全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第3弾は、日大三を率いる小倉全由監督(60)です。夏の甲子園を2度制し、強打の日大三を高校野球史に刻んだ名将の物語を全5回でお送りします。


小倉は腕を組みながら口元をグッと締め、カクテル光線に照らされたグラウンドに鋭い視線を向けた。三塁側ベンチ右隅から、首を少し左に向ければ、中堅の位置で肩を回しながら、登板に向け、準備を整えるエース桜井周斗(3年)の姿が見えた。だが、小倉はエースの投入を見送った。前日に本人に伝え、決定したことだった。

昨年4月27日、清宮幸太郎擁する早実との春季東京大会決勝は、壮絶な乱打戦が展開された。日大三は3点ビハインドの9回、桜井のソロを口火に一挙7点で逆転。逃げ切りを狙った4点リードの9回裏、6番手の金成麗生(3年)が先頭に四球を与えた後、マウンドに送ったのは再登板の八木達也(3年)だった。

小倉 僕も選手も夏に決勝で早実に勝つことを一番に考えていましたし、その上で清宮を意識していたんです。春に勝っても夏は夏の戦いですし、桜井の球筋を見せたくなかった。

3点差に迫られ、なおも無死一、三塁で清宮を迎えた。特大の高校通算84号を浴び、試合は17-17の同点。延長12回、4時間2分の大熱戦の末、サヨナラ負けを喫した。異例のナイター決勝で試合開始は午後6時4分。時計の針は同10時6分だった。

小倉 結果論ですが、夏に早実とやらせてあげられなかった。選手たちに申し訳なかったし、そこは反省です。今思えば、桜井を出しても良かったかなとも思いますが、あの時のことも頭にありましたから…。

87年春のセンバツだった。関東第一の監督だった小倉は初の準優勝を達成した。エース平子浩之を中心に春の関東大会でも決勝に進出。宇都宮南との決勝戦でそれは起きた。1点を追う9回、平子に犠打を指示し、右手中指に死球。その後も痛みから調子を崩し、夏の東東京大会は修徳にコールド負けした。

小倉 代打で良かったのに、平子がバントすれば続投できるなと。夏に勝つことを考えなきゃいけないのに、監督が優勝したいと色気が出ちゃったんです。

30年前、勝利への執着心から冷静さを失って、夏の予選で敗れた。「万全な状態で戦わせてやるにはどうすればいいか」。小倉は自問自答し「甲子園に行くために」桜井を隠した。

30年前も、今も、甲子園への思いは変わらない。「自分にとって、高校野球=甲子園。優勝しても、何をしても甲子園。憧れの甲子園なんです」と断言する。高校卒業前、関東第一の監督を離れた時の2度、野球界から去ることを決めた。だが、その度に「野球愛」「甲子園」が決断を撤回させた。

小倉 本当に幸せものだなと。1回落ちかけても、はい上がってこられた。野球が僕の人生を導いてくれるんですから。

小倉は日大三3年時、内野手の控えで副主将を務めた。2年秋に右肩を痛め、攻撃時は三塁コーチが役目だった。「大学に行ったら、好きなことをやる。車を買って、大学生活をエンジョイする」。そう、心に決めたはずだった。だが、日大への進学が決まった時、母校からコーチ就任を打診された。

小倉 迷わず、「はい」と。大学では遊ぼうと思ってたのにね。野球バカの血が流れてるんでしょうねぇ(笑い)。

決断した以上、全力で取り組んだ。午前中は大学で授業を受け、午後はグラウンドに立った。大学進学後も日大三の寮に住み込んだが、「高校生のままのような感じで嫌だった」と朝には寮を出発。空き時間には新宿の映画館に向かった。「仁義なき戦い」、ジェームズ・ボンドが活躍する「007」が大好きだった。

小倉 高倉健さん、菅原文太さんのファンでした。

映画鑑賞後、気持ちを高ぶらせ、日大三のグラウンドに戻った。そこには「闘将」小倉の野太い声が、響き渡るのだった。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

◆小倉全由(おぐら・まさよし)1957年(昭32)4月10日、千葉県生まれ。日大三では内野手の控えで副主将。日大進学後は小枝守監督のもと、4年間母校のコーチを務めた。81年から関東第一の監督に就任し、85年夏に初の甲子園出場で8強。87年のセンバツでは準Vに導いた。89年に退任したが、92年12月に再就任し、96年まで監督を務めた。97年からは日大三の監督に就任。01年夏、11年夏に全国制覇した。甲子園通算19回出場で、通算32勝。家族は妻、2女。173センチ、71キロ。担当教科は社会科。

(2018年1月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)