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胸躍る仏罰

神道夢想流杖術をもう二十年以上続けています。
才能が貧弱なので術技の上達が思うようになりません。若さと才能…。どんな習い事にも必要なんですよね。

基本技の「引落打」、上達15年と言われています。それもそれ相当の「感の良さ」を持った人でその年数なんだろうと思います。
まだまだ先生に怒鳴られる生活が続きそうです。

さて、学会の退転者達が口を揃えて話しています。

「覚醒して今は幸せ 勿論、 罰なんかありませんよ❤

…当たり前。仏法の罰が数年程度で判り易く出てくる訳はありません。
もう少し気長に待ちましょう。
大聖人の仏法は、顕罰として即時公開処刑制度もあります。でも、普通は冥罰と言うダークサイドシステムが常識です。
つまり、知らず識らずの内に、ある日ふと気付いて初めて自覚出来る、そんな楽しい驚きを持っているものなのです。

「5年、7年、15年…。出会った時はもうの後の祭り」

人生の幸福絶頂期に起こる、素敵過ぎる破滅のアクシデント。
今から楽しみですよね❤

杖術の術技上達にしても、絵の上達にしても、長い目で見ないと実感できません。
それと同じで、仏法の罰も顕れてくるのには年数というのが必要なのです。数年やそこらで出てくるような、そんなケチな現象じゃありません。
想像も付かない様な陰惨な結果が必ず顕れます。 もう少し我慢して下さい。
嬉し過ぎる出来事は、後で起こる方がいいでしょ。
多分、15年後ぐらいには、
「!………」
天が崩れてきて言葉も失う、そんな驚天動地な最高の喜悦が必ず待っています。

でも、その時になって思い違いは決してしないこと、飽くまでもその罰の原因の全ては貴方自身のものです。
学会からの贈りものではありません。

追加文

或る方達と対話を、別のROOMにて行っております。若し興味がおありでしたら、お越し下さい。


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(2017年6月10日 7時25分)MonLinGen管理人

 




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胸躍る仏罰” への1件のコメント
  1. より:

    先程、同士怨嫉の記事にコメントさせて頂きました。
    仏罰ありますよ。絶対に。ただ、罰は何か外から当てられると言うよりも、自分の命の中から出るんですよね。
    私自身が身を持って体験しています。地獄って本当にあるのだと。
    私は退転しなくて本当に良かったと思ってます。
    願いは1人でも地獄に堕ちる人をなくしたい。不幸な人を作りたくない。そう思ってます。
    道を誤らずに、組織内で疑問や嫌なことあっても、真剣にお題目を唱え、指導を読み、どうしても組織にいることが辛い人は少々お休みしてでも離れないで本当の信心がわかるまで頑張って欲しいです。ネット上の謗法の網に引っ掛かったり、我見に陥って幸福への道から誰1人外れないで欲しいと思っています。

    • monlingen より:

      幸さんへ

      退転者は全て、幸さんの言われる「辛い時にこそ題目」と言う事を忘れてしまった人達なんだと思います。
      彼等は多分、学会当時は頑張っていたんだろうとも思います。先生の指導も活動も嬉々としてやっていたんでしょうね。でも、「その時」になったら全て忘れてしまって、結局、楽な退転の道に入り込んでしまったようです。
      大聖人の言われる「斯の時」にこそ、自分自身の「信心」が試される「斯の時」なんだと思います。

      ネットは情報源としては凄いものですけど、その情報の善し悪しを判断するのは自分自身です。その自分自身をどう「作って行くか」、これが創価学会の活動の意味のひとつでもあるのでしょうね…。

      • より:

        返信ありがとうございます。そうですね、題目があがっていないとやっぱり自分の生命のどこかに狂いが生じて来るのでしょうか。
        何しろこの娑婆世界は第六天の魔王の支配する世界なのですから、月々日々に強り給え少しも弛む心あればの御金言のように日々新たに決意してお題目をあげて行かないと、
        と思います。魔の力は凄まじく、紛然としてやって来ますから。しかもその人の一番弱い部分に。それは恐らく信心が進めば進む程、更に大きな魔となってやって来たりする
        。いかにも正しい形のように見える場合もあるのでしょうね。そう考えると大幹部であっても退転する人が沢山出て来るのも理解出来ます。
        だから先生は教学が大切だよと仰っているのでしょうね。
        それと正しい方向に導いてくれる組織の存在も。
        魔を魔と見破る事が大切ですね。本当に受くるは易し、持つは難しです。善知識の存在が本当に大切です。
        一人も漏れなく信心の軌道から外れることのないように、
        異体同心が何より大切ですね。仲良くする。互いに尊敬し合う、こんな簡単なことが一番難しいのだと思います。
        ところで、このブログに書かれているアンチの存在、
        それを無くすことは無理としても少しでもそこに陥る人を少なくする為にはどうしたら良いのでしょうか?
        最終的には本人の問題でありますが。
        御本仏は誰1人地獄に落としたくなんてないと思っています。でも愚かな人間は道を誤ってしまう。私自身の体験として人間はどんな人でもその危険性を孕んでいると思うのです。
        だから周りが少しでもそれを気付かせてあげる事が出来れば、と思うのですが。
        今の時代にネットは無視の出来ない存在です。かつての私のように信心浅い人間がそこに影響を受けてしまう可能性もかなり大きく、特に2世、3世組織に出て来ない若い世代に取っては看過出来ない問題のようです。
        自分自身の反省と体験からもそう思うのです。

        • monlingen より:

          幸さんへ

          ありがとうございます。
          アンチ学会に関してはかなり悩んだ経験があります。結局の処、彼等は戸田先生の話の通り、大聖人当時の三類の強敵達が生まれ変わって、今盛んに活動しているんだと、そう考えるしかないと思っています。
          しかし、彼等は同時に学会にとっても、我々にとっても反面教師的な存在でもあります。彼等を通して自分達が何を学んでいくか、それが一番大事なようにも感じるのです。そして、そう言う強い自分の信心を作って行く土台に、アンチ連の存在を自分の中で変えていくべきなんだと、そう感じています。

          • より:

            確かにそうですね。反面教師。
            ただアンチにも色々あって悪意を持ってやってる人はともかく、愚かにも本当に間違ってしまった人。謗法の網に引っ掛かってしまった人は、結局本人が悪いにしても可哀相で。
            あまりに酷く、くだらない書き込みは確かに頭に来たりもするけど、やっぱり地獄に墜ちてしまったら可哀相なのです。
            地獄、ハンパないですよ。御書に書かれている地獄の様相、読んだだけで卒倒してしまいますよ。
            普経菩薩が、自分を迫害して来る三類の強敵の仏性に向かって礼拝したように、中々そこまでは出来なくても、どうしたら早く間違いに気付かせることが出来るのか。と思ってしまうのです。必ず出ますからね、仏罰。わかってないんですよ、彼らは。
            何故、好き好んでそんな地獄の苦しみの方向に行ってしまうのか、
            本当に馬鹿です。

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