よく、「答えを見ながら問題をやってはいけない」と言う人がいる。では、勉強中の人は問題の解き方が分からなくても、分かるまで自分で考えて、けっして答えを見ないで解こうとすべきなのだろうか。一度でも同じような問題を解いたことがあるときには、もう絶対にやり方など見ないで、解き方が思い出せなくても、頭を抱えて唸り歯軋りしてでも頑張るべきなのだろうか。
恐らく、それは違うだろう。問題を一番はじめに学んだときに、どうやっていたのかを思い出してみればよい。学ぶべきことの説明を読んだ後に、それについての例題が出されて、最初はやはりその解き方を読んで理解しようとしたはずだ。また、解き方を一度だけ読めば、その後どんなに時間が経っても、次に同じような問題が出されたら必ず解けるという人は、ほとんどいないに違いない。
だから、新しい問題が出てきても、分からなければ答えを見てもよいのである。そうするのが当然だし、そうしないといつまでも解けないので、終いには、「似たような問題の解き方を見たことがあるのに解けない自分は馬鹿なのではないか」などと余計なことを考えはじめてしまうからだ。
問題を解くときには、もしも分からなくなってしまったら、教科書などを調べ、それでも分からないのならば、答えを見てもよいのである。けれども、忘れてはいけないのは、答えを見てそれが理解できたからといって、その問題が自分一人で解けるようになっているとは限らない、ということだ。
問題を解こうとして、分からないから答えを見る。そこまでは必ずしも間違ってはいないだろう。けれども、答えを見て解き方が分かったところで、その問題に関わるのをやめてしまうのは、明らかに間違いだ。答えを見たということは、自分で解いたのではないということだ。だから、その問題はもう一度解いてみなくてはいけない。自分一人で解けるかを、確かめてみなければならない。
つまり、何日か何週間かおいた後で、もう一度その問題を解いてみるのである。そのときに前回と同じく自力で解けないのなら、また教科書を調べ、それでも分からなければ答えを見て説明を理解していくしかない。そういう場合は、もちろん、後でもう一度解いてみなくてはいけない。
これは当たり前のことなのだけれども、必ずしも守られていないことなのだと私は思う。勉強をする気もあるし、実際、長い時間をかけてやっているのだけれども、全然問題が解けるようにならなくて、だから成績も上がらないという人がいることを、私は知っている。
そういう人は、「分かる」を無視して、ただ「できる」ようになろうとしている人か、「できる」ようにならなければいけないのに、「分かる」というところで終わってしまっている人なのではないだろうか。
つまり、教科書などを理解しないままに問題を解こうとしているか、もしくは、答えを見ながら問題の解き方を理解するところまでは行くけれども、自分で解けるようにまではなっていないかのどちらか、ということだ。「分かるを無視するな」ということは、もう何度も書いた。そして、いま書いているのは、「分かるで終わるな」ということだ。
自分が「できる」ようになっているかは、少しだけ自分に厳しくなれば、すぐに分かることだ。問題が一人で解けるか、ただそれを試すことができればよいだけのことなのだからだ。けれども、それをやりたがらない人も結構いる。なぜなら、もうすでに学んだはずなのに、結局「できる」ようにはなっていない自分を見るのは、嫌なことだからである。
そうは言っても、分かり、かつ、できるようにならなければいけないのは変わらない。だからやはり、つねに自分を自分で試すことが必要なのだ。勉強が私たちに要求しているのは、そういう少しずつの厳しさのようなものなのらしいと、私にはそう思えてならない。だから、問題を答えを見ながら解いて、ノートが真っ黒になったとしても、それで満足してはいけないのである。
大事なのは、「分かる」ことができているかと、それにもとに「できる」ようになっているかだ。一生懸命に勉強したからといって、それができていなければ、結局は無駄な努力に過ぎない。目的を達成していないのに、何かをやったような気持ちになってはならないのである。つまりは、自分の努力に酔ってしまってはいけない、ということだ。