・藩主主導の産子殺し対策によって産子養育の重要性の理解が進み、寛政3年(1791)に高久組の各村が自主的に産子養育金として200両余を拠出(積立金を元に新生児が生まれた家庭に配分) ・翌年には藩士有志が自主的に年間5俵(約300㌔)の米を民間の産子養育に差し出し、これに倣う藩士が続々と表れる
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・家老や若年寄も知行100石当たり2斗を養育用に支出する事も決定。例えば西郷頼母家なら1700石なので年34斗分(約510㌔) ・藩主・容頌も自身の資産を運用して年間1150俵(約69㌧)の米を産子養育のために支出。また、藩士に苦労させるのを良しとせず、無理な献上品は断って負担かけないよう配慮した
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・寛政13年(1801)には民の生業の稼ぎが向上するように妊婦の夫の夫役免除制度を開始。 具体的には「第一子懐妊8ヶ月目から産後4ヶ月まで半年間の夫役免除」「第二子の時の産後は8ヶ月まで(つまり都合10ヶ月間)免除」「第三子以降の産後は12ヶ月まで(つまり都合14ヶ月間)免除」で負担を減らした
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・容頌は更に享和3年(1803)の麻疹流行の際「妊婦がかかると流産する」と聞いてすぐに藩医に麻疹予防の薬を調合させて無料配布を実施 ・容頌は亡くなるまで毎年300両の手元金を節約し、積立分1500両を少子化対策に使うよう遺言。これにより農村だけでなく町方の民の貧困層にも養育金が付与された
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・その後も藩では民間から篤志金を募り、農村で各組ごとの運用が始まる ・10歳以下の子どもが3人以上いる家庭には金銭・衣料代・手当米が配られ、母親が乳不足の場合は滋養をつけさせたり乳母を探して乳を貰うべく乳飲み子補助金を、同じく赤子を残して母親が亡くなった家庭にも乳飲み子料が与えられた
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・8代藩主容敬は産子事業の検証を行い、見直すべき部分は制度を一新して、手当の規則や役人の職責を法で規定。領内に妊婦の届出・出産死産の届出等を制度化して母子手帳のような産子養育制度が確立した ・文政6年(1823)に三つ子が生まれた時には藩から50俵(約3㌧)が与えられた
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・これらの制度に加え、9代藩主容保は夫を亡くした母子家庭で子育て熱心な賢母を賞賛して自ら金一封を授与する表彰を実施(※参勤交代なので2年に一度かも) 民を虐げたと言われる会津藩で幕末まで実施されてきた少子化対策はこんな感じ。天明の大飢饉前から天保飢饉中でも幕末の財政難でも(*´ー`)
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