参考書などには、問題を解くための「解き方のポイント」というようなことが書いてあるものが、よくある。そういう本は、問題を解こうとするときに、どこに着目してどう解けばよいのかが簡潔な表現で鮮やかに色づけされて書かれていたりなどして、いかにも分かりやすそうに見えたりもする。
けれども、そんな「解き方のポイント」などというものを大事だと考えたり、そのまま覚えようとしたりなどするのは、本当は非常に馬鹿げたことだ。なぜなら、問題の意味が分かれば自ずと解き方は決まってくるのだし、その解き方というのは一通りとは限らないからである。
おそらく「解き方のポイント」という発想は、「分かる」よりも「できる」を重視する考え方からきているのだろう。それは、「こういう問題が出たときには、ここに注目してこの方法を使えば解けますよ」というようなことが言いたいのだろう。そういうものは確かに、一見すると便利そうにも思える。しかし、そういうものを覚えていって、本当にそれでよいのだろうか。
問題のパターンを識別して、それに合う解答方法を記憶から探し出し、その通りに答える。そんなことは機械にだってできることだ。機械にもできることは、機械にやらせておけばよいのである。
問題をたくさん解いてパターンを頭の中に蓄積し、いつでも対応する解答の通りに答えられるよう訓練する。そんなことはしたくないと思って、だから勉強を嫌う人がもしいるとすれば、そう考えるのはもっともなことだろう。けれども、それはもちろん、そもそもがその人の見当違いである。勉強をするというのは、そういうことではないからだ。
例えば、人間と機械がある問題を出されたとして、両者ともそれが解けたとしよう。結果はどちらも同じであるが、その中身はまったく別のものだ。機械の方は、問題というある一つのパターンに対応し、反応しただけのことだ。けれども人間は、問題の意味するところを理解して、それに答えたのである。
機械は自分がしていることの意味を知らない。しかし、人間にはそれが分かる。もしある人が、自分の解こうとする問題の意味を理解できずに、ただ機械的に解くことしかできないとすれば、その正確さや速さは機械とは比べものにならないほど低いものであるだろうから、その人は「機械以下」のことしかできないということになってしまう。
しかし人間は、機械にでもできることを機械よりも劣った成果を残しながらやり続けるというような、そんなことをしてはいけないのである。なぜなら、人は自分がやっていることの意味を問わずにはいられないものであるからだ。
また例えば、ある資格試験を機械的な方法で合格したとしても、それではその後にある実際の仕事などには、ほとんど何の役にも立たないだろう。もちろん、それは当然の話である。なぜなら、その人は何も理解していないのだから。そんな実のないものでごまかせるのは、取った資格によって自分を確認しようとするような、そういういびつな自意識だけだろう。
大事なのは「意味」を理解することだ、それがあれば、「解き方のポイント」など必要ないのである。たとえどんなにきれいに整理されて書かれていたとしても、必要のないものはいらないし、無駄である。
もしも誰かが、「高いところのものを取るという問題に直面したときには、自分の手が届く高さと取ろうとしているものの高さの差に着目するのがポイントだ」と言ったなら、「そんなことは当たり前だ」と言われるだろう。
解決しなければならない問題の意味が分かっていれば、そこに使うだろう道具立ても、どこに着目してどう解決するかも、自ずと決まってくるものだ。それは、よほどのへそ曲がりでない限り、「それ以外に解きようがない」とすら思えるようなものなのである。
たとえその道筋がただ一つのものではなくても、それぞれの解き方が十分な説得性を持って、自分の前に立ち現れてくるものなのだ。なぜなら、どれも問題の意味に支えられているからである。
もし少し譲って考えたとしても、「解き方のポイント」などというのは、問題の十分に意味が掴めた後で、最後の最後に自分の理解とやり方とを確認するためにだけ使われるべきものだ、と言えるだろう。
そんな訳で、単なる問題の解き方を頭に蓄積し、それに反応するだけの機械になりたくない人は、「解き方のポイント」が効率的に示されているような、そんな下らない本で勉強してはいけないのである。