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売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

歴史幻想Ⅲ

2007-08-28 13:48:55 | Weblog
 画は月岡 芳年(つきおか よしとし)1839~1892 作


 「武蔵坊弁慶」です。


 今日は月一の通院日、半日つぶれます。

 調剤薬局のオヤジさんと話になり、入院中に苛められた女医

 はやはり悪評が多く、小生の偏見ではないことが証明されました。

 医師不足の現実があるとはいえ、どなたが見ても不適格としか

 思えぬ医師も片方で存在し医療行為を行っているこの矛盾。

 変なやつに引きずり回されると命とりになります。

 以前にも書きましたが「何かおかしい」と感じたら

 迅速に対応を考えましょう!たとえば積極的に他に

 セカンドオピニオンを求めるとか、ネットで調べるとか。

 「医者選びも寿命のうち」といいますよ。



 さて、「成吉思汗は源義経也」も一区切りとします。

◆朝青龍の処分で迷走していますが、

http://electronic-journal.seesaa.net/ より


相撲についても述べる必要があります。相撲の起源は非常に古
く、『古事記』にも相撲を思わせる記述があり、日本に古来から
伝わるものです。モンゴルで相撲が盛んなのは、改めていうまで
もないことですが、どのように考えても、モンゴルの相撲は日本
から伝わったものと考えるのが自然であると思います。
 しかし、不思議なことにモンゴルに関して書かれたどの本にお
いても、モンゴルの相撲は日本のそれが伝わったものとは一切書
いていないのです。憶測ですが、それをいうとどうして伝わった
かをいわなければならなくなり、義経=成吉思汗説が出てきてし
まうからではないでしょうか。
 それはさておき、相撲は鎌倉時代において武芸の一つとして盛
んに行われていたのです。したがって、当然義経はやっているし
好きであったといわれています。大河ドラマでは、牛若時代の義
経が平家の子供たちと庭先で相撲をとるシーンが登場します。
 モンゴルと日本の相撲の共通点は、武芸のひとつとしてそれが
行われていたことです。鎌倉時代において相撲は武芸のひとつと
して教えられており、勝者には褒美を与える慣わしがあったので
す。『元朝秘史』によると、相撲は成吉思汗とその子オゴタイが
とくに愛好したといわれています。
 さらに、モンゴル人は緑茶を愛好しています。成吉思汗が愛用
し、伝えたとされているのです。もちろん日本では緑茶の起源は
古く、鎌倉時代には茶室、茶会などが流行しており、緑茶の愛好
者が多かったのです。
 また、成吉思汗と義経は酒嫌いであり、成吉思汗は酒好きの従
臣に次のようにいっていたというのです。
-----------------------------
 酒を飲むと、理性を失う。心を平静に保つことができず、まる
 で頭を打たれたようにめまいを感じる。知識も才能も用をなさ
 ぬ。帝王が酒をたしなむときは堂々たる王業をほどこすことが
 できぬ。将軍が酒をたしなむときはその部隊を統御することが
 できぬ。もし酒をやめることができないなら、節酒して一ヶ月
 三回にせよ。一回ならさらによい。


◆支那人の大嘘


清朝のことが出てきたので、若干脱線しますが、清朝と中国の
関係について述べておきます。源義経=成吉思汗説とも関係があ
るからです。
 一般的に清朝は最後の中国王朝であると思われています。した
がって、1894年~1895年にかけて行われた日清戦争は、
日本が中国と戦った戦争であり、その結果、下関講話条約で日本
が獲得した台湾は、中国から割譲を受けたものである――そう思
い込んでいる人が意外に多いのです。
 しかし、これはとんでもない間違いなのです。清朝は中国では
ありません。日清戦争は日本と清帝国との戦争であり、日本と中
国の戦争ではないのです。なぜなら、中国という国家はその時点
でまだ存在していなかったからです。したがって、台湾について
は、中国の一部ではなく、清帝国の辺境だったのです。
 その理由としては、次の2つを上げることができます。
-----------------------------
 1.まず、人種が違うということである。清朝の皇帝は満州人
   であって、中国人(漢人)ではないのである
 2.清朝は中国の外の瀋陽で建国されており、確かに中国を支
   配したが、それ以外の国も支配していること
-----------------------------
 清朝の皇帝は満州族なのです。清という国は、満州族の一部族
である愛新覚羅氏が建てた王朝なのです。考えてみると、テムジ
ンが当初活躍したのは、現在の中国の東北地区に当たる満州の地
域なのです。
 清朝は1636年に瀋陽で建国されており、中国に入って支配
したのは1644年からのことです。それから1912年までの
268年間、清朝は中国を支配したのですが、中国だけではなく
清帝国を構成する五大種族に君臨したのです。
-----------------------------
  1.満州族 ・・・・・・・・ 八旗の議長
  2.モンゴル族 ・・・・・・ 大ハーン
  3.漢族 ・・・・・・・・・ 明朝の皇帝
  4.チベット族 ・・・・・・ 大施主
  5.東トルキスタン族 ・・・ ジューンガルの支配権
-----------------------------
 清朝の皇帝は満州族に関しては、「八旗」と呼ばれる8部族の
部族長会議の議長であり、モンゴル族に関しては成吉思汗以来の
遊牧民の大ハーン、漢族にに関しては洪武帝以来の明朝の皇帝の
地位を引き継いで皇帝として支配したのです。
 チベット族に関しては、元の世祖フビライ・ハーン以来の、チ
ベット仏教最高の保護者である大施主、東トルキスタン族に対し
ては、最後の遊牧帝国ジューンガルの支配権を引き継いで、オア
シス都市のトルコ語を話すイスラム教徒を支配していたのです。
 これらの五大種族の中で漢族だけはどちらかというと低く扱わ
れていたのです。他の4つの種族は自治が認められていたのに対
し、漢族だけは清朝帝国の使用人である官僚を通して統治されて
いたからです。
 漢族は科挙の試験に合格して官僚にならない限り、中国の行政
には参加できず、辺境の統治にも帝国の経営にも参加することは
認められなかったのです。いわば、漢族は清帝国の二流市民であ
り、中国は清朝の植民地の一つだったのです。
 これに比べてモンゴル族は、清朝の建国に当初から参加した関
係で、新帝国では満州族に準ずる地位を与えられていたのです。
モンゴル人の貴族たちは、清朝の皇族と同じ爵位を与えられ、皇
帝から俸禄を支給されていました。それにモンゴル族の庶民は、
それぞれ自分の領主に治められていて、清朝に税金を払うことは
なかったのです。
 それにもかかわらず、清朝は中国王朝であり、清帝国は中華民
国であったという誤解がはびこっているのです。どうしてこうい
うことになったのでしょうか。
 これに関して、東京外国語大学名誉教授、岡田英弘氏は次の3
つの原因を上げています。
-----------------------------
 1.「国家国民」という新しい観念が世界中に広まったこと
 2.20世紀における中国人による政治的宣伝の結果である
 3.ヨーロッパ人やアメリカ人の勘違いがそれに加わること
-----------------------------
 われわれは「国家」という言葉を何気なく使いますが、国家な
どという政治制度は18世紀の末まで、世界中のどこにも存在せ
ず、あったのは君主制と自治都市だけである――岡田氏はこのよ
うにいい、次のように述べています。
-----------------------------
 アメリカ独立でも、フランス革命でも、国王の財産を市民が強
 奪して、国家がはじまったのだが、こんどは国家の正当な所有
 権者がだれかが問題になる。国家の所有権は「国民」に帰属す
 る、ということになると、こんどはその国民とはだれかが問題
 になる。そこで、「国土」に住んでいる者が国民だということ
 になる。そうすると、それまでにはなかった「国線」を引いて
 その内側の住民を国民と見なして、同じ「国語」を話し、同じ
 「国史」を共有することを強制するようになる。  
       ――岡田英弘著、『皇帝たちの中国』、原書房刊
-----------------------------
 これに乗じた中国の政治的な宣伝があるのです。中国人の国民
主義(ナショナリズム)は高揚して「大漢族主義」の主張により
満州人も漢人はもともと同じ中華民族であり、その清朝の皇帝に
臣属しているモンゴル人もチベット人も漢族であるという乱暴な
主張をしているのです。
 加えて、ヨーロッパ人やアメリカ人は海路を通って清帝国に入
ったので、清帝国支配権の中国部分しか見ておらず、清国イコー
ルチャイナと誤解してしまったのです。 ・・・・・[義経27]


◆大いなる秘密



清朝を建てた愛新覚羅氏は文化政策――文教の保護政策に大変
力を入れたのです。宮廷に多くの学者を集め、多くの書物を編纂
させています。出版が発達していない封建時代において、一般大
衆にあまりかかわりのない歴史的な記録の集成に力を入れるには
そういう政策が必要であったのです。
 その政策は代々の清朝の皇帝たちにきちんと受け継がれ、歴史
書の編纂は継続されていったのです。既出の『図書輯勘録』30
巻はその中のひとつなのです。この『図書輯勘録』に六代皇帝で
ある乾隆帝の序文があり、そこに皇帝自身が「朕の姓は源、義経
の裔なり」と書いているという言い伝えについては、既に述べた
通りです。
 この『図書輯勘録』という書物は、発見されなかったという事
実をもって、「そんなことはありえない妄説」とされてしまって
います。しかし、この書物は清国にとって秘録であり、門外不出
の文献なのです。
 乾隆帝の子孫の皇族や臣下たちによって、自分たちの大清帝国
の愛新覚羅氏の祖先が、微々たる東方の小国、日本の一武将の裔
などということを広く知られたくはなかったのは当然です。した
がって、それは北京の秘庫に深く収められ、専門の史官によって
厳重にかん口令をしかれたに決まっているのです。
 したがって、簡単に発見されるものではなく、見つからないか
らといって、そういう書物はなかったということにはならないと
思います。清朝の建国者である愛新覚羅家と日本とはいろいろな
つながりがあり、源義経=成吉思汗説とも深いかかわりがあると
いうことができます。



さて、皆さんのご感想は?






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1 コメント

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写本がある!? (八雲広重)
2012-03-23 22:20:24
図書輯勘録の写本が内閣文庫にあるとか聞きましたが…。

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