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一人じゃない
2019年02月06日 (水曜日)
誰もが誰かに支えられて生きています。
「語り合う相手がいない」こんな風に思うことがあるでしょう。
語り合った結果、後で後悔をする時もあるでしょう。
どのような思いになっても、全て自分の思い方。
だったら、時には支えられて生きてきた現実を思い出してください。
私にもあなたにも、オムツを替えてくれた人がいました。
こうして支えてくれた人がいたから、私達には今があるのです。
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無血開城の裏で
2019年02月06日 (水曜日)
徳川慶喜が軍艦に乗り、大阪城を後にして江戸城に戻った辺りを、ドラマで
見てみたいと思ったりしますが、このことを知っていたのか知らなかったのか、タイムマシンを使って当時の江戸で暮らす人々に聞いてみたくなります。
時がどのくらい経ってから江戸の人々が知ったのか、家財道具を荷車に積んで江戸を脱出する者が溢れかえる江戸が、今見えました。
江戸の人々の間に、長州藩が官軍として江戸に向かうという情報が広がったからです。
人々は「戦争近し」と思ったのです。
今の世田谷辺りの地に、脱出と申しますか、住まいを移した人々もいたように思います。
慶喜が寛永寺の一室で謹慎していた時の気持ちがわかるのです。
きっと死は怖かったことでしょう。
江戸城総攻撃の日は近付いた――。
3月15日に予定されていた江戸城総攻撃は、勝海舟・西郷隆盛によって延期になったと言います。
どうやら、私達が知る“勝・西郷の話し合い”で無血開城が即時決まったのではないらしい。
二人の会談後も戦争体制にはあったようなのです。
私が思うことは、表舞台で脚光を浴び続ける勝や西郷の陰には、無血開城に命を賭けた様々な人達の働きがあったと思っています。
和宮もその一人。朝廷の審議を決めた徳川家の嘆願書は効果があって、慶喜の助命が決まりました。
解散命令が下るも上野の寛永寺の彰義隊だけはそれを拒否した、ということは有名です。
歴史が動く時、主役扱いをされる人達だけではなく、明治新政府への対応を命懸けで考えた人達がいたのだと思います。
彰義隊が負けた理由のひとつが“アームストロング砲”だったとしたら、砲撃戦は実に恐ろしい。この戦は1日で終わった。
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月刊SYO2月号をアップしました!
2019年02月01日 (金曜日)
月刊SYO2月号の「世の中の動き」は、地震のこと、富士山こと等について書かさせて頂いております。 徒然コラムでは、松原照子の「恋愛論」そして、芸者さんからのラブレターにまつわる面白エピソードを語ります。 ◉月刊SYO掲載 […]
【2月5日締切】キャンセル待ち募集締切日時のお知らせ「松原照子と行く2泊3日の旅in神戸」
2019年01月29日 (火曜日)
キャンセル待ち募集は締め切りとなりました。 たくさんのご応募、誠にありがとうございました。 平素は「幸福への近道」ご愛顧いただきありがとうございます。 「松原照子と行く2泊3日の旅in神戸」のキャンセル待ちの募集について […]
【満員御礼!】キャンセル待ち募集開始「松原照子と行く2泊3日の旅in神戸」
2019年01月24日 (木曜日)
キャンセル待ち募集は締め切りとなりました。 たくさんのご応募、誠にありがとうございました。 平素は「幸福への近道」ご愛顧いただきありがとうございます。 「松原照子と行く2泊3日の旅in神戸」の募集についてで […]