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こころの雑記帖 ~ わからないまま、生きてゆく
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吉田拓郎 「ライブ73」実現へ

来年73歳 コンサートやる自信、体力、精神力 持っている


「スポーツ報知」(10月12月刊) 記事からの引用 その
 後編です。 前編も過去記事にアップしています。



【ステージごと移動 ツアー形式先駆者】

ソニー在籍中に「結婚しようよ」「旅の宿」「人生を語らず」など

名曲を発表する一方、ビジネスにも一石を投じた。

それまでのコンサートの形態に違和感を覚え、

73年にステージごと移動する全国ツアー形式で

全国各地を初めて回ったのだ。


「僕はユイ音楽工房というところにいて、

(社長の)後藤由多加といろいろ話す中で

『しょせんテレビでは僕らは理解されない。

かといって、テレビの世界を変える力もないからどうしたらいいか』

と考えた時、自らが全国を回って歌うことしかなかった。

当時のフォークソングはお客が入らないせいもあるんですが、

数組や10組ぐらいの人たちが1ステージ10分か15分の持ち時間で

出演していてチケットは良くて800円。

安くて200~300円でした。

全国を回っているとだんだん一人でやりたくなったんですね。

例えば、僕の前に三上寛という人が歌ったりすると、

客席が何か違う雰囲気になっていて、

そんな中で 〽ああ、それが青春ーーとか歌えない。

そんなコンサートの在り方はどうなんだと疑問として芽生えて、

吉田拓郎だけのコンサートっていうのが

できるんじゃないのかなと思い始めた。

ところが地方に行くと地元の主催者が仕切っていて、

その会場に備え付けのPA(音響設備)とか照明を

使わせてもらってやっていた。

そうした時にLAにボブ・ディランを見に行ったら

自分の番度や照明でやっているのよ。

圧倒的にカッコ良くて、それを見て全国みんなが平等に見られる

環境を作るには東京で繰り返しリハをやって、

PAや照明をそのままセットにして全国を回るべきじゃないかと」


ーーー 興業スタイルも変えた。

「地方に興行主という方がいっぱいいたんですが、それもやめようって。

自分たちのコンサートは自分と同じ年代の若者たちを

主催者に存在すべきだというので、イベンターというのを作りたいと。

根本からコンサートの在り方とか営業の在り方を変えたいとかを

後藤と話していましたね。

あそこで一気にコンサートツアーっていうのが実現する方向が見えた。

いや~、最初全国ツアーっていうヤツは画期的でした。

何十人のスタッフ全員で全国を回るってのがなかったですからね。

それまでは現場に行ってやってみなきゃ分からなかったんですよ。

土地土地でPAや照明が違うし、

慣れないステージに突然出て15分ぐらいでしょ。

それに比べ、東京でリハを繰り返して自信はあったし、

居心地の良さとか全然違いました」


ーーー 1974年には日本レコード大賞を受賞した森進一の
    「襟裳岬」を作曲した。

「当時は演歌というものもよく分からなかった。

頭の中では演歌は花鳥風月が歌われていて、

それこそフォークやニューミュージックとは無縁という印象しかなかった。

森から依頼があった時、演歌という感じで曲作るのは

とてもできないのは基本にあって、断ろうかなと思っていたところ、

岡本おさみから詞が来たんですよ。

またよせばいいのに素晴らしい詞なのよ。

自分で歌いたいぐらいにね。

いいメロディーをつけたいなと気持ちにさせる詞でしたね。

そのころキャロル・キングをよく聴いていて

『つづれおり』というアルバムの中の曲を参考にアレンジをして

デモテープを作って先方に渡したんですよ。

それが何か月後に馬飼野俊一さんのアレンジが来て、

テープを最初にかけた時にイントロで

トランペットの 〽パー って、家でひっくり返りましたよ。

全然アレンジ変わっていてね。

でも、歌を聴き続けていたら

森進一がフランスのアダモみたいな声に聞こえてきて、

ちょっとこのボーカルだとこのアレンジじゃないと

歌えなかったんだろうと、後から気が付きました。

馬飼野さんにはお会いしたことはありませんが、

演歌とはこういうものなんだと勉強させられました。

いまは襟裳岬といえば 〽パー しかないと僕も思います」(続)

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