(cache)【思い出話・うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(その1)(長文です) - 新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

【思い出話・うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(その1)(長文です)

2019-02-08 21:05:18 | 体調のこと。

いま、明日・明後日のコンサートのために、ハンス・ロットのことをいろいろ調べています。調べれば調べるほど、ハンス・ロットと私が罹患した「病気」が、すごい辛い体験や、人生の裏切り、かなしみに遭遇したときに発症してしまうのだなと思いますね。でも、ハンス・ロットの人生を通じて、私は、彼を反面教師として、これからは、つよく前向きに、希望をもって生きていこうと決意しました。

それは、パーヴォのおかげでもあるし、NHK交響楽団のみなさまのおかげでもあるし、このブログを応援してくださる、たくさんのみなさまのおかげでもあるし、諸先生方のおかげでもあり、お医者様のおかげでもあるし、FB仲間や、学生時代のお仲間、家族のおかげであると感謝しています。

みなさんは、「東宝時代の思い出」を読んでくださっているとおもいますが、「なぜチコちゃんは、こんなにたのしく東宝ですごしていたのに、会社を辞めることになったの?」とおもっておられるかもしれませんね。本当なら、このブログでいうべきことではないかもしれません。でも、この事実をきちんと書いて、心の整理をして、これから新しい人生を切り開き、力強く歩んでいこうと思います。

音楽療法という形で、パーヴォがくださった人生の大きなチャンスを、大事にしていきたいです。

2002年8月、私は統合失調症を発症しました。非常につらい理由が重なったのですが、なるべく客観的に書いてみます。

その前年。東宝社内で、大きな機構改革の動きがあり、私の宣材制作の仕事も無縁ではありませんでした。先述のY嬢とともに、広告制作室を作ろう、という動きがあり、私をその初代スタッフメンバーに推挙してくださる宣伝部内の動きが活発化していました。私は、テレビ部(現・映画企画部)のプロデューサー職に戻らないか、というテレビ部の元上司からの要請を丁重にことわって、広告制作室の誕生に心血を注いでいました。

ところが、当時の石田社長(故人)が、広告制作室の誕生に、難色をしめしたたのでした。もちろん、この話は頓挫してしまいました。私はそのことを、矢部さんとY嬢から知らされ、わんわんと号泣しました。2001年の年末も押し迫った、深夜の六本木でのことでした。深夜の2時半まで矢部さんは私を慰めてくれましたが、私は、悲しみにずっとくれるばかりでした。広告制作室の誕生は悲願だったからです。

Y嬢だけ、宣伝プロデューサー室に異動になり、私は、宣材制作の業務をいつも通りこなしていました。そこへ私の直属の上司として着任したのが、東京国際映画祭で辣腕をふるったS女史でした。S女史は、私の業務での負担を楽にしたいというお考えで、いろいろ業務の改善に取り組みました。

しかし、それは実は(S女史には申し訳ないのですが)逆効果でした。宣材の印刷会社をすべて一つの会社に一本化して、私の業務を楽にし、印刷会社の売り上げ(それは東宝の関連会社でした)を倍増させる・・・・というプランでした。だが、実際は公開作品の数が多くて、複数の印刷会社で回さなければとてもではないけれど、やっていけない状況でした。しかし、S女史は、中川さんからの指示であるといって、断行したのでした。

しかし、それは無理な話でした。関連会社の印刷会社は、あまりに膨大な印刷量に、とうとう2002年の7月、重大な納品ミスをおかしてしまったのです。夏休み公開作品に合わせての宣材制作に、この納品ミスは大打撃でした。社内中大混乱に陥りました。

事態の収拾を、S女史は図るといって、対応しようとしましたが、実際の支社や劇場は、宣材制作の担当者である私に、事態の解決を求めてきたので、私は必死で支社や劇場への連絡や印刷会社との交渉を続けていました。

当然、連日、ストレスは増大し、私は不眠状態にになりました。次第に、周囲が私の悪口を言っているように思えてきて、掲出しているポスターの宣伝コピーも、私のことを悪く言っているように思えてきたのです。完全に、幻聴であり、幻覚であり、被害妄想の症状でした。

ここで矢部さんが、私に「心療内科を受診して、休養をとるように」と言ってくれました。私は一度心療内科を受診したのですが、医師は「それは社内のいじめである」といって、病気という診断を下しませんでした。私はビックリして、だれも信用できない状態になりました。

矢部さんとS女史は、そこで、私に、有給休暇をとるようにいいました。私は「大丈夫です」といったのですが、前の夫が「そうしなさい」といって、私を休ませました。しかし、8月上旬、無理をおして出社し、そこで完全に幻聴とサトラレ状態になったので、早退し、以後休暇をとったのでした。

家にいても、症状はひどくなるばかりでした。横浜にすんでいましたが、京浜東北線に乗ると、乗客全員が私の悪口を言っているように思え、渋谷の街を歩くと、広告がすべて私の悪口をいっているように見えたのです。盗聴されている、という思いが抜けず、そして、2002年8月16日、なぜか創価学会のお経の音が私の頭の中で鳴り響きました。私は大パニックにおちいりました。

前の夫があわてて、夏休みにもかかわらず、唯一開いていた、横浜のメンタルクリニックを、私に受診させ、付き添いました。私はクリニックにいた、あまたの精神病患者をみて仰天し、泣きだしました。その様子をみた精神科医は、即座に前の夫に「残念ですが、奥様は統合失調症です。しばらく自宅にて療養し、薬を飲んで治療していきましょう」といいました。

クリニックから、薬をいただいて、すこし様子が落ち着いてきましたが、会社には統合失調症の事実は、当初内緒にしましょう、と当時の主治医と確認していました。やはり偏見と差別がひどかったですし、東宝に知られたらどうなるのか、私も前の夫もとても不安だったからです。

2か月の休職後、私は人事面談を経て、会社の資料室に復職しました。業務自体は宣伝部時代に比べれば非常に軽く、資料室のおじさまたちにも大変親切にしていただきました。いただいた薬の副作用がひどかったので、おじさまたちが励ましてくださったり、私を休憩させてくださったり、早退させてくださり、非常に助かりました。でも、資料室でも、演劇の批評の活動を続け、「演劇界」には劇評を掲載させてくださり、東宝の資料室の台本や資料を読み放題という、非常に恵まれた環境に置かせていただいたのでした。

1年後。2003年10月、私は、東宝の本社の総務部広報課(のちに広報室。そして現、広報・IR室)に復帰しました。上司のみなさんは非常に優しく、体調に気遣ってくださいました。歓迎会も開いてくださり、つつがなく業務が行えるように、新しくパソコンを買ってくださったり、InDesignという編集ソフトのセミナーに通わせてくださるなど、非常に恵まれた環境の中で、仕事をすることになりました。当時の上司は、大女優・山田五十鈴さんの付き人も務められ、演劇部に長く在籍した、鈴木七渡さん(現在は退職されています)。鈴木さんは演劇への情熱が大変熱い方で、すぐに私と意気投合し、たのしくお仕事をさせていただき、幸せな毎日が続きました。

その1年後。こんどは2004年6月に、総務担当役員として、髙橋昌治常務が着任されました。髙橋常務も、そして、当時の総務部長・Iさんも、私をいろいろ活躍させたいとお考えで、まず私を、社内報編集だけではなく、企業広報ができる人材として育てようと、いろいろ鍛えてくださいました。

翌2005年4月には、あたらしく上司として、T氏が着任され、広報課は、広報室に昇格しました。社史編纂、東宝の公式ホームページの運営管理の業務や、お客様メール対応、IR、あるいは株主総会の運営補佐・・・と、飛躍的に業務は増え、私の責任もずいぶん増しました。

髙橋専務は、私に新聞のクリッピング作業をさせました。その切り抜いた記事の内容が、経済・芸術・医療・福祉など多岐にわたるのを見て、私を企業広報担当者に育てようとお考えになったようでした。

髙橋専務とIさん、Tさんの愛情あふれるご指導のもと、私はスクスクと企業広報と社内広報にやりがいを感じ、これを一生の仕事と考えるほどになったのでした。病気のことも次第に忘れていくほど、私の心の傷は癒えていったのでした。

ところが、好事魔多し。2005年10月から暗雲が立ち込めます。(つづく)

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かなしい
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