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  • 00:12:53

    第百六十話『失敗から学ぶ』-【北海道篇】作家 三浦綾子-

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    北海道旭川市出身の作家、敬虔なクリスチャンだった三浦綾子の記念館は、今年開館20周年を迎えました。
    小説『氷点』の舞台となった林、その木々に囲まれた文学館には、今も多くのひとが足を運んでいます。
    アーティストの椎名林檎は、中学生のとき、国語のテストに引用された三浦の小説『塩狩峠』を読んで感銘を受け、さっそく自分で本を買って読んだそうです。
    人間の弱さ、人間が抱えてしまう、罪。
    そんな重厚なテーマを、わかりやすい、透明な文章で紡いだ作家、三浦綾子。
    なぜ、時代を超えて、彼女の言葉はひとびとを魅了するのでしょうか?
    最後のエッセイ集『一日の苦労は、その日だけで十分です』の中にこんな一説があります。
    「人一倍優れた人間であっても、その自分の偉さをひけらかしたとしたら、何のおもしろいことがあろう。賢い人も失敗する。だからこそ人は安心して笑えるのだ」。
    三浦綾子には、三つの大きな苦悩がありました。
    戦時中、軍国主義の中、教育にたずさわったこと。
    愛するひとを病気で亡くしたこと。
    そして、肺結核にかかり、切実に死を感じたこと。

    大きな挫折を経験した彼女の語り口は読むひとに寄り添い、まるで背中をなでられているような安心感があります。
    彼女は人一倍、強いひとだったのでしょうか?
    彼女自身、その問いには、首を振るかもしれません。
    弱いから、迷い、傷つき、間違う。
    でも、大切なのは、そこから立ち上がる勇気。
    そんな思いを作品に刻むために、病魔に痛めつけられた体で、必死に机に向かったのです。
    作家・三浦綾子が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:13:22

    第百五十九話『自分の目で見たものしか信じない』-【北海道篇】探検家 松浦武四郎-

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    今年は、北海道と命名されて150年。
    かつての「蝦夷地」ではなく、北海道と名付けたのは、今年生誕200年、没後130年を迎えた探検家・松浦武四郎(まつうら・たけしろう)です。
    彼は幕末、6回にわたり蝦夷地を訪れ、10年の歳月をかけて、北海道全土の情報をまとめあげました。
    その『蝦夷大概之図』は、わが国最初の北海道全図です。
    彼の功績のひとつに、アイヌ民族との親交、交流、文化の継承があります。
    北海道という名前にも、実は彼のアイヌへの愛情が隠されているのです。
    明治新政府に新しい名前として提案した、北海道という名前。
    その文字は、北に加えるに伊豆半島の伊、そして道と書きました。
    カイという言葉は、アイヌのひとの言葉で「この地に生まれ、ここに暮らすもの」という意味があると、松浦は教えられました。
    新しい名前に、アイヌの英知、アイヌの精神を入れたい、そう願った松浦は当て字にしてカイという言葉をどうしても入れたかったのです。
    北海道の地名も、アイヌのひとたちが使っていた名前をそのまま使い、漢字をあてました。
    アイヌのひとたちがつけた地名には、土地の特徴や危険を知らせる警告など、さまざまな情報が詰め込まれているからです。
    水かさが増すと氾濫する川に「ベツ」とつけ、川岸の土壌が安定していて氾濫の危険性が少ない川を「ナイ」と呼びました。
    女満別(めまんべつ)、稚内(わっかない)、北海道全土にはアイヌの英知が生きているのです。
    松浦武四郎は、とにかく自分の足で大地を踏みしめ、現地のひとに会い、自分の目で見たものだけを信じ、記録し続けました。
    他の冒険家と一線を画するのは、その著作物の多さ。
    彼は後世に伝えるために、克明にノートに記しました。
    だからこそ、150年経った今も彼の功績や思いは継承されていくのです。
    稀代の探検家・松浦武四郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?

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  • 00:13:11

    第百五十八話『最後まで諦めない』-【北海道篇】音楽家 レナード・バーンスタイン-

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    今年生誕100年を迎えた20世紀最高の音楽家のひとり、レナード・バーンスタインは、北海道・札幌の地に、音楽祭という種を植えました。
    パシフィック・ミュージック・フェスティバル、国際教育音楽祭。
    1990年にロンドン交響楽団を率いて、バーンスタインが創設したこのイベントは、今も札幌の夏をクラシック音楽で彩っています。
    29回目を数える今年は、バーンスタインの長女、ジェイミーが来日。
    父との思い出を語りました。
    1990年は、バーンスタインが亡くなった年。
    親日家だった彼は、瀕死の状態で指揮棒を振りました。
    夏の札幌芸術の森。
    演奏したのは、シューマンの交響曲第二番。
    リハーサルから彼の熱量はすごかったといいます。
    「いいね!素晴らしい!」「美しい!」楽団員をほめ、鼓舞し、「ここはオペラのリゴレットのように」と自ら歌い、指揮台で飛び跳ね、踊る。
    ただ、本番では、さすがに苦しそうだったと言います。
    まさに瀕死の形相。
    それでも彼は指揮棒を振り続けたのです。
    オープニングセレモニーの挨拶で彼は日本の聴衆にこう話しました。
    「自分に残された時間を、若者の教育に捧げる覚悟をしました」
    バーンスタインは、自身の体に鞭うってその姿を見せることで、これからの音楽界を担う若者に訴えたのかもしれません。
    「音楽は、すごいんだ。音楽は、素晴らしいんだ。だから、頑張れ!手を抜くな!最後まで諦めるな!」
    札幌のあとの東京公演で、彼はプログラム3曲のうち、1曲を若い大植英次という指揮者にまかせました。
    かつて小澤征爾をいち早く見出したように、彼はこう言いたかったのです。
    「みなさんの国の素晴らしい才能を聴いてください!」
    20世紀最高の音楽家のひとり、レナード・バーンスタインが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:12:11

    第百五十七話『焦らず、ゆっくりと』-【北海道篇】森林学者 高橋延清-

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    北海道、富良野に、東京大学の演習林があります。
    その林長を務め、世界的に有名になった森林学者がいます。
    高橋延清(たかはし・のぶきよ)。通称、どろ亀さん。
    いつも森の中を泥まみれになって歩くことから、その名がつけられたといいます。
    彼が確立した、天然林の育成法「林分施業法」は、国内だけではなく世界の注目することとなり、富良野に研修・見学にくるひとは後を絶ちません。

    森には、人間にとって、大きな二つの役割があります。
    ひとつは、環境を維持するための公益的な機能。
    もうひとつは、木材を生み出す、経済的な機能。
    その二つをきっちり分け、人間の手で正しく管理すれば、必ず森林は応えてくれる、それが「林分施業法」です。
    針葉樹と広葉樹。さまざまな木々を分類し、その生態を調査する。口でいうのは容易いですが、調べるだけでも至難の技です。
    高橋は、森に暮らし、木に寄り添い、森林と対話し、どの木を伐採すればいいのか、一本一本丁寧に検証しました。
    彼が残した言葉に、『歳月が流れて』という詩があります。

    ここまで生きてきた
    いつも要領が悪かった
    時には、物笑いのタネとなった
    でも、それでもいい、それでいいと
    自分に言い聞かせて、やってきた
    目標に向かってノロノロと
    人の何倍もの汗と歳月をかけてやってきた
    樹海の中で生きてきた
    大森林に学び
    その深きこと
    悠久なること
    残された命みじかし
    生命みじかし…

    愚直に森と向き合い、偉業を成し遂げた森林学者・高橋延清が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:13:09

    第百五十六話『襷をつなぐ』−【長野篇】作詞家 山川啓介−

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    長野県南佐久郡小海町。
    北八ヶ岳と奥秩父山塊の間に位置するこの町で幼少期を過ごした、作詞家がいます。
    山川啓介。
    青春ドラマの主題歌として大ヒットした、青い三角定規の『太陽がくれた季節』、火曜サスペンスのエンディング曲『聖母たちのララバイ』、ゴダイゴの『銀河鉄道999』や、矢沢永吉の『時間よ止まれ』など、名曲は枚挙にいとまがありません。
    その歌詞のあたたかさ、やさしさ、会話調の言葉づかいは、多くのファンを魅了しました。
    昨年7月、72歳でこの世を去った彼の原点は、幼少期を過ごした小海町の松原湖にあります。
    澄んだ風に湖面を揺らす、この静謐な湖のほとりに、ある歌碑が建てられています。
    『北風小僧の寒太郎』。
    NHK「みんなのうた」で大人気だったこの歌を作詞したのも、山川啓介です。
    彼は本名の井出隆夫の名前で子ども向けの童謡も、数多く作詞しました。
    歌碑に近づくと、センサーが反応して、あの懐かしいフレーズが流れます。
    「北風小僧の、寒太郎……寒太郎」
    山川の心の中には、いつも、冬の松原湖があったのかもしれません。
    寒い風が吹きつける。
    一面、雪で真っ白。何もない。何も見えない。
    ただ、風の音だけが聴こえる。ヒューン、ヒューン。
    奇しくも、その歌碑の近くには、小学校の先生で歌人だった祖父、井出八井(いで・はっせい)の石碑もあります。
    山川には、ひとつの流儀がありました。
    新しい才能に襷(たすき)をつなぐ。
    若いひとを鼓舞し、激励し、チャンスを与え、愛する音楽を守ろうとした男、作詞家・山川啓介が人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:11:37

    第百五十五話『絶望を優しさに変える』-【長野篇】俳諧師 小林一茶-

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    『やせ蛙 負けるな一茶 これにあり』
    『雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る』
    『やれ打つな 蠅(はえ)が手をする 足をする』
    日常生活で触れる小動物たちへの温かいまなざしを俳句にした、俳諧の聖人、小林一茶。
    今年、没後190年の一茶は、長野県の北、北国街道の宿場町、柏原に生まれました。
    遥か黒姫山や戸隠山をのぞむ、のどかな山村を一茶は愛していましたが、ある理由から、仕方なくひとり江戸に出ることになるのです。
    無念な心情。帰るに帰れぬ事情。
    彼にとってふるさと長野は、複雑な思いに塗り固められていったのです。
    松尾芭蕉、与謝蕪村と並び、江戸時代を代表する俳諧師のひとりになった一茶ですが、その俳句はいつも賛否両論の嵐の中にありました。
    「題材が身近で、庶民にもわかる!」
    「いいや、俗っぽくて、うすっぺらい。哲学がない!」
    「難しい言葉を使っていないから、すっと情景が浮かぶ」
    「無駄に数だけ多い!あんな程度なら、誰にだって書けるよ!」
    そんな外野の意見に左右されることなく、一茶は、彼の世界観を貫きました。
    のちに、一茶調と呼ばれる独特のリズムと言葉選び。
    それはまぎれもなく、彼が血を吐くほどの苦労をした先につかんだ、彼にしか書けない17文字でした。
    15の歳に、たったひとり江戸に出てから、およそ10年あまり、音信はとだえ、故郷長野に一度も帰りませんでした。
    そのときの孤独と絶望は、はかりしれないものだったに違いありません。
    でも、彼の作風には、優しさがあふれています。
    いかにして彼はその平易で平和な調べを手に入れたのでしょうか。
    俳句の神様、小林一茶が人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:12:45

    第百五十四話『やりぬくことで、強くなる』−【長野篇】冒険家 植村直己−

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    今日8月11日は、山の日です。
    長野県北西部に横たわる北アルプスの白馬岳(しろうまだけ)で、本格的な登山デビューを果たした冒険家がいます。
    植村直己(うえむら・なおみ)。
    彼は特別な登山経験のないまま、明治大学山岳部に入部しました。
    4月下旬に行われた新人歓迎会。
    中央線の車窓から眺める信濃の風景に心おどらせる植村青年の姿がありました。
    遠く見えるアルプスの連山はまだ雪を残しています。
    鋭くとがった峰々。ゴツゴツした岩肌。
    「ああ、あそこに登るんだなあ」のんきにしていられたのも、山岳部の山小屋に入るまででした。
    白馬を目指して歩き始めると、途端に後悔がやってきます。
    新人は、40キロもあるザックを背負わされ、上級生の掛け声とともに登り、休めません。
    吹き出す汗。遅れれば怒号が飛んできます。
    入部するときは優しかった先輩たちが、鬼の形相。
    雪道に足をとられ、ひっくりかえると、
    「おい!ウエムラ!なにやってる!ばかやろー」
    バカヤロウと言われても、転んでしまうのは仕方ない。
    ブツブツ言って立ち上がるが、足はふらふら。
    植村は、部員の中でいちばん小柄で最も弱かったので、いちばん最初にばててしまったのです。
    それでも容赦はありません。
    炊事、雑用、テントのすぐ入り口で寝かされ、先輩の靴の雪を落とします。
    「ああ、もうやめたい…」
    そう思いますが、彼にはひとつの信条がありました。
    「一度始めたことは、最後までやりぬく」
    新人歓迎会から戻った彼はさっそく自分なりのトレーニングを開始したのです。

    国民栄誉賞をもらった世界に名立たる冒険家は、決して最初から強かったわけではありませんでした。
    弱さを知っていたから、偉業を成し遂げたのです。
    冒険家・植村直己が、43年の生涯でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:13:23

    第百五十三話『変化を恐れない』-【長野篇】葛飾北斎-

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    日本が誇る江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は、来年没後180年を迎えます。
    いまだに日本人のみならず、世界中のひとを魅了するその作品たちは、斬新な構図や一瞬を切り取る精緻(せいち)な筆づかいに支えられています。
    当時としては珍しく長生きをした北斎は、さまざまな画風、様式に挑戦し続け、ひとつの流派に留まることを嫌いました。
    彼は、自分の雅号を30回も替えたと言われています。北斎という名前ですら、あっさり弟子に譲ってしまいました。
    また、引っ越しの回数も尋常ではなく、その数、90回以上だったと文献に記されています。
    彼が最晩年に選んだ場所。
    それが、長野県小布施町でした。
    長野県の北東部に位置する、栗で有名なこの町には、今も北斎の足跡をたどることができる重要な遺産が残っています。
    岩松院の天井絵、八方睨みの鳳凰図。
    北斎館や高井鴻山記念館にも、多くの作品が展示されています。
    「私は6歳から絵を画いているが、70歳より前のものは、とるにたる作品はなかった。73歳でようやく、少しだけ、鳥や獣、虫や魚の骨格がわかり、草や木の生態を理解できるようになってきた。このまま精進すれば、80歳でますます成長し、90歳でいろんなことの本当の意味に気づき、100歳で技をつかみ、110歳では、一筆ごとが生きているようになるだろう」
    北斎は、そう言い残しました。
    73歳と、そこだけ刻んだのにはわけがあります。
    彼の代表作『冨嶽三十六景』を発表した歳だったのです。
    その年、他にも自信作と思われる作品を生み出しましたが、自分を戒めるように、こんな言葉を記したのです。
    たとえひとつの仕事が成功に終わろうとも、慢心することなく、あっさりと過去を捨て去り、次のステージを目指した男、変化を恐れぬ葛飾北斎が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:14:32

    第百五十二話『胸を張って生きる』-【鎌倉篇】女優 田中絹代-

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    来年生誕110年を迎える、鎌倉にゆかりのある映画女優がいます。田中絹代。
    松竹撮影所が大船に移り、田中絹代は、由比ガ浜の背後にある鎌倉山に新居を構えました。
    遥か向こうには、穏やかな相模湾。
    涼しい風が吹き抜け、緑が目を休ませてくれます。
    鎌倉山から大船までは、当時、自動車専用道路が通っていました。
    東京の蒲田から鎌倉に移ったのは、昭和11年。
    彼女が27歳になったばかりの12月のことです。
    コバルトブルーの海の先には、富士山が見えました。
    五百坪の敷地内には母屋と別棟があり、母親や兄弟と暮らしたのです。
    戦後、さらに彼女はもう一軒鎌倉山に家を持ちます。
    鎌倉をたいそう気に入ったのです。
    なぜそんなにも、田中絹代は鎌倉を好んだのでしょうか?
    もしかしたら、そこから見える海が故郷下関の風景に似ていたからかもしれません。
    下関は絹代にとって、二度と足を踏み入れたくないほど、辛い思い出が残る場所でした。
    にも関わらず、大好きだった兄の記憶が下関の海と結びついていたのです。
    自分の前から忽然と姿を消した、兄・慶介。
    その兄に最後に連れていってもらった海岸通り。
    遠く輝く海を、絹代は生涯忘れることがなかったのではないでしょうか。
    晩年、絹代はもうひとりの兄、祥平の介護に多くの時間を費やします。
    女優の仕事も減らし、家を売って。
    それでも映画女優としての誇りと気概は、亡くなるまで鬼気迫るものがありました。
    彼女の名言に、こんな言葉があります。
    「寝たきりでも、演じられる役があるだろうか」
    生涯、女優として生きた田中絹代が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:13:59

    第百五十一話『孤独から逃げない』-【鎌倉篇】俳優 鶴田浩二-

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    鎌倉のお墓に眠る、昭和を代表する俳優がいます。
    鶴田浩二。
    墓石には、本名の小野榮一という名前と同じくらいの大きさで、鶴田浩二と刻んであります。
    初期こそ、その甘いマスクでアイドル的な位置づけでしたが、のちに出演した任侠映画のイメージが鮮烈です。
    また、独特の歌い方、哀愁に満ちた声で、歌手としても人気を博しました。
    大ヒット曲、『傷だらけの人生』。
    加えて、戦争での特攻隊の翳り。
    硬派で無骨。
    若者を敵対視する印象派、亡くなる10年前に出演した、山田太一の『男たちの旅路』に集約されました。
    「オレは、若いやつが嫌いだっ!」
    特攻隊の生き残りで、たくさんの戦友を見送ってきた主人公は、自分が生きている意味について深く内省します。
    鶴田浩二の顔の皺ひとつひとつが苦渋に満ち、セリフの重さに、観たひとは居住まいを正します。
    観るひとをひきつける力。
    その凄さに、もしかしたら、彼自身がいちばん驚いていたのかもしれません。
    現場では不遜、傲慢と揶揄されることもあったと言いますが、その一方で情にあつく、後輩の面倒見がよかったという逸話も残されています。
    なにより、さみしがり屋。
    自分の誕生日には、多くのひとを招き、自ら歌を披露しました。
    「何から何まで、真っ暗闇よ 筋の通らぬことばかり」
    鶴田浩二の人生は、まさに「傷だらけの人生」だったのかもしれません。
    でも、彼は聴こえない左耳に手をあてがいながら、歌い続けました。
    マイクと一緒に持ったハンカチは、次の歌手への気遣い。
    汗をつけぬ心配りでした。
    常に強気でありながら、優しさを忘れなかったからこそ、彼は伝説になったのです。
    俳優・鶴田浩二が、62年の生涯でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:14:24

    第百五十話『全ての基本は正しい姿勢』-【鎌倉篇】円覚寺住職 須原耕雲-

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    北鎌倉の人気観光スポットのひとつ、円覚寺。
    鎌倉時代後半、寺を建てるために土を掘ったら、古びた石の箱が出てきました。
    その箱の中に、中国・唐の時代のお経「円覚経」が入っていたところから、寺の名を円覚寺としたといわれています。
    夏目漱石は、自身の悩みと向き合うため、何度もこの寺を訪れ、座禅の行に励みました。
    その熱心さは、『門』という小説で円覚寺の山門を描くほどでした。

    この円覚寺の住職であり、有名な弓道家として、亡くなった今も信者が絶えない僧侶がいます。
    須原耕雲(すはら・こううん)。
    彼は、50歳で弓道に出会い、弓を引く前から引いたあと、全ての所作に、座禅と同じ宇宙を見ました。
    彼が説く、姿勢や呼吸の大切さは、私たちの日常生活にも生かされるべきものです。
    耕雲は、一息座禅をすすめました。
    「一息座禅というのは、日常の一息一息の間に、座禅の力を発揮していこうというものである。電車に乗ったら、立ってつり革につかまり、少し足を開き、目を薄く閉じて、一息分、反省をするんです。あのとき、ああ言ってしまったのは、自分が出来ていない証拠だな、というふうに。また、煙草をたしなむひとは、たった一本の煙草の間に、座禅と同じようにきゅっとお尻に力を入れて、息を大きく吐きながら我が身を振り返る。一日たった一息で、ずいぶん世界が変わります」

    一息座禅こそ、ひと矢ひと矢に我が身をのせる、弓道から学んだことなのかもしれません。
    住職にして弓道家、ローマ法王の前でも弓を引いた男、須原耕雲が人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:13:12

    第百四十九話『人生を笑う』-【鎌倉篇】作家 直木三十五-

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    第159回 芥川賞と直木賞の選考会が、7月18日に行われる予定です。
    芥川賞の名前の由来は、芥川龍之介。
    そして直木賞は、直木三十五(なおき・さんじゅうご)という作家の名前によるものです。
    直木の没後、昭和10年に、友人だった菊池寛が彼の名前を文学賞につけたのです。
    直木は晩年、作家仲間でいち早く鎌倉に住んでいた里見弴(さとみ・とん)に誘われて、稲村ヶ崎に住みました。
    映画製作にのめり込み、里見とともに大船の撮影所にも通っていましたが、やがてつくった映画が赤字に終わり、映画製作から手を引くことになります。
    砂浜に腰を下ろし、水平線を眺めながら、大衆小説家として生きていく決心をしたのでしょうか。
    彼は突然、旺盛な創作欲で小説を書き、たとえば『黄門廻国記(こうもんかいこくき)』は、映画『水戸黄門』の原作となり、大ヒットを飛ばすことになるのです。
    直木三十五というのは、ペンネーム。
    本名の植村の植えるという字を分解して、苗字を直木、として、文章の連載が始まったころ、31歳だったので、まずは、直木三十一。
    そこからスタートして、歳をとるごとに、直木三十二、直木三十三と変えていきました。
    次は三十四。でも三十四は、惨く死す、ザンシということで縁起が悪いと思い、しばらく直木三十三のまま、小説を書いていました。
    しかし、一向に貧乏から抜け出すことができません。
    姓名判断でも、最悪ですと言われる始末。
    思い切って、四を抜いて、直木三十五でやっていこうと決めた、そんな名前なのです。
    直木の43年間の人生は、失敗や挫折の連続でした。
    早稲田に入るが、学費が払えず除籍。出版社を興せば、つぶれる。映画製作はうまくいかない。
    いつも貧乏神が傍らにいるような人生でした。
    おまけに稼げば使う浪費癖。
    でも彼はいつも周囲を笑いで包み込んでいました。底抜けに明るい彼の心の秘密はどこにあったのでしょうか?
    作家・直木三十五がその短い生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 00:13:37

    第百四十八話『動くことで、己を知る』-【長崎篇】医師・博物学者 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト-

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    江戸時代、末期。
    鎖国時代の日本に、ひとりのドイツ人がやってきました。
    フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
    シーボルトは、長崎の出島にあったオランダ商館の医師として、西洋医学の実践や啓蒙を行い、日本の近代化のために貢献しました。
    さらに彼は日本の植物学、民俗学、地理学にも興味を持ち、地道な研究を重ね、日本人が成しえなかった学術的資料の構築に尽力したのです。
    彼はジャカルタで軍医として働いていたときに、オランダ領東インドの総督に、こう言われました。
    「あらたに、日本に向けて出発する、オランダ使節団があるんだが、どうだろう、もしキミが望むのであれば、随行してみる気はないか?長崎の商館の医者として駐在し、さらにはキミがやりたいと言っていた自然科学の研究にも従事できると思うが」
    シーボルトは、二つ返事で快諾しました。
    「ぜひ、行かせてください!」
    でも、船旅は過酷で、命を落とす危険性も決して低くはありません。
    それでも、彼は異国に飛びだしたかったのです。
    東シナ海で嵐に遭遇。
    海に落ちないように、甲板に自分の体をしばりつけて風雨をしのいでいるときも、「大丈夫!大丈夫!オレには、オレを守ってくれる神様がいる」そう信じて乗り切りました。
    荒海を経て見えてきた島国を、彼はこんなふうに日記に書いています。
    『あざやかな緑色の丘。耕された山の尾根が前景を彩り、後方には青みがかった山の頂が、くっきりと輪郭を描いている。海岸にそそり立つ岩壁は朝陽を浴びて、時間とともに、その色を変えていく。実にうっとりとする眺めだ…』
    命の危険もかえりみず、そこまでして異国を目指したのは、どうしてだったのでしょうか?
    シーボルトが、波乱の生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 00:12:17

    第百四十七話『持ってるものを全て出せ!』−【長崎篇】ジャズ・ドラマー アート・ブレイキー−

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    今年の春、公開された映画『坂道のアポロン』の舞台は、長崎県佐世保市でした。
    親戚に預けられた孤独な高校生が転校先で出会ったのが、ジャズドラムを演奏する不良少年。
    映画では、ジャズの名曲が淡くもせつない青春映画を盛り上げます。
    映画の中で何度も流れるのが、『モーニン』。
    伝説のジャズ・ドラマー、アート・ブレイキーが発表したアルバムの中の一曲です。

    お互い闇を抱えた高校生が初めてセッションする曲…。
    アート・ブレイキーは、大の親日家としても知られていました。
    2年前、長崎のある高校が、アート・ブレイキーが率いていたバンド『アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ』の元メンバーを、長崎で行われる「平和のためのコンサート」に呼ぶプロジェクトを立ち上げました。
    もしこの事実をアート・ブレイキーが知ったら、どれほど喜んだことでしょうか。

    彼が音楽を続けた意味。
    それは、こんな言葉に凝縮されています。
    「僕らアーティストがすべきことはね、たったひとつだけだよ。それはね、人々を幸せにするっていうこと。音楽はね、黒人のものでも、白人のものでもなく、みんなのものなんだ。僕はそれを、誇りに思っている」
    長崎という街と、アート・ブレイキー。
    そこには、ひとつの絆がありました。
    平和。
    人類は、いがみあい、争い、差別するために生まれてきたのではないということ。
    来年生誕100年を迎える、伝説の黒人ジャズ・ドラマー、アート・ブレイキーが人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:13:17

    第百四十六話『野心に忠実であれ!』-【長崎篇】商人 トーマス・ブレイク・グラバー-

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    潜伏キリシタン関連での世界遺産登録で注目を集める、長崎。
    世界遺産に含まれる大浦天主堂の隣に、長崎の観光スポットの定番のひとつ、「グラバー園」があります。
    長崎港を見下ろす高台にある、優雅な庭園。その広さは、三万平方メートル。
    あたりには季節の花々が咲き誇り、さっと吹き抜ける風が心地よく頬をなでていきます。
    ここは、かつて長崎に暮らしたある外国人の敷地でした。
    その外国人とは、日本の近代化の礎を築いた、トーマス・ブレイク・グラバー。
    スコットランド出身の商人だったグラバーの身辺には、さまざまな風評が渦巻いています。
    「金の亡者、冷酷無比の武器商人」「日本の夜明けのために尽力した文明開化の功労者」「秘密結社のスパイ」「坂本龍馬の後ろ盾になった人情派」
    それらを全て差し引いても、グラバーの功績は歴史が証明しています。
    日本で初めて蒸気機関車を走らせた男、長崎を造船の街として知らしめるために造った西洋式ドック。
    炭鉱の経営に、お茶の貿易や国産ビールの開発。
    150年前の日本になくてはならない「挑戦」という二文字を、計画、実践したのです。
    彼は日本人の女性と結婚、外国人としては異例の勲章を受け取り、文字通り、日本に骨をうずめたのです。
    弱冠21歳で日本にやってきた異国の若者が、なにゆえそこまで日本にのめり込んだのか…。
    そこには、彼の野心がありました。
    幼い頃、いつも眺めていた、海。
    「あの海の向こうには、いったいどんな世界があるんだろう。たった一回の人生、ボクはここから飛びだして、全部知りたい」
    野心を持ち続けることができた、幕末の偉人、グラバーが人生でつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:13:18

    第百四十五話『自分を肯定できるのは自分しかいない』-【長崎篇】作家 佐多稲子-

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    長崎市出身の作家、佐多稲子(さた・いねこ)が亡くなって、今年で20年になります。
    彼女は、貧しい生活のため、小学校を中退。
    キャラメル工場で働き、家計を助けた経験をもとに、小説『キャラメル工場から』を書きました。
    その作品が認められ、プロレタリア文学の女流作家としての位置づけを得ました。
    彼女ほど、ぶつかっては倒れ、倒れてはぶつかるという人生をおくった作家がいたでしょうか。
    佐多が生を受けたとき、父は18歳、母は15歳でした。
    戸籍上は、親戚の奉公人の長女として届けられ、5歳のとき、ようやく両親の戸籍に養女として入ったのです。
    幼い頃に芽生えた厭世観は、彼女の心の奥底に巣くいました。
    「別に私は、望まれて生まれてきたわけじゃない」
    「どうせ、世の中なんて、生きている価値なんかない」
    でもその一方で、彼女は文学を通して、働くひと、懸命に家庭を守る女性を励まし続けました。
    「嫌なことがあるのが人生だから。いいんですよ。すっかり忘れてしまっても。忘れることは救いです。逃げることは、人間に与えられた最後の抵抗なんです。」
    ひとに、忘れること、逃げることを勧めながら、自身は、いつも困難に真向から対峙しました。
    戦時中、左翼でありながら戦争に加担する記事を書いたと揶揄(やゆ)され、四方八方から非難を受けても、マスコミから逃げることなく、顔を上げて歩き続けたのです。
    彼女はことさら、強い女性だったのでしょうか。
    少なくとも、それは強さではなかったことが、彼女の小説や随筆から垣間見えます。
    彼女は知っていました。どんなにつまずき、倒れても、立ち上がるのが人生だということを。
    94年の波乱の生涯を生き抜いた、作家・佐多稲子がつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 00:12:49

    第百四十四話『自信と謙虚の間で生きる』-【長崎篇】俳優 大滝秀治-

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    長崎県北西部に位置する、平戸市。
    高倉健最後の主演作品、映画『あなたへ』のラストシーンは、その漁港で撮影されました。
    『あなたへ』が最後の映画作品になった、もうひとりの名優がいます。
    大滝秀治。
    高倉健は、大滝との平戸で撮られたシーンで、心から涙を流したと言います。
    高倉健はこう振り返りました。
    「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かったと思ったくらい、僕はドキッとしたよ。あの大滝さんのセリフ。『久しぶりに綺麗な海ば見た』の中に、監督の思いも脚本家の思いもみんな入ってるんですよね」。

    大滝は、劇団民藝の創設者、宇野重吉に常に言われていたことがありました。
    「台本の台詞の活字が見えるうちは、まだまだ『台詞』だ。活字が見えなくなって初めて、台詞が『言葉』になる。つまり舞台は、言葉だ」
    大滝は、とにかく台本を読みました。誰よりも、何度も何度も。
    それでも、宇野に注意されます。
    「おまえの台詞は、活字が見えるんだよ!」
    以来、大滝の台本は、いつもボロボロになりました。
    役をもらうと、必ず2冊もらうようにしたといいます。
    読んで読んで読み込むうちに、やがてセリフが沁み込み、自分の体に同化していく、そんな瞬間をただひらすら待ったのです。
    謙虚さを持って、台本に接し、やがて自信に変えていく。
    それこそが大滝の演技の原点だったと言えるかもしれません。
    謙虚さと自信の間で役者人生を生き抜いた、大滝秀治がつかんだ明日へのyes!とは?

  • 00:14:54

    第百四十三話『情緒に敏感であれ』−【奈良篇】数学者 岡潔−

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    日本の数学者で、奈良女子大学名誉教授だった岡潔(おか・きよし)が亡くなって、今年で40年になります。
    先ごろ、テレビドラマにもなったその波乱の人生は、全て数学に捧げられました。
    現代数学の歴史を一変させてしまうほどの命題を解いた岡は、文化勲章の授賞式で、「数学を研究することは、人類にとってどんな意味があるんですか?」という記者の質問に、こう答えたといいます。
    「野に咲くスミレは、ただスミレとして咲いていればいいのであって、そのことが春の野原にどのような影響があろうと、スミレのあずかり知らないところであります」。
    岡は数学者でありながら、日本人にとってイチバン大切なのは、情緒だと言い続けました。
    情緒が個性をつくり、個性が共感を生む。
    彼はある日、奈良の美術館で絵画を見たあと、庭園を散歩します。
    そこにはたくさんの松の木が生えていました。
    岡は、松の枝ぶりを見て感動するのです。
    「この枝ぶりには、ノイローゼ的な絵に感じる、怒りや不満、ましてや有名になりたいという欲などなにもない。ただそこに立ってシンプルに太陽の光を受けている。そいでそいで、いろんなものをそぎおとして生まれる美しさが、そこにある。こういう自然のままのものを見て、美しいと思える心、それが情緒だ。日本人は、それを忘れちゃいかん。そして…学問を極めるためにも、情緒は必要なんだ」。

    岡は、日本文化発祥の地と言われる奈良を愛しました。
    文化遺産と言われるものだけではなく、なんでもない風景こそ、次の世代に残すべきだと考えたのです。
    晩年は、日本の行く末、特に日本の若者を憂いました。
    何かを極端にやってみること、とことん極めてみること、そうすれば必ず好きになる。好きになれば、情緒が敏感になる。
    恋をしたひとが、落ち葉に心を痛めるように。
    孤高の数学者・岡潔が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 00:13:24

    第百四十二話『日々の努力を怠らない』-【奈良篇】日本画家 小倉遊亀-

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    あなたは、一本の梅の木を見て、何を思いますか?
    立派な枝ぶりに目がいくひともいれば、咲いた花の香りにうっとりするひともいるでしょう。
    日本画家・小倉遊亀(おぐら・ゆき)は、庭の梅の木を見て、こう言いました。
    「梅は、何ひとつ怠けないで、一生懸命生きている。私も、怠けていてはいけない」
    小倉は梅が好きでした。
    桜ほどの華やかさはないけれど、人間の目線に寄り添い、けなげな佇まいを崩さない。
    鎌倉にアトリエを構えるとき、竹やぶを切り開きました。
    伐採しているうちに、一本の梅の木が顔をのぞかせます。
    樹齢100年ほどにも思える、古い木です。
    小倉は、その木を守りたくて、植木屋さんを呼びました。
    「この老木を、なんとか助けてあげてほしいんです」
    以来、庭に梅の木は残り続けました。
    彼女は毎朝、アトリエの窓をあけて、挨拶するのが日課だったといいます。
    このエピソードは、小倉の画風や生き様を色濃く物語っています。
    こつこつと、ただ絵を画き続ける。
    画き続けることでしか、たどり着けない場所があるから。
    仕事とは、桜のように、決して華やかなものではありません。
    日々の積み重ね、なんでもない日常の過ごし方にこそ、仕事の難しさと喜びがあるのです。
    小倉にとって、奈良女子高等師範学校、現在の奈良女子大学に通った4年間が、のちの画家としての人生を決定づけました。
    そこで恩師に言われた言葉。
    「自分のために絵を売るな」「へつらうな」。
    そして、最も彼女の心を強くとらえたのは、こんな助言でした。
    「もっとよく自然の真髄をつかみなさい」
    105歳で亡くなるまで、努力を怠らなかった日本画家・小倉遊亀が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 00:11:40

    第百四十一話『学ぶべきものはいつも目の前にある』-【奈良篇】宮大工 西岡常一-

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    新しい環境で4月を迎えたひとは、あっという間にひと月が過ぎたのではないでしょうか?
    気がつけばゴールデンウィークも終わり、本格的な勝負のときがやってきます。
    でも、体と心がバランスを崩し、いまひとつ、うまく波にのれない。
    そんな焦りや不安を抱えているひとも多いかもしれません。
    ここに、ひとりの棟梁がいました。
    法隆寺や薬師寺にたずさわった、最後の宮大工、西岡常一(にしおか・つねかず)。
    彼は、祖父、父のあとを受け継ぎ、昭和の大修理など大事業を成し遂げてきました。
    伝えられる技は、書物でも手紙でもなく、口伝え。
    いわゆる、口伝(くでん)。祖父や父から直接、口頭で教わったのです。
    祖父は、常一に農業をさせました。
    大工なのに、農業?常一はとまどいます。
    農学校を出ると、いきなり田んぼで米づくり。
    彼は一生懸命、本を読み、勉強して農作業に取り組みます。
    なんとか収穫もできて、ほめてもらえると思ったら、祖父は常一を叱りました。
    「おまえは本とばかり話し、肝心の稲と対話しておらん。稲づくりは、稲や土と話し合って決まるもんや。ええか、大工は木と話せなければ、仕事にはならん。目の前のものと対話でけへんやつは、一人前の仕事はできへんのや」。
    西岡常一は、気づきました。
    「そうか…ひとは、目の前のものから学べばええんや。本に書いてあることを頭で覚えても、体にしみついていないもんは、あっという間に消えていく」。
    まず、目の前のひと、もの、事実と対話する。
    そこから始めることでしか、不安はぬぐえない。
    宮大工棟梁・西岡常一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?