ことは、2006年1月に実施された、「徒歩帰宅訓練」に端を発します。消防署からの要請で、東宝総務部に、災害時を想定して、徒歩帰宅訓練を社内で実施するように強い要請があったのでした。私は総務部長のIさん(当時。現在は退職されています)に呼ばれ、この訓練に参加するようにと言われ、張り切っていました。2005年4月に課長職(MS)に昇格した私は、なんでも意欲的に取り組もうと、がんばっていたのでした。
訓練の模様も社内報で掲載することにし、社内の参加メンバーにも原稿を依頼し、髙橋常務(のちに専務。現・東宝サービスセンター社長。「午前十時の映画祭」プロデューサーも歴任されました)ご自身も、I部長も参加されるということで、いやがうえにも盛り上がっていました。
こと、髙橋専務は、みんなを励まし、鼓舞し、ときどきジョークも交えて、映画談議をするなど、社内のムードメーカーでもいらっしゃり、大変立派な方でした。私はとてもそんな専務を信頼し、ご尊敬申し上げていました。
ところが、急に私の周りがおかしくなりました。東宝の診療所の産業医(慶応大学から派遣された方でした。M先生といいます)から私はひそかに呼出をうけ、診療所に行きました。M先生は切り出しました。
「ながたさん。あなたは徒歩帰宅訓練に参加しないでください。あなたは、ずっと隠しておられますが、統合失調症ですね?」
私はビックリしました。このことは社内ではひた隠しに隠し、周囲には「パニック障害です」とお話していました。周りもそれで理解を示してくれていました。
「ながたさん、あなたの飲んでいらっしゃる薬や、あなたが遅刻・早退をされるときに訴えている症状で、こちらはわかるんですよ。あなたは統合失調症であることをかくしていらっしゃいますね。」
私は、「いいえ違います。私、違います!」と叫びました。
M医師は続けました。「いえ、ながたさん。それが悪いとはいいません。統合失調症は社会的な偏見の大きな病気ですから、あなたが隠したいと思うのは、無理もないのです。でも、徒歩帰宅訓練は、統合失調症にとって大敵です。遠いところまで(あなたのご自宅は横浜ですが)深夜までかかって徒歩で帰宅するのは、あなたのご病気の症状からいって無理です。『周りの建物が襲い掛かってくるようにみえる』というのは、あなたが発作を起こした時、訓練の途中で事故に遭う可能性もあります。ですから、僕としては、医師として、この訓練を断固認めるわけにはいかないのです。」
私は、非常に困り果てました。髙橋専務のお優しい笑顔が目に浮かびました。I部長の嬉しそうな顔が目に浮かびました。せっかくいただいたチャンスなのに、お二人の厚意を無にしたくなかったのです。
私はいいました。「わかりました。でも、これは総務部主催のイベントです。私が欠席するとわかったら、社内の士気にかかわります。その欠席は上手に社内に根回しできますか?」
A先生は、「わかりました。ながたさん。では、僕からはI総務部長にご報告しましょう。あなたのご病名はもちろん伏せておきます。」としずかにいいました。
私はとても悲しみに暮れていました。せっかく私の実力を買ってくださっている髙橋専務に、この事実をご報告しなければならないと思うと、専務の落胆する顔が目に浮かんで、ずっと帰り道、泣きじゃくりながら、会社まで帰ったのを覚えています。
I部長は翌日、M先生から話を聞き、仰天しました。「ながたさん、体調が悪いんだって?それはつらかったね。無理しなくていいよ。総務からは髙橋専務と僕と、若い社員が参加するから十分だし、気にしないで、当日はお休みしていなさい」となぐさめてくださいました。
私は、唇をかみしめながら、ぐっと涙をこらえました。「はい、ご期待にそえず、申し訳ありません。」
髙橋専務にもご報告にいきました。専務は大変驚かれて、「ながたさん、そんなに具合がわるいって、どんなご病気なの?」と聞かれました。私は、余人はともかく、髙橋専務に、私の病名を知られるのは、死ぬよりも恥ずかしいし、情けないことでした。「はい、申し上げられませんが、実はメンタル系の持病があります。ご心配をおかけして申し訳ありません」と申し上げると、専務は、はあっとため息をつかれ、「そう。つらかったね。では、あまり無理をしないでね」とちいさくつぶやかれました。明らかに、私に対して落胆しているように見受けられました。
となりには人事のフロアがありました。当時の人事の担当役員は、Sさんとおっしゃいました。Sさんは私が宣伝部で休職した際、親身に相談に乗ってくださっていたのですが、そのSさんに、女性の若い社員がけらけらと笑いながらこういいました。
「ながたさんって、お脳の調子がおかしいから、徒歩帰宅訓練を休むんでしょ。ほんとに迷惑ですよね!」
すると、S重役は、けらけら笑いながら、「ま、そういうことだな」といって女性社員としばしおしゃべりをしていました。すると、ほかのとなりの部の、大先輩のお局さまが、「わたしだって、そばに、ながたさんがいるのはいやだわ。こっちが鬱病になってしまいそうだわ(笑)」といって、ゲラゲラとわらいだしました。お局様は、人事出身でした。
私はその言葉が聞こえてきて、真っ青にになりました。
M先生も、人事も、私の病気を社内中に、ばらしている!!!
髙橋専務も、I部長も真っ青になりましたが、「ながたさん、きょうは早退していいよ」といいました。私は、泣きながら早退しました。くやしくて、かなしくて、なさけなくて、この怒りと悲しみを誰にぶつけていいか、わからないほどでした。前の夫にも話したのですが、「だから東宝の人事はダメなんだって!ま、ともちゃんも、あまりくよくよしないで、気にしないで、明日は早く会社に行くんだね」としかとりあってくれませんでした。
そして、徒歩帰宅訓練が実施されました。つつがなく、だれもトラブルなく、全員無事にできました。でも、髙橋専務はI部長に、こうおっしゃったそうです。
「もう消防署からこういう要請が来ても、ちゃんと断ろう。悲しい目に遭う社員がでてきてしまうのは、たくさんだ!」
でも、そこで助け船をだしてくださったのは、広報室長のTさんでした。徒歩帰宅訓練の翌日は、実は三谷幸喜さんの「THE 有頂天ホテル」の初日舞台あいさつがありました(2006年1月14日、土曜日でした)。
Tさんは、「もし出られるようだったら、三谷監督にご挨拶がてら、初日においでよ」とやさしくおっしゃってくださったのでした。私は、もちろんうかがうことにしました。
実は、社内報「宝苑」で、この「THE有頂天ホテル」を取り上げたのでした。プロデューサーは、フジテレビの重岡由美子さんで、大変いいインタビューになったと好評でした。監督と脚本をつとめた三谷幸喜さんは、雑誌「テアトロ」で私が劇評を書いて以来、とても親切にしてくださり、何かと気にかけてくださっていましたし、またプロデューサーの石原隆さん(現・フジテレビジョン取締役)は、テレビ部時代からずっと私と懇意にしてくださっていたのでした。
私は翌日、笑顔で、Tさんに会いにいきました。Tさんは大変喜んでくれ、「よかった!元気そうだね。映画も大ヒットしたよ!興収60億円といっているよ!」とくしゃくしゃの笑顔で迎えてくれました。重岡さんも三谷監督も石原さんも、「ながたさん、『宝苑』でこの映画を取り上げてくださってありがとう!おかげさまで大ヒットしましたよ!」と喜んでくださり、私は、前日までの悪夢のような思いが、すーっと消えていくのを感じました。
月曜日。私は笑顔で出社し、髙橋専務とI部長に「大変ご心配をおかけしました!もう全然元気です!『THE有頂天ホテル』は大ヒットでしたよ!」とご報告しました。
おふたりの顔がパーッと明るくなり、「そうか!そうか!それはよかったね!」と、初日に出勤したTさんと、私をねぎらってくれたのでした。
やっぱり、東宝は、映画と演劇で、夢を売る会社なのだ、と思いを新たにした瞬間でもあったのでした。
(つづく)