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この作品 「ルージュの三行半」 は「文スト小説1000users入り」「太中」等のタグがつけられた作品です。

―――それでも僕は、間違っても不安な気持ちになったりなんてしないけど。言わずと知...

りらてん

ルージュの三行半

りらてん

2017年6月9日 00:20
―――それでも僕は、間違っても不安な気持ちになったりなんてしないけど。

言わずと知れた、有名なあの曲をモチーフにしてみました。
Adieuって、恋人相手に使うと破局のニュアンスになったりもするらしいですね。
ところでこの賭け、どうなるんだろうと気になったのでアンケートにしてみました。
もしもご意見があれば、気軽に教えて欲しいです!

※漢字カタカナ表記については挫折しました。

付記:
[小説]女子ランキング:2017年6月9日27位、10日43位に入りました。
[小説]デイリーランキング:2017年6月9日16位、10日13位に入りました。
[小説]ウィークリーランキング:2017年6月7日~13日44位、6月8日~14日20位、6月9日~15日37位に入りました。
ありがとうございます。
ゴロゴロと灰色のキャリーバッグを転がしながら軽やかに口ずさむのは、愛するダーリンに浮気された女性が家出をする歌。
ふと、他人に迷惑を掛けることに関しては右に出る者がいないであろうと思われる元相棒の顔が頭に浮かぶ。どうやったらあの性悪人間を世に放つことが出来るのかと常々不思議に思っていた。産みの親の顔を見てみたい、そしてあわよくばこんな社会不適合者を生み出すなと文句を言ってやりたいと願ったことは数知れず。
されど中也は、幼い頃から自分の隣に居座っては嬉々として嫌がらせを仕掛けまくってきた男の家族を知らない。
さて、困ったことになった。これでは、ダーリンのママに言い付けることが出来ないではないか。仕方ない。ママから電話で叱って貰うことについては諦めよう。救われたな愛しのマイダーリン、精々悪運の強さに泣いて感謝しろ。
横濱から日本の首都へ赴いた中也は、されど幸運は自分に味方していることを確信した。キャリーバッグの取っ手を握っているのと反対の手には、当日にも関わらず空きがあった為に買うことが出来た、出発が間近に迫っている新幹線の指定席の切符。


「And she stops your feeling love until you stop "I love you” games, never coming home to you again」

―――浮気な恋を早く諦めない限り、家には帰らない。


さぁ、バスルームにルージュの伝言を残したならば、楽しい楽しいエスケープの始まりだ。



……………
…………
………


何て事はない。
先ず、あの男の狭い社員寮の一室で日本酒を発見しただけのことだ。
事の発端など、些細なきっかけに過ぎなかった。


自分の家の寝台の下に、瑠璃色に怪しく光る石を嵌め込んだループタイが落ちていた。忘れられていったのか、それとも故意に置き去りにされたのか。中也は汚い物でも触るかのように、親指と人差し指でつまみ上げて、プランプランと持ち主同様に草臥れてなよなよした紐を左右に揺らす。太宰の普段の格好のままループタイを外した姿を思い浮かべると、常の3割増しでだらしがなかった。探偵とは思えぬ風紀の乱れ具合である。
致し方あるまい、届けてやろうではないか。そんな上部の親切心で塗り固めた建前で、「失くしたみたいなのだけど、中也の所で見てないかい?」と不法侵入を正当化される口実を確実に潰してやるという目論見を覆い隠して、中也は仕事の合間に探偵社員が住んでいる社寮へと赴いた。
流石に昼下がりともなれば、遅刻常習犯でも家を出た後のようで、中に人の気配は感じられなかった。とは言え、布団と仲良しこよしをしていないというだけだ。真面目に出社しているというより、何処ぞの川で流されている可能性の方が高い。探偵社も苦労するな、と中也は一人同情を寄せた。
気を取り直して太宰治というネームプレートが提げられたドアと向き合った。ポストに忘れ物を突っ込めばそれで話は終了する。
しかし、それでは面白くなかった。どうせあの強かな男は態と忘れていったのだ。中也が骨を折って嫌いだと宣う相手の元へ返却しに来たのだという証拠を掴ませれば、それはそれで揶揄いのネタを提供する羽目になることは間違いない。
いくら何でも、ポストの中にループタイが入っているだなんて事は普通起こらないよ。優しい誰かさんが私の落とし物を投函しに来ない限りは。
そんな獲物を壁に追い詰める粘着質な声が耳奥で鳴り響いた。良いだろう、やるからには完全犯罪だ。中也は元相棒の挑発に乗ることに決めた。つまり、恰かもループタイは最初から男の部屋にあったかのような環境を用意してやり、中也の家に忘れてきたこと自体が彼の思い違いだったのだと誤認させてやると固く誓った。
異様に手先が器用なあの男程ではないにしろ、中也だってこんな安いアパートのお粗末な鍵くらい容易く解錠できる。ピッキングは、ポートマフィアにおいて必修事項だ。隠密行動には不可欠な技術で、会得出来なければ足手まといとして見捨てられる。中也も芥川も広津も、鍵開けの術は知っているのだ。ただ、異能で扉をぶち壊した方が手っ取り早いので、身を潜める必要性がなければ派手なノックでドアを叩く方法を選ぶだけである。
その上重力を操れる中也には、ピンやら針金やらは要らない。鍵穴の奥に刻まれている凹凸に軽く空気で圧力をかけて押してやれば、それで十分だった。数秒もしないうちに、カチャリと解錠した音が小さく鳴る。楽勝、と口端上げて玄関にスルリと体を滑り込ませた。
いつも黒の手套をしているため指紋を消す手間は要らないし、お届け物を目につきにくいが探せば見つかる場所へと置いていけば中也の小細工は終了する。何とも呆気ないことだ。なおざりにループタイを放り投げれば、中也のやるべき事は何もなくなった。
そうなると、途端に部屋の不潔さが気になり始めた。片付けられることのない万年床。脱ぎ散らかされた衣服や使用済みの包帯。無造作に積み上げられ、一部雪崩が発生している本のタワー。空の酒瓶や蟹缶が貝塚のように部屋の隅で山を形成していた。
相変わらずの汚部屋だった。
よくこんな場所に住めるものだ。生への執着心が薄いと、どんな環境で生きようが然して違いはないのだろうか。
常に身嗜みに気を遣い、清潔さを保ちたい中也としては、元相棒の生活環境に我慢ならず、せめてゴミはゴミ袋に入れて捨ててしまいたかった。
しかし、そんな事をすれば中也が立ち入ったという決定的な根拠になってしまう。片付けたい衝動をグッと堪え、ついでに人間の文化的な最低限の生活とは何ぞやという命題も抱えて、中也は現場を立ち去ろうとした。

その瞬間、視界にとある日本酒の瓶が飛び込んだりしなければ、踵を返したままだっただろう。

まだ封を切っていない、新品の日本酒。
こんな格安アパートの外観をした建物ならばすきま風が酷い筈で、遮光設備だってカーテン一枚では不充分だ。紙の劣化が進むのは早いに違いない。ラベルの日焼け具合から、少なくともこの部屋に置かれたのはつい最近だということが推察される。
それだけならば特に中也の関心を引き寄せるに至らなかったのだが、問題は件の日本酒が非常に高級品だということだった。ブランド物として有名で、ワイン好きの中也も時々飲みたくなるくらいの美酒だ。とてもじゃないが太宰の現職の給料では手が届かないだろうに。何より、自殺愛好家と高らかに宣言しては、川流れするのが趣味の男だ。財布は年がら年中河川に落とすし、仮に運良くポケットに入ったままだとしてもずぶ濡れ状態である。硬貨はともかく、札の方は最早使い物にならない程縒れてしまっているだろう。
元とはいえどもポートマフィア最年少幹部として横濱の闇を取り仕切っていた男の家計が、今や火の車であるなど不甲斐ないにも限度がある。極力見ないようにしていた貝塚にチラリと目線を移せば、やはり安物の酒の空き瓶ばかりだった。
一体、どのようにしてこの希少な日本酒を手に入れたのか。
きっかけなど、大したものではなかった。
中也自身、まさかこれが原因であと二時間もしないうちに自分が横濱の街を飛び出して東京へ向かうことになるなどとは、夢にも思っていなかった。

眉を潜めて金欠の人間の部屋には似合わない酒を眺めていると、次に目がついたのは、ゴミ箱の中身だった。
ゴミ箱の一番上にある、即ち太宰が最後に捨てたであろうものが、丸められたティッシュや食べ物の袋に囲まれるようにしてチョコンと座っていた。

「…………」

ゴミを漁る趣味は持ち合わせていないのだが、あまりにも異質だったので、中也はそれを拾い上げてみた。
果たして、その正体は、口紅だった。
蓋を外してみると、鮮血の如き真っ赤な色が顔を出した。趣味が悪く、頭も悪い女が如何にも使っていそうだ。クルクルと土台部分を回してスティックを伸ばしていくと、直ぐに底が現れた。残りが僅かということは、大分と長い間使い込まれた口紅ならしい。
ふぅん、と中也の頭の中で瞬く間にパズルが完成されていく。
成る程ねぇ。誰かに向けた訳でもない独り言を呟いた。成る程ねぇ、成る程。首をうんうんと縦に振る。高価な酒に、使い差しの女の口紅。成る程以外にどんな感想を持てというのか。
三つ目を発掘すべく、薄い煎餅布団に屈み込んだ。
恐らく、ここで正しい心境は「嘘よ、私の思い違いに決まっているわ!」であり、自分の杞憂なのだと安心したいがために何も見つからないことを確認するべく、目を皿のようにして証拠を探し出すのが相応しい場面なのだろう。しかし、生憎中也としてはあの女の敵が不貞を働いたのは既に決定事項だった。寧ろその言い逃れできない裏付けがある筈だという確信に満ちていた。
探し物は、労せずに見つかった。

脱色を重ねに重ねてパサパサに傷み、枝毛だらけの長い髪の毛が、一本。

当然太宰のものではないし、探偵社にも髪の手入れを怠るような品のない女はいなかった。随分と妥協したものだ、と中也は気色ばんだ。あの男ならばもっと上質な女性をお持ち帰りできるだろうに。
さて、何処のお嬢さんを引っ掛けてきたのやら。恐らくナンパした張本人も己のその日の夜の相手をした女の素性など興味が湧かず、把握していない筈だ。
何とも救われない。中也は、色落ちた糸をクルクルと回しながら、顔も名前も知らないが髪の色だけは知っている女性を憐れんだ。
淫らに自身を暴かせて。
男の好みに合う高価な酒を貢いで。
いるかどうかも定かではない男の本命に対抗心を燃やして、自分の形跡を置いていき。
なのに、太宰がこの女ともう一度連絡を取ることは二度とないのだ。こうして無情に捨てられた口紅が薄情な男の心情を如実に語っている。
可哀想に。中也の口許には、愚者への軽蔑が浮かんでいた。ここまで尽くしてもなお、精々使い捨ての紐の緩い財布程度にしか認識されていないのだ。何と不憫なことか。
別に、太宰がいつどこで誰を口説こうが、中也にとってはどうでも良いことであった。だから、これは浮気がどうのこうのと癇癪を起こすヒステリックな女の嫉妬ではない。太宰だって、この程度で中也の逆鱗に触れる筈がないと理解した上で好色に興じている。

けれど、積もり積もれば石も巌となるし、塵も山となるのだ。

おめでとうございます、100ポイント貯まりました、という抑揚のない機械の音声と共にクラッカーが己の頭の中で弾けた。そして目眩く忸怩たる思い出達が脳裏に自動再生される。
太宰が捌かねばならない筈の書類の責任者がいつの間にか中也になっていたり。任務だからと女装させられたり、学生になりすます羽目になったり。勝手にセーフハウスに入り込んでは我が物顔で飯を要求したり。その癖、渋々リクエストされた料理を用意した日に限って「今日、そっちに行けなくなったから」とあっさり女を抱きに行ったり。ワインを盗まれるのは定番の嫌がらせで、飽きた女の後始末を自分に押し付けるのも日常茶飯事。便利なタクシー代わりとして夜中に呼び出されたことだって数知れず。そう言えば、愛車を爆破されたこともあったんだったか。
そういったものが、貯まりに貯まって、積もりに積もって、とうとう本日100ポイントに到達したのである。
何だ、今まで手前が泣かせてきた女共に今の住所を教えると脅せばかなり本気で厭がったというのに結局この場所にも連れ込むんじゃねぇか。
ここはそれなりに大事にしている場所ではなかったのか。特別に思っている場所ではなかったのか。そう解釈したからこそ、中也も土足で踏み荒らす無粋な真似は控えていたのだが、そんな気遣いを実に馬鹿らしく感じた。その程度であるならば、酒に酔った勢いで社寮を強襲すれば良かった。
折角ポイントが貯まったのだ、ポイント交換で素敵な贈り物を渡してやろうではないか。
柵だとか体裁だとかそういったもの一切合切から一気に解き放たれた気分だ。今の中也の行動を規制し縛り付けられる堅苦しい論理は存在しない。ただ、やりたいようにやるだけだ。
すぐさま胸ポケットから携帯電話を取り出して、首領にコールをかける。この時間帯はエリス嬢とのお茶会をしているので中々繋がらないのだが、根気強く電話をかけ続けた。すると凡そ5分間の粘りにより、とうとう森が「どうしたのかな、中也君」と音を上げた。

「首領、確認したいことが」
「うん、何かな?」
「確か俺は長期遠征が割り振られていましたよね?」
「そうだよ。2週間後に欧州の方へ行って貰う手筈だけど、何か問題でもあった?」
「いえ、遠征自体には何も不都合はありません。ただ、今日から遠征までの間、有休を使わせて頂こうと思いまして」
「……うん?任務まで10日以上あるんだけど、ずっと?」
「はい。有休未消化のままでは姐さんにとやかく言われるので、使っておこうかと」
「…え~っと、一応休暇理由を訊いておいても良いかな?」
「あの木偶が何か騒いだ時は、“実家に帰らせて貰います”とだけ伝えて頂けたら十分です」
「…………程々にね?中也君」

それは保証しかねます、と返して電話を切る。
さて、これで自由に動ける身となった。ここからはスピード勝負だ。出来る限り早く身辺整理をして、横濱の街から出て行かねば。グズグズしていれば、太宰に捕まってしまう。中也は段々愉快な心地になってきていた。鬼ごっこに本気を出すなど、いつぶりだろうか。
部屋のそこかしこに捨て置かれているビニール袋を拝借して、目についた未開封の蟹缶を片っ端から放り投げていく。
冷蔵庫の中身も確認したが、水が入ったペットボトルが常備されているくらいだった。台所が綺麗なのは、掃除されているからではなく抑使用していないから。調味料置き場には塩も砂糖もろくにないというのに、味の素だけは四本並んでいる。

「…………」

日本酒と蟹缶は慰謝料として持っていくにしても、流石に味の素は要らない。荷物になるだけだ。けれど、太宰の好物と知りながら何もしないで放置しておくのも癪だった。
暫し、熟考した中也は小瓶を異能で浮かした。更に冷蔵庫からペットボトル、居間から口紅とループタイを持ち出して、風呂場へと直行。
浴槽に栓をして、ペットボトルの水を全て注ぎ込む。足りない水量は沸き上げ機能で補うことにした。仕上げは、四本分の味の素。勢いよくお湯にぶちこんでやった。
薔薇が好きな奴は薔薇風呂、金が好きな奴は金風呂をするのと同じ原理だ。味の素が好きな男のために味の素風呂を用意してあげるだなんて、俺は何と優しい人間なんだろうか。感激のあまり、涙がちょちょ切れそうである。
風呂は十数分もすれば沸き上げが終わる筈だ。中也が丹精込めて支度をした味の素風呂の面倒は機械に任せておくことにした。自動保温の設定にしたため、これでいつ家主が帰宅しようとも即座に温かい味の素風呂に入ることができるだろう。是非満喫していってくれ。
次に、中也は口紅の蓋を取った。何度見ても好きにはなれなさそうな毒々しい色彩に眉を潜めつつ、浴室にある大きな鏡に流れる字体で「Adieu」と別れの挨拶を綴った。それから自身の唇へと丹念に塗り込んで、鏡にチュッと紅を押し付ける。これぞ典型的なキスマークという理想的な出来映えに、思わずふふんと得意気になった。乱暴にティッシュで口紅を落としながら、ループタイと浮気相手が残していった口紅をこれ見よがしに洗面器へと放り込む。風呂場については、このくらいで勘弁しておいてやろう。
酒、蟹缶、味の素の次は、太宰のアイデンティティとも呼べる包帯への細工だ。
中也は納戸の扉を開け放つ。男が買い置きしている新品の包帯の箱を全て開封し、重力操作で一糎角の細切れに引き裂いてから、何食わぬ顔で再び箱に戻した。今日この瞬間ほど、自分が重力遣いであることに感謝した日があっただろうか。お陰で、鋏やカッターで地道に切り裂いていれば一時間はかかりそうな作業がものの数分で片付いた。
こんなもんか、と大量に詰め込まれ蟹缶と貢ぎ物の酒瓶が入った袋を携えて颯爽と部屋を出る。


ここまで快調だったのだが、玄関の扉を閉める段に至って中也は舌打ちを一つ溢した。
家を出ていくという固い意思を表明するならば、ここでポストに合鍵を入れたいところだ。ところが、中也は太宰の社員寮の鍵など持っていなかった。誤解のないように説明しておくと、手渡されていないことに関してとやかく言う気はない。寧ろそんな物を預けられても困るだけで、直ぐに「要らねぇよ」と拒否する自分の姿がいとも容易く思い描くことができた。
合鍵を預けるなどという、むず痒くて甘酸っぱい儀式をよりにもよってあの木偶と行うだなんて想像しただけでも鳥肌が立つ。自分達の間には、そんなはっきりと形を持つ証拠は要らないし、邪魔なだけだ。どうせ太宰に至っては意気揚々と入水を試みては財布と共に鍵も流して紛失するのが関の山なのだから、渡したところで意味をなさない。
相手の家に乗り込みたければ、針金一本あれば十分。それでピッキングをすれば良い話。そんな強盗まがいの侵入の方が余程自分達らしいと言えよう。それ故、中也は今の今まで太宰の部屋の合鍵を欲しいという血迷った願望を抱いたことは一度だってないし、中也自身が自分のセーフハウスの鍵をあの男に渡す未来図もなかった。
だが、今この瞬間だけは事情が違う。
喉から手が出るほどこの部屋の鍵が欲しかった。何のためにって、そりゃポストに投函して突き返すために。
ポートマフィア幹部の権力を総動員させたところで、今からスペアキーを作っていては到底間に合わない。断念するしかないのか。でも何かポストに目印になるものをぶち込んでおきたい。諦めるにはまだ早いだろうが、俺!と自分を鼓舞して必死に頭を働かせる。
うんうんと玄関のドアの前でパンパンに膨れたビニール袋を持って唸る中也は端から見れば不審者そのものだったが、幸いにも社員寮の近くを人が通りすぎることはなかった。
数分の間熟考していると、一陣の風が中也の背後を駆け抜けた。途端に舞い上がる煉瓦色の髪が視界の隅に映り、中也は天からの啓示を聞いた。
これだ、と閃いてからの行動は素早かった。
懐から隠しナイフを取りだし、バッサリと伸びている左側の煉瓦色を切り落とす。
ふむ、手入れを怠っていないだけはあって枝毛は見当たらない。口端をゆるりと上げて、中也は癖のある髪の残骸をポストに押し込んだ。
失恋したとき髪型を変えるのはよくある話だ。厳密に言うと失恋した訳ではないのだが、今の中也のスタンスは浮気をされたことに耐えきれず涙をはらはらと流しながら一人静かに家を出ていく悲劇のヒロイン役である。決して、味の素風呂を作ったり包帯を全滅させたり酒を強奪したりするような暴挙に出ている時点で「静かに」ではないと突っ込んではいけない。寮ごと爆破していないだけでも、俺は十分良心的だというのが中也の主張だった。

―――これで、思い付いた仕返しは全てやりきった。

中也は軽やかなメロディの鼻歌を奏でながら、浮き立つ足でその場を離れた。別に、鍵を閉めずともこの汚部屋には泥棒が持ち去りたくなるような高価な代物は置いていない。唯一室内にあった価値の高い日本酒は中也が保護しているので問題ないだろう。中也にとって、太宰の家の戸締まりなんて考えるにも及ばない些末事なのだ。
戦利品の美酒を何処で味わおうかとこれからの旅路に思いを馳せるその顔は、非常に晴れ晴れとしていた。


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