現在は、民主主義が当然だ。だが100年前は、そうではなかった。1899年に大韓帝国が憲法のように公布した「国制」は、その時代の韓国の普遍的秩序を伝えてくれる。「大韓帝国の政治は万世不変の専制政治」(2条)、「大韓国大皇帝は無限の君権を享有」(3条)、「君権を害する臣民は、既に行ったかいまだ行っていないかを問わず、臣民の道理を失った者と見なす」(4条)。大韓帝国の王室は、日本の天皇に服属するまで、こうした無限の権力を自ら手離すことはなかった。民権を主張する者を「非臣民」と果てしなく決め付け、王権を拡大した。近代を拒否し、古代へ回帰した。
旧韓末の韓国を「家産国家」と見なす学者がいる。国家を君主の世襲財産と見なす国家のことを指す。領土と人民は王の私有、財政は王の私的な収入だ。歴史上、韓国の国力が最も弱かった時期に王権が最も肥大化したのは、時代に逆らって家産国家の特徴を強化したからだ。韓国の歴史において本物の「ヘル朝鮮」が存在したとするなら、この時代だっただろう。こうして拡大した権力は、どこへ向かったか。1910年の韓国併合時に公布された併合条約第1条は、この権力を「完全且(かつ)永久ニ」日本の天皇へ譲ると記している。
このような過去を韓国史において最終否定した事件が三・一運動だ。趙素昻(チョ・ソアン)、申采浩(シン・チェホ)、金奎植(キム・ギュシク)、朴殷植(パク・ウンシク)が1917年に発表した大同団結宣言は「皇帝権の消滅した時が民権の発生した時であって、旧韓国最後の日は新韓国最初の日」とうたった。この精神が三・一運動につながった。高宗毒殺のうわさに怒った民衆が主役だったから王政復古が運動の精神だと言うのは、腹をすかせた群衆が主役だったから飢えがフランス革命の精神だと言っているようなものだ。三・一運動の主役らは、大日本帝国だけでなく、自らの旧体制との断絶を宣言した。その宣言が、後の現実において大韓民国として実現した。旧韓国と新韓国、中世と近代の分岐点だった。こういう意味で、三・一運動は革命だ。