創価学会では、学会員から反学会に転じた者には、凄まじいまでの徹底攻撃が加えられる。過去の功績は悉く否定され、「彼らは根っからの救いがたい悪人であった」という印象操作がなされる。
攻撃対象は存命中の人だけでなく、すでに影響力を失った故人にまで及ぶ。矢島周平という元学会最高幹部も、その犠牲者の一人だ。

矢島周平氏(1982年没)は、少なくとも1997年の学会出版物までは、戦時中の思想弾圧に耐え、戦後の学会復興を支えた人物として語られていた。
しかし、2009年になって創価学会は、突如として「矢島は軍部政府の弾圧に屈した」(聖教新聞)と、180度違う評価をし始める。一体どういうことなのだろう。


「矢島周平氏は獄中退転したのか」について考えるため、いくつかの関連資料を提示する。

●『人間革命』第1巻 (池田大作著)
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編集長には三島由造(注:矢島周平)をあてた。その下に山平忠平(注:小平芳平)ほか数名の青年編集部員を置いた。
三島は戦時中、入獄した21名の幹部の一人である。
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●同第3巻 
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語る彼(注:戸田城聖)の脳裏には、戦時中の辛い、苦い思い出が渦巻いていたのであろう。あの弾圧の時、二十一名の幹部の中で、退転しなかったのは牧口常三郎と彼との二人だけであった。
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上記2文を併せ読むと、矢島周平氏は投獄中に退転していたことになる。池田氏はあからさまには書いていないが、巧妙なレトリックで読者にそう読み取らせている。


次は現在学会で編纂が進められている「池田大作史?」の一節。


●『若き指導者は勝った 池田大作 --- その行動と軌跡』(聖教新聞2009年1月10日付)
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(矢島氏の、牧口氏との出会いや、入信の経緯を紹介した後) 
しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨て去ったのである。
 そのまま学会と縁を切るかと思いきや、戦後は、戸田に拾われ、日本正学館で働き始めた。女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている。
 これだけ変節を繰り返してなお、混乱のすきを突いて理事長になるとは、相当に抜け目のない人物といわざるをえまい。
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故人が反論できないのをいいことに、よくまあこれほど悪人に仕立て上げられるものだと感心する。共産主義から正法への転向も「変節」呼ばわりされるとは・・・・・・
同系の前シリーズの「池田大作の軌跡」という本の序によると、これらは「ドキュメンタリー」だそうだ。ドキュメンタリーは通常もっと抑制の効いた文体で綴られるものだ。現シリーズを読むと、自讃毀他の落差が激しすぎ、ステレオタイプにもほどがある、というのが率直な印象だ。

それはさておき、一番問題なのは「矢島は軍部政府の弾圧に屈した」という部分だ。これは「矢島は獄中で退転した」としか読めない。最初に挙げた『人間革命』でぼやかして表現していたことを、学会として公式に「史実」としてフィクスさせたということか。『人革』なら事実との多少の相違も「小説だから」との言い逃れも可能だったろうが、『行動と軌跡』は公式の池田大作史という位置づけであろうから、それは許されない。史実は正確に書かれなければならない。ましてや個人(故人)の名誉に関わることなら尚更だ。

本当に「矢島は軍部政府の弾圧に屈した」のか。

ここで、法難当事者であった戸田城聖氏の公式証言を引用する。

●『大白蓮華』第16号(昭和26年)戸田城聖著「創価学会の歴史と確信」より
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(戦時下の学会弾圧の経緯を述べた後)
 名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、21名のうち19名まで退転したのである。

 会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の3人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いものであろうか。会長牧口常三郎先生は、昭和19年11月18日、この名誉の位置を誇りながら栄養失調のため、ついに牢死したのであった。
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「19名」だと計算が合わないので、「18名」の誤植か。
ともあれ、矢島周平は「名誉ある位置」に「踏みとどまった」、つまり獄中退転しなかったと、戸田氏は公式論文の中で言明している。この戸田証言が正しければ、『池田大作 --- その行動と軌跡』が言う「矢島は軍部政府の弾圧に屈した」という記述は歴史を改竄した、つまりウソをついていることになる。

不思議なのは、この『池田大作 --- その行動と軌跡』の執筆陣が、戸田証言を完全に無視しているらしいことだ。もし新資料の発見等により人物の歴史評価が180度変わり、「どうやら戸田証言は間違いらしい」ということなら、歴史を「改訂」する者の責任として、それなりの説明なり注釈があって然るべきだが、それもない。戸田証言の重みなどどこ吹く風で、「四の五の言わずに学会が今言っていることを信じろ」と言わんばかりだ。

さて、現学会員諸兄姉はどちらの言を信じるのだろうか。

参考までに、学会系出版社から出ている他の書籍等でも、戸田証言に沿った記述となっているので、以下併せて引用しておく。『池田大作 --- その行動と軌跡』はこれら「身内」の書籍が伝える「矢島史」をも覆していることになる。


●『戸田城聖伝』(西野辰吉著 第三文明社刊 1997) (*)
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 ☆検挙された幹部は、戸田と矢島周平、獄死した牧口のほか、退転(転向)していたのである。(p.194)

 ☆戸田は日本正学館の初期の編集長でもあり、創価学会の理事でもある矢島周平にいそいで会って、理事長を辞任して矢島にかわってもらうことにした。業務停止は刑事事件になりかねないおそれがあった。創価学会への影響をふせぐことをかんがえて、戸田はそくざに理事長から降りることにした。矢島は戦時の弾圧のさい、戸田とどうように転向せずに出獄して、戦後も親密に協力してきたなかまだった。(p.209)
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●『革命の大河――創価学会四十五年史』(上藤和之・大野靖之編 聖教新聞社刊 1975)
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戸田は、恩師であり、民衆救済の指導者だった牧口会長を非業の死に追いやった国家権力に、広宣流布という大業の実践をもって必ず復讐することを誓った。
 ちょうどそのころ、拘置所の運動場で偶然、矢島周平に会った戸田は、一言「出獄したらよろしくたのむ」と、出獄後の学会再建を、厳しい監視の目を盗んで指示したという。
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(注:矢島氏の出獄日は戸田氏より2ヶ月半早い、昭和20年4月24日)


●『牧口常三郎』(池田諭著 日本ソノ書房刊 1969年)
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 しかし、拘置場内で牧口はまもなく、拘留された幹部のうち、戸田と矢島周平を除いて、あとはその思想、信仰を捨てて転向したということを聞かされた。その時の彼の驚き、彼の受けたショックは、彼の生涯を通じて最大のものであったろう。
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(*)『戸田城聖伝』は、手元に書籍がないので、那由他楽人氏のブログより孫引きさせていただいた(感謝!)
http://blog.goo.ne.jp/nayuta-gakujin/e/68a8a1f71ff87ba637467bfea5659df4

同ブログの下記記事の実事求是の真摯な視点は共感が持てる。(私ごときに支持されては迷惑かも知れないが・・・^^;)
http://blog.goo.ne.jp/nayuta-gakujin/e/cb342d77cf399f887dbd4acd4d849269

同記事最後の
「いずれにせよ、細かい誤魔化しは命取りになるとだけ記しておきたい。」
の言葉は重い。


最後に、池田氏の歴史に関する名言を引用しておく。
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正しい歴史を残すことが、人類の平和と幸福の道を残すことになるのです。歴史は、歪めたりしてはいけない。歴史を"つくって"しまっては小説になってしまう。悪いことを隠し、格好のよいことだけを残しては、歴史書ではなく虚飾書になってしまう。歴史は客観的に正確に書き、証拠・証人を大事にしなければならない。
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『人生の座標』より


蛍 (オリジナル投稿:富士宮ボーイ  2009-12-15)