「問題を解く」ということ


参考書や問題集を買えば、問題の解き方は載っているのだから、それは読めば分かるだろう。けれども、問題というものについてどう関わるべきかは、問題集のどこにも書かれていないに違いない。

問題は、ただとにかく解いていけばよいのだろうか。そして、ただ解ければそれでよいのだろうか。つまり、実際に問題を解く前に、「問題とどういう風に関わるべきか」という話があるはずだ、ということである。

そもそも「問題を解く」というのは、どういうことなのだろうか。中には、こう思っている人もいるのらしい。つまり、問題を解くというのはどうにかして答えを出してやることで、その過程はどうでもよいのだ、と。

けれども、もちろん、これは間違いだ。問題には、その前提となる理解すべき事柄がある。問題というのは、もともとそれを踏まえて作られたものだからだ。そして、理解すべきことが分かっているのならば、その問題は、解けて当然なのだ。

問題を解くときには、その前に、問題のもとになった事柄を理解していなくてはいけない。だから、問題をみたら、それが意味しているものが言えなくてはならない。そして、その意味に従って考えたなら、どう解答していけるのかが言えなくてはいけない。

問題を解くのには、うまく当てはまりそうな公式を探し出して、その中に問題の中に出てきた数字などを突っ込んでやればよいと思っている人がいる。何度でも言うが、そういうことではないのだ。私たちが解かなければいけないのは、パズルではないのだから。

問題にも意味があるし、公式にも意味がある。だから、問題の意味が分かれば、どの公式を使えばよいのかは、当たり前のように決まってしまうのだ。それは、高いところにあるものを取るのに、何か手頃な高さの台を持ってきて、その上に乗って取ろうとするということくらいに、当たり前のことなのである。

そうやってものを取ろうとするときなら、「そのままでは手が届かないのだし、台の上に上れば台の高さと自分が手を伸ばした高さが合わさって、手が届くようになるから、そうするのだ」ということは、誰でも説明できるだろう。

問題を解くというのも、それと同じくらいに当たり前のことだ。だから、問題を解こうとしたときには、すでにそれを解くその解き方というのが他にやりようがないほど、当たり前のものになっていなければいけないのである。

そういう状態には、たくさんの問題を解いて十分に訓練すればそうなれるというのではなく、もともと教科書などに載っている、理解すべき事柄がきちんと分かっていれば、自ずとそうなるのだ。それはつまり、高いところに手が届かないときに、踏み台というのがどういうものか分かっているのと同じようなことだ。

だから、まずやるべきことは、教科書などに書いてあることをきちんと理解することだ。そして、それが自分で説明できるようになることだ。最初に学ぶことをよい加減にしてしまって、まず問題を解いてみるなどというのは、マイナスの方向に努力すること以外のなにものでもない。

学ぶべきことをきちんと理解していくのには、時間がかかる。けれども、それをやらなければ、本当の意味で問題が解けるようにはならない。解き方を丸暗記しても、そんなものはすぐに忘れてしまうに決まっている。つまり、いきなり問題だけが解けるようになどなれないし、もしなれたとしても、なるべきではないのである。

それは当たり前の話だけれども、何度も言うように、「自分は試験をパスできればよいのだから、問題だけ解ければよいのだ」と考える人がいるから、私はこんなことを書いているのである。

そういうやり方をしてきた人は、なかなかそれが改まらない。けれども、問題の解き方を覚えるという方法などは、笑ってしまうほどに無駄な抵抗だ。そんなことは、愚かしいことだ。逃げ回ってごまかして、何とか切り抜けようとしているところが愚かなのだ。

順序だててやっていった方が格段に楽なのに、それが分からずに苦労しているところが笑ってしまうのである。そもそもやるべきこととまったく逆のことを一生懸命になってやっているのが、非常に虚しく、まったく悲しいのだ。

高いところのものを取りたいときに、人が踏み台を使っていたのを真似して、どんな高さのときにも同じ踏み台に乗り、届いたり届かなかったりする度に笑ったり泣いたりするなどというのは、サルのやることだ。こういう問題はこう解くのだと解き方だけを教わって、そのパターンに合う問題だけが解けて、少しでも違うと解けないというのでは、サルのやることと変わらない。

こう書くと、いきなり問題を解こうとすることが、いかに馬鹿げているかがわかるだろう。それでも、なかなか直らないのは、一部のものではあっても実際に問題が解けてしまうからなのだろう。

けれどもやはり、理解もしていないうちから問題を解こうとなど、決してしてはいけないのである。サルがやるようなことを、人間がやってはいけないのだ。なぜなら、それは無駄な努力であるのだし、何より、私たちは人なのだからだ。ただサル真似をしてみせるのではなく、自分のやっていることを理解することができる、人間なのだからだ。


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