その一部始終を見ていたが、それでも信じられなかった。歓迎セレモニーを終え、練習が始まるまでのわずかな時間に、与田監督は球場のマウンドに立った。本塁を見る。数秒後には「あれ?」と言っていた。
打席が曲がっていると言うのだ。ウソでしょ? いやいや、そんなはずは…。僕はそう思った。だが、与田監督の指摘は当たっていた。左打席の白線が1センチずれていた。正確には引いた線ではなく、四隅に打ち込んでいるマーカーそのものがずれていたのだ。
「違和感…。そうだね。すぐにおかしいなって。そりゃあのままじゃダメですよ。ずれたままで練習したっておかしい感覚になるだけだから。打者にしてもよくないと思うよ。ここは正式な球場ですからね」
与田監督はこう言うが、マーカーは正しいと誰もが思う。何年も前にそこに打ち込まれたのに、どの投手、打者も気付きはしなかった。「ちょっとおかしい」と思った人ならいたかもしれないが、「気のせいか」と受け流したはずだ。
18.44メートル先の誤差1センチ。人間のやることにはミスがある。元ミズノのバット作りのマイスターとして知られる久保田五十一さんから聞いた、こんな話を思い出した。
「お届けしたバットをしばらくして、2本持って来られた選手がいます。『グリップの太さが違う』と。まさかと思いましたが、測ってみたところ、本当に0.2ミリ違っていたんです」
それが落合博満だった。薄皮一枚。名人のミスに気付いた大打者は、打席のベース側の白線を、スパイクで必ず消していた。「人間の引く線はずれる。ずれたまま打つと感覚が狂う」と動かない看板などを目印にしていた。1センチと0.2ミリ。そこに気付く人と気付かない人。もっと言えば自分の違和感を信じきる人と信じ切れない人…。なお、マーカーは早急に正しい位置に打ち直されることが決定した。