●トインビー対談を提案・要請したのは誰か[3]
トインビー問題を調べている時、たまたま、トインビー・池田対談に関する海外の識者の評論を見つけた。カリフォルニア大学のWilliam Mcpherson氏の書評だ。ネット上で見つけた唯一のまともな書評だ。「まともな」というのは、創価学会と利害関係のない人物による、という意味だ。それはともかく、その中に、トインビー博士が対談提案者ではないことを示す箇所があったので、紹介しておく。(赤字処理は蛍)
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An intriguing question for this student of Soka Gakkai is why Prof.Toynbee would have agreed to the interviews and conversations with Ikeda. There are hints throughout the book・・・・(以下略) (*2)
[拙訳:この創価学会の研究者にとって興味深い疑問点は、なぜトインビー教授が池田氏との会見や対談を承諾したかということである。そのヒントは同書の中にある・・・]
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Mcpherson氏も、自明の前提として、トインビー博士は対談の承諾者である(提案者ではない)と認識していることがわかる。ただしその根拠は示されていない。
さて、そろそろ本稿タイトルの「トインビー対談を提案・要請したのは誰か」の結論を述べよう。
まず、米国ハミルトン大学のRichard Hughes Seager氏の創価学会研究書"Encountering to Dharma"(仏法との出会い)の中で紹介されたMcNeill氏の証言を見ていただく。
証言引用者であるSeager氏は創価学園を訪れたこともあり、学会シンパと言える人物だ。
According to McNeill, it was Wakaizummi who introduced Ikeda and Toynbee,the two men soon corresponding about time, place, and the consideration of fees, with the result that the histroian invited Ikeda to come to London in 1970 for a dialogue.(*3)
[訳:マクニールによれば、池田とトインビーを引き合わせたのは若泉だった。二人(池田と博士)はすぐに時間や場所、費用の問題について書簡を交わし、その結果、歴史家(トインビー)は1970年に池田を対談のためにロンドンに招くことになった。]( )内は蛍注。
McNeill氏は歴史学者であり、トインビー博士の友人である。若泉とは元京都産業大学教授の若泉敬氏のことだ。1967年以来トインビー博士と親交があり、後年、佐藤栄作首相の特使として沖縄返還交渉で活躍した人物である。最近では米軍の日本への核持ち込み密約に関わった人物として話題になった。
上記証言から、若泉氏が池田氏と博士を引き合わせ、その後二人が対談の段取りについて連絡を取り合っていた、ということまでは分かったが、対談を提案した人が誰なのかについては、まだ見えてこない。
最後に、上の証言を踏まえて、次の文章を読んでいただきたい。
「トインビー・若泉対談 『未来を生きる』」の序文の冒頭部分である。少し長いが、トインビー池田対談の源流を知るために重要な部分なので、ご勘弁を。緑字と赤字の部分は注目箇所である。
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序文 若泉敬
なぜ、若い世代が、既存の価値観に疑念を抱くのか。なぜ、その一部が現実から逃避し、なぜ、一部が過激な反体制運動に走るのか。単なる世代間の断絶というよりも現代文明に対するもっと本質的な問題提起を孕んでいるのではないだろうか。
1960年代の後半、全世界に吹荒れた大学紛争の嵐のなかで私自身が深刻に悩み、切実に模索していた。
1969年春、ロンドンを訪れた際、日ごろ尊敬するトインビー教授に私は、率直にこの苦悩を訴えてみた。教授との真剣な話合いのなかで、私は、極めて貴重な示唆を受けた。そこで、ぜひ、これらを広く世界の若い世代に紹介し、また、自信を失っている大人たちにも伝えたいと、考えるに至った。
人間精神の危機が叫ばれ、人間の存在そのものが問われようとしている今日、人類の直面する基本的な諸問題について、教授の思想をこの際、ぜひ、体系的に一冊の書物にまとめたいと考え、(トインビー)教授の快諾を得て、ただちにこの計画を進めることにした。もとより、私自身、このような対話の相手としてはかならずしも適任者だとは考えてなかったので、他にも人を求めてみたが、うまくいかなかった。
結局、教授からの「君自身と話合ってみようではないか」という言葉に励まされて、この対話を自ら試みる決意を固めた次第である。
(*4)
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この序文には池田氏の名は出てこないが、赤字の「他にも人を求めてみたが、うまくいかなかった。」の箇所は、以下の理由から池田氏のことであろうと推認できる。
(1)マクニール証言にある通り、博士と池田氏を結びつけたのは若泉氏である。
(2)池田氏は若泉氏と友人であった。池田氏は後年次のような話を地方紙に寄稿している。
(トインビー博士に触れたあと)。『じつは、博士と私には、福井県出身の共通の友人がいた。国際政治学者の若泉敬先生である。その世界観、国家観、人間観は誠に深く、物事の真相を明快に追究されながら、一つ一つ正確に洞察される大学者であった。』。 (「対話―変革への挑戦」展に寄せて「福井新聞」2008.06.01)
(3)若泉氏が博士に対談企画を提案したのは1969年春より後であり、トインビー博士池田氏に手紙を出したのは1969年9月である。
(4)若泉氏と博士の本格的な対談が行われたのは1970年6月であり、博士が池田氏に提案していた時期(同年5月)に近い。二つの対談企画が別々に同時進行していたとは考えられない。なぜなら、このような対談は、事前準備、対談実施、事後整理を含めて相当な日数を要する作業である。そうした長丁場の対談を高齢の博士が同時期にダブルブッキングするとは思えないからだ。
(4)若泉氏が対談提案時に博士に提示した対談テーマは「人類の直面する基本的な諸問題について」(上記緑字部分)である。博士から池田氏への書簡に記されていた対談テーマと同じである。
つまり、トインビー博士との対談を発案・企画したのは若泉氏であったが、氏は謙虚な人だったのだろう、博士と親交が深かったにも関わらず、光栄な大仕事を独占したりはしなかった。年上の友人池田氏に対談相手になることを要請し、栄光のチャンスを譲ったのだ。
池田氏はその話に乗り、マクニール証言にあるとおり、博士と書簡を交わし、場所、日時、費用など具体的に取り決めた。新人革で引かれたトインビー書簡はその時のものだ。書簡中「人類の直面する基本的な諸問題について」という対談テーマが、何の説明もなく提示されていたのも、二人にとっては既知の事だった(テーマを決めた若泉氏から両氏に知らされていた)からだ。また、「読むつもり」についてもこういう経緯であれば自然な表現だし、非礼でもない。
こうしてトインビー池田対談は実現に向かっていたが、折悪しく、その直後に創価学会による言論出版妨害事件が起きた。翌新年には、池田氏の証人喚問が取りざたされるようになり、それから逃れるためか、池田氏は病気を理由に箱根研修所に閉じこもってしまった。「発熱」のため永田町の国会にすら出頭できない池田氏である。訪英などすると何を言われるか分からない。こうして5月に予定されていた対談はキャンセルせざるを得なかった。
池田氏にドタキャンされた若泉氏と博士はたいそう困ったろうと推察される。序文中の「うまくいかなかった」という言葉には、若泉氏の困惑や無念や憤りが綯い交ぜになった気持ちが滲み出ている。
そして結局、トインビー博士の勧めで対談提案者の若泉氏が対談相手を務めることになり、池田&博士で予定していた5月より1ヶ月遅れで、対談が始まった。国際政治学者であった若泉氏は東大卒で英国留学経験があり、英語も超堪能。博士との意思疎通も、後年の池田氏の時と比べて、はるかにスムーズであったろう。選ばれるべくして選ばれた人材だった。数日間にわたる対談は毎日新聞に連載され、その後「未来を生きる」のタイトルで出版された。
その間、池田氏は、言論出版妨害の責任を追及され続け、総会で責任を認めて陳謝するとともに、創価学会と公明党の組織的分離や国立戒壇構想の放棄を宣言して、言論妨害問題は一応収束をみる。
そして、騒動のほとぼりの冷めた1972年、トインビー博士との対談がようやく実現することになる。
以上が、私が資料をもとにたどり着いた、トインビー・池田対談の「真相」である。要するに、トインビー・池田対談は、学会が喧伝しているような、トインビー博士が自発的に池田氏に対談要請したのではなく、若泉氏が発想、企画、コーディネートしたものだった、というのが私の結論である。
最後にここで取り上げた新・人革第16巻「対話」の章が読めるサイトのURLを示しておく、本稿を読まれた方が同章を再読されると、池田氏がいかに歴史の真実を捻じ曲げ、あるいは隠蔽し、嘘と欺瞞に満ちた池田神話を作り上げようているかがよく分かると思う。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/2009/Taiwa.html
なお、本稿の目的は、新・人革やその著者の欺瞞性、創価学会の我田引水的な歴史捏造体質を検証することにあり、トインビー博士と池田氏の対談の事実とその内容を否定したり批判しているわけではないことを、最後に申し添えておく。
[引用資料]
(*1)ふうふうサプリメント~「アーノルド・トインビー博士からの2通の書簡」
http://who-who.freehostia.com/webnavigation/it2/tletter.html
下記の(*3)で示したページ中にもある。
(*2)Review by William MCPHERSON (Research Associate University of California)
http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/publications/jjrs/pdf/57.pdf
(*3)"Encountering to Dharma"
http://books.google.co.jp/books?id=utaH3TyPf2EC&pg=PA117&dq=%22it+was+Wakaizumi+who+introduced+Ikeda+and+Toynbee%22&as_brr=3
(*4)「未来を生きる―トインビーとの対話」 (1971年) トインビー・若泉敬著
http://www.bk1.jp/product/00220393
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この手の長文投稿は初めてで、言葉足らずのところや、論旨の分かりにくいところも多々あると思います。諸賢のご叱正を賜りたいと存じます。蛍拝
蛍
(オリジナル投稿:「創価学会からの脱会を考える会」サークル 2009.6に投稿したものを加筆、調整した)