2011年01月17日

2011年01月17日

蒙古源流メモほか

以前のっけた話題もあるけれど、ちょこちょこ編集予定。

索引ついてるといいなー。
索引だけですごい厚さになりそうだけど。

■蒙古源流よりメモ■
●62ページ
【ドゥルブンオイラトについて】本文および訳注より。

ボルジギダイ・メルゲンの妻モンゴルジン・グワから生まれた者がトルガルジン・バヤン、トルガルジン・バヤンの妻ボラクチン・グワから生まれた者がドワ・ソホル(一つ目)、ドブン・メルゲン兄弟二人。

ドワ・ソホルの息子たちがオイラトの四氏族に。

息子の名→氏族名
ドノイ→オーロト:モンゴル帝国時代のナイマン部族の後裔で、清朝時代のチョロース部族のジューン・ガル支族とドルボト支族の祖先。今のアルタイ山脈に広がっていた。また、オーロトは次のバートトとホイトを含むこともある。
ドクシン→バートト:ホイトとともにモンゴル帝国時代のオイラト部族の後裔で、今のモンゴル国北部のダルハト盆地中心。
エムリク→ホイト
エルケ→ケレヌート:モンゴル帝国時代のケレイト部族の後裔で、今のハンガイ山脈に広がっており、清朝時代のトルグート部族の祖先となった。

以上にモンゴル帝国時代のバルグト部族を加えて四オイラトになる。バルグトは、清朝時代のブリャート部族の祖先で、バイカル湖方面に拠っていた。


※ホリ・トゥメトについては64ページ。


●121ページ
サルタクチンのアンバガイ・ハーン
なぜこんなにアンバガイハーンが気になるんだろう?
どっかに出てきたっけ。
語呂がいいからかな。

●セル一角獣121ページ
チベット語 bse ru
『元史』「耶律楚材列伝」
・・・形は鹿の如くにして馬尾、其の色は緑、人言を作し、・・・

●ボールチ122ページ
「ボールチを最高の臣下として尊ぶ」
わざと褒賞を与えず、ようすを見ると、妻があなたは活躍したのに、と憤慨してもボールチ本人は落ち着いている。「聖主の心に、まちがいなく一つの別の考えがあるぞ」と。その様子を奴隷に見てこさせて、ほうらみろ、ボールチはよくわかっている、と。

●2010年02月17日
アルガスン・ホールチのメモ



●グルベルジ・グワ歯のある膣132ページ
タングトのシドゥルグ・ハーンとの戦いは変身ありでゲセルみたい。
蛇、虎、黄色い小さい子どもに変身。

※チンギス・ハーンの死については、『モンゴル秘史3 チンギス・カン物語』(村上正二 訳注 平凡社東洋文庫294)の訳注がおもしろい。
以下、訳注から抜粋。
落馬説、落雷説、流れ矢説、年老いたところに西夏国の不健康な気候に冒されて不治の病に。熱病説、マラリア説、腸チフス説。
チンギス・カンに滅ぼされた怨念のこもる西夏の故地では、まったく異なる伝承。『蒙古源流』など、もっぱら西夏の故地であったオルドスの地で編纂された史書に見える。霊州にて捕えた西夏国王は密教的呪術者。
チンギス・カンも大鵬、獅子、天神ホルムズダに変身、国王を殺す。その夜愛妃「さそり姫」(グルベルジン・ハトン)と同衾、性器を切り落とされる。「さそり姫」は黄河(ハラムレン)に身を投じて死んだ。西夏の人はその川を「妃の河(ハトヌ・ゴル)」と名づけて彼女の死を悼んだという。
グルベルジン=「さそり」ないし「とかげ」はアルタイ山中から西夏の地にかけて住む、きわめて大型のもの。毒性をもつ雌性の呪術的動物。
 
この岡田英弘先生の『蒙古源流』本文では「主の黄金の身に害をしたので」、
訳注に「いわゆる「歯のある膣」であったことを示している」とある。
・・・「いわゆる」ってなんですかー、先生!と読みながら叫びたかった私。
そういう伝承があちこちにあるってことかしらん。

●182妻仇討ち(以前20100726の記事にも掲載)
だんだん込み入ってきた。サムル公主は例のトンデモハーンの娘で、間違って殺されたゴーハイの息子に嫁入りした後オイラトのオゲチ・ハシハに夫殺されめとられ、モンゴルの味方。
オルジェイト妃といい、殺されめとられ妊娠中だったりで、どう精神保っているのやら?命奪われないだけ幸せってこと?
●226も同様。シキルをイスマンから奪回
敵方のイスマン太師に奪われていた(本来味方であった)シキル太后を奪回したが、イスマン太師の死を彼女が悲しんで馬に乗ろうとしない。刀に手をかけて脅し、彼女が怖れて馬に乗ると、みんなで彼女を嘲笑した。
・・・生々しい。

●234ダランテリグンの戦いチャハルとハルハの戦い

●260戦闘のようす

●306シャンバラ:サンスクリット語のシャンバラの音訳。神話の国の名。インドの北方にあり、月賢など七人の法王と種姓が高貴な二十五人の王者が居るところである。シャンバは「安楽」の意味、ラは「持つ」の意味と説明される。

●338マンジュの称号
本文
順治帝は1638年生まれで、7歳で即位。
南の80万の中国人、西方の終わりのカムの26万人のチベット人、北の4万人のオイラト人、東方の3万人の白い高麗人、中央の四省の満洲人、6万人のモンゴル人などを自分の力に入れ、あらゆる国人や部族のハーンたち、ノヤンたち、大臣たちに、王、ベイレ、ベイセ、公らというなどの称号を与えて・・・・・・

訳注
清朝の皇族と外藩の王公の称号
満州語で、
【「王」wang】
和碩(ホショイ)親王hosoi cin wang 多羅(ドロイ)郡王doroi giyun wang
【「ベイレ」beile】
多羅(ドロイ)貝勒(ベイレ)doroi beile、
【「ベイセ」beise】もともとベイレの複数形。
固山(グサイ)貝子(ベイセ)gusai beise
【「公」】
「鎮国公」gurun be dalire gung(モンゴル語はulus-un tusiy-e gung)
「輔国公」gurun de aisilara gung(モンゴル語はulus-tur tusalaqu gung)

この6階級で、最初の六等を分ける。
※表示のウムラウト等省略(というかPCでどうやって書くのか知らない・・・)

宮脇先生の『モンゴルの歴史』219ページ
満洲人の八旗制度に準じて旗(ホシューン)を基本単位とし、旗ごとに牧地を指定。旗長(ジャサク)は世襲制、もとのモンゴル諸部族長たちが任命された。清朝は漠南のモンゴル諸部を49旗に再編、その上に6つの盟(チュールガン)をおいた。旗の下にはスムン(佐領)(150人の兵士を出す家族で構成)。
49旗の各旗長には上記6つなどの清朝皇族と同じ爵位。
その下に一等~四等までの台吉(タイジ)(チンギス・ハーンの子孫)、または塔布嚢(タブナン)(チンギス家の婿)の称号があり、旗長でないけれども、チンギス家につらなる王公を間散(かんさん、スラ)といった。

小澤先生の辞書によれば・・・
хошой чин ван:<古>最上位の皇太子
хошой:二回、第二の、二番目の
ван:王、王侯
бэйл:<古>貝勒(古いモンゴル官爵の一つ、上から三番目の官位)
бэйс:<古>貝子(古いモンゴル官爵の一つ、上から四番目の官位)
гүн:(清朝の官爵の位)公(公爵・伯爵の位に大体当たる)
түшээ гүн:(清時代の称号)第4位のгүн

他キリルのつづり、これでいいのかなー?
улсын түшээ гүн
улсад туслах гүн

●解題349ページ
『蒙古源流』著者はサガン。称号はエルケ・セチェン皇太子。
チンギス・ハーンの子孫の一人、ゴビ砂漠の南のオルドス部族に1604年に生まれる。1662年にモンゴル文で、この年代記を書いた。
きわめて困難な時代。

●解題350ページ
このころ遼河の東方で建州女直の指導者ヌルハチが強力に。
圧迫され脅威を感じた明の国境近くの海西女直諸国は、ホルチン部族と連合。
1593年ヌルハチを討ったが、かえってグレ山で大敗。
これ以来、ホルチン、ハルハの一部がヌルハチに通好。
1605年、ハルハの諸王はヌルハチにコンドレン・ハーンの称号を奉り、建州女直がモンゴル人世界の一角に独自の勢力として登場。
このころまで、モンゴル人に伍した大国は、海西女直のイェヘ国。
チャハルのリンダン・ハーンの皇后のひとりスタイ太后もイェヘの王女で、ハーンの長男エジェイを生んだ。
1619年、ヌルハチの後金軍がイェヘ国滅ぼす。
ハルハの猛将ジャイサイが後金と衝突、敗れて捕虜に。ハルハ人たちはこれに驚き、後金と同盟を結ぶ。
リンダン・ハーンのチャハルとヌルハチが絶交、1622年、チャハルの一部であるウルート部族が後金に投降。すでにハルハからも多数のモンゴル人が投降してきていたので、ヌルハチは彼らを旗(ホシューン)に編成、一族に加えた。これが八旗モンゴルの起源。


●解題351ページ
ヌルハチとホルチン部族は1624年チャハルに対する攻守同盟、リンダン・ハーンに敵対。
1626年ヌルハチがホルチン部族長にトゥシェート・ハーンの称号を与え姻戚となる。
ホルチンは後金(清)の最大の同盟国、清代通じて帝室の最高位の外戚となる。

●解題351ページつづき
ヌルハチは、1626年、瀋陽(後金の新首都)から熱河への道路上のハルハ部族攻撃。ヌルハチ死後ホンタイジは1627年にチャハルの本拠赤峰方面落とし、南隣のドヤンエイも後金に服従。
リンダン・ハーンはこれより一足さきに西方へ。1628年、ハラチン、トゥメトの両ハーン家を滅ぼしフヘホトを手に入れる。河套のオルドス部族服従させ、北モンゴルまでも勢力を伸ばす。

●解題357ページ
1388年、北元のトクズ・テムル・ウスハル・ハーンがブイル・ノールで明軍に奇襲される。脱出したハーンは、残りの手勢とカラコルムに向かったが、トーラ河にてアリク・ブガの子孫のイェスデル大王に襲撃され、弓の弦でくびり殺された。フビライ家は「ひとまず」断絶し、アリク・ブガ家のイェスデルが即位し、ジョリクト・ハーンとなった。アリク・ブガが兄フビライとの戦争に敗れてから124年ぶりにその子孫が仇を討ったことに。
イェスデル支持はアリク・ブガ以来、その家臣であったオイラト部族。オイラト部族は、チンギス・ハーンの時代以前から、イェニセイ河の上流域(モンゴル国の西北端のダルハト盆地)に住み、シベリアの森林地帯の狩猟民を支配した大部族。
1388年のこの事件からフビライ家を支持する遊牧民がモンゴル人、アリク・ブガ家を支持する遊牧民がオイラト人と呼ばれるようになった。
このオイラトは、それまでのオイラト部族に、ケンテイ山脈の西のケレイト部族、アルタイ山脈方面のナイマン部族、バイカル湖のまわりのバルグト部族が加わって結成した反フビライ家の部族連合。四つの部族の連合であるので「四オイラト」。これに対し、ケンテイ山脈の東方、ゴビ砂漠以南の遊牧民は「四十モンゴル」。このモンゴルとオイラトの抗争が以後400年続く。

●モンゴル(フビライ家)のハーンがオイラトの「太師」と協力してオゴデイ家のハーンに対抗したこともある。このタイスン・ハーンはしかしエセン太師と結局争い、姻戚のウリャーンハン部族に逃げ、殺された(1452年)。エセンは北元の皇族を皆殺しにし、オイラト人を母に持つものだけを助命。そしてエセンがハーンとなる(1453年)。チンギスの系統しかハーンにはなれないはずなのにね。で、1454年エセンが殺され、オイラト帝国崩壊。
いろいろと抗争があって空位時代とかもあった後、タイスン・ハーンの甥が殺された後生まれた息子(母はエセン・ハーンの娘)は、オイラトで生まれたが、ウリャーンハン部族に送られ、そこで育てられた。その息子バト・モンケがモンゴル中興の祖、ダヤン・ハーン。1464年生まれ。
タイスン・ハーンの異母弟マンドゥールン・ハーンの未亡人(という言い方でいいのか)のひとり、マンドゥフイ・セチェン・ハトン(42歳)は、チンギス・ハーンの弟のジョチ・ハサルの子孫の求婚を断り、チンギス・ハーンの子孫のバト・モンケ(16歳)と再婚。
父が1487年ヨンシェーブ部族に殺され、バト・モンケが即位。フビライ家の元朝の復興を期してダヤン・ハーンという称号採用。「大元」の音訳。
モンゴルの結束を固めるため、息子たちを大部族に入り婿に。その子孫はその部族の新しい領主の家柄となる。
左翼を率いて1510年ダラン・テリグンの戦いで右翼連合軍(オルドス部族、トゥメト部族)を破り、モンゴル統一確立。

※『モンゴルを知るための60章』200ページ
1470年、マンドハイ33歳、ダヤン7歳とも。
マンドハイは騎兵を率いて多大な軍功を挙げた女丈夫と伝えられ、モンゴルではいまだに二人気が高い。

urtynduu at 16:35|PermalinkComments(2)TrackBack(0)
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