日大に通いながら、母校の日大三でコーチを務めた小倉全由は、ノックバットを手に「広島弁」で選手を叱咤(しった)した。俳優の高倉健、菅原文太の大ファンで、授業の空き時間や休日に新宿の映画館で「仁義なき戦い」を見るのが、楽しみの1つだった。

小倉 当時は広島弁を勉強してましたから。映画の後の練習では菅原文太さんになりきって。今思ったら、選手はたまったもんじゃないですよね(笑い)。

大学4年間は、小枝のもとで指導論を学んだ。日大三、拓大紅陵の監督を歴任し、昨年はU18日本代表監督も務めた名将だ。小倉は卒業後もコーチを続ける予定だったが、学校側の方針が変更。職探しする中、知人から「ミミズの養殖」の勧誘を受けた。「やる寸前までいった」が、周囲から反対され、千葉の実家で教員採用試験の勉強に励むことを決めた。

約8カ月間、実家で浪人生活を送った。そんな時、関東第一からコーチのオファーが届いた。小枝の門下生だからと白羽の矢が立ったのだが、後に小倉を知る野球関係者が同校に推薦したことを聞いた。当初はコーチだったが、前監督の体調不良で翌4月から監督に就任した。

24歳の青年監督は一緒に汗を流し、選手を鍛え上げるスタイルを築いた。「甲子園に連れていくから、ついてこい」と声を張り上げ、長距離走では「オレに負けるな」と追いかけた。男同士、全力でぶつかり合った。就任当初は練習試合をお願いしても、相手から「居留守」を使われた高校が3年目の83年夏、東東京大会決勝に進出した。

夢の甲子園を前に帝京が立ちはだかった。83年夏の決勝、84年秋もブロック予選で敗れ、センバツ出場を絶たれた。春の東京大会決勝でもエースを温存した相手に2-9で敗戦。「名前やユニホームを見るのも嫌だった」と「打倒・帝京」が、合言葉に変わった。

85年夏の東東京大会の決勝、ついにその壁を打ち破った。通算では4連敗で迎えた一戦は、シーソーゲームで進んだ。7回まで4-3でリード。迎えた8回裏、一挙8点で試合を決定付け、12-5で初優勝を成し遂げた。

28歳の小倉は人目をはばからず、涙を流した。翌日の新聞には「小倉、泣いた」の見出しが躍った。

小倉 初出場ですからね。自分は泣きっぱなしでした。スタンドの方も泣いていたし、みんなが泣いた優勝だった。

甲子園でも快進撃を続け、初出場で8強に進出した。身長162センチの小さなエース木島強志は高い身体能力で投手陣をけん引。3番の田辺昭広は中学時代は補欠だったが、努力でレギュラーを奪って、1回戦の花園(京都)戦では2打席連続本塁打を放った。

「練習はウソをつかない」

世界的に有名なピアニスト中村紘子の言葉で、小倉が最も大事にする言葉である。監督1年目の81年秋、神宮球場に向かう電車の車内で読んだスポーツ新聞の記事がきっかけだった。

小倉 あれだけの人でも1日弾かなかったら、指が動かないと。この言葉、いいなと思った。

小倉のチームは屈指の練習量を誇る。関東第一の監督時代、日大三で監督を務める今も、12月のラスト2週間の練習は午前5時半から午後6時まで「強化練習」を実施する。野球を愛し、愛された小倉の監督生活は順風満帆に見えたが、突如、どん底に突き落とされる。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

(2018年1月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)