朝鮮日報

【コラム】高宗に問うべき三つの罪

 高宗は、日清戦争時は米国公使館、日露戦争時はフランス公使館へ避難しようとした。1884年の甲申政変の時は清の軍隊に救出され、1895年の明成皇后(閔妃〈びんひ〉)暗殺事件の後は「俄館播遷」でロシア公使館へと逃亡した。日露戦争直前には、中国の青島かロシアのウラジオストクに亡命するといううわさも流れた。何かあれば外国公使館への避難・亡命説が出回る国家指導者を、どこの国がきちんと認めてくれるだろうか。

 高宗は、国を生かせるチャンスを幾度も逃した。高宗の在位44年間は、韓中日3カ国が生存のため必死に近代化競争を繰り広げていた時代だった。だが、国家改革を急ぐよりも君主の威信を高めることに予算を注ぎこみ、甲申政変や東学革命(甲午農民戦争、1894)といった山場を迎えるたびに外国軍を引き入れた。日露戦争時は中立国宣言で危機をやり過ごそうとした。だが日本軍が進駐して紙切れと化した。自らを守る能力がない大韓帝国の中立国宣言は、世界の笑いものにしかならなかった。

 高宗が国力を結集して憲法と議会、近代的司法システムを整備し、国の存立を賭けて近代文明国へと転換していたなら、あれほど無力に植民地へと転落はしなかっただろう。だが高宗は、国家改造のため互いに手を携えるべき友好勢力の独立協会・万民共同会を弾圧した。下からの改革要求が君主権を侵害すると判断したからだ。皆が力を合わせても手に余る時期に、高宗は徹底して「味方と敵」を分ける陣営政治の先頭に立った。

 高宗が各国へ密使を送り、日本による主権侵害を暴露する秘密外交を展開したのは事実だ。だが、それだけだった。弱肉強食の時代に、無力な国を助けてくれる善意の隣人はいなかった。このところドラマや映画、展示などで見られる、高宗に「改革」「抗日」の色付けをして再評価する熱気は、事実を誤解させる危険性が高い。よその国の公使館に逃げていった道を、近代国家を夢見た「高宗の道」と美化しても、亡国へと導いた罪は軽くならない。日本による35年間の支配を呼んだ第1次の責任は、高宗に問うほかない。

金基哲(キム・ギチョル)論説委員

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