渡辺幸庵〜武蔵の印象〜
宮本武蔵と関わった人物は割といるのですが、宮本武蔵がどのような人物だったか後世に残してくれた方は少ないです。
そんな数少ない方の中で、弟子でもなく敵でもなく第三者の目線で見てくれたのが渡辺幸庵様。
自分の息子を預けた水野勝成様や剣術大好き細川内記様などからも宮本武蔵の偉大さが伝わってきますが、言葉にして下さったのはありがたい。流石だぜ!化け物ジジイ!
それではザックリと渡辺幸庵様のプロフィールをご紹介
渡辺久三郎幸庵
諱は茂
1852年に生まれ1711年没(130歳)
摂津国に生まれ、徳川家に仕えた武将
主な功績は関ヶ原の戦いでは徳川秀忠公の大番頭*を務めたり城番に当たったりした。
しかし忠長が切腹する(1633年)と浪人になり幸庵といい名を使いだし、諸国へ巡礼の旅に出た。
中国、インド、ベトナム、タイetc……放浪し日本に帰ってきたのは1679年。
そして30年後には当時の加賀藩主の前田家に身を寄せて『渡辺幸庵対話』という本に自分の旅の話を杉本という方にまとめさせた。
130歳まで生きるなんて……と思っている方がいると思いますが、フィクションの可能性が……。
88歳で死去していたとか、浪人になっていないとか、そもそも幸庵と名乗ってないどころか久三郎という名前でもなかったとか……。
そもそも勝手に海外に出て怒られず加賀藩にいるとか……。あげたらキリがありません。
ちなみにこの人は自称柳生宗矩の弟子を名乗っています。つまり柳生新陰流を修めた剣客……!?
しかし20歳も年下に弟子入りするのは……爺さんよ信ぴょう性って言葉知ってるか?
しかし!しかしですね実は渡辺幸庵さんの曾孫の渡辺保という方のお嫁さんが隻眼で有名な柳生十兵衛の娘だと!
しかも代々渡辺幸庵の家系のお墓があるお寺にもしっかり残っている事実なのでこれは……
元徳川家臣といえども海外に勝手に飛び出した爺の曾孫など柳生新陰流を学んでいなければ……と、なんだかワクワクしますね!
……武蔵だけ?ワクワクするの
それでは本題です。渡辺幸庵対話で宮本武蔵はなんと書かれていたのか!!
「竹村武藏、上泉伊勢、中村與右衛門。此三人、同代劔術の名人也。與右衛門、武藏が弟子也。武者修行す。伊勢ハ泉州堺の住人也。武者修行の時於信州卒。武藏ハ細川三齋に客分にて居候。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜柳生但馬守宗矩弟子にて、免許印可も取なり。竹村武藏といふ者あり。自己に劔術を練磨して名人也。但馬にくらへ候ては、碁にて云ば井目も武藏強し。」
です!!
……すいません 現代語に直しますね
「竹村武蔵、上泉信綱、中村という3人は同世代の剣の達人である。更に中村は武蔵の弟子で、武者修行をしている。(上泉の話は省略)宮本武蔵は細川忠興の客分である。柳生但馬の弟子でも免許印可の私から見て、宮本武蔵は柳生但馬と比べると圧倒的に強い。囲碁で言うところのアレ、アレな感じ、ハンデみたいなあれ!あれな感じで強い名人だ。」
とね!まぁざっくりしているが6割はあっている訳です!(同世代というのは剣の力のことか時代の事かわからんな……)
ぶははははははははは
まぁ簡単に言うと「宮本武蔵は上泉とも渡り合える達人、柳生但馬よりも数倍強い」
くくく……柳生新陰流を修めた剣客に言われたらそうなんだろうな!武蔵は最強!!
あとは臭いやら風呂に入らないやらと散々な書かれようなのだが……それを書くのは今日は辞めておこう!!そのうち書くかもね!!!
黒歴史だから書かない確率大だけどね!!!!
そもそも何故宮本武蔵の事を竹村武蔵と書いているのか……新免でもなく宮本でもなく……
ジジイだから聞き間違えた?いやいや、そんな事はないと武蔵は思っておりまする!
その事についてもまた今度!!
今日はこれまで!!
百人一首での渡辺幸庵↓
*大番頭・・・早い話ボディーガードの頭
*東宮傅・・・教育係みたいな