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【社説】

週のはじめに考える 根室から望む北方領土

 良く晴れた日には国後島の爺爺岳(ちゃちゃだけ)(一、八二二メートル)が根室市の中心部からも望めます。北方領土返還運動の陣頭に立つ根室。抱える悩みは深刻です。

 祖父が眠る故郷・色丹島の墓前に「島が返ってきたぞ!」と報告する-。これが得能(とくのう)宏さん(84)=北海道根室市在住=の悲願です。

 「墓参のたびに『今年もまた駄目だった。まだ島は戻らない』と謝るばかり。私ももう年だ。吉報を手土産に三途(さんず)の川を渡りたい」と得能さんは今の領土交渉に望みをつなげます。

◆島が返る日を夢見て

 第二次大戦で日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏した直後の一九四五年九月、ソ連軍は北方四島を占拠しました。ほかの島民と同じく得能家もソ連軍に自宅を接収され、一家は自宅横の小屋で暮らすことになりました。

 祖父はその小屋で翌四六年に亡くなりました。七十七歳。漁師としてあれほど頑強だった祖父が、家や財産を奪われてすっかり気落ちし、失意の中で亡くなった姿が、当時十二歳だった得能さんのまぶたの裏に焼きついています。

 得能さんは祖父のほかにもう二人、身内を亡くしました。おいに当たる姉の一歳の息子は、日本への引き揚げを目前に島で病死しました。

 得能さん一家が引き揚げ船で函館に着くや、姉は二歳の娘も亡くなったことを家族に明かしました。航海中に死亡したことが発覚すれば、否応なく水葬に付される。それが忍びなかったので姉は家族にも隠していたのです。

 ソ連支配下での島での厳しい暮らしに続き、引き揚げの中継地として四島の住民が移送されたサハリン(樺太)での収容所生活も過酷でした。寒さと飢えで多くの人が命を落としたそうです。

 辛酸をなめた得能さんにも楽しい思い出があります。占領下の島で同じ年ごろのロシア人少女と親しくなりました。二〇一四年に公開された日本のアニメ映画「ジョバンニの島」は、得能さんをモデルに二人の交流を描いています。

 得能さんは十年前から色丹島に暮らすロシア人一家と家族ぐるみのつき合いを続けています。草の根の交流が懸案解決の一助になることを祈って。

 歯舞、色丹両島の日本引き渡しをうたった五六年の日ソ共同宣言。日ロ首脳が昨年十一月、この共同宣言を基礎に平和条約締結交渉を加速させることで合意したのを受け、元島民で組織する千島歯舞諸島居住者連盟根室支部は理事会を開きました。

◆「最後の機会」にかける

 宮谷内(みやうち)亮一支部長(76)によると、二十人余が一人ずつ意見を述べ、その大半が合意を支持する意向を示しました。

 国後島出身の宮谷内さんも「原則論の四島返還を主張していては、いつまでたっても前進しない。現実的になって、動かせるところから動かしてほしい」と訴えます。「国後、択捉の元島民は涙をのむことになるが、歯舞、色丹の人は喜びの涙を流す。そんな人がいれば結構だと思うようにしている」

 当時一万七千人いた四島住民は六千人余に減り、平均年齢は八十三歳を超します。残された時間は少ない。「島が返って一番喜ぶのが元島民だ。その元島民が生きているうちに解決してほしい。今の交渉が最後のチャンスだ」と宮谷内さんは訴えます。

 根室市の主要産業は漁業ですが、七七年に始まった二百カイリ規制によって漁場が制限されたのを契機に低迷が続いています。

 地場産業の不振に伴い、人口も五万人近かった六六年をピークに減少の一途をたどり、現在は約二万六千人とほぼ半減しました。

 地元に大学はなく、進学を希望する高校生はよその土地の大学を目指します。就職口が少ないので、そのまま根室に戻ってこない若者が多い-。根室でこんな嘆きをよく耳にします。

 ふるさと納税制度によって根室市に寄せられた寄付金は一八年は約五十億円。これは市の年間の税収約三十億円よりはるかに多い額です。疲弊した地域経済を抱える根室にはこの寄付金が大きな支えです。

◆生活に直結した問題

 戦前、四島は根室の経済圏に組み込まれていました。島が返ってくれば漁場も広がります。地元は領土問題の進展に地域再生の期待をかけます。

 根室青年会議所の高橋友樹理事長(37)は「領土問題を歴史的経緯や外交政策の観点から論じる人はいるが、根室にとっては生活に直結した問題。地元の視点も忘れないでほしい」と言います。

 安倍晋三首相は根室の悲願も胸に刻んでプーチン大統領との交渉に臨んでほしいものです。

 

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