人との比較


勉強しているときには、とかく人のことが気にかかるものだ。同じだけ時間勉強したのに人の方が理解が早ければ、自分は馬鹿なのではないかと思ってしまう。けれどもそんなときに、自分と同じように分からない人を見つけて安心しようとするのならば、自分を駄目な方に合わせようとすることなのだから、それは愚かしいことだ。

結局のところ大切なのは、自分が分かりたいことを分かるようになるということであって、そのために必要な時間が人と比べて長いか短いかなどということは、そもそもまったく問題ではない。

それは強がりだとも言えるけれども、そういう強がりもいくらかは欲しいものだと私は思う。他の人が一年で理解できることを、自分は一生をかけてやっと理解できるということさえ、あってもおかしくはないからだ。

だから逆に言うなら、「たとえ人がすぐに理解できることを、自分は長い時間をかけないと理解できないのだとしても、自分は自分が学びたいものを学ぶのだ」という思いがないのなら、勉強を続けるには少し心もとない感じがしてしまう。

例えば、他の人より抜きん出るということだけが目的で、けれども勉強が苦手だというのなら、わざわざ勉強をやる必要はないし、自分が得意なことをやればよいということになるだろう。大切なのは「学びたいのか、それとも、そうではないのか」であって、だから自分が学ぶことに決めたのかどうかである。そういう訳で、「意志の確認」ということを私は書いたのだ。

もし自分に、勉強をするのだというはっきりとした意志があるのなら、自分の能力についてそれほど悲観する必要はないのではないかと私は思う。おそらく、能力の差というのは、それを恐れる人が想像するほどには、大きくはないだろうからだ。

恐れに負けて努力することを怠る人や、努力するのが嫌なためにすぐに自ら恐れに負けてしまう人は、他人が能力を発揮するのを見ると、それが努力の結果ではなく、生まれながらにして具わっている「才能」だと考えたがるものである。

そういう合理化を自分に許してしまえることというのは、ものごとを理解するのに時間がかかってしまうことに比べて、問題にならないくらい救いがたく愚かしいことである。

対象にまったく関わることなしに、いきなり色々なことが理解できる人間などいない。もしいるのだとしても、そんなことは私にも、そして多分これを読んでいる人にも、まったく関わりのないことだ。なぜなら、私たちはそんな能力など持ってなどいないのだから。

そして結局、自分の能力をただそのものとして認めて、それを前提に進んでいかなければならないのは、いつでも変わらないことである。そのうえ、生まれながらの力を何の努力もなしに振るうことではなく、自分の能力を努力して伸ばしていくことが、それぞれの喜びになるだろうことも、変わらないに違いない。

おそらく、分からなくなって嫌になり、「もうやめた」と思ったところがその人の能力の限界なのだろうと、私には思える。分からなくなったところが限界なのではないだろう。そうではなくて、やめようと思ったところで、それ以上できなくなってしまうのだから、やはりそこが限界点なのだ。だから、比較されるべきなのは、なかなかやめようとしないという、そういう「しつこさ」を持っているかどうかなのではないだろうか。

もし人と比較するならば、大してやってもいないのに「自分には才能がないのではないか」などと言って、すぐに諦めようとする自分を許さないというような、そんな「しつこさ」、つまりは、意志の強さにおいて、比較すべきなのではないだろうか。


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