスもこの点に注目したのではなかろうか。ガロディもまた、デザミにおける哲学・科学の役割について「デザミが示している諸思想の役割は、マルクスの諸定式に非常に近い」と評価している31。   
 最後に、マルクス、エンゲルスがデザミの著作を独訳したのも、彼の著作のイデオロギー闘争のテキストとしての性格に注目したものと考えられるということを付け加えておきたい32。
  24)  岩元氏の前掲書でデザミが扱われている第3章のタイトルは「バブーフ後継者-革命的社会主義者たち」である。および平井新、『社会思想史研究』、塙書房、1960年、297頁。  
  25)  Ruge, Zwei Jahre in Paris,S.78.  
  26)  Волгин,Т.ДЕЗАМИ,стр.53.  
  27)  Волгин,Т.ДЕЗАМИ,стр.54.  
  28)  岩本前掲書212頁。  
  29)  『近代フランス社会思想史』316頁。  
  30)  Волгин,Т.ДЕАМИ,стр.20.及び岩本前掲書210頁を参照。  
  31)  Garaudy,Le communisme materialiste avant 1848,Un precurseur: Theodore Dezamy,chez La Pensee,No.18,1948,Paris.本稿で用いたテキストは覆刻版(1972年)である。  
  32)  1846年3月17日付けエンゲルスからマルクスへの手紙、「『外国の有名な社会主義者叢書』のプラン」、「フーリエ商業論の一断章」からマルクスと      エンゲルスにフランス、イギリスの社会主義・共産主義文献を翻訳する計画があったことが知られる。しかしこの計画は結局叢書としては実現      しなかった。そして、ただ一札出版されたのがデザミの『社会主義によっ     て打倒され全滅させられたイエズス会』であったのである。この点につい     ては別稿を期すつもりである。

 

  6、おわりに
 デザミの共産主義思想は、基本的な人間観についてはモレリから、商業批判からする現存社会の批判について、そしてコミューンにおける労働論についてフーリエから大きな影響を受けている。
 モレリは農村共同体を社会の理想状態ととらえ、低い生産力の下、共同体内部で調和的に生産を行なわざるをえない個人を人間の自然状態と考えた。デザミはフランス資本主義の本質を私有財産制と見抜き、これを「分割制」と表現し、そこにおける階級対立のアンチテーゼとしてモレリの自然状態論を置くのである。
 また、デザミの商業批判については、それがあまりにフランスそのものであるために本稿では扱わなかった。そして、「ファランステール」の影響は、シュタインが指摘しているように一目瞭然であるが、体系の基礎にある人間観、すなわち、デザミの人間科学とフーリエの情念論の相違は、労働組織論において微妙な食い違いを生じさせている。ここで更に一例を挙げるならば、人間の個性、才能の開花を目差すフーリエの教育論の影響がデザミの中に見られるが、それは、モレリに従って人間の生得の才能を否定するデザミにおいて、どのように位置付けられるのであろうか。
 デザミは上の二人の他に、将来社会における個人及び民主制についてルソーからも大きな影響を受けているのだが、この点は他日を期したい。
 他の共産主義・社会主義諸思想にたいするデザミの思想の特徴は、第一に平等論にあると言える。マルクスは共産主義の「より高度の段階」においては「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」という「ブルジョア的権利の狭い地平」を完全に踏み越えた真の平等が実現されると述べた33。これまでの日本の研究では、このマルクスの平等論の源泉として、カベーを再有力視してきた34。しかしながら、デザミはすでに42年の『共有制の法典』においてかなり明確に平等論を定式化しているという点、更にデザミ自身がこの平等論の源泉としてモレリを挙げているという点は後期のマルクスに見られる平等論の源泉問題の解決のためには、まだ一層のフランス諸思想の研究が必要であることを示していないであろうか35。
 かくして筆者はマルクスと同時代、あるいはやや先行する思想の紹介と若干の分析を行なうことによって、マルクス主義の形成を検討するための一材料んを提起した。今後、デザミの全体像を更に明らかにするとともに、その他のマルクス周辺の諸思想を掘りおこしてゆきたい。また、さしあたりはデザミのマルクスへの影響について検討する。
 33)  『ゴータ綱領批判』、岩波文庫、望月清司訳、1983年第7刷、38~39頁。  34)  『ゴータ綱領批判』、前掲訳書、66頁、及び副島種典、『社会主義の理想・現実・未来』、大月書店、1985年、27頁参照。
  35) ただし、「自分の力、知性、欲求、特殊な能力に応じて共同労働に参加しなさい、そして全欲求の総計に応じて共同の富と共同の享楽を受け取りなさい」という引用がモレリのどのパンフレットからの引用なのかをデザミは示していない。露語訳の訳者ヴォールギンは、この引用への訳注で次のように述べている。「この文章は、シェイエスのパンフレットの第2版から取られたものである。この文章は引用文ではなく、『自然の法典』の中のモレリのヨリ詳細に展開された適当な諸命題の簡潔な定式であろう。」しかしここでも、シェイエスのどのパンフレットなのかは示されていない。СМ.Волгин,Т.ДЕ ЗАМИ-Кодекс Общности,стр.90.