―――それでも僕は、間違っても不安な気持ちになったりなんてしないけど。
言わずと知れた、有名なあの曲をモチーフにしてみました。
Adieuって、恋人相手に使うと破局のニュアンスになったりもするらしいですね。
ところでこの賭け、どうなるんだろうと気になったのでアンケートにしてみました。
もしもご意見があれば、気軽に教えて欲しいです!
※漢字カタカナ表記については挫折しました。
付記:
[小説]女子ランキング:2017年6月9日27位、10日43位に入りました。
[小説]デイリーランキング:2017年6月9日16位、10日13位に入りました。
[小説]ウィークリーランキング:2017年6月7日~13日44位、6月8日~14日20位、6月9日~15日37位に入りました。
ありがとうございます。
ゴロゴロと灰色のキャリーバッグを転がしながら軽やかに口ずさむのは、愛するダーリンに浮気された女性が家出をする歌。
ふと、他人に迷惑を掛けることに関しては右に出る者がいないであろうと思われる元相棒の顔が頭に浮かぶ。どうやったらあの性悪人間を世に放つことが出来るのかと常々不思議に思っていた。産みの親の顔を見てみたい、そしてあわよくばこんな社会不適合者を生み出すなと文句を言ってやりたいと願ったことは数知れず。
されど中也は、幼い頃から自分の隣に居座っては嬉々として嫌がらせを仕掛けまくってきた男の家族を知らない。
さて、困ったことになった。これでは、ダーリンのママに言い付けることが出来ないではないか。仕方ない。ママから電話で叱って貰うことについては諦めよう。救われたな愛しのマイダーリン、精々悪運の強さに泣いて感謝しろ。
横濱から日本の首都へ赴いた中也は、されど幸運は自分に味方していることを確信した。キャリーバッグの取っ手を握っているのと反対の手には、当日にも関わらず空きがあった為に買うことが出来た、出発が間近に迫っている新幹線の指定席の切符。
「And she stops your feeling love until you stop "I love you” games, never coming home to you again」
―――浮気な恋を早く諦めない限り、家には帰らない。
さぁ、バスルームにルージュの伝言を残したならば、楽しい楽しいエスケープの始まりだ。
……………
…………
………
何て事はない。
先ず、あの男の狭い社員寮の一室で日本酒を発見しただけのことだ。
事の発端など、些細なきっかけに過ぎなかった。
自分の家の寝台の下に、瑠璃色に怪しく光る石を嵌め込んだループタイが落ちていた。忘れられていったのか、それとも故意に置き去りにされたのか。中也は汚い物でも触るかのように、親指と人差し指でつまみ上げて、プランプランと持ち主同様に草臥れてなよなよした紐を左右に揺らす。太宰の普段の格好のままループタイを外した姿を思い浮かべると、常の3割増しでだらしがなかった。探偵とは思えぬ風紀の乱れ具合である。
致し方あるまい、届けてやろうではないか。そんな上部の親切心で塗り固めた建前で、「失くしたみたいなのだけど、中也の所で見てないかい?」と不法侵入を正当化される口実を確実に潰してやるという目論見を覆い隠して、中也は仕事の合間に探偵社員が住んでいる社寮へと赴いた。
流石に昼下がりともなれば、遅刻常習犯でも家を出た後のようで、中に人の気配は感じられなかった。とは言え、布団と仲良しこよしをしていないというだけだ。真面目に出社しているというより、何処ぞの川で流されている可能性の方が高い。探偵社も苦労するな、と中也は一人同情を寄せた。
気を取り直して太宰治というネームプレートが提げられたドアと向き合った。ポストに忘れ物を突っ込めばそれで話は終了する。
しかし、それでは面白くなかった。どうせあの強かな男は態と忘れていったのだ。中也が骨を折って嫌いだと宣う相手の元へ返却しに来たのだという証拠を掴ませれば、それはそれで揶揄いのネタを提供する羽目になることは間違いない。
いくら何でも、ポストの中にループタイが入っているだなんて事は普通起こらないよ。優しい誰かさんが私の落とし物を投函しに来ない限りは。
そんな獲物を壁に追い詰める粘着質な声が耳奥で鳴り響いた。良いだろう、やるからには完全犯罪だ。中也は元相棒の挑発に乗ることに決めた。つまり、恰かもループタイは最初から男の部屋にあったかのような環境を用意してやり、中也の家に忘れてきたこと自体が彼の思い違いだったのだと誤認させてやると固く誓った。
異様に手先が器用なあの男程ではないにしろ、中也だってこんな安いアパートのお粗末な鍵くらい容易く解錠できる。ピッキングは、ポートマフィアにおいて必修事項だ。隠密行動には不可欠な技術で、会得出来なければ足手まといとして見捨てられる。中也も芥川も広津も、鍵開けの術は知っているのだ。ただ、異能で扉をぶち壊した方が手っ取り早いので、身を潜める必要性がなければ派手なノックでドアを叩く方法を選ぶだけである。
その上重力を操れる中也には、ピンやら針金やらは要らない。鍵穴の奥に刻まれている凹凸に軽く空気で圧力をかけて押してやれば、それで十分だった。数秒もしないうちに、カチャリと解錠した音が小さく鳴る。楽勝、と口端上げて玄関にスルリと体を滑り込ませた。
いつも黒の手套をしているため指紋を消す手間は要らないし、お届け物を目につきにくいが探せば見つかる場所へと置いていけば中也の小細工は終了する。何とも呆気ないことだ。なおざりにループタイを放り投げれば、中也のやるべき事は何もなくなった。
そうなると、途端に部屋の不潔さが気になり始めた。片付けられることのない万年床。脱ぎ散らかされた衣服や使用済みの包帯。無造作に積み上げられ、一部雪崩が発生している本のタワー。空の酒瓶や蟹缶が貝塚のように部屋の隅で山を形成していた。
相変わらずの汚部屋だった。
よくこんな場所に住めるものだ。生への執着心が薄いと、どんな環境で生きようが然して違いはないのだろうか。
常に身嗜みに気を遣い、清潔さを保ちたい中也としては、元相棒の生活環境に我慢ならず、せめてゴミはゴミ袋に入れて捨ててしまいたかった。
しかし、そんな事をすれば中也が立ち入ったという決定的な根拠になってしまう。片付けたい衝動をグッと堪え、ついでに人間の文化的な最低限の生活とは何ぞやという命題も抱えて、中也は現場を立ち去ろうとした。
その瞬間、視界にとある日本酒の瓶が飛び込んだりしなければ、踵を返したままだっただろう。
まだ封を切っていない、新品の日本酒。
こんな格安アパートの外観をした建物ならばすきま風が酷い筈で、遮光設備だってカーテン一枚では不充分だ。紙の劣化が進むのは早いに違いない。ラベルの日焼け具合から、少なくともこの部屋に置かれたのはつい最近だということが推察される。
それだけならば特に中也の関心を引き寄せるに至らなかったのだが、問題は件の日本酒が非常に高級品だということだった。ブランド物として有名で、ワイン好きの中也も時々飲みたくなるくらいの美酒だ。とてもじゃないが太宰の現職の給料では手が届かないだろうに。何より、自殺愛好家と高らかに宣言しては、川流れするのが趣味の男だ。財布は年がら年中河川に落とすし、仮に運良くポケットに入ったままだとしてもずぶ濡れ状態である。硬貨はともかく、札の方は最早使い物にならない程縒れてしまっているだろう。
元とはいえどもポートマフィア最年少幹部として横濱の闇を取り仕切っていた男の家計が、今や火の車であるなど不甲斐ないにも限度がある。極力見ないようにしていた貝塚にチラリと目線を移せば、やはり安物の酒の空き瓶ばかりだった。
一体、どのようにしてこの希少な日本酒を手に入れたのか。
きっかけなど、大したものではなかった。
中也自身、まさかこれが原因であと二時間もしないうちに自分が横濱の街を飛び出して東京へ向かうことになるなどとは、夢にも思っていなかった。
眉を潜めて金欠の人間の部屋には似合わない酒を眺めていると、次に目がついたのは、ゴミ箱の中身だった。
ゴミ箱の一番上にある、即ち太宰が最後に捨てたであろうものが、丸められたティッシュや食べ物の袋に囲まれるようにしてチョコンと座っていた。
「…………」
ゴミを漁る趣味は持ち合わせていないのだが、あまりにも異質だったので、中也はそれを拾い上げてみた。
果たして、その正体は、口紅だった。
蓋を外してみると、鮮血の如き真っ赤な色が顔を出した。趣味が悪く、頭も悪い女が如何にも使っていそうだ。クルクルと土台部分を回してスティックを伸ばしていくと、直ぐに底が現れた。残りが僅かということは、大分と長い間使い込まれた口紅ならしい。
ふぅん、と中也の頭の中で瞬く間にパズルが完成されていく。
成る程ねぇ。誰かに向けた訳でもない独り言を呟いた。成る程ねぇ、成る程。首をうんうんと縦に振る。高価な酒に、使い差しの女の口紅。成る程以外にどんな感想を持てというのか。
三つ目を発掘すべく、薄い煎餅布団に屈み込んだ。
恐らく、ここで正しい心境は「嘘よ、私の思い違いに決まっているわ!」であり、自分の杞憂なのだと安心したいがために何も見つからないことを確認するべく、目を皿のようにして証拠を探し出すのが相応しい場面なのだろう。しかし、生憎中也としてはあの女の敵が不貞を働いたのは既に決定事項だった。寧ろその言い逃れできない裏付けがある筈だという確信に満ちていた。
探し物は、労せずに見つかった。
脱色を重ねに重ねてパサパサに傷み、枝毛だらけの長い髪の毛が、一本。
当然太宰のものではないし、探偵社にも髪の手入れを怠るような品のない女はいなかった。随分と妥協したものだ、と中也は気色ばんだ。あの男ならばもっと上質な女性をお持ち帰りできるだろうに。
さて、何処のお嬢さんを引っ掛けてきたのやら。恐らくナンパした張本人も己のその日の夜の相手をした女の素性など興味が湧かず、把握していない筈だ。
何とも救われない。中也は、色落ちた糸をクルクルと回しながら、顔も名前も知らないが髪の色だけは知っている女性を憐れんだ。
淫らに自身を暴かせて。
男の好みに合う高価な酒を貢いで。
いるかどうかも定かではない男の本命に対抗心を燃やして、自分の形跡を置いていき。
なのに、太宰がこの女ともう一度連絡を取ることは二度とないのだ。こうして無情に捨てられた口紅が薄情な男の心情を如実に語っている。
可哀想に。中也の口許には、愚者への軽蔑が浮かんでいた。ここまで尽くしてもなお、精々使い捨ての紐の緩い財布程度にしか認識されていないのだ。何と不憫なことか。
別に、太宰がいつどこで誰を口説こうが、中也にとってはどうでも良いことであった。だから、これは浮気がどうのこうのと癇癪を起こすヒステリックな女の嫉妬ではない。太宰だって、この程度で中也の逆鱗に触れる筈がないと理解した上で好色に興じている。
けれど、積もり積もれば石も巌となるし、塵も山となるのだ。
おめでとうございます、100ポイント貯まりました、という抑揚のない機械の音声と共にクラッカーが己の頭の中で弾けた。そして目眩く忸怩たる思い出達が脳裏に自動再生される。
太宰が捌かねばならない筈の書類の責任者がいつの間にか中也になっていたり。任務だからと女装させられたり、学生になりすます羽目になったり。勝手にセーフハウスに入り込んでは我が物顔で飯を要求したり。その癖、渋々リクエストされた料理を用意した日に限って「今日、そっちに行けなくなったから」とあっさり女を抱きに行ったり。ワインを盗まれるのは定番の嫌がらせで、飽きた女の後始末を自分に押し付けるのも日常茶飯事。便利なタクシー代わりとして夜中に呼び出されたことだって数知れず。そう言えば、愛車を爆破されたこともあったんだったか。
そういったものが、貯まりに貯まって、積もりに積もって、とうとう本日100ポイントに到達したのである。
何だ、今まで手前が泣かせてきた女共に今の住所を教えると脅せばかなり本気で厭がったというのに結局この場所にも連れ込むんじゃねぇか。
ここはそれなりに大事にしている場所ではなかったのか。特別に思っている場所ではなかったのか。そう解釈したからこそ、中也も土足で踏み荒らす無粋な真似は控えていたのだが、そんな気遣いを実に馬鹿らしく感じた。その程度であるならば、酒に酔った勢いで社寮を強襲すれば良かった。
折角ポイントが貯まったのだ、ポイント交換で素敵な贈り物を渡してやろうではないか。
柵だとか体裁だとかそういったもの一切合切から一気に解き放たれた気分だ。今の中也の行動を規制し縛り付けられる堅苦しい論理は存在しない。ただ、やりたいようにやるだけだ。
すぐさま胸ポケットから携帯電話を取り出して、首領にコールをかける。この時間帯はエリス嬢とのお茶会をしているので中々繋がらないのだが、根気強く電話をかけ続けた。すると凡そ5分間の粘りにより、とうとう森が「どうしたのかな、中也君」と音を上げた。
「首領、確認したいことが」
「うん、何かな?」
「確か俺は長期遠征が割り振られていましたよね?」
「そうだよ。2週間後に欧州の方へ行って貰う手筈だけど、何か問題でもあった?」
「いえ、遠征自体には何も不都合はありません。ただ、今日から遠征までの間、有休を使わせて頂こうと思いまして」
「……うん?任務まで10日以上あるんだけど、ずっと?」
「はい。有休未消化のままでは姐さんにとやかく言われるので、使っておこうかと」
「…え~っと、一応休暇理由を訊いておいても良いかな?」
「あの木偶が何か騒いだ時は、“実家に帰らせて貰います”とだけ伝えて頂けたら十分です」
「…………程々にね?中也君」
それは保証しかねます、と返して電話を切る。
さて、これで自由に動ける身となった。ここからはスピード勝負だ。出来る限り早く身辺整理をして、横濱の街から出て行かねば。グズグズしていれば、太宰に捕まってしまう。中也は段々愉快な心地になってきていた。鬼ごっこに本気を出すなど、いつぶりだろうか。
部屋のそこかしこに捨て置かれているビニール袋を拝借して、目についた未開封の蟹缶を片っ端から放り投げていく。
冷蔵庫の中身も確認したが、水が入ったペットボトルが常備されているくらいだった。台所が綺麗なのは、掃除されているからではなく抑使用していないから。調味料置き場には塩も砂糖もろくにないというのに、味の素だけは四本並んでいる。
「…………」
日本酒と蟹缶は慰謝料として持っていくにしても、流石に味の素は要らない。荷物になるだけだ。けれど、太宰の好物と知りながら何もしないで放置しておくのも癪だった。
暫し、熟考した中也は小瓶を異能で浮かした。更に冷蔵庫からペットボトル、居間から口紅とループタイを持ち出して、風呂場へと直行。
浴槽に栓をして、ペットボトルの水を全て注ぎ込む。足りない水量は沸き上げ機能で補うことにした。仕上げは、四本分の味の素。勢いよくお湯にぶちこんでやった。
薔薇が好きな奴は薔薇風呂、金が好きな奴は金風呂をするのと同じ原理だ。味の素が好きな男のために味の素風呂を用意してあげるだなんて、俺は何と優しい人間なんだろうか。感激のあまり、涙がちょちょ切れそうである。
風呂は十数分もすれば沸き上げが終わる筈だ。中也が丹精込めて支度をした味の素風呂の面倒は機械に任せておくことにした。自動保温の設定にしたため、これでいつ家主が帰宅しようとも即座に温かい味の素風呂に入ることができるだろう。是非満喫していってくれ。
次に、中也は口紅の蓋を取った。何度見ても好きにはなれなさそうな毒々しい色彩に眉を潜めつつ、浴室にある大きな鏡に流れる字体で「Adieu」と別れの挨拶を綴った。それから自身の唇へと丹念に塗り込んで、鏡にチュッと紅を押し付ける。これぞ典型的なキスマークという理想的な出来映えに、思わずふふんと得意気になった。乱暴にティッシュで口紅を落としながら、ループタイと浮気相手が残していった口紅をこれ見よがしに洗面器へと放り込む。風呂場については、このくらいで勘弁しておいてやろう。
酒、蟹缶、味の素の次は、太宰のアイデンティティとも呼べる包帯への細工だ。
中也は納戸の扉を開け放つ。男が買い置きしている新品の包帯の箱を全て開封し、重力操作で一糎角の細切れに引き裂いてから、何食わぬ顔で再び箱に戻した。今日この瞬間ほど、自分が重力遣いであることに感謝した日があっただろうか。お陰で、鋏やカッターで地道に切り裂いていれば一時間はかかりそうな作業がものの数分で片付いた。
こんなもんか、と大量に詰め込まれ蟹缶と貢ぎ物の酒瓶が入った袋を携えて颯爽と部屋を出る。
ここまで快調だったのだが、玄関の扉を閉める段に至って中也は舌打ちを一つ溢した。
家を出ていくという固い意思を表明するならば、ここでポストに合鍵を入れたいところだ。ところが、中也は太宰の社員寮の鍵など持っていなかった。誤解のないように説明しておくと、手渡されていないことに関してとやかく言う気はない。寧ろそんな物を預けられても困るだけで、直ぐに「要らねぇよ」と拒否する自分の姿がいとも容易く思い描くことができた。
合鍵を預けるなどという、むず痒くて甘酸っぱい儀式をよりにもよってあの木偶と行うだなんて想像しただけでも鳥肌が立つ。自分達の間には、そんなはっきりと形を持つ証拠は要らないし、邪魔なだけだ。どうせ太宰に至っては意気揚々と入水を試みては財布と共に鍵も流して紛失するのが関の山なのだから、渡したところで意味をなさない。
相手の家に乗り込みたければ、針金一本あれば十分。それでピッキングをすれば良い話。そんな強盗まがいの侵入の方が余程自分達らしいと言えよう。それ故、中也は今の今まで太宰の部屋の合鍵を欲しいという血迷った願望を抱いたことは一度だってないし、中也自身が自分のセーフハウスの鍵をあの男に渡す未来図もなかった。
だが、今この瞬間だけは事情が違う。
喉から手が出るほどこの部屋の鍵が欲しかった。何のためにって、そりゃポストに投函して突き返すために。
ポートマフィア幹部の権力を総動員させたところで、今からスペアキーを作っていては到底間に合わない。断念するしかないのか。でも何かポストに目印になるものをぶち込んでおきたい。諦めるにはまだ早いだろうが、俺!と自分を鼓舞して必死に頭を働かせる。
うんうんと玄関のドアの前でパンパンに膨れたビニール袋を持って唸る中也は端から見れば不審者そのものだったが、幸いにも社員寮の近くを人が通りすぎることはなかった。
数分の間熟考していると、一陣の風が中也の背後を駆け抜けた。途端に舞い上がる煉瓦色の髪が視界の隅に映り、中也は天からの啓示を聞いた。
これだ、と閃いてからの行動は素早かった。
懐から隠しナイフを取りだし、バッサリと伸びている左側の煉瓦色を切り落とす。
ふむ、手入れを怠っていないだけはあって枝毛は見当たらない。口端をゆるりと上げて、中也は癖のある髪の残骸をポストに押し込んだ。
失恋したとき髪型を変えるのはよくある話だ。厳密に言うと失恋した訳ではないのだが、今の中也のスタンスは浮気をされたことに耐えきれず涙をはらはらと流しながら一人静かに家を出ていく悲劇のヒロイン役である。決して、味の素風呂を作ったり包帯を全滅させたり酒を強奪したりするような暴挙に出ている時点で「静かに」ではないと突っ込んではいけない。寮ごと爆破していないだけでも、俺は十分良心的だというのが中也の主張だった。
―――これで、思い付いた仕返しは全てやりきった。
中也は軽やかなメロディの鼻歌を奏でながら、浮き立つ足でその場を離れた。別に、鍵を閉めずともこの汚部屋には泥棒が持ち去りたくなるような高価な代物は置いていない。唯一室内にあった価値の高い日本酒は中也が保護しているので問題ないだろう。中也にとって、太宰の家の戸締まりなんて考えるにも及ばない些末事なのだ。
戦利品の美酒を何処で味わおうかとこれからの旅路に思いを馳せるその顔は、非常に晴れ晴れとしていた。
探偵社の寮を離れた中也は銀行に寄ってから、現在手持ちの葡萄酒の中で最も価値のあるワインを保管しているセーフハウスに向かった。暫く家を留守にするので、掃除や整理をしていきたかったのだが、生憎そんな暇はない。冷蔵庫の中で眠る足の早い食材達とは、遠征から帰ってきた時に向き合うことにしよう。手強い敵に成長していそうな予感がするものの、中也は一ヶ月後の自分に全てを託すと決めたのだ。
大きめのキャリーバックに、本日の戦果である日本酒と蟹缶を詰め込んだ後、これだけは絶対に浮気性のろくでなしには呑ませたくないという秘蔵のボトルを数本厳選して、余ったスペースを着替えの服と札束で埋める。クレジットカードは一応持っていくが、使えば居場所を特定される虞があるため、基本は銀行で下ろしてきた現金で何とかするつもりだ。2週間程度の旅行ならば、余程馬鹿な豪遊でもしない限りは保つだろうという金額を一気に下ろしたので、銀行員からは目ン玉を引ん剝かれた。
普段の格好では悪目立ちしてしまう可能性が非常に高く、中也は世の二十台前半男性に倣ってみることにした。コンセプトは、「必要単位数を確保しており、暇を持て余したのでちょっと観光に遠出してみることを計画した大学生(恋人に浮気をされ傷心中)」。ラフなトップスと動きやすいスラックスを着てキャリーバックをゴロゴロと転がしておけば、誰もマフィアの幹部だとは思うまい。
よし、と一通りの準備を終えた。太宰の家からふんだくってきたものさえあれば、何か忘れ物をしたとしても買えば事足りるものばかり。これで今から存分に有給を満喫することができるに違いない。ご機嫌な中也は東京駅まで車を飛ばした。本当は電車で乗り継いでいきたかったのだけれども、まぁ餞別代わりだ。手がかりを一つ、残していってやることにした。中也の愛車が東京駅の駐車場にあることが分かれば、あの聡い男のこと。即座に中也の本気度を推し測れるに決まっている。
北でも西でもどちらでも構わなかったのだが、予約席に空きがあったのは関西方面への新幹線だった。京都でぶらりぶらりと世界遺産だの国宝だのを見て回るのも乙なもんだろう。飛び下り自殺で有名な寺院もあることだし、自殺愛好家に自慢するには打ってつけだ。それに、京都の土産は紅葉が喜びそうなものが多い。
家出先にさしたる拘りがあるわけでもなかった中也は、実にあっさりと西行きの新幹線の切符を購った。これで本当に横濱の土地から離れる段取りが済んでしまった。もう後戻りはできない。仮に戻れたとしても引き返す気は更々持ち合わせちゃいないのだが。
グッバイダーリン、と恋人の浮気に悲しむ哀れな中也は、新幹線の出発時間まで意気揚々とプラットホームで売られている旅のお伴、駅弁の物色を堪能して時間を潰していた。
奇しくも時刻は黄昏時。
駅を出てから次第に速度を上げていき、歌詞の通り夕陽に照らされている街並みが忙しなく後方へと流されていくのを眺めつつ、中也は後ろの席に人がいないことを確認してから背もたれを後ろへ下げた。
背面テーブルの上に置くのは、駅弁。新幹線の中で弁当を食べるとなると、途端に旅行気分が増すようだった。何事も形から入るタイプの中也は、幸先の良いスタートに大層満足していた。
炊き込みご飯には、葡萄酒よりも日本酒の方が合う。
先程売店で弁当と一緒に購った紙コップへ高級酒をとくとくと注ぎ、中也はちょっと早めの晩飯を食べることにした。弁当の蓋を取れば、僅かに山椒の香りが立ち昇った。
店頭に陳列されている種類豊富な駅弁をしげしげと眺める中也に、客がはけて暇を持て余していた老齢の店員が勧めてくれたのは、深川飯だった。「やっぱり東京の駅弁と言えばコレよ、コレ!」と世話焼きな淑女のアドバイスに従ってみたのである。
……お兄さん、何処から来たの?横濱から。どちらへ?京都の方に。良いわねぇ!お友達と一緒に?いえ、気分転換に一人旅でもしようかと。あら、そうなの?実は浮気をされて傷心中なんです。まぁ、お兄さんみたいなイケメンがいるのに浮気するだなんて、彼女さんは見る目がないわねぇ。……
店での会話を思い出すと、どうしたって笑いが込み上げてくる。
女などとうの昔に知り尽くした男が、見ず知らずの老女から見る目がないと太鼓判を押されているのだ。これが口角をあげずに居られようか。しかも、彼女の予想は見事的中している。あんな品のない女を選ぶなんざ、色男が聞いて呆れる話じゃねぇか。心の中で中也は盛大にせせら笑った。
愉快な心地でアサリの炊き込みご飯を頬張れば、米に十分出汁が沁み込んでいるのが分かった。あっさりした風味は、ご飯の上に添えられた穴子の蒲焼のタレと喧嘩をすることはなく、相性が良かった。ご飯と絡めて食べてやれば、絶妙の濃さになる。これは酒がよく進む料理だ。漬物もポリポリと噛み締めながら、中也はご機嫌に日本酒を味わった。
とは言え、自分が決して酒に強くないことは自覚している。
思考回路及び判断能力を鈍らせた状態で、ハイエナの如く執念深い男の追跡から逃げられるとは思い上がっていないし、長年つるんできた元相棒の力量を見縊ってもいない。適度な量で控えなければならなかった。
弁当を食べ終わった後も、チビリチビリと喉奥を焦がすような液体を少量ずつ胃に送り込む。この一杯で終わりにしておかないと、酔いに意識を乗っ取られてしまうだろう。既に中也は、今回の家出のテーマソングを無意識のうちに口ずさんでしまうくらいには、ほろ酔い気分だ。
車内の電光掲示板が示す時刻は、探偵社の退社時間を過ぎていた。
あの男はいつ、バスルームに残してきたルージュのメッセージに気が付くだろうか。
中也は喉を鳴らして小さく笑った。
紙コップに注いだ日本酒の最後の一滴が喉を通り抜けた頃のこと、ふと視線を感じた。
敵意や悪意といった負の感情ではなかったので、さして気にしなかったのだが、隠そうともしない好奇心に満ちた瞳にとうとう中也の方が音を上げた。
視線の主は、通路を挟んだ真隣に座っている幼い少女。
その横には母親とおぼしき女性が船を漕いでいた。余程深い眠りなのか、車内が時折大きく揺れてもピクリとも動かない。退屈だったのであろう少女に、ニコリと笑いかけ「こんばんは」と無難な挨拶を述べる。少女は大きく丸い目を見開いて「お兄さん、日本語お上手ね!」と拍手した。どうやら、英語の歌詞で歌っていた中也のことを外人だと勘違いしているらしい。態々訂正するほどのことでもないので、好きなように思わせておく。
青い目をした男に日本語が通じると分かった少女は、初対面の相手にも臆することなく無邪気に話しかけてきた。普段であれば、ガキのお守りなんざ、と渋る中也ではあるが今は酒が入っていることもあって頗る機嫌が良い。気紛れではあったものの、中也は少女を邪険にしなかった。
人懐っこい少女は、最終的に席を中也の膝の上に変えるまでになった。子供の体重くらい屁でもないため、中也も拒否せずに座らせていた。
最初はきゃっきゃっと楽しげに自分の話を語っていたのだが、流石にネタが尽きたのか、段々会話の合間に沈黙が挟まるようになってくると、彼女は「あのね、お兄さん」と細い首を僅かに傾けた。
「さっきから、ずっと光ってるよ?」
テーブルに置いていたスマートフォンを指差す少女。彼女の指摘通り、それはピカピカと淡い緑色の光を点滅させていた。
「お電話、出なくて良いの?」
「電車の中じゃ、話せねぇからなぁ」
マナーに厳しい車内でなくとも、出るつもりは持ち合わせてはいないのだけれども。だが、そんな中也の心情など知らない心優しいお嬢さんにとっては、コールが鳴り止まない電話を無視し続ける行為は良心が痛むらしい。留守電が入ってるかもしれないよやら、せめてメールしてあげたらやらと食い下がってきた。
子供の興味対象はすっかりスマホに移ってしまったようだ。大人気なく「これは無視しても良い奴からなんだよ」と抵抗するのも憚られて、中也は旅行鞄の中からイヤホンを取り出した。差し込み口に取り付ければ、少女と片耳ずつイヤホンを共有する。子供は何が聞けるのかと期待に胸を膨らませ、「早く早く」と急かしてきた。
新幹線に乗り込んでからは一度も触れていなかったスマホに指を滑らし、起動させる。着信履歴には夥しい数の「青鯖」の文字が並んでいた。狂気じみた光景に、薄々こうなっているのではと予想していた中也でさえも口の端が僅かに引き攣った。まだこのホラー画面を恐ろしいと感じるほど世間に精通していない少女は「この漢字、あおって読むんでしょ」と得意気に鼻を膨らませている。羨ましい限りだ。
「後ろの漢字はなぁに?」
「さば、だ」
「さば?お魚さんの?」
「ああ」
「この人、さばが好きなの?」
「いや、鯖に似てるから渾名が青鯖なんだよ」
「泳ぐのが上手ってこと?」
「顔が青鯖みたいってこった」
魚に似ている人間と言われても、あまり理解できなかったのだろう。少女は「ふぅん」とそれだけを呟いた。
着信履歴の数には及ばないけれど、伝言メモの方にも未再生のものがズラリと列をなしている。我が愛しのダーリンは数分おきに熱烈なラブコールを残していってくれたらしい。中也との約束よりも行きずりの女性の相手を優先した挙句、その旨を一切伝えることはせずに平然と待ちぼうけを食らわせてくる男にしては甲斐性を見せてきたではないか。
一番下のメモを指でタップして聞いてみる。
――ちょ…っと、中也っ!君、今何処に…居る、のっ!?
聞こえてくるのは、地を蹴り上げる音。人にぶつかったのか飛ばされる野太い野次。何より普段の余裕綽々の態度からはかけ離れた、息切れを起こしているその人の声。
良い気味だ。中也は肘置きを盛大にバシバシと叩き、大口を開けて笑った。少女はマイペースに「ねぇ、ちゅうやって誰?」と質問してくる。自分の名前だと答えてやれば「青さばさん、お兄さんは今電車の中にいるよ」と親切にもスマホの画面に話しかけていた。しかしながら、これは通話ではなく、録音されているものを再生しただけにすぎない。電話の向こう側の相手に少女の厚意が届くことはないのだ。きっと、今もあの男は砂色の外套を翻しながら海風が吹く街を東奔西走しているに違いない。
――ふざける、のも…大概にしな…君の、実家は…ポート、マフィア、でしょっ!!臍を、曲げて、ない、で…素直に、帰ってきなってば!あ、あと、
そうかそうか。もう首領に連絡を取ったのか。流石は俺の元相棒。やる気を出せば仕事が早い。
ここで、録音時間が切れる。まだ恨み言は続いていたようだが、無情にも機械はブツリと男の悲痛な叫びを遮った。
「ぽーと…って何?」
「ん?サークル名……まぁ、部活みたいなもんだな」
「お兄さん、青さばさんに何かしたの?」
「逆だぜ、嬢ちゃん。俺が青鯖に苛められたんだ」
「じゃあ、青さばさん全然ダメだね。ごめんなさいがなかったもん。悪いことしたら、ちゃんと謝らなくちゃいけないんだよ」
陰謀術数に長けた太宰をもってしても、子供には、下手な体裁や意地っ張りな見栄、取り繕った虚心は通用しない。少女の真っ直ぐすぎる正論に「そうだよなぁ、先ずは謝罪の言葉が聞きてぇよなぁ」と中也も同意する。とは言え、謝罪があろうがなかろうが、自分の気が済むまで中也はこの家出を止めるつもりはないのだけれども。
興に乗ってきた中也は、次の伝言を再生した。
――あの、髪!何なの!?…ゼェハァ…家の、ポストに…入れないで、貰える、かなっ!?お陰で敦君に、「呪われてるんですか?」って、ドン引き、された、のだけ、どっ!?…って、これ、録音時間…短すぎじゃ、な、
プツッと再び強制終了。
そりゃ、普通に玄関から入ったとなれば真っ先に気が付く嫌がらせは、ポストに投函された髪束になるだろう。そこまでは中也の予想通りだった。
イレギュラーだったのは、人虎である。彼には申し訳ないことをした。中也としては失恋の儀式を模したつもりだったのだが、どうやら少年は丑の刻参りを連想してしまったようだった。何の罪もない無関係な人間を怖がらせたい訳ではなかったので、中也は心の中で敦へ「悪ぃな」と頭を下げた。太宰の文句は当然無視の一択である。熟考するにも値しない。
さて、三件目。
――それから、湯船に空き瓶が浮いていたのだけど、真逆味の素を全部お湯に入れたとか言わないよね?
今度は呼吸が少し整っているので、聞き取りやすい。周囲の雑音から察するに、信号待ちをしているようだ。
それにしてもこの言い方。残念なことに太宰は恋人が用意してあげた味の素風呂に浸かっていないらしい。結構本気で太宰特別仕様の風呂の感想を楽しみにしていたのに、がっかりだ。
――しかも、書き置きが不吉すぎるでしょ。「Adieu」は洒落にならないから止めて!!蟹缶も綺麗に消えちゃってるし……あと!中也、君、にほ、
ブツンとタイムアウト。
このやり取りにもいい加減、慣れてきた。録音時間はおよそ30秒程度という世間一般のルールに従っているのだが、どうにもあの男は時間配分が下手くそすぎやしないか。いや、そんな事は些細な問題である。
三件目のラストで太宰が言いかけた単語に、ふぅん、と中也は状況を正しく理解した。確信を得る為に、四件目を再生する。
――日本酒持って行ったでしょ!あんな度数高いの、君が吞める筈ないんだから今直ぐ返して!……うわっ、腹いせに中也の葡萄酒を開けてやろうと思ったのに、上等なやつは軒並み抜き取られているじゃないか…最っ悪……えぇ、私、苦労して買わせたお酒とadieuしたくないのだけど…
「ふざけてんのは手前の方だ!絶対ぇ反省してねぇだろうが!!」
何故、当たり前と言わんばかりにこの男は中也のセーフハウスに侵入しているのか。
ほら見ろ、正々堂々ピッキングしてくる男には合鍵などあってもなくても大差ないのだ。あと、その家のワインセラーに保管されている葡萄酒はどれもこれも、味の素愛好家には勿体ない程貴重なものばかりだ。一丁前に文句を垂れてんじゃねぇ。太宰には聞こえていないことは承知しているものの、思わず中也は鼻息を荒くして抗議する。
どうにも動きが機敏すぎるとは思ったが、四件目の伝言を聞いて合点がいった。
太宰が切実に帰って来て欲しいと願っているのは、機嫌を損ねた恋人ではなく希少な酒の方だったらしい。
瓶にはまだ半分以上の日本酒が残っていた。もしもだ。もしも飲み干す前に太宰が中也を見つけることが出来たのであれば、その功績を讃えて一杯くらいは分けてやろうじゃないか。そう考えていた中也の中にある雀の涙ほどの情けを、先に踏み躙ったのは太宰の方だ。
日本語でアデューというと、どうにも軽い別れの挨拶のニュアンスで使われる傾向にあるが、元は永遠の離別を意味する言葉だ。良かろう、京都に着いたら観光より何より真っ先に宿泊先を決め、部屋に籠ってこの酒瓶を空っぽにしてやる。浮気相手からのプレゼントとadieuさせてやる。ついでに蟹缶も全部開けておいてやる。中也は堅く決意した。京都観光は二の次だ。
少女も「青さばさん、中々ごめんなさい言わないね~」と呆れている。
残す留守電は、あと三件。果たして、あの根性がひん曲がった男の口から謝罪の言葉を聞けるだろうか。因みに中也は聞けないだろうなと早い段階で見切りをつけていた。
――ご自慢の愛車も姿が見えないと思えば、東京って何?君、今、もしかしなくても横濱に居ないわけ?
御名答。チラリと視線を窓の方へ移せば、日本一の高さを誇る山が横濱に居る時よりもずっと近くに見えていた。
――東京駅の監視カメラもチェックしたけど、これっぽっちも映ってないし!せめてどの方面の電車に乗ったかくらいのヒントはあっても良いじゃない…
監視カメラを警戒するのはマフィアたるもの基本中の基本である。幹部まで上り詰めた者がそんなヘマをする筈がないだろう。
それにしても、太宰は随分と形振り構わず、ついでに手段も選ばずに、中也(が持ち出した酒)の行方を追いかけているようだ。こんな短時間で中也の車を見つけ出し、更にカメラの確認まで終えるには政府の協力が必要不可欠だ。坂口あたりを強請ったに違いない。失踪した恋人(が強奪した酒)の為に国家権力を悪用するだなんて、マイダーリンは実に剛毅な男である。その行動力をもう少し社会貢献に使ってみたらどうだろうか。
気を取り直してラスト、二件。
――2週間の長いお休みが終わったら直ぐに海外出張ならしいけど、そうなると私との約束はどうなるの?蟹鍋が食べたいから今度の土曜日に作ってって頼んでおいたでしょ。
身勝手で一方的な要求を押し付けられたのは確かに事実だ。是と了承の返事は返していないのだが、それでも中也には活きの良い蟹を丸々一匹買ってきて冷蔵庫に入れた覚えがある。そして生憎、冷凍保存した記憶はなかった。今まですっかり忘れていたけれど、そうか、横濱に帰った時、中也が格闘せねばならない相手は、蟹…お前だったのか。
そして中原中也。今の今まで散々振り回され続けてきたというのに、尚もその我儘に付き合おうとするとは些か優しすぎやしないか。もう少し、ロクでなし男には痛い目を見させるべきだと俺は思う。
――何が君の逆鱗に触れたっていうんだい。私が女性と仲良くするのなんて今更じゃないか。中也だって気にするそぶりを見せなかったし……ねぇ、本気で家出するつもりなの?
六件目にもなれば、流石にどのタイミングで時間切れになるのかを把握してきたようだ。途中で太宰の声が途絶えるという失態はなかった。ちなみに、浮気行為に対する釈明も一切なかった。いっそ清々しい程に開き直っている。
まぁ、中也とて、元相棒の女癖の悪さなど嫌と言うほど知り尽くしているし、あれはもう不治の病だとも思っている。太宰の言う通り、別に不特定多数の女と関係を持とうが中也にとっては如何でも良かった。そんな事で一々目くじらを立てて、浮気性な男を責め立てるほど自分は暇じゃない。
もっと言えば、太宰が社員寮というテリトリーに見ず知らずの人間を連れ込んだことに対しても多少は面白くない気分にはなったものの、所詮その程度である。太宰だって、このくらいの不義理で中也が心の底から不貞腐れることはないと理解している。
だが、何度も繰り返すように、積もり積もれば石も巌となるし、塵も山となるのだ。
どうせ今回の出来事もイラつき度合1ポイントしか加算されないような些細なハプニングだった。1ポイントは、精々その日一日不快な気分になるだけで、寝て起きればケロリと治っているレベルだ。補足すると車爆破では10ポイント分が一気に貯まった。
しかし、重要なのはその1ポイントで通算100ポイントに到達したこと―――要するに、中也の堪忍袋の緒が盛大な音を立ててブチ切れたのだ。
何を勘違いしているのかは知らないが太宰の思うように、中也は毎度水に流してゼロにしてやったりなどしていない。マフィアの幹部がそんなお人好しな訳があるものか。きっちり帳簿につけて記録を取ってある。
たかが1ポイントだ。されどその1ポイントで中也のイラつきは飽和状態に達した。本当に100ポイントなのかどうかは知らない。実際は97かもしれないし、500かもしれない。重要なのは此方の寛容な心が我慢の限界を示したということだ。
太宰は、元相棒と言う地位に胡坐をかいている。
中也相手にならば、何をしたって最終的にはなあなあにしてしまえると思い違いしている。己の甘えや我儘が押し通るのが必然で、どんな傍若無人な振る舞いも結局は許容されるのが公理だと思い上がっている。
そんなものは単なる驕りに過ぎないのだと、中原中也が拒否や反抗、反撃の一つもできないような腰抜けである筈がないのだと、あの男はいい加減思い知るべきだ。
本気なのかと太宰は問うてきたけれど、中也からすればそれは愚問でしかなかった。
中也が本気でないならば、太宰が必死になる道理がない。
こうやって滅多に使わない留守番電話にいくつものメッセージを残していることこそが、太宰自身の中にその問いかけの答えを導き出している何よりの証拠である。自分の恋人が何やら本気で家出を企てており、これを放置しておくと後々厄介な事態を引き起こしかねないと推測したから、躍起になって捜索しているんだろう。
そして太宰の予想は当たっている。少なくとも、中也の方から折れてやる心算は微塵もない。現状を好転させたいならば、太宰が動くしかないのだ。
最後の1件を再生する。
――絶対休暇中に捕まえてやるから精々覚悟しておくんだね、マイハニー。
それは、10秒にも満たない宣戦布告。
「本命は君だけだよ」だなんて使い古された陳腐な愛を囁く訳でもなく。
「これに懲りたから、もう二度と浮気なんてしないよ」などと甘酸っぱい恋に情けなく縋りつく訳でもなく。
真正面から喧嘩を売ってきやがった。
嗚呼、矢張りこうでなくては。中也は知らず、口元に三日月を描いていた。上等だ、受けて立ってやるよマイダーリン。
どう考えても、無計画に旅を進める中也の足取りを追うだけの資金力を太宰が持っている筈がない。だからあの男は、精々紐の緩い財布としか認識していない浮気相手の女性達を唆して金銭援助でもしてもらう算段なのだろう。中也は未だかつて、太宰以上に女の敵である男を見たことがなかった。
そう言えば、ポストに投函した髪も、風呂に浮かべた味の素も、バスルームに残したルージュの書き置きも文句を言われたが、まだ包帯に関しては言及されていない。納戸の中身には目もくれずに寮を飛び出したということだろうか。折角用意したサプライズに気が付いてくれなかったのは少し残念だが、この不発弾が日の目を見るのは何時になるのかという楽しみが生まれたので結果オーライということにしておこう。
そうやって急いで坂口を言い包めて国家権力を行使し、不特定多数の女性から金だけをせびる太宰の動機は、中也を捕まえることだけにあるのだ。嗚呼、痛快な事この上ない。いい気味だ、ザマァ見ろ。
少女は「青さばさん、謝ってくれなかったね」と落胆していたが、中也の気分は別段沈んだりしていない。抑々、あの男が謝罪する筈がないことなど、太陽は東から昇って西の空に沈むのだということと同じくらい分かり切っており、期待するだけ無駄だと知っているからだ。「気にしてねぇよ」と本心を告げて少女の頭を軽く撫でた。
犬猿の仲だと有名な中也と太宰の間にある共通言語は、喧嘩だった。
口喧嘩の時もあれば、殴り合いが勃発するほどの派手な喧嘩をすることもあった。
互いに譲れない矜持を掛けた大勝負も頻繁にやらかしたし、一体何が原因だったのか全く思い出せないような端喧嘩だって少なくない。
だからやっぱり喧嘩の形が一番落ち着くのだ。その青い瞳は、車内の電光を反射しては好戦的にギラギラと輝いている。何と愉しい家出なんだろう。中也はご機嫌に鼻歌を奏でた。
―――さぁ、傍迷惑にも日本を横断する痴話喧嘩と洒落込もうじゃねぇか!
ダーリンがハニーの元に辿り着くまでに何日かかるのか、その賭けの行方は屹度神様にだって分かりやしないに決まってる。