三星堆の謎( San Xing Dui de Mi )
三星堆文明は未だ多くの謎につつまれています。というよりも、解明されたことの方が遥かに少ない文明です。
三星堆博物館の一番最後の展示に以下8つの謎について掲示がありましたので、私個人の印象も踏まえて列挙したいと思います。
1.三星堆文化の起源 2.三星堆の居住民族 3.三星堆政権の性格 4.三星堆青銅器技術 5.古蜀・三星堆文化の成立と滅亡時期 6.祭祀坑の年代 7.祭祀坑の意義 8.四川の符号
1.三星堆文化の起源
どんな文化にもその源流がありますが、三星堆文化が中国古代文化のいずれの流れを汲んでいるのか(若しくはいずれの流れも汲んでいないのか)は、未だに謎となっています。
簡単に現在の学説をおさらいしますと、現在から50~60万年前に華北から黄河流域にかけて旧石器時代に原人(中国語では「猿人」の方が一般的のようです)が居住しており、やがて旧石器時代後期には長江流域に居住域が拡がっていったと考えられています。その後新石器時代に入ると、まず彩陶を特徴とする仰韶文化(代表遺跡は河南省西部の仰韶遺跡、陜西省西安市東部の半坡遺跡)が、やがて黒陶を特徴とする竜山文化(代表遺跡は山東省北部の竜山遺跡)が栄えます。地域によって若干の違いはありますが、概ね文明は黄河中流域に生まれ、その上下流並びに長江流域へと広まっていったと考えられています。
一方、これらの文化とは別に、四川一帯には別の古代文化が栄えていたらしいことも徐々に判明しています。
地理的には、三星堆文化はこの四川古代文化の流れを汲むと考えるのが自然ですが、一方で三星堆からの出土物には中国文化独特の三足土器や、その後の殷の青銅器の影響を色濃く受けているものも出土しており、中原文化とも深いつながりがあるのは否定出来ないと思います。
従って、現時点では三星堆文化は四川古代文化と中原文化が融合して生まれたというのが最も有力な説ですが、詳細は謎につつまれたままです。
尚、2000年1月の人民日報によれば城壁跡から成都宝とん文化の遺物が発見されたとの報道があります。続報が無いので詳細不明ですが、上記説の裏付けとなるものと思います。http://j.peopledaily.com.cn/2000/01/11/newfiles/a1330.html
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2.三星堆の居住民族
東夷説、三苗説、越人説、などいろいろとありますが、どの説も特にはっきりとした根拠はありません。が、民族的には中原からの移住というよりは四川一体に古来から住んでいた民族であろうとの見方が有力のようです。
全く個人的な意見ですが、青銅の仮面のデザインがある程度写実性を帯びているとすれば、トルコ系に近いようにも思われます。少なくとも漢族では無いのではないか、との印象をもちました。根拠は無いのですが。
(右の写真は三星堆祭祀坑から周囲を撮影したものです。かつての祭壇あとが畑に削られ乍らも辛うじて残っています。また、この場所に限りませんが成都周辺は「天府」の名に相応しく一面豊かな耕作地で、どちらかといえば荒野が多い中国の風景に比して古代文明の発祥や民族の定住が今でも偲ばれる感じがします。)↑
3.三星堆政権の性格
古蜀文化の政権が、王権政治だったのか、神権政治だったのか、非常に限られた出土品からは全く不明です。
但し、出土物が祭祀性を強く帯びているのは間違いありませんので、神官がそれなりの地位を占めていた政権であったことだけは確実だと思います。現時点では、王権、神権、政教一致政権、の3つそれぞれを主張する学者いるようです。
個人的にはここまで祭祀用具に拘るからには、邪馬台国の卑弥呼のイメージ、即ち神官=権力者の政教一致政権だったのでは、という風に大量の遺物を見ていると感じられました。↑
4.三星堆青銅器技術
これも、中原文化からの伝播、西方からの伝播、独自発見の説に分かれています。
個人的には中原文化から基礎的な技術を学び、中原と交流しつつも全く独自に発展したというのが自然な発想ではないかと考えます。↑
5.古蜀・三星堆文化の成立と滅亡時期
ちょっと以外ではありますが、三星堆文化が一体いつ誕生し、いつ滅亡したのか、は未だに全く何の手掛りもありません。
強いてあげれば、殷の影響を受けた青銅器が発見されていることから、殷末から周初と考えるのが自然だと思いますし、学説でもこれが最有力のようです。
個人的には、周の時代に重なるのであれば、中原にもっと文献資料が残っていても良いような気がします。その意味でも殷と重なるという説を支持したいかな、とも思います。↑
6.祭祀坑の年代
これも手掛りがありません。上記同様に殷の影響を受けていることから殷末から周初と考えるのが妥当ですし、学説でもそれが有力ですが、殷から春秋時代まで様々な説があり、且つどの説も確実な論拠は無いようです。↑
7.祭祀坑の意義
何と言っても、これが三星堆最大の謎だといえるでしょう。
当時貴重品だった青銅器を何故大量に、しかも一度に坑に埋めることをしたのか。
学説は、王朝の緩やかな交代による前王朝祭祀物処分説、征服による前王朝権力象徴の処分説、祭祀利用後処分説、王の埋葬品説、など様々です。
個人的には当時は相当の貴重品であったはずの品々を一度に大量処分していることから、征服説が最も説得力があるように思います。↑
8.四川の符号
古代四川からの出土物には符号が記されているものがあり、これらは文字なのか、図なのか、印なのか、またそれらのいずれかであれば何を意味するのか、全て謎です。
但し、これからも四川地域が古代蜀として中原とは独自の文明を築いていたことは明らかなのではないかと思います。↑
以上のように、三星堆は古代中国のこの地に相当高度な文明が栄えた事を明らかにしたのみであり、その文明の正確な年代、背景、内容、といった全てが謎につつまれた遺跡といえます。
将に、考古学ファンの探究心と想像力を掻き立てる遺跡であり、今後の研究で解明が進むまでは、まだまだ色々な説が飛び出してくるでしょう。
中国は文字で歴史を記録することを古来より伝統としてきた世界的にも稀な文化ですから、三星堆は私のような素人考古学ファンにとっても、自由な発想で物が言える数少ない遺跡といえます?!↑
2001年7月